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日産自動車いわき工場(「日産 HP」より)
震災で壊滅の日産工場、社員を奮い立たせたゴーン社長の「情と理」経営…1カ月で復旧
http://biz-journal.jp/2016/03/post_14168.html
2016.03.10 文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家 Business Journal
東日本大震災から、5年。
日本の自動車メーカーは、震災によってサプライチェーンが寸断され、生産停止に陥った。日本の“モノづくり神話”は、崩壊の寸前に追い込まれた。その危機を乗り越え、復活を遂げたわが国の自動車メーカーは、いまや世界の自動車市場で揺るぎない地位を占めている。
たとえば、2015年のルノー・日産アライアンスの世界販売台数は、852万8887台と過去最高を更新した。日産自動車の16年3月期の純利益は、10年ぶりとなる最高益を見込んでいる。
実は、日産は日本の自動車メーカーのなかで唯一、東日本大震災で震源地に近い福島県いわき市の「いわき工場」が壊滅的な被害を受けた。にもかかわらず、どの自動車メーカーよりも早く工場を復旧させた。
日産は、なぜ未曽有の危機「3・11」から復活できたのか。
日産社長兼CEO(最高経営責任者)のカルロス・ゴーンと、同COO(最高執行責任者/当時)の志賀俊之の力強いリーダーシップを抜きにして、日産の「3・11」からの復活はなかった。彼らは、想像を絶する難問にどのように向き合い、それを克服していったのか。そこには、人間臭い経営のドラマがあった。今、明かされる5年目の真実とは――。
■震災発生
2011年3月11日14時46分、太平洋三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生した。そのとき、志賀は横浜市の日産グローバル本社21階の会議室にいた。1週間後に開かれる日本自動車工業会定例記者会見の準備に向けて、テレビ会議を行っていた。当時、彼は自工会会長だった。
「わッ、こりゃ、すごい揺れだ」
志賀はテレビ会議を中止し、震災発生から15分後に「全社災害対策本部」を設置し、自ら対策本部長として指揮に当たった。
一方、ゴーンはルノーの取締役会に出席するため、仏パリに滞在していた。志賀は日本の天変地異を伝えるべく、ゴーンに次のようなメールを送った。
「Big earthquake occurred. We are now investigating the safe of our employee(大地震が発生しました。現在従業員の安否確認中です)」
ゴーンからは、次のような内容のメールが返ってきた。同日15時30分から16時(日本時間)の間である。
「Take the best measure(最善の対策をしてほしい)」
パリの現地時間は、朝の8時ごろだった。
「まだ、現地パリの朝のニュースでは日本の被災の様子は流れていなかったと思います。とりあえず、3行ほどのメールを送り、その後も追加の情報を流しますということを伝えました」
志賀は、そのように証言する。連絡が取れるようになると、ゴーンは「すぐ横浜に帰る」と言い出した。
「でも、翌日の取締役会にはどうしても出席しなければならないわけです。ですから、『こちらは、大丈夫です』と伝えたのですが、本人は『すぐに帰りたい』と言い続けていましたね」と、志賀は言う。
震災の翌12日、東京電力福島第一原子力発電所1号機が水素爆発、さらに2日後の14日、同3号機も水素爆発した。福島原発から直線距離でおよそ50kmのいわき工場は、いわき市が放射能汚染を考慮して市内の一部に独自に発令した「屋内退避指示」や屋内退避の推奨により、工場の復旧作業にまったく手がつけられなくなった。
いわき工場は、1994年に稼動した、年間56万基のエンジンを生産する日産の主要なエンジン製造拠点だ。生産しているのは、V型6気筒(VQ)エンジンで、海外向けが約7割を占める。従業員数は590人(当時)だ。いわき工場の工場長(当時)の小沢伸宏は、次のように証言する。
「実は、私はいわき工場を閉じたほうがいいのではないか、この際、VQエンジンの生産は、海外に持っていったほうがいいんじゃないかと思いつめました」
巨大地震と原発事故のダブルパンチで、いわき工場は存亡の危機に立たされた。北米を中心に販売する高級ブランド「インフィニティ」に搭載する高級エンジンの生産を担ういわき工場の操業が止まれば、北米販売に影響が出かねない。
「そうなれば、北米市場に損失を与える。その責任をとらなきゃいけないと思いました。天災とはいえ、即座に思ったのは、これはクビになるということでした」(同)
実際、彼はクビを覚悟したのだ。
■ゴーンが示した、突破する自信
日産は3月17日、いわき工場の存廃をめぐって、パリと横浜の日産本社、そしていわき工場を結び、テレビ電話会議を開いた。ゴーンはパリから電話会議に参加し、志賀と生産部門の責任者で副社長(当時)の今津英敏が本社から参加した。小沢は、携帯電話で参加した。
小沢は、いわき工場の復旧がきわめて困難であると現状報告した。すると、ゴーンは思わぬ発言をした。
「本社は、いわき工場をフルサポートします。ですから、安心してください。それから、必要なアクションは小沢がすること。本社はそれをサポートする体制をとりなさい」
ゴーンは、小沢をクビにするどころか、あらゆる手段を講じて復旧に全力を挙げると約束した。まさしく、迅速な決断である。その決断は、高度な危機対応力の賜物といっていい。これにより、工場閉鎖という最悪の事態は回避された。
実はゴーンは、東日本大震災の影響について冷静に判断していた。3月28日、テレビ東京の『ワールドビジネスサテライト』に出演し、「日産の日本での生産はどうなるんでしょうか」という司会の小谷真生子の質問に対して、次のように答えている。
「これは、一時的な自然災害です。日本のパフォーマンスが損なわれることはありません。生産拠点の移転はまったく考えていませんし、そう遠くない時期に完全復旧するでしょう」
リーダーがこれほどまで危機に正面から向き合い、突破する自信のほどを示せば、従業員は奮い立たずにはいられない。小沢は、ゴーンの期待にこたえるべく、彼自身予測していなかった、次のような言葉を発していた。
「2カ月で元に戻します」
小沢は当初、復旧のメドを半年と見積もっていたが、2カ月に前倒しした。自らを追い込むように、明確に目標設定をしたのだ。むろん、成算があってのことではない。ゴーンの「フルサポートします」の言葉に、彼はできるだけの誠意を伝えるのは当然だと思った。ゴーンは、電話会談の最後に次のようにいった。
「できるだけ早く、いわきを訪問したいので、日程調整をしてください」
ところが、この時点ではまだ常務の酒井寿治を除いて、本社の役員は誰もいわき工場にいっていなかった。
「いまは、ちょっと待ってください」と、今津はゴーンにいった。CEOのゴーンがいわき工場を訪問するとなれば、然るべき準備がいる。震災からの回復を全力を挙げて指揮する本社にも、復旧作業に追われるいわき工場にも、その余裕はなかった。
「いや、受け入れ準備なんかいらない。とにかく俺はいくから」
ゴーンは、譲らなかった。
「待ってください」
「いや、俺のための準備なんかいらないんだから」
そんな問答が繰り返された。最後に、今津はいった。
「定時報告します。それから、志賀と私がいわきにいって、いつがいいかを決めてきます」
すると、ゴーンはようやく納得した。
■「いわきからは去らない」
いわき工場は、3月22日に本格的な復旧工事をスタートさせた。工場の柱は、岩盤まで杭が打ってあったので、震度6強の揺れにも耐えて、建屋の倒壊は免れたが、工場内のいたるところで地盤沈下が発生していた。また、地盤沈下によって地割れが起き、ひどいところでは10cmほどの亀裂が入っていた。
全国の日産工場から保全マンがいわき工場に集合した。系列の部品メーカーからも保全マンが駆けつけた。その数は、多いときには400人を超えた。復旧作業は徹夜で続けられた。
ゴーンが復旧作業を急ぐいわき工場を訪れたのは、震災から18日目の3月29日である。「現場にいきたい」といい続けてきたゴーンの思いは、ようやく遂げられた。
工場に到着したゴーンは、従業員の熱烈な歓迎で迎えられた。ゴーンは、工場の現状や復旧作業について1時間ほどの説明を受けた後、現場の従業員を激励して歩いた。まだガレキが散乱する工場内をまわり、従業員と次々と握手を交わした。ゴーンは何度もいった。
「よくやった!」
彼は、いわき工場の従業員を前に、重大発表をした。工場の地盤沈下や設備のずれなどの補修、補強に対する30億円の投資を約束したのだ。
「この工場は必ず残す。いわきからは去らない」
ゴーンの言葉に、従業員はどれだけ奮い立たされたかわからなかった。ゴーンは、自著『ルネッサンス 再生への挑戦』(ダイヤモンド社)の中で、こう語っている。
「私の経験では、企業の持つ、あるいは育むべき最も大切なものはモチベーションである」
ゴーンは、有無をいわさず人を引っ張っていくような支配型のリーダーシップの持ち主と誤解されがちだが、実は、そうではない。彼は、積極的に現場に出かける。現場重視を貫く。工場や販売店などあらゆる現場に出向いて従業員の士気を高める。現にいわき工場をあとにしたゴーンは、いわき市庁舎を訪れ、その後、日産販売店を回った。「情と理」の絶妙な組み合わせで組織を引っ張っていくのが、ゴーン流のリーダーシップである。
小沢は、ゴーンに約束した。
「最短でフル稼働の状態を整えます。全面復旧したときは、再び、ゴーンさんを工場に招待します」
■約1カ月で生産再開
いわき工場は、震災から約1カ月後の4月18日に、一部生産を再開した。
ゴーンは5月17日、全面復旧を果たしたいわき工場に、約束通り再びやってきた。その日、ゴーンは工場従業員の前に立ち、晴れやかにスピーチを行った。かたわらには、工場長の小沢、生産担当常務の櫻井亮の姿があった。
「いわきのみなさんは、強い決意と勇気とチームワークで、見事な働きを見せてくれました。また、ほかの多くの工場の仲間がいわき工場に力を貸してくれたことを誇りに思います。むろん、いわき工場の功績ではありますが、横浜工場、ジヤトコ、栃木工場をはじめとする他拠点の応援が復旧を支えました。さまざまな工場の大勢の人々の協力があったことに心打たれます」
ゴーンは、工場長の小沢に「社長特別賞」を贈った。トロフィーを小沢に手渡したあと、次のようにスピーチした。
「がれきがどんどん収束して細くなっていき、復旧が進むと同時に、アルミの光は輝きを増していきました」
トロフィーは、鋳造ラインのアルミニウムのがれきからつくられていた。
日産がいわき工場の被災の影響を最小限にとどめることができたのは、1999年の日産の経営破たんの危機の後、日常的に蓄積してきた危機対応力がいかされた結果といえるだろう。
(文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家)
※本文中、敬称略。
後編につづく
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