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助産婦としての被爆後 岡村ヒサ子さん(全文書き出し)ピカに灼かれて
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-4680.html
2016/08/24 みんな楽しくHappy♡がいい♪
全文を文字に起こしているサイトがなかったので。
貴重なお話だと思いましたので、書き出しさせていただきました。
私の知らない言葉などには()で意味や読み仮名など記入しました。
参考に写真も挿入しました、が、刺激的かもしれないので、写真のアドレスを入れることにしました、
(アドレスをクリックするとその症状が大体どのようなものかわかると思います)
※写真を表示しました。(赤かぶ)
助産婦としての被爆後 岡村ヒサ子
(ピカに灼かれて第13集から)
助産婦としての被爆後
広島市 岡村ヒサ子 86歳
私は当時、尾長町で助産院を開業しておりました。
尾長町の本通りをつきあたりまして、山へ向かっていったら矢賀町でございます。
爆心地より2kmになります。
今85歳でございます。
ちょうど41歳の時に被爆いたしました。
その頃はまだ家庭分娩が多うございましたが、だんだん少なくなりまして、昭和30年頃には、皆、産院の方に吸収されました。
どうでも零細な産院でも開こうという話になりまして、15、16人程それぞれで持ちましたんですよ。
それは皆さんが良く用いてくださいまして、これではやりきれんと思うほど、お産が一時ございました。
何も記録を持ってきていませんが、昭和30年前後でございました。
奇形が沢山出ましたね。
あの当時はABCCへ、皆報告をしなくてはいけないシステムになっていました。
奇形が出まして、ABCCへ報告するのを嫌う人もございましたのでしなかったこともございます。
一番多かったのが兎唇でございました。
兎唇(トシン)
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それも口蓋裂もあって、泣くと喉の奥まで見えるんです。
お乳もよう飲まないようなー。
口蓋裂
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それから肢指過剰ですね、多指です。
多指
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それから鎖肛。
肛門のないのも多ございました。
鎖肛
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兎唇や多指は数が多ございました。
もう分娩で、頭の先が出ましたら、今度も兎唇じゃないかしらと思ったら、矢張り矢張りそうで、たんびに憂えたことを覚えています。
あー、どうしてこんなに兎唇が生まれるんかしらと思うようでございました。
ちょうど近所でございましたが、ここの◯◯さんと、もう一軒の◯◯さんと同じように耳のない子が生まれました。
小耳症
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こっちの◯◯さんは、赤ちゃんのおばあさんになる方が◯◯病院の産婦人科の看護部長をしておられました。
奇形が生まれたというのですぐ電話をしたらしいんですが、来られたその明くる朝赤ちゃんが逝きましたからね。
あー、そうされたのかと思いましたけれどね、こらは今初めて口外することですが…。
もう一軒の◯◯さんは、そこにも耳のない子が生まれまして、かわいい女の子でございましたが…。
おばあちゃんが「火葬場へ持っていくまで泣き出しはせんかしら」と言っておられました。
何かの薬を飲ませたらしいんですね。
それはもう、いわば殺人でございますよね。
これは薬を使ったんだなと私は思いました。
もちろん、家族も何も言いもしませんし、私も聞きもしませんでした。
元気な子でございましたがね。
そのおばあちゃんは生涯悩まれたようですね。
かわいい女の子だったですからね。
髪の毛でね、こうやって耳を隠していれば分かりはしませんのにね。
耳がないんです。
ツルッとしておりました。
片方だけ。
それから、足の指が手の指と同じようなスタイルになっているのもございました、
足の指がこんなに長いんでございます。
それから、内臓露出で、グルグルと腸が出ておりまして、思い出してもひどいヘルニアだったですね。
大学病院で手術をしてもらい、それはどうにか助かりました。
内臓露出
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まだそれから鎖肛、これは沢山ありました。
それから無脳児ですね。
無脳児
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いつ頃でしたか。
とにかく終戦直後ではございませんね。
しばらくしてからでございますね。
被爆直後の分娩でございますがね、尾長地区に7人の同業者がおりました。
皆それぞれに大なり小なり怪我をしましたんです。
お産を私に言ってくるんですね。
私も体力が持たないし、どうにもなりません。
生まれるのを親子を分けらすだけで良かったら行きますよ。
あとは責任を持ちませんと、それでもいいからというので行きまして、渋滞の人はもう背中がベトベトで渋滞の人はもう背中がベトベトで膿がどっドッドッ、ドッドッ出て、ポロポロウジが落ちる状態の人なんか横になることができませんので、座ったままでお産をしました。
まあおかげのもので陣痛がそんなに沢山来ないのにパッと生まれました。
あとは出血もございましたけど、どうも手のうちようもございません。
これはもう明日の昼ごろまで持つかしらと思いましたが、ちょうどその頃、お母ちゃんの息は切れまして、その子はずっとその後来ましたが、今は44歳でございますよね。
元気で結婚生活に入っております。
その後どうなったか知りませんけどね。
そういうお産が大分ございました。
丸屋院長:
さっき、無脳児が生まれたと言っていたでしょ。
お母さんはいくつ位の人でしたか?
岡村:
30代でございました。
どうしても頭の位置がわかりませんのよ。
上の方にあるのは確かに臀部だがと思いましても、頭部が触れませんおよ。
おかしいことになあと見よりましたら、無脳児でございました。
氷を氷袋の中に入れて下げたらザラザラいいますように、頭蓋骨が全然かたまっていないのが2、3人ございましたね。
丸屋院長:2人ですか、3人ありましたか
岡村:
はあ、3人ございました。
だからそのような子が生まれましたら、極秘にしてもらいとうてね。
こんなことは当時はとても言われはしません。
まだ娘が高校へ行っとらん頃ですから、昭和24年から25年頃のことだと思います。
被爆当時の惨状はどこでもお聞きになりましたでしょ。
私も本当に色々な目にあいました。
原爆の前の日に矢賀というところに二人ほどお産がございまして、それを見に行こうと思って、8時に家を出まして、15分に道路の真ん中で被爆しました。
小さいお寺がございまして、そこの奥さんが家屋疎開の木を風呂木に大八車に積んで引いていくのを押させていただこうと思って、腕にカバンをかけて、傘をさして、押していました。
ピカッと光って私は飛ばされませんでした。
さばっていましたから。
私の前を歩いていた奥さんが2、3メートル転ばれまして、
「誰かしら私を突き飛ばしてからに、せっかく買ったヤミ米がみなこぼれてしまって」と言ってね。
爆風とは知らないんですね。
光が紫になりましてね。
山も天も地も全部が紫になりました、私の目には。
ああまあどうしたことか、それでも爆弾にしては…。
爆弾だろうけど、原子爆弾ということはわかりませんでしょう。
私は先ほど言いました◯◯さんという家に、どうしようかしらと思った途端に入りましたら、すぐに瓦がガラガラと雨が降るように落ちまして、よっぽどで重傷を負うところでございました。
バタバタ、バタバタしましたけれど、幸にキズを受けることがなしでした。
救護にもどれ程幸したかわかりません。
原爆の当日のことですが、私が家を出るときに昔からおってくれた留守番のばあやさんがおりましたの。
ご近所の方が「おたくのばあやさんは戸板に乗せて学校へ連れて行かれましたよ」と言われるものですから、学校へ行ってみましたけど、たくさんの患者で、被爆者でどうにもなりません。
被爆者はゾロゾロ、ゾロゾロえっと来ましょう。
両手にボロを下げたように皮膚が剥げましょう。
そして素っ裸でズルむけになって「岡村さん、私早う見て下さい」言って、知り人が多くございますでしょう。
「まあごめんねえ。ひどい人を見てあげなきゃならんから」言うて、そういう人たちの処置をしよりますうちに尾長国民学校へ火が回ってきたというので、「今度は中山国民学校へ避難してください」というので、みんなどんどん中山国民学校へ行きました。
まあ自分の家はどうかしらと思って、家に帰ってみましたら、ばあやさんが戻っておりました。
私を見た途端に人事不省(じんじふせい:病気や大怪我で意識不明になること。昏睡状態に陥ること)になりましてね。
そこへ倒れましたんです。
まあどうしようかしらと思いまして、先生はおりわしませんし。
その頃は耐乏の生活でしたが、お産へ行っても、ビタカン(ビタカンファー:カンフル剤)の1本くらいしなきゃあならんことは許されておりましたので、ビタカンを持っていたのを、これを使ってはいけんがと思いましたが、注射をしてやりました。
すると正気になって、「まあ、おばあちゃん、防空壕に入っとってね、私はまた出て行かなきゃあならんから」言って、また出かけました。
中山国民学校へ行く途中に高田さんという懇意な家がありまして、そこへ荷物をお願いしておったものですから、皆さんどうしたかしらと思って行ってみましたら、6人ほど被爆者が入り込んでいました。
その家族の人と親戚の人と。
とうとう夜になりましたが、電気もありませんし、水道もありませんしね。
井戸だけはございましたが。
真暗いのにウンウン、ウンウン唸る人を徹夜で診たんでございます。
そのようなものですから、私、妊婦さんどころではないのです。
そうしまして、夜台所の四畳半位の畳の上に女の子が這い上がってウンウン、ウンウン唸りよりました。
呻吟(しんぎん:苦しんで呻くこと)ですね。
それから、「おばさん、私のお母さんは白島だから呼んでちょうだい」と言いよりましたが、
「でも呼ぼう言ってもこんなに暗いのにね、どうにもなりゃあせん、我慢してね」言ってこっちの方へ来て患者さんを診よるうちに、ウンコロ、ウンコロ言うのが止まりました。
行ってみましたら、息が引けとりました。
翌朝、井戸端の方を見ますと、5、6人死んどりました。
中山国民学校へ行った日の晩でございますから。
中山国民学校へ当日行きましたときに、もうそれは……尾籠(びろう:不潔であること。わいせつであること)な話ですが、男の人がパンツを下げることができませんでしょ。
どういう拍子で持っておりましたか、切れ物を持っておりましたので、それでパンツを引き裂いてそこから引っ張り出して、用をさせたこともございます。
まあ……何といっても危急のことですから、電気もございませんし、それはもう、小水と便の垂れ流しで、足の踏み場がないようなのです。
そういうのを端から片付けたり、患者さんで「水を飲ませてちょうだい」という者で重態の人にはもう飲ませました。
薬缶から、はい口を開けて、口を開けてと言って。
まだ元気な人には飲ませてはいけないというので、飲ませなかったのですけど。
当日はそういうふうな状態でした。
被爆の中心地には、私はよう行きませんでした。
ずっと主人のことが気がかりでございました。
ちょうど主人の近所の方が市役所におられたから、日赤へでも収容になっているでしょう言ってね。
知らせてくれましたから、近所の方が探しに出て下さいましても、日赤へ行ってみて、岡村さん、岡村さんと言ってかけてみたけど分からない言うて。
私も捜しに行けばいいんですけれども、もう本当に、どうにも体が当分は、はあ、なんでございますよ。
私も倒れそうなから思って、2、3日寝ておりました。
ちょうど姉夫婦が應匠町に、中心地に家を持っておりました。
一撃のもとに家はペチャンコになって焼けました。
黒焦げしたいが二体ほど、これが姉だろう、せがたかいからというようなことでございました。
市中の方は、私の口からお聞きにならなくともみなさんから聞かれている通り。
川にね、兵隊さんがプカプカ、馬が…。
4日目に知り人が、おたくさんにはご主人が元気で生きておられましたよと言って。
どこにおりましたかと聞くと、こうこうじゃと言って金輪島へ収容されていたと。
金輪島は軍隊の建物があるだけで、無人島でございました。
知らせてもらったから近所の奥さんが、さあいうので御飯を炊いてくれて梅を入れて、おむすびをしまして、自分の体力で持てるだけ荷物を持って行きましてね。
行ってもここにそういう者は収容してはおりません言うでしょ、宇品で。
本人を見てきたというんだから乗せてくださいと言って、じゃあまあ行ってみなさいと言って。
金輪島へ着きましても、やっぱり名簿にないと言われて。
じゃあ怒鳴ってみて下さい言いましたら、足元におりました、主人がね。
髭ばボウボウと伸びて、出血して真青になっって、ガラスでいっぱい破れた服を着て。
初めて主人の涙を見ましたですがね。
幸いなことに83歳まで生きました。
健康管理に熱心な人間でございましてね。
酒も煙草もいただかん、腹も立てん、行き届いとりました。
呑村夫人:
私は娘時代に母の産院を手伝っていました。
30年を過ぎてからは奇形はもう、ほとんどありませんでしたね。
私が奇形が多かったと覚えているのは、まだ学校へ行っておりました頃です。
兎唇、口蓋裂でもびっくりしました。
母が産婦のお母さんに見せんように、見せんようにといって。
口がない。
喉まで見えるんです。
泣いたら奥がみな見えるんです。
歯茎もないんですから。
乳もよう飲まない。
丸屋院長:
世の中が落ち着いたのは、昭和30年頃ですからね。
それまでは、医者がとりあげる数よりは書産婦がとりあげている方が多いと思うんですよね。
医者のところへ行っている人は一応中流から上の人ですよ、
呑村夫人:
あの頃が全盛でしたからね。
母が40代…。
ずい分沢山扱いましたからね。
私はずい分手伝わせられました。
私は昭和10年生まれです。
大正15年生まれの姉がおりまして、私と弟を連れまして、縁故疎開です。
3年目に広島へ帰ってきました。
4年生の時に行って6年生の時に広島に帰ってきました。
全然原爆には会っていません。
姉はあくる日に、肉親を探しに。
さっき無脳児の話が出ましたが、私は高校へ入学したのが昭和26年です。
その頃からお産の手伝いをしましたが、私は無脳児のことは話に聞いたことも目にしたこともありません。
今話をした兎唇やなんかは高等学校へ行きよる頃でしたから。
29年に卒業しましたからね。
さっきの話は多分24、5年くらいまででしょうね。
そんな無脳児とかなんとかいうのは、私がお産を手伝うようになってからはありませんもの。
私がお産の手伝いをするようになってから、多指というのは、ずい分あったと記憶しています。
今日は足の指が6本あるとか、30年ぐらいの頃に聞きよりました。
※呑村夫人は岡村様の次女。(1989年聞き取り)
http://onodekita.com/Files/20121013okamurahisako.pdf
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