http://www.asyura2.com/16/genpatu46/msg/264.html
Tweet |
*
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8533046.html
オッペンハイマーは何故死んだか?
1.あるタクシー運転手の言葉
ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer:1904-1967)は、広島・長崎に投下された原爆の製造を指揮したアメリカの物理学者である。戦後70年間、世界は彼の名前を忘れた事はなかった。それどころか、広島と長崎への原爆投下と不可分の名前として、彼の名は、世界中の人々によって想起され、口にされて来た。ほんの一例であるが、ジャーナリストの高山正之氏は、こんな回想をして居る、氏が、アメリカを訪れた際の出来事である。
--------------------------
ロサンゼルス空港で乗ったタクシーの運転手が、こっちが日本人だと知って「申し訳ないことをした」といきなり謝ってきた。
彼はソ連崩壊のあとウクライナからやってきたユダヤ人で、彼らのコミュニティには日本にまつわる言い伝えがあった。
ユダヤ十二部族のうち二部族が消えたと旧約聖書にあるが、その一つが日本人だったというのだ。
なのに「(ユダヤ系の)オッペンハイマーはその日本に落す原爆を作った」というのが謝罪の理由だった。
そんなことがきっかけで、ウエストハリウッドにある彼の家にも遊びに行くようになった。(後略)
(高山正之「変見自在」(週刊新潮/2005年7月28日号・154ページ)より)
--------------------------
オッペンハイマーに対する評価は様々である。しかし、このユダヤ人のタクシー運転手を含めて、戦後世界に生きる者は、国籍、人種、そして歴史観を問わず、彼の名を意識し続けて来たと言ってよいだろう。
そのオッペンハイマーについて、私が考え続けて来たひとつの「謎」がある。それは、オッペンハイマーは、なぜ死んだのか?という「謎」である。以下は、その「謎」に関する話である。
2.オッペンハイマーの喉頭癌
オッペンハイマーは、1967年2月18日、この世を去った。その7日後、1967年2月25日、プリンストン大学で行われた彼の告別式には、ハンス・ベーテをはじめとする著名な物理学者が参列し、ジュリアード弦楽四重奏団が、彼が生前愛したベートーヴェンの弦楽四重奏曲作品131が演奏した。(藤波茂(著)『ロバート・オッペンハイマー/愚者としての科学者』(朝日選書・1996年)参照)これが、原爆の父、オッペンハイマーの最後であった。
オッペンハイマーの命を奪った病気は、喉頭癌であった。彼は、喉頭癌(のどの癌)をわずらい、その1年前には、その事を知り、自分の死期をも悟っていたと言う。(同書参照)これが、広島と長崎に投下された原爆の父、ロバート・オッペンハイマーの晩年と死であった。これは、オッペンハイマーに関する本を読めば、誰もが知る事のできる彼の最後である。そう言うと、誰もが、彼のその死のどこが「謎」なのだ?と、私に問うに違いない。彼のこの死について、私が「謎」と呼ぶのは、一体、何であるのか?皆さんもそれをいぶかしく思うに違いない。それは、オッペンハイマーが彼の命を奪った喉頭癌を発症したのはなぜだったのか?という問題なのである。アメリカにおける「原爆の父」は、なぜ喉頭癌にかかったのか?私は、この問題を考え続けてきた。そして、この問いを自問自答しようとする内に、アメリカの現代史の闇の部分に触れた思いを味わったのである。
3.原爆投下後の報道
時計の針を巻き戻そう。今から70年前の1945年(昭和20年)8月6日、広島に原爆が投下された。続く8月9日、2発目の原爆が長崎に投下された。この2発の原爆によって、多くの生命が奪われ、この2都市は灰燼と帰した。そして、8月15日、昭和天皇のラジオ放送(玉音放送)によって、日本人は、戦争が終わった事を知らされた。誰もが知る70年前の夏である。それから日本はアメリカ軍による占領を受けるのであるが、8月6日と9日の原爆投下の後、原爆を投下したアメリカの軍・政府上層部が、日本からもたらされた広島・長崎の人的被害に関する報道によって震撼させられていた事は、十分に知られていない。
インターネットはもちろん、テレビすら無かった1945年8月、原爆の被害を地上の視点から世界に伝えたのは、日本のラジオ放送であった。当時、日本のラジオは、もちろん、日本政府と軍の厳しい検閲の下に置かれていた。そして、その検閲の下、アメリカが投下した原爆についての日本国内での報道は厳しく抑制されていた。しかし、それとは対照的に、日本の海外向けのラジオ放送は、原爆がもたらした惨禍を世界に英語で発信していたのである。そして、その日本からの英語によるラジオ放送は、或る事実を伝える事で、原爆を投下したアメリカと世界に衝撃を与えたのである。それは、原爆投下直後には死を逃れた人々の中に、爆風による圧死や火傷による死はまぬがれたにもかかわらず、全身状態を悪化させて死亡する例が多々見られるという報道であった。これは、それらの人々が、原爆の放射線を浴びた事によって起こした急性放射線障害の結果としか考えられなかった。そして、日本からの英語放送が伝えたこの事実は、日本と戦った連合国側のジャーナリストの関心を集めたのである。
アメリカは、日本からのこうした報道に動揺した。日本が降伏して10日が経った1945年8月25日、原爆製造を軍人として指揮したグローブス将軍は、同僚のリー中佐と、電話で次の様に話している。
-------------------------------
グローブス [報告を読む]爆発から2週間で3万人を焼死させた・・・。
リー 紫外線−−というのですか?
グローブス イエス。
リー ばかみたいですね。・・・私はこれはうまい宣伝だといいたいですね。連中はやけどをしたのです。熱でうんとやけどをしたのです。
グローブス[読む]ジャップの特派員によれば、爆弾が落ちてから3日後に死者3万人、2週間後に6万人になって、なお増え続けている。死体を見つけているのは確かだ。
リー 時限火傷を負っています。・・・
グローブス それからこう書いてあって、これを君にとくに聞きたかった・・・・「爆撃から1週間後、復興現場で作業中の米軍兵士を検査したところ、白血球が半減し、赤血球も極度に不足していた」
リー 私も読みました。まやかしではないですかね?・・・
グローブス 二つとも減るのか?
リー かもしれません。でも宣伝ではないですか?
グローブス もちろん宣伝だ。科学者はきっとバカな振る舞いをするし、新聞、ラジオはニュースをほしがるから。
リー もちろんです。ジャップの科学者どももバカではないし、これを大いにタネにして・・・
(アージュン・マキジャニ(著)ジョン・ケリー(著)関元(訳)『WHYJAPAN?−−原爆投下のシナリオ』(教育社・1985年)109〜110ページ)
-----------------------------
二人が電話で語り合ったこの懸念は的中した。日本からのこうした報道に関心を持った連合国側のジャーナリストが、原爆による急性放射線障害の問題に関心を持ちだしたのである。
イギリスのロンドン『デイリー・エクスプレス」の記者であったウィルフレッド・バーチェットは、そうしたジャーナリストの一人であった。彼は、9月2日にミズーリ号艦上で日本側が降伏文書に署名した翌日(9月3日)、東京から21時間の汽車旅をして、早くも広島入りしている。そして、原爆が、放射線によって、熱線と爆風による死をまぬがれた生存者の生命を奪っている事を奉じた連合国側で最初のジャーナリストとなった。彼は、9月5日のデイリー・エクスプレス紙に掲載された記事の中でこう書いている。
--------------------
「広島では、最初の原子爆弾が市を破壊し、世界を震撼させてから30日が過ぎたが、今なお人びとは不思議にも、恐ろしくも死につづけている。爆弾では負傷していない人びとが、何かわからないもの、私には原子病としか呼びようがないもので死んでいくのである。広島は爆撃された都市にはみえない。巨大な地ならしローラーが通り過ぎ、すべてを踏み潰して壊滅させた市のように見える。私は、これが世界への警告として届くように、事実をできるだけ淡々と書いている」(フィリップ・ナイトリー(著)芳地昌三(訳)『戦争報道の内幕』(時事通信社・1987年)268ページより引用)
--------------------
敵国であった日本の報道ならば「日本のプロパガンダ」と呼ぶ事もできなくはなかった。しかし、連合国側(イギリス)のジャーナリストが、自ら広島を訪れ、こう書いたのである。この記事に、アメリカは反論した。
---------------------
バーチェットの報道は放射線病をはじめて書いたものであった。アメリカ当局はこれにすばやく反応した。軍報道関係者は、バーチェットの記事に反論するため東京で記者会見を開いた。スポークスマンは放射線病のようなものはないと語った。バーチェットが東京に戻り、ちょうど時間に間に合って会見場に入ったとき、スポークスマンが彼のことを「日本の宣伝の犠牲者になった」と非難しているところだった。
広島からは全特派員が締め出され、バーチェットは追放命令を受け(アメリカのとりなしで、その後命令は取り消された)、そしアメリカでは原爆開発計画として知られていたマンハッタン計画の責任者レスリー・R・グローブス陸軍少将は、きっぱりとこう言いきった。「放射線についてのこの話はナンセンスそのものである」
(フィリップ・ナイトリー(著)芳地昌三(訳)『戦争報道の内幕』(時事通信社・1987年)269ページ)
---------------------
4.グローブス将軍は何を恐れたか?
皆さんは、当惑を覚えないだろうか?今日、原爆が広島と長崎で人々に放射線障害を与え、多くの命を奪った事は常識となっている。しかし、原爆投下直後には、それは、「常識」ではなかったのである。もちろん、放射線が時に人体に有害な作用をもたらす事は知られていた。しかし、原爆の放射線が、原爆の衝撃波や熱線とは別に、それ自体で、生存した被爆者の命を次々に奪うという事実は、当時の人々にとって驚くべきことだったのである。
上に引用した電話の会話が示すように、それは、原爆を製造したグローブス将軍にとってもそうであった。この事実が世界に報道される事は、原爆を製造したアメリカの政府・軍にとって由々しき事態であった。その理由は、まず、何よりも、原爆の非人道性が世界に知られる事によって、アメリカが国際世論の矢面に立たされる事もあったに違いない。しかし、更には、次のような背景もあった事を考えるべきである。
--------------------------
1945年7月16日のニューメキシコ州の原爆実験(暗号名トリニティー)による米国人の被害も少なくなかった。これにはマンハッタン計画の従業員とニューメキシコ州民が関係していた。爆発は予想よりはるかに強力で、大量の放射性のほこり(爆弾の素材のプルトニウムと、ストロンチウム90などの核分裂物質)を吹き上げ、爆発地点の周辺は強力な放射能を浴びた。
従業員には若干の安全措置がとられたが、爆発のデータを計画担当者が戦争努力に不可欠と考えたため、これを爆心地点で採集する「ボランティア」が求められた。たくさんの人々が応募し、限界値に定められた5ラドを超える放射能を浴びた。
(アージュン・マキジャニ(著)ジョン・ケリー(著)関元(訳)『WHYJAPAN?−−原爆投下のシナリオ』(教育社・1985年)102ページ)
---------------------------
即ち、日本への原爆投下に先立って、アメリカがニューメキシコ州で原爆実験を行なった際、多くのアメリカ人が被曝(ひばく)していたという事実である。これは、アメリカの軍・政府にとって、訴訟の火種と成り得る問題であった。又、放射線の人体への影響がそれまで予想されていた影響を上回る物であったという事実は、戦後、アメリカが核開発を進めて行く中で、被曝のリスクが高い核兵器製造現場で働く労働者を確保して行く上でも、不都合な物であったことは明らかである。実際、原爆開発の指揮をとったグローブス将軍が、原爆実験を含めた原爆開発の過程で、「法的な問題」を恐れていたという事実を、上の著作を書いた二人の歴史家(アージュン・マキジャニ及びジョン・ケリー)は、指摘している。
--------------------------
実験から数ヵ月後、ニューメキシコ州では乳児死亡率が相当に増え、以前の年の8月、9月より、また以降の年よりもはるかに増えた。実験地点から北東にあたる地域の局所的な増加はマンハッタン計画の当局者に報告されたが、調査した形跡は見られない。キャスチーン・タッカーの予備的な分析によれば、乳児死亡率の最高が出生1000人あたり130人から180人に増えたうちの相当部分が、実験の死の灰による可能性がある。つまりニューメキシコ州の実験で赤ん坊が数十人死んだかもしれない。もちろんこれは暫定的な言い方であって、問題提起と今後の調査のために行うものである。
われわれがこれを必要と考えるのは、一つには実験計画の当初から、安全対策が法的反響への恐れに左右されたとみられるからである。グローブスが1945年4月18日に実験現場を訪れた時「まず発した質問は法的な問題だった」このため大量の放射能が検出されたにもかかわらず、住民に知らせも、避難もさせなかった。放射能の重大な被害の可能性を認めることを拒否する態度は原爆実験計画に一貫している。それが広島、長崎の住民の放射能障害の調査にも悪影響を及ぼした。
(アージュン・マキジャニ(著)ジョン・ケリー(著)関元(訳)『WHYJAPAN?−−原爆投下のシナリオ』(教育社・1985年)107ページ)
---------------------------
このように、原爆を落とされた日本から、日本人の英語ラジオ放送とイギリス人ジャーナリストの記事が伝えた原爆による急性放射線障害の深刻さは、原爆を製造したマンハッタン・プロジェクトの責任者グローブス将軍にとって、何としても否定したい情報だったのである。
ここで、「原爆の父」オッペンハイマーが再登場する。
5.オッペンハイマーの役割
このように、日本からの報道を切っ掛けに、原爆による急性放射線障害の恐ろしさが世界の関心を集め始めた1945年9月11日、アメリカは、一枚の写真を公開した。それは、原爆投下に先立つ同年7月16日、人類史上初の原爆実験が行なわれたニューメキシコ州のトリニティー実験場の爆心に立つグローブス将軍と、「原爆の父」オッペンハイマーの写真である。今日に至るまで、オッペンハイマーについて語られる際、しばしば使われる有名な写真であるが、この写真は、グローブス将軍が、新聞記者たちを7月16日に原爆が爆発した砂漠の爆心地に連れて行き、彼らの前で撮らせた写真である。
この写真が意味する事は、明らかである。原爆を作った科学者オッペンハイマー自身が、今、こうして、2か月ほど前に原爆が爆発した砂漠の中の爆心地に立っている。原爆を作った科学者が、こうして爆心に立っているのである。これでも日本人が言い出した原爆の放射線障害の報道を信じるのですか?と言う意味である。そして、その狙い通り、この写真が公開されてからは、日本を占領するアメリカ軍の検閲が効を奏し始めたこともあって、原爆による急性放射線障害の問題は、報じられなくなって行った。この写真の中で、原爆が爆発した砂漠の爆心地に立っているのが、グローブス将軍だけであったなら、それはさほど説得力を持たなかったかも知れない。しかし、原爆を開発した「アメリカの誇り」と呼ぶべき科学者が、自らそこに立っているのである。アメリカ人が、日本から報じられた原爆による急性放射線障害の報告を「日本人(ジャップ)のプロパガンダだった」と思ったとしても不思議はない。これが、この時、オッペンハイマーが演じた役割だったのである。
ここで、話を本題に戻そう。私は、一人の医者として、何年も以前から、或る事を考えている。それは、この時、原爆爆発から2か月ほど経った時点で、ニューメキシコのこの爆心地に立った事が、オッペンハイマーが後年喉頭癌を発症した事と関係が無かったか?と言う疑問である。その疑問についての私の考察を以下に述べよう。
6.永井隆博士の指摘
1945年9月11日、オッペンハイマーが、ニューメキシコ州の原爆実験場を訪れ、爆心に立った際の写真を見て、私が思い出す事がある。それは、広島。長崎に原爆が投下された後、残存放射能が強く残る両市市内に入った人々に現われた医学的異常である。例えば、次の事例を読んで頂きたい。これは、放射線医学の権威である西尾正道氏の著作の一節である。
------------
以前より、広島原爆の被災者である医師の肥田舜太郎氏は内部被曝の問題を告発してきたが、それは次のような「爆発の1週間後に広島市内に入って発病し、血を吐いて亡くなった夫人」のエピソードを原点としている。
その夫人は、1944年に松江市で県庁の職員と結婚し、45年7月初め松江の実家で出産した。8月7日、大本営発表で広島が壊滅したと聞いた彼女は、転勤で広島県庁に勤めていた夫を探して、8月13日から20日まで毎日広島の焼け跡を歩きまわる。原爆炸裂時たまたま地下室にいたため脚を骨折したが、一命をとりとめた夫と救護所で再会。当初元気でった彼女は、救護所で重症患者の治療や介護を手伝っているうち、熱が出、紫斑が現われ、鼻血が止まらなくなり、日に日に衰え、9月8日、抜けた黒髪を吐血で染めて、ついに帰らぬ人となる。「1週間後に入市したが明らかに原爆症と思える症状で死亡した松江の夫人は、内部被曝問題への私の執念の原点ともなった」(肥田舜太郎・鎌仲ひとみ「内部被曝の脅威−−原爆から劣化ウラン弾まで」筑摩新書、2005年、37〜40ページ)。原爆の直撃は受けず1週間後に入市し、8日間毎日焼け跡を歩き、急聖原爆症を発症、1ヵ月たらずで死亡した妻。2人の生死を分けたものは何か。
これは残留放射線はないと米国の公式見解が嘘であったことを物語る証拠そのものである。
(西尾正道 (著)『がんセンター院長が語る 放射線健康障害の真実』(旬報社・2012年)56〜57ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E9%99%A2%E9%95%B7%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B-%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E5%81%A5%E5%BA%B7%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E6%AD%A3%E9%81%93/dp/4845112620/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1380592130&sr=1-1&keywords=%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E5%81%A5%E5%BA%B7%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F
------------
このように、原爆投下直後に、肉親の安否を尋ねるなどして、残留放射能が高かった広島 長崎に入市した人々には、様々な医学的異常が観察されている。これは、広島の事例であるが、次の記述に注目して頂きたい。これは、長崎で自らが有被爆者となった医師、永井隆博士(1908−1951)が、1949年に出版した著作の一節である。
------------------------------
この上野町は爆発点より六百米(メートル)の近距離にあって、当時現場にいた住民は防空壕の置く深く潜(ひそ)んでいた一人の子供を除いて全部死亡した所、灰と瓦礫(がれき)の町である。ここに爆撃直後三週間以内に壕舎住居を始めた人々には重い宿酔(ふつかよい)状態が起こりそれが一カ月以上も続いた。また重い下痢に罹(かか)って苦しんだ。特に焼けた家を片づけるため灰を掘ったり瓦(かわら)を運んだり、また屍体の処理に当たった人の症状は甚(はなは)だしかった。症状はラジウム大量照射をうけた患者の起すものに似ており、確かに放射線の大量連続照射の結果であった。
一カ月後から居住を始めた人々の症状は軽かったが、やはり宿酔と消化器障碍(しょうがい)がみられた。蚊(か)や蚤(のみ)の刺痕(しこん)や小さい創(きず)が化膿しやすく、白血球の軽度の減少があるらしかった。
三月後からはもう著明な障害は起こらないようになった。住民はどんどん家を建てて居住を開始した。それは復員後と疎開者と引揚(ひきあげ)者が主である。ところが白血球を調べてみると居住開始後一カ月すると異常な増加を示し平常数の倍になる。これは微量放射線の連続全身照射にみられる症状である。
(永井隆(著)『長崎の鐘』(日本ブックエーズ・2010年)149〜151ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%AE%E9%90%98-%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B0%B8%E4%BA%95-%E9%9A%86/dp/4284800779/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1432614666&sr=8-2&keywords=%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%AE%E9%90%98%E3%80%80%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%9A%86%E3%80%80%E5%B9%B3%E5%92%8C
-------------------------------
永井博士のこの記述は、原爆投下後の長崎で多くの被爆者を医師として観察した科学者の記述である。広島の場合と同様、原爆が投下された際には市内にいなかった人々が、原爆投下後の市内に入った結果、身体に異常を生じた事を永井博士は述べている。ここで、注目すべきは、原爆投下から3か月以降に長崎に移住した人々に関する記述である。永井博士は、「著明な障害は起こらないようになった」と述べている。しかし同時に、それらの人々も、調べてみると、白血球増多という異常を呈したと博士は書いている。つまり、原爆の爆発から3か月以上後に長崎に移住した人々の場合、一見すると健常であるように見えながら、例えば、白血球数の増加といった異常が矢張り見られた、という意味である。
永井博士のこの記述を頭の片隅において、オッペンハイマーがした事の意味を考えてみよう。
7.はたして、核実験場訪問は無関係か?
オッペンハイマーが、ニューメキシコの原爆爆発地点(爆心地)に立ったのは、そこで原爆が爆発してからほぼ2か月後であった。2か月前、そこで爆発したのは、長崎に投下されたのと同じプルトニウム爆弾である。その点は同じ条件なのである。そこで、永井隆博士の記述を念頭において彼のこの行動を考えてみよう。すると、一見すると健常であるように見えながら、白血球数増加のような異常を起こしていた「原爆の爆発から3か月以上後に長崎に移住した人々」同様、ニューメキシコの爆心地で、オッペンハイマーの体が、放射線の影響を受けた可能性はあったのではないだろうか?と、私は思うのである。もちろん、オッペンハイマーがニューメキシコの砂漠で爆心地に立ったのは短時間である。しかし、永井博士が白血球増加が見られたことを指摘している「3か月以上後に長崎に移住した人々」よりも、被曝した線量率(単位時間当たりに被曝した線量)は、爆発から2か月弱の時点で、爆心地その物に立ったオッペンハイマーの方がずっと高かったであろう事が推察されるのである。これは、彼の喉頭癌発症と無関係であろうか?
ここで、広島・長崎両市で原爆投下後、長期に渡って行なわれた被爆者の医学的調査の結果をお読み頂きたい。
----------------------------
白血病につづいて、その他の悪性腫瘍(がん)に注意が払われるようになったのは、白血病発生のピークを過ぎた後の1960年ころからである。
(『原爆災害−−ヒロシマ・ナガサキ』(広島市・長崎市 原爆災害誌編集委員会(編)岩波書店・2005年)141ページ)
----------------------------
オッペンハイマーが喉頭癌を発症したのも、1960年代後半の事である。1945年9月11日、彼がニューメキシコの砂漠で、自身が完成させた原爆の爆心地に立った事は、彼の死因となった喉頭癌の発症と無関係だったのだろうか?
オッペンハイマーは、喫煙者であった。生前の彼の写真には、彼が愛用のパイプをくわえている写真がある通り、彼は、永年、パイプによる喫煙を愛好していた。この事に注目すれば、パイプを離さなかった彼が、晩年、喉頭癌を発症した事は、不思議ではないようにも思われる。しかし、ここで頭に浮かぶのは、喫煙と放射線への被曝が重なった場合、発癌のリスクが高まる事が指摘されている事である。例を挙げれば、ラドンによる肺癌の発生は、放射線と相乗的に作用することなどが、よく知られている。こうした報告を考慮すれば、喫煙者であったからこそ、短時間とは言え、原爆爆発から2か月も経っていない時点でプルトニウム爆弾が爆発した爆心地に立った事は、彼の癌と無関係だったのだろうか?と、私は考えずにいられないのである。
8.医学は非力である。
結論を言おう。答えはわからない。オッペンハイマーが喉頭癌を発症した原因の少なくとも一部に、1945年9月11日、彼がニューメキシコの原爆実験場を訪れた事が寄与しているのかどうかはわからない。なぜなら、こうした問題に答えるには、多くの症例との比較が必要であるからである。統計的分析なしに、こうした問いに答える事は不可能である。
あの日(1945年9月11日)、オッペンハイマーとグローブスに連れられてニューメキシコの爆心地を訪問した新聞記者たちにその後の健康状態に関する情報があれば更なる考察は可能かも知れない。しかし、そうした情報は、見当たらないし、仮にそうした情報があったとしても、彼らの一人一人について、オッペンハイマーと同様、喫煙者であったかどうか、年齢はオッペンハイマーと同年代であったか、など多くの因子を考慮しなければ、あの日の爆心地訪問がオッペンハイマーの発癌に寄与したかどうかはわからないのである。
医学とは、このように非力な物なのである。こうした事柄を論じる分野を疫学(えきがく)と呼ぶが、疫学は、集団を対象とする科学なので、ひとりの個人について、その人物が「なぜ癌にかかったか?」と問われても、答える事はできない。答える事が可能な場合があるのは、ある集団について、その集団にある病気は多いか、少ないか、その原因は何か?といった問題である。しかも、それも必ず答えられるとは限らない。これが医学なのである。しかし、こうした医学の非力さの中で、科学者たちは、戦後70年間、原爆の被害を受けた人々を見つめて来た。それが、被爆者たちをどれだけ救えたかはわからない。だが、多くの科学者たちは、それを懸命にして来たのである。
それを思う時、オッペンハイマーという科学者が、原爆を作ったのみならず、原爆の放射線障害を隠すために、政治の手先となって、ニューメキシコの原爆実験場に自ら立って見せ、ジャーナリストたちを、そして世界中の科学者たちを騙そうとした事には、失望する他はない。冒頭に紹介したタクシーの運転手同様、オッペンハイマーと同じ科学(医学)の道に生きて来た一人として、私は、被爆者に謝りたい気持ちである。
しかし、もし、仮にオッペンハイマーが、広島・長崎の被爆者と同様、原爆の放射線によって命を落としたのだとしたら、それは神が彼に下した怒りだったのではないか?私は、そんな気持ちがしている。
(終はり)
核時代71年(西暦2016年)8月6日(土)
広島の原爆投下から71年目の日に
西岡昌紀(内科医)
西岡昌紀(にしおかまさのり)内科医(神経内科)。主な著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(日新報道・1997年)、「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)、「放射線を医学する/ここがヘンだよホルミシス理論」(リベルタ出版・2014年)他がある。最近の雑誌記事は、「ポーランド知られざる現代史の闇」(月刊WiLL・2015年6月号)。
*
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 原発・フッ素46掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。