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事故から30年を迎えるチェルノブイリ原発。放射性物質の飛散を防ぐため、現在もコンクリートの石棺で覆われている〔photo〕gettyimages
チェルノブイリ事故の「その後」から、いま私たちが学ぶべきこと あれから30年
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48236
2016年04月01日(金) 森本麻衣子 現代ビジネス
文/森本麻衣子(カリフォルニア大学バークレー校)
■ある被災者の戦い
1996年のある日、ウクライナの首都・キエフの郊外にある放射線研究センター(仮名)にリタ・ドュボアが入院してくる。
56歳のリタは、かつてチェルノブイリ原子力発電所の中央ゲートで守衛として働いていた。1986年4月26日の爆発事故があった翌朝に出勤し、防護服も与えられないまま、数百メートル先で原子炉が粉々に崩れ落ちていくのを見たという。
1996年のこの時点で、リタはウクライナで定められた障害者二級のステータスを持っていた。ひと月に米ドル換算で約75ドルの障害者年金を受け取って生活しているが、その半分が医療費に消えるという。
このときの入院は、事故の直後に急性放射線症(ARS)の診断を受けた(その後取り消された)ことを根拠に、障害者二級のステータスを一級に格上げしてもらおうと、彼女が続けている戦いの一手だった。
心臓の痛みを訴えてARS病棟で点滴治療を受けつつ、リタは院内に設置された「医療労働委員会」(障害者申請の査定機関)で自分の症例を再検討してもらえるよう、病棟長を説得しようとしていた。
障害者一級ステータスがもらえれば、年金支給額が大幅に増える。リタが離婚した前夫(重度のアルコール中毒だった)とのあいだにもうけた息子は、チェルノブイリ爆発事故の数年前まで同原発で働いており、職場での放射線事故が原因で両目を失明していた。(こちらの事故はもみ消され、彼は解雇された。)自分の年金が増額されたら、二人の子供を抱えるその息子の援助をしたいとリタは考えていた。
* * *
リタ・ドュボアは、このほど出版された『曝された生(せい) チェルノブイリ後の生物学的市民』(アドリアナ・ペトリーナ著、人文書院刊)に登場する実在の(あるいは実在した)人物の一人だ(リタに関する記述は184〜196頁)。
同書は、現在ペンシルベニア大学で人類学(専門は医療人類学、東欧地域研究)の教鞭をとる著者によって、1992年から2000年にかけて断続的に行われたフィールドワークにもとづき書かれたエスノグラフィー(民族誌)である。2002年にプリストン大学出版から刊行された原書が2013年に同じ版元から新しい序文を加えて再版され、このたび日本語に訳されたという経緯がある。私は縁あって訳者の一人としてかかわった。
そこに描かれているのは、めまいがするほどの混乱、そして、そのなかを医療記録片手に、自ら学びとった生物学・医学の知識をよりどころに泳いでいこうとする被災者の姿である。
■「仕事としての病い」を生きる人びと
混乱の背景にある固有の歴史的事情を簡単に説明しておく。
チェルノブイリ原発事故は、ソヴィエト連邦の崩壊プロセスを加速させた出来事でもあった。事故から5年後の1991年、ソ連が消え、チェルノブイリの負の遺産を引き継いで新しい国ウクライナが誕生する。
それとともに、何が放射線関連の病気で、どれだけの補償に値するのか、その基準が大幅に変わる。事故の影響を極力過少に見積もろうとした旧ソ連時代への反動もあって、新生ウクライナは被災者の定義を広く、また彼らへの社会保障を比較的手厚くしたのだ。
同時に、国際社会の財政支援をとりつけるため、(旧ソ連と違って)信頼に足るチェルノブイリ危機管理の主体としての国家イメージを対外的にアピールした。
一方、市場経済への苛烈な移行が市民生活を翻弄する。失業が蔓延し、また仮にまともに働いても自身や家族を養うだけの額に達しないことも多い。そのなかで、チェルノブイリ関連の社会保障の枠に入れれば、貴重な現金収入を得ることができる。
著者の表現を使えば、被災者たちは「仕事としての病い」を生きることになるのだ。
だから、
リタは自分の記録をとても丁寧に整理していた。災害後の10年間、医学的に自分がどう説明されてきたか彼女は熟知していた。インフレーションが進み、個人の経済力が低下していくなか、正確な説明をすることが生き延びるためにますます必要不可欠となった。リタは、[インタビュー中に]しばしば医療書類を取り上げ、自身の経験や症状、痛みの知識と診断が矛盾している箇所に私の注意を促した。(『曝された生』、187頁より引用)
新興の民主主義が資本主義の苛烈な洗礼と結びついているウクライナにあって、リタのように自らの体に受けた生物学的ダメージを根拠に、社会の一員としての保障を受ける権利を主張する人々を、「生物学的市民(biological citizens)」と著者は名づける。
■放射線の傷跡を証明する戦い
ところで訳者は、訳している本をただ「読む」だけでなく、そこに描かれた世界を長い時間かけてある意味「生きる」という醍醐味(であり、時につらさ)を味わう。
私が『曝された生』の翻訳作業にかかわった数ヵ月、「生物学的市民」たちに囲まれて過ごした日々は、率直に言って、生きた心地がしなかった。
障害者三級のステータスを延長するために、杖を突きながら関係機関のあいだを奔走するキリル(「歩いて、歩いて、歩いて、歩かないと駄目だ。生きていくためには動くことが大事だ」同209頁)。
チェルノブイリ障害者の市民団体をつくって陳情するクリーク(自宅の居間のソファに横たわった彼は、放射線の影響か、38歳なのに60歳ぐらいに見えたという)。
制度を熟知し、医師や官僚とのコネを着々と築くレヴ(人類学者とのコネもひとつの資源になると考え、著者に近寄ってくる)。
誰もが、生き延びるために、生物としての己の身体に刻印された放射線の傷跡を証明する戦いを戦っていた。
もちろん、彼らの姿に、災害にただ翻弄されるのでなく、限られた資源――被曝の事実とそれを証明する数値を含む――を最大限に使って生き続けようとするたくましさ(学術用語でいう「行為主体性」)を見て逆に勇気づけられる、という読み方も十分にできるとは思う。
けれども、彼らが頼りになる稼ぎ手としての父親、優しく何事にも動じない母親、勤勉な労働者といった、彼ら自身長らく大事にして生きてきた社会的役割(これらの伝統的役割のなかにも抑圧があることはここでは置いておく)を放射線とむき出しの資本主義とによって剥ぎとられ(それはしばしば家庭崩壊の悲劇も招いた)、自らを生物学的単位にまで還元しなければ生きていけないようす、それは私個人としては見るに忍びなかった。
これは結局のところ、本の中に登場するウクライナ人科学者の言葉を借りれば、「社会的矛盾を、文字通りそれに殺されるまで、生きている人々」(同242頁)ではないのだろうか? 本を読んでくださった方はどのように受けとめただろうか?
■チェルノブイリは「例外」か?
ちなみに東日本大震災/福島原発事故から5年の今年は、チェルノブイリ原発事故から30年でもある。(チェルノブイリと福島の比較考察に関して、『曝された生』監修の粥川準二氏による同書巻末の解説をぜひお読みいただきたい。)
まったく個人的な話だが、私は1986年当時、広島県に住んでおり、小学3年生だった。「ソ連から雲が流れてきて黒い雨が降ってくるんじゃって」とクラスメートが言い、その言葉と、広島の原爆のイメージが頭の中で結びついて、私はじわじわと、自分が病気だと思い込む心の病気にかかってしまった。(誰にも話せず、専門家の治療は受けなかったので、後の自己診断にすぎないが。)
やたらと苦しくて、学校を休んだり、保健室で寝ていたりした記憶がある。ほどなくしてあっさり治ってしまうのだが、私は25年後に福島の事故が起こるまで、あの心的不調の原因のひとつにチェルノブイリの事故があったことは完全に忘れていた。
一方に、噂や思い込みにもとづく恐怖。他方に、完全なる忘却。そのあいだの容易ならざる道、つまり、恐怖に支配されることも忘却に逃げることもなく、チェルノブイリを人類――つまり私自身を含む種――が自ら生み出し自らにもたらした災禍として受けとめて歩く道を、十代以降の私は探し求めようとしなかった。残念に、また恥ずかしく思う。
自身の不明を社会のせいにするわけではないが、ひるがえって日本社会全体ではどうだっただろうか?
福島の事故を経た今では、日本からチェルノブイリのその後を粘り強く追いかけ記録してきた科学者、医療関係者、ジャーナリストたちの貴重な仕事に光があてられている。
しかし、趨勢としては、日本社会、さらには西側諸国(いまでは死語になってしまったが)の大半が、チェルノブイリはソヴィエト/共産主義という「特殊な」政治・社会体制が引き起こした「例外的な」事故だったと片づけ、自らの社会、また人類全体に突きつけられた問題としてかえりみることはなかった。そうではないだろうか?
『曝された生』の翻訳作業を通して、私はかつて忘れることにした現実を生きる人々と出会うことになったわけだ。そして作業が終わって本が刊行された今も、肌がざわざわと粟立つ感じが消えない。なぜだろう?
■忍びよる社会的津波の予感
冒頭のリタの話に戻ろう。
1991年のウクライナ独立直後、旧ソ連時代に取り消された自身の急性放射線症(ARS)の診断が回復されるものと信じて、彼女は一度、放射線研究センターに入院している。(リタ自身の計算によれば、彼女が事故現場で浴びた放射線量は、旧ソ連の医師が事故後に大幅に引き上げた限界線量をわずかに下回るだけだった。)
だが、期待した診断は下りなかった。入院中、コーヒーやコニャック等のつまった大きなカバンが同部屋の女性のベッドの下にあったことを思い出したリタは、その女性が医者に賄賂の品々を渡し、リタの血液指標を自分の記録に付け替えさせたと確信する。
チェルノブイリ関連の診断を巡って横行する賄賂に関して、医者の側からは、まともに給料が支払われていない、という弁解がなされる。独立後のウクライナでは医療制度が目を覆うばかりに崩壊しており、比較的優遇されていた放射線研究センターですら、公共料金が払えずエネルギー省にガスを止められたこともあるという(同160頁)。
あまりに旧ソ連/旧共産圏的な、と片づけてしまえばそれまでだ。だが、前述の「例外」のロジックによれば日本に起こるはずのなかった原発事故が、すでに福島で起こっている。
とすれば(一定の論理の飛躍があるのは認めるが)、リタの直面した国家の度し難い機能不全を遠い世界の出来事として、ただ気の毒がったりあきれたりということが私にはできない。
もちろん、むき出しの資本主義の津波が公的セーフティーネットを根こそぎ押し流すプロセス、それが日本でもポスト社会主義諸国と同じかたちで起きるとは思わない。チェルノブイリと福島の事故が、それぞれ異なる原因を持ち、異なる処理の経緯を辿る、異なる事象であるように。
だが、異なるかたちの「それ」、もうひとつの社会的津波の予感は、すでに私たちの足元をひたひたと濡らしつつあるのではないか?
人災である原発事故が人類の選択いかんによって避け得た(得る)ものであると同様、「それ」もまた社会の選択いかんによって回避し得るものであるはずだが。
チェルノブイリが形作った新国家ウクライナのありようだけでなく、放射線被害が、市民や地域の変容、また国際的な政治的・経済的かけひきの契機となっている現状を鮮やかに捉えた、災害研究の必読書
森本麻衣子(もりもと まいこ)
1977年生まれ。東京大学法学部卒業。カリフォルニア大学バークレー校文化人類学部博士課程在籍。東アジアにおける歴史と記憶、暴力とトラウマ、革命の言説とその終焉などに関心をもつ。訳書にレイ・ベントゥーラ『横浜コトブキ・フィリピーノ』(現代書館)、共訳書に『東日本大震災の人類学ーー津波、原発事故と被災者たちの「その後」』(人文書院)がある。
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