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大阪教育大学付属小学校で児童を無差別に襲った校内討ち入り事件が起こされたのがもう16年前のこと。(*1)
犯人は精神治療施設への通院・入院経験のある兵庫出身の男性であり、本人も過去における精神病棟への強制拘束措置、薬漬けによる健常者資格剥奪の行政暴力さえなければ、子供を殺すところまでには至っていない、と最後まで言い張っていた。そんな言い分も虚しく、新世紀そうそう精神異常者の持つ凶悪な犯罪性が「キチガイ警報」となって日本全国にこだましていたはずだ。(大川興業も表舞台から消えてしまったではないか。)
それ以前に、川俣軍司が起こした白昼通り魔事件によって「覚醒剤常用者」が「突発的な殺人鬼」に変容を遂げるという認識が日本社会に定着化したように、向精神薬そのものの効用による危険な薬害というものが初めてクローズアップされた事件だったかもしれない。
私はそれらの事件には他人事を決め込むことができた。覚醒剤も向精神薬もやっていないからだ。血の中から検出されず、やってなければ無罪である。「人肉を食べる日本人客はおことわりしています」と佐川事件で湧いたパリのレストランで拒否をくらっても、私は「自分はやってないから関係ない、その食べ方はしない」という言い分(ベニスの商人の理論か)で乗り切ったと思う。
しかし、今回はどうだ。2015年に淡路島で起こった近隣住民5人刺殺事件。この犯人である平野に先日、予定どおりの死刑判決が下ったのだが、当たり前の結果はともかくとして、その判決を取り巻く事実関係がすさまじいのだ。
裁判長は平野が「精神科のクスリを使用したせいで、精神に異常をきたしていた」ことを前提に責任能力を問う。「精神に異常があるから、精神科で治療をうけていた」のではなく、「精神科で薬物を投入された結果、精神に異常をきたした」と裁判長が判決文の中でそれを言うのである。NHKははしょったが、産経新聞がそれそのままに報道している。
精神科にかかった患者は、危険な薬を飲まされているから、無差別殺人にかりたてられるような犯罪衝動をかかえているかもしれない。という仮説が、仮にも司法の頂点にたつ人間から出てきた・・・というのは今では驚きとはいえないかもしれない。大教大付属の事件その他と同様に、狂気をおさめるはずのクスリの影響で凶悪事件が引き起こされることがある、ということを我々はすでに想定している。
問題はここからである。
犯人の平野は、5人強殺にいたった動機として「被害者たちによって集団ストーキングのターゲットにさせられ、創価学会の常套手段である電磁波攻撃を受けていた」などと語っているのだ。しかも、犯行当日は、やはり遠隔からの脳ハッキングによって殺人の指令を受けていた、と。
わぢぁぢぁぢぁっ・・・・こんなものを、そのまま報道してどうすんだ、日本のメディアは。
私へ迫るものを感じた理由とは他でもない。この「集団ストーキング」、「電磁波攻撃」という語彙をネットに流通させた当時はごくごく少数の張本人達とかかわっていたのが私なのだから(*2)。
平野は「集団ストーカー」関連書を日本共産党に郵送したり、米軍ユダヤによる陰謀を訴えるなど、底辺のネット情報をすくいあげたような典型的なネット陰謀論のとりこになっていたようである。
こういうことが続くとどうなるか。「精神疾患のある人間が→周囲に悪意のある集団がいて自分を監視していると言い出し→電磁波送信による嫌がらせで日常生活に支障をきたしていると訴えたあげく→ついに反撃をしてテロを起こす。」こういうパターンが犯罪捜査、その報道上の当たり前になってしまう。そうすると、集団ストーキングや電磁波犯罪を解く者の全てが犯罪一歩手前の精神異常者ということにさせられてしまい、コミュ全体が撲滅すべき精神異常者の籠城という扱いになる。
いつだったか岸田秀が「最近、マスコミが変なオジサン狩りをしている。変なオジサンの犯罪ばかりを取り上げ、変なオジサンだというだけで犯罪を起こすような思惑へ世論をリードしているのではないか。変なオジサンの何が悪い、差別するな」と言って憤慨していたのには説得力のあまりの無さに笑ったが、集団ストーキング被害者が「妄想症のテロ志願者」へと定義を変えられていくことはマイノリティー迫害のお決まりコースとしてメディアや行政のあおりと共に定着化していくことは避けられないことかもしれない。
私は煽る側ではないので、近年、「ストーキングの被害」を訴える人が、どういうテロを起こしてきたかというデータについても記述はしないが、淡路島5人殺しの方向へ被害観念を膨らませている日本人は増えており、向精神薬の爆発的な売れ行きと考えあわせるなら、これからもどこまでメディアに詳細がのるかは別として「ストーカーへの復讐」劇が三面記事を賑わせていくのかもしれない、という懸念はどこかで否めないのだ。
(*1)当時、現役の長野知事であった田中康夫は「ついでだから、こんな小学校も潰してしまえ」との暴言に及んでいた。社会から疎外された宅間守の犯罪に、少なからず同調していたものがいるにはいたということである。しかし宅間が相手にして戦うべきが、いい学校に子供を通わせる親や、期待を受けて育つその子供にあったとは思えない。もしナラズモノの自分かロクデナシに育てた親以外に、宅間が刃を向ける相手がいたとしたら、誰なのか。それを解き明かすのが私も子供時代には志した文芸(言葉による抽象世界の表現)の役割だと思う。安部公房は代表作「他人の顔」の中で、追い詰められた異常者が最後は妻殺しにおよぶオチをつけたが、映画の脚本の中ではその相手を、処方箋を書いた精神科医(事実上の)に変更して刺し殺している。私はそこに作者の葛藤より、気まぐれが働いたのだろうな、という理解しか持てず、キチガイの保護枠としての文学に決定的な不信をおぼえたものだ。
(*2)電磁波を使用したターゲットへの集団ストーキング行為を「村八分にあっている人の被害妄想」と分けて追及する日本語の運動をしていた十数名のうちの1人が私である。私以外の人間がどうなったのか?全てを把握しているわけではないが、中心人物の1人であった京大法学部卒のG君は北海道に移住し、それを追いかけて横浜のM君も北海道へ。沖縄に移ったひともいた。その多くに共通していたのが、精神科の通院歴であり、向精神薬への依存である。私は創価学会不関与を言い続けていた唯一の活動者だったかもしれない。
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