「根本的に必要ない」とする意見に対して、「比較してどちらがいいか」という意見はそもそも相容れない。片や「夢とする目標」、片や「段階的に現実に寄り添おうよ」とする意見。本質的に寄り添えるはずのものがなぜいつまでも寄り添えないままなのか。 どちらかが一方的に間違っているとだけ言えるのか。ではなぜ間違ってしまっているのか。 なぜ自分の考えだけが正しいといえるのか。話し合うべき根本における問題とは何か。とりあえずは、ガス抜きをいつまで必要とするのか?という話として伺おう。 本質に目が向いてないことが問題の原因だ。誰もが必要として根本にして本質的な問題が、それを覆い隠そうとする抑え込むための抵抗観念が存在するということだよ。 いまこそ、暫定的な段階に収まらない、根本的な要求を自身に突きつけなくてはならないのだ。 何か特定の観念的価値に寄り添おうとするのは、いつまでも自分の考えとするもの、いわば自分というものの存在自体になんら自信を持ててないということでは? そんな余裕のないものが、ただ傍観して高見気取りでいてどうするのかね。 いまこの状況を迎えて、われわれは単なる傍観者でしかないこともはっきりと証明されたと思うが、どうかね? トランプに安倍が取り入るための手札がそううまくいくとは確かに思わない。トランプは糸を引いた馬鹿ではないから。しかし、そもそもこの国は、国民の防衛意識を刺激し、軍備を強化し、権力的機構要綱を十二分に満たすことだけで成り立ってきた。それは今もまた同じで、それを何より政策として優先するのが現政権だから、あらゆる緊張の対立的構図を演出するために、見え透いた切り札を常にわれわれの前に提示し続けることになる。そして米側にも、いざというとき信頼してほしいということを強調して取り入るはずだ。そこに自身の個人的な野望を目論見、「まさに、まさに!」軍需雇用に力を入れることを公然と約束し暴走するだろう。そしておまけで手持ちの関連株をあがりつづける。何も変わっていないよ。われわれがそこに飲まれたままなのは変わっていない。 学歴社会はエリート主義とも言えるが、裏返せばそれは劣等感が元となっている。つまりその大元には「自分が認められない」ことに対する恐れの現われしかない。 肩書きを得ることに一所懸命になるのは、本質的な要求を満たせないことにより発生する二次的な欲求を満たすことによって、とりあえずは暫定的にしがみつける価値を手にしようということだ。そんなものはすぐに役に立たないものだということがわかる。 つまり、この社会は、それら本質を見ないことによる劣等感が強固な岩盤を背負おうことで巨大化した中身のないものなのである。学歴主義。エリート主義。そんなものが中心となって、さらにそこから要らぬ問題を作り続けていく。 それは外に作られた価値を自分に見たいと固執することで、自分を保とうとしているだけ。しかしそこで逆に起きていることは、ありのままの自分の姿を一向に認めることができずに自分がますます保てなくなっていくということだけである。 誰かの作った基本的条項だけを守り通していればそれで何か済むと考えるから間違いが起きるのだ。そこでは本質を見る力、誤ったものを根本から変える、つまり基本や基盤を改定するための本質的な意見は常に覆い隠され、当たり前のことが何も通用しないといったことが起きるようになる。それは紛れもなく劣等感の砦だよ。本質的な知恵を呼び覚ますのが本当の知識と呼ぶものであり、それは学歴などに匿われない自由なものでしかない。 何かに囚われれば視界から見るべき本質が消えてなくなる。今の世は戯言の屯する劣等感の砦のような社会。だから、優先すべきはそんなところに敵対したり対立することではなく、本質をすべてのものの心の中に呼び戻すということなのだよ。
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