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完全な道具は、捨てられても壊されても泣かない。しかし、タナトスの信者は捨てられたり壊されると泣く。まるで人間みたいに。タナトスの信者は不完全な道具である。大谷は信者に言う。「泣きたければ誰もいないところで泣け。おまえが泣いているところを誰も見ていなければ、お前は泣いていないのだ」
タナトス一族の頭領ともいうべき大谷が、どれだけ非情で狡猾な発想を持っているか、それをよく理解できる事件が「本能寺の変」である。通常、忍者が忍び込んでいることが発覚すれば、一般的な武家は忍者を捕らえて排除しようと邸内の捜索に躍起になる。しかし、大谷は違った。大谷は織田家の忍者が忍び込んでいることを知ると、忍者に気づかれないように通常を装った。その上で、ひと芝居打ったのだ。この芝居を見た忍者は、まさか虚構であるとは知らず、見たまま全てを信長に報告した。これにより、本能寺の変が起きてしまう。
このとき、たった数人の観客のために、いったい顕如はどんな芝居を演じたのでしょうか?しかし、この忍者からの報告を聞き、「本願寺は足並みが乱れていると」信長は判断した。こうして大谷は、油断とは無縁のはずだった名将、織田信長を破滅へと導くことができた。特長は弱点である。大谷はこのことをよく理解している。忍者とは「武装したマスコミ」である。プロの情報屋である。そのため、当時の武将で忍者の情報を疑う者は皆無であった。だが、これは一方で、忍者にウソをつかませることができれば敵を簡単に破滅させることができる、ということを意味している。狡猾かな、大谷。本能寺の変は、マスコミが扱う情報が、もしウソであったらどうなるか?という好例であった。
とにかく、信長は比叡山を焼き討ちしたり、愚かな者が数で優秀な者を圧倒する戦術「一向一揆」を駆使する本願寺と徹底抗戦した。織田信長とは、日本の仏教がどれほど有害であるか認識していた人物であった。信長が日本の仏教を壊滅させてさえいれば、日本はいじめ、自殺、騒音問題、汚職、鬱病、ストレス社会、農薬による全国規模のアレルギー問題、IH、スマホ、パソコンなどの有害な家電販売、大企業の企業倫理崩壊、日本のタナトス族の連合体「日本会議」の台頭などの問題とは無縁だっただろう。
もうひとり、日本の仏教と戦った男がイエズス会の信徒であった有馬晴信である。「有馬晴信は我々にとって危険だ」と判断した浄土真宗は彼の排除を決定し、「岡本大八事件」を創作した。これによって晴信は死罪を言い渡された。陰謀の特徴と結果が実は目的だ、ということである。この岡本大八事件を一瞥すれば分ることだが。
とにかく、有馬晴信は死んだと見せかけて他のキリシタン大名(小西氏、高山氏、大村氏、黒田氏)が逃亡していた福建に、子息である8歳の有馬フランシスコ、6歳の有馬マティスを連れて亡命した。有馬氏は、キリシタン大名、福建海賊、松浦氏などの倭寇、イエズス会と共に浄土真宗、曹洞宗、新義真言宗などの有害な日本仏教界が統べる江戸幕府に蜂起するべく準備を整えた。
そして、30歳になった有馬フランシスコは軍団を引き連れて島原に帰還した。「島原の乱」である。タナトスの隠れ蓑でしかない日本仏教・神道を亡き者にすべく、キリシタンの連合体は寺院・仏閣を破壊して周った。すばらしい光景だったにちがいない。この時、有馬氏は「神に祝福された天童、天草四郎が我々を勝利に導く」という虚構を創作した。これは、キリシタン農民を統率し、戦意を向上させるのに必要なことであった。例え虚構であれ、それが権威の発言であり、また、同時にその虚構を大勢の人間が信じるのであれば、それは虚構ではなく現実である。支配層に属する人々は、みな、このことを良く心得ている。
同じことが100年戦争のフランスでも起きた。ジャンヌ・ダルクの登場である。ジャンヌ・ダルクはフランス軍の戦意向上のために創作された虚構の世界に属する人物である。創作者は、名将ジル・ド・レである。「神に祝福された少女が我々に味方している。彼女が戦場に現れるとき、我々は勝利する」ということを触れ回ることを配下に実施させ、その情報が兵士に伝わると勝手に兵士たちの間で伝播をはじめた。すると、その効果は目覚しく、ジル・ド・レの思惑通り、劣勢に陥っていたフランス軍は優勢だったイギリス軍を圧倒することができた。「オルレアンの解放」である。これを危惧したイギリス側の間者はフランス陣営に侵入し、ジャンヌ・ダルクの情報を得ようとかぎまわったが、「ジャンヌ・ダルクという少女は存在しない」という事実に遭遇した。彼らは「これはどういうことだ?」と困惑した。
しかし、イギリス側はうまいことを考えて対策を打った。ジャンヌ・ダルクを処刑するのである。しかし、存在しない少女をどうやって捕らえ、殺すのか?答えは、簡単である。権威であるイギリス王の配下が「ジャンヌ・ダルクを処刑した」と発表するのだ。そして、その虚構でしかない情報をイギリス軍の兵士、フランス軍の兵士など大勢の人々が信じるのである。これで、ジャンヌ・ダルクの処刑は完了である。
このジル・ド・レの活躍を危惧した人々がいた。それはフランス軍側にいたドミニコ会である。当時、ヨーロッパ有数の資産家であり、同時にジャンヌ・ダルクのような新しい情報戦を指揮する人物は「自分たちの立場を脅かす」と考えたのだ。100年戦争とは、イギリスのカトリックを掌握していたクリュニー会と、フランスのカトリックを掌握していたドミニコ会との戦争だった。しかし、ドミニコ会はクリュニー会にジル・ド・レを共同で排除することを打診した。まず、ドミニコ会はジル・ド・レが少年性愛者であり、拉致した少年を拷問の末に殺害しているという風評を流布した。同時に、ドミニコ会は自分たちで調達した少年の惨殺体をジル・ド・レ邸内に遺棄した。
これに怒ったジル・ド・レは、武装した配下を率いてドミニコ会の教会に殴りこんだ。しかし、逆に教会に殴りこんだカドでジル・ド・レは異端として逮捕された。これがドミニコ会の目的だった。もし、この時にジル・ド・レが激怒しなければ何も起きることはなかった。万力で骨を砕いたり、片足を紐でつるして逆さづりにするなど、ジル・ド・レが少年に対して行ったとされる拷問に負けないほど(笑)、ドミニコ会はジル・ド・レに凄惨な拷問を加えた。
おもしろいことに、1436年にイギリス(クリュニー会)とフランス(ドミニコ会)は休戦協定を結び、1449年に戦争を再開している。ジャンヌ・ダルクが出現したのは1429年で、ジル・ド・レが処刑されたのは休戦中の1440年である。タナトスの一族は、共通の敵が出現した場合、団結することを理解いただけただろう。
ジャンヌ・ダルクが実在していると信じている人々が世の中の多数派であるが、それは単に、人々は言葉を解しているというに過ぎない。その言葉の裏に隠された真意、情報が真実であるか虚構であるかという判断ができなければ進歩的な人間とはいえない。例え情報がウソでも、或いは100歩譲って情報が間違っていたとしても、その情報が権威が発したものであるなら、ウソでも信じるのだ。つまり、世の中の人々は陰謀に対して無力である。何も知らないよりは、知っている方が強い。勝利者は、常に、知っている者である。
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