史記の秦始皇本纪 第六に尉繚子の言葉を借りて、始皇帝の面相が述べられている。 『秦王為人,蜂准,長目,摯鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。 我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。』 「秦王は人となり、鼻が高く目が長く、摯膺(くまたか)のように胸が突き出て、豺(さい)のような声をし、残忍で虎狼のような心をもっている。〜(以下略)」
紀元前221年に中国最初の統一王朝秦初代皇帝となった、始皇帝 政、彼もまた胡人(イラン系白人種)であったとの伝説があり、一説には金髪碧眼であったとも、赤い髪・青い目・高い鼻と白人種の特徴が顕著であったとも謂われています。
始皇帝が実施したその政策は、アケメネス朝ペルシャ(秦の中国統一の少し前に滅亡)の制度とよくにており、その関連性は否定できず、中国歴史家のなかでも秦帝国の存在は後の王朝と区別されて考えられるべきとの見解を有している方も多数おられます。 http://www.xinhua-real.net/history.html
西周の滅亡と秦の正体
戎は通常西方の異民族を意味します。西周は魯や斉に命じて東夷・淮夷(日本人やベトナム人の祖先)を征伐して東方に領土を広げ、晋に命じて北方の遊牧民(匈奴・モンゴル人の祖先)を征伐して北方に領土を広げ、鄭に命じて南方のジャングルを開発させていました。 西方侵略には周王が直接あたっていたらしいことが詩経の小雅からは窺われます。ここで周が対峙していたのは、西域のオアシス都市で、民族はトルコ系、もしくはインダス文明から流れてきたインド・ヨーロッパ語族でしょう。戎車とはペルシャやメソポタミアの珍しい馬車のことではないでしょうか。今で言えばロールスロイスやランボルギーに乗るような感覚だったのだと思います。
西周の強さは、西方との貿易にあったのではないでしょうか。 西周は犬戎に滅ぼされたことになっています。そして犬戎は北方の異民族とされています。しかし晋は西周が滅んだ後も北方の遊牧民に対して攻勢を維持しており、西周が滅びたのは北方の守りが崩れたのが原因ではないと私は思います。 西周の首都鎬京が陥落したのは、幽王が寵姫の褒姒を喜ばせるために狼煙を上げすぎて、肝心なときに助けが来てくれなかったためと説話ではなっています。幽王は無表情な褒姒を何とか笑わせたいと思っていました。ある日敵襲来の狼煙を上げると、首都周辺の諸侯が慌てふためきながら王宮に集まりました。しかし後から誤報とわかり、諸侯はがっかりして領地に戻りました、この有様を見て褒姒が笑ったので、味をしめた幽王は虚報の狼煙を上げるようになったというのです。狼少年と同じです。 狼煙というのは天気が良くて見通しがよい地域で発達した通信手段で、砂漠でよく使われていましたので、西周に直属していたのは砂漠のオアシス都市なのではないでしょうか。 西周が滅びた跡地には秦が進出します。秦は最終的に中国を統一しました。秦という国も起源が不明で、春秋時代の中期から突如として登場します。登場したときには西方に広大な領土を既に持った大国でした。 私が考えるに、西周を滅ぼしたのは秦であり、秦は西周の直轄地を丸々継承したのではないでしょうか。 秦は西周が滅びたときに、逃亡した平王を助けたことで諸侯に任じられるのですが、幽王と平王は対立していましたので、おそらく平王は秦をそそのかして幽王を滅ぼさせたのでしょう。誰も幽王を助けなかったのは別に幽王が狼少年だからではなく、鎬京に攻めてきたのが他ならぬ幽王の臣下だったからでしょう。 しかも秦の始皇帝は金髪碧眼だったという伝説があります。そして始皇帝は側近以外には絶対に自分の姿を見せませんでした。従来は、始皇帝が金髪碧眼だったのは、実の父親呂不韋が胡人だったから、そして始皇帝が人前に姿を現さなかったのは幼少期に人質としていじめられて人間不信に陥っていたからと言うことになっています。 しかし、秦が元々タクラマカン砂漠のオアシス都市に住むコーカソイド出身であり、秦の王族と側近は砂漠からの移住以降も白人の血が色濃く残っていたとすれば、始皇帝が金髪碧眼だったのも理解ができます。 そして、歴代の秦王が何故か本拠地に籠もっていて、中原の会盟に姿を現さず付き合いが悪かったことや、始皇帝が人に見られることを極度に嫌がったのは、自分たちが異民族であることを自覚しており、それを知られたら、領民から排斥されて国が崩壊するする可能性があったからではないでしょうか。 宮殿奥に隠れて、極端に人目にさらされることを嫌う中国の皇帝の伝統は始皇帝に始まっているのですが、その理由は秦王朝が胡人(コーカソイド・白人)だったことにあるのではないでしょうか。 http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1134.html 中国において「胡人」の指し示す民族は時代によってやや違っています。古く、戦国時代には、内モンゴルの塞外民族(いわゆる「北狄」)を指していました。また、秦や前漢ではもっぱら匈奴(きょうど)を指していました。匈奴は、紀元前4世紀から5世紀にかけて中央ユーラシアに盤踞していた遊牧民族、およびそれが中核になって興った遊牧国家です。
しかし、7世紀になってシルクロードの往来が盛んになると、西域の諸民族を「西胡」と呼ぶようになります。一方、内モンゴル東部にいた民族は、「東胡」と呼ばれました。しかし、単に「胡人」という場合、唐代では、「西胡」、つまりほとんどソグド人(現在のイランに住んでいた人々)を指したようです。ソグド人は碧眼で眼窩が深く、高鼻で鬚が濃いという顔容をしていました。もともと「胡」は「顎鬚(あごひげ)が長い人」の意であったといいます。お示しの胡人俑もその特色をよく表しています。 やや詳しくいうと、ソグド人は、中央アジアのソグディアナ地域のイラン系住民です。アケメネス朝ペルシャのころから、ゼラフシャン川流域で、主にオアシス潅漑農業と牧畜を営んでいました。また、内陸アジアでは商人として活躍し、独自の文化を11世紀半ばまで保ったといわれています。この間、ソグディアナ地域はアレキサンダー大王やイスラム王朝の支配を受けますが、こうした支配も、その豊かな土地と都市文化、そして彼らの商業的才能との共生関係に支えられていたのです。 http://miho.jp/booth/html/imgbig/00008361.htm http://beijinging.zening.info/museum/Dscn9181_m.htm http://www.antiques-oota.com/file/toyo/073.html http://abc0120.net/words03/abc2009090303.html 上記の胡人俑を見てわかるように、胡人(ソグド人)たちは、特色ある帽子を被り、大きな荷物を背に負い、時にはラクダや馬に乗ってシルクロードを行き来し、交易していました。『旧唐書』(くとうじょ)は胡人(ソグド人)について次のような興味深い記録を載せています。 子供が生まれると、必ずその口中に石蜜(氷砂糖)を含ませ、掌中に明膠(よいにかわ)を握らせる。それは、その子供が成長したとき、口に甘言を弄すること石蜜の如く、掌に銭を握ること膠の粘着する如くであれ、という願いからである。人々は胡書(ソグド文字)を習い、商売がうまくて分銖(わずか)の利益を争う。男子が20歳になると、商売のために近隣の国々へ旅立たせ、こういう連中が中国へもやって来る。およそ商利のあるところ、彼らの足跡のおよばぬところはない。
また、玄奘三蔵は『大唐西域記』の中で次のように述べています。
体つきは大きいが、性格は臆病であり、風俗は軽薄で、詭詐(嘘偽り)がまかり通っている。おおむね欲張りで、父子ともに利殖をはかっている。財産の多いものを貴しなし、(身分の)良いもの賤しいものという区別はない。たとえ巨万の富があっても、衣食は粗悪である。
玄奘三蔵の記述はソグド人の本質をよくとらえていると思います。
いずれにせよ、胡賈(こか、胡の商人)は西方の文物や慣習をもたらし、中国文化の世界化に大きな役割を果たしました。早くには、後漢の霊帝が、胡服、胡帳、胡床、胡座、胡飲、胡笛、胡舞を好み、都の貴族たちもそれに倣ったとの記録が残っています。また唐代には、こうした胡趣味が広がり、大流行したともいわれています。胡人俑の製作も、そうしたことの反映といってよいでしょう。また、正倉院御物をみてもわかるように、その影響は日本にもおよんでいます。 その足跡は中国だけではなく、西はビザンチン帝国、さらに北方の遊牧民、とくにウイグル族の間にもおよびました。また、胡人(ソグド人)は、東トルキスタンや中国甘粛省北西部などに植民地をも建設して相互に密接な関係を築きあげ、ゾロアスター教、マニ教などの精神文化を含むイラン文化の東アジアへの伝播に大きく寄与しました。 以上のように、胡人(ソグド人)が、東西内陸交易や中央アジア、遊牧民へ与えた文化的・政治的影響ははかり知れないものがあります。その遺跡としては、サマルカンド近郊のムグ山やピンジケントから発見されています。 http://blogs.yahoo.co.jp/h726m/53094315.html なお、安禄山は本姓は「康」で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥人との混血といわれています。「禄山」はソグド語の「ロクシャン(明るい・光の意味)」の音訳です。質問者はその関係で興味をもたれたのでしょうか。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1364622428
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