>別の研究では、ヨーロッパ人だけが持つ種類のミトコンドリアDNAが中国最西部の新疆ウイグル自治区で見つかっており、始皇帝よりも前の時代に西洋人が同地域に定住していた可能性が示唆されている。 それは逆、西域に居たトルコ系のコーカソイドがヨーロッパに移住したんだよ: 3000年前〜1500年前の中国西部は、白人が支配する地域であったことがほぼ定説になりつつあるようです。 新疆ウイグル自治区の楼蘭の美女と呼ばれるミイラは、白人のミイラとして知られています。中国西部では600体もの白人のミイラが見つかっています。 北京から400、500km南東に位置している山西省の大原市からも白人が埋葬された墳墓が見つかっています。このことから1500年前にはすでに白人がかなり移住していたと考えられます。 漢文は異民族との情報交換のために発達した文章といわれています。つまり、漢文は文章のためのものであり、当時、話された言葉をアルファベットや万葉仮名のように示したものではありません。つまり、当時話されていた言葉を記録した資料が極端に少なく、検討する余地はかなりあるようです。
ひょっとすると、漢文は当時のシナ系言語と全く異なる白人の言語をつなげる架け橋だったのかもしれません。 これらの白人はコーカソイドと呼ばれる人達で、いわゆるトルコ系民族と言われる人たちです。
トルコ系民族は、少なくとも5世紀ごろにはシベリア地域にも移住していたとみられています。そう考えてみると、中国にもトルコ系民族が移住していても何の不思議もありません。 東京大学の植田教授らは山東半島周辺に白人の居住地があったことを指摘しています。現時点では、白人が中国のどの程度の位置を占めていたのか不明ですが、今後DNAの研究が進むにつれ、これまでの歴史の常識が大きく覆されるかもしれません。漢字は白人が発明したとまではいえませんが、山東半島出身の孔子は白人だった可能性があるといえそうです。 http://ameblo.jp/yukikaze99j/entry-10386696166.html 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか? http://garapagos.hotcom-cafe.com/ 共和国トルコ語を話せると中央アジアはほぼ通訳なしで旅行が出来ると言われており、かつてはシルクロード/中央アジアのことをトルキスタンと呼んだこともあったほどです。
中国正史に出てくる四夷の北狄がテュルクの最初の記述と言われているようです。その後の丁零や高車は当ガラパゴス史観の若い頃40年前ぐらいには既にテュルクではないかと言われていました。 そして明らかにテュルクと確認されたのが6世紀の突厥と鉄勒です。 特に突厥はテュルク語・突厥文字で書かれた碑文でテュルクに間違いない証明されました。 テュルクは6世紀には漢民族に対抗する大国を打ち建てるほどの力を持ったのです。 欧米では例えば、Y-DNA「R1a」はスラブ系、「R1b」はケルト系、「I1」はノルマン系、「I2」はバルカン系、「E1b1b」はラテン系、「J1」はメソポタミア農耕民系等、 民族と遺伝子がかなり密接に結び付いています。
極東でもY-DNA「O1」/「O2」は長江文明系、「O3」は黄河文明系、「D1」はチベット系、「D2」は縄文系、「O2b」/「O2b1」は弥生系など、やはり文化・民族と結びついています。 では中央アジアの標準語であるテュルク語系民族は結びつく典型的な遺伝子が果たしてあるのでしょうか?今回調査をしてみました。 もともとテュルクにはかなり興味があるのですが、遺伝子的には良くわからない存在でした。そこでこれまで集めた海外論文を引っくり返し、 テュルク語の4群分類に従って、Y-DNAデータを並べて見ました。 それなりに面白いデータになりましたので報告します。
a) Siberian Turkic (Northeast) : 主要遺伝子は、北部がY-DNA「N1c1」、南部がY-DNA「R1a」にはっきりと分かれます。
恐らく最も古いテュルク語系と思われます。特にヤクート人はほぼ純系のY-DNA「N」 遺伝子民族です。 b) Karluk Turkic (Southeast) : Y-DNA「N1c1」は少数派になり、Y-DNA「R1a」がやや優勢だが、遺伝子交配が進み ユーラシアの遺伝子がほとんど網羅されている。
c) Kipchak Turkic (Northwest) : 東部のカザフはY-DNA「C3c」が主要遺伝子でモンゴル帝国の影響がくっきりと 残っている。西部は明らかにY-DNA「R1a」が優勢。
d) Oghuz Turkic (Southwest) : テュルク代表のトルコ共和国が属するが、Y-DNA「J2」が優勢となる。
e) 例外 : Bashkirはケルトやバスクと同じくY-DNA「R1b」が主要遺伝子。
以上で、テュルク語群の典型遺伝子は存在しないが、居住する地域によって上記4タイプのY-DNAが主要もしくは優勢で、 テュルクが西に進むに従い交配してきた遺伝子がはっきりと読み取れます。
現在のY-DNA分布と中国正史に登場する殷周時代の四夷の位置取りを見ると ●北狄や続く丁零、高車、突厥など一群の草創期のテュルク系は恐らくY-DNA「N1c1」 だろうと考えられますが、
・東夷の夷が弓を持つと言う意味ならY-DNA「C3c」騎馬民のモンゴル系・ツングース系 しかいないはずですが、従順な集団だったらしいということになると 該当は?です。
・西戎はY-DNA「D1」のチベット系しか候補はいないはずですが、Y-DNA「D」は、 アンダマン諸島のY-DNA「D*」を見ると侵入者は皆殺しにするが、自ら侵略は しない穏やかな遺伝子族のはずなので、侵略・略奪を繰り返していたとなると むしろ当時既にY-DNA「O3」が交配して牛耳っていた可能性が高いです。 もしくはY-DNA「R1a」/「R1b」に分化する前の「R1」か分化直後の「R1a」の 可能性も考えられます。
・南蛮は?、現在も居住している長江文明の子孫のY-DNA「O2a」でしょう。
●テュルクが中央アジアに移動したときに、Y-DNA「R1」から分化したインド・アーリアン 「R1a」と密に交配し新たな遺伝子構成に変化し、
●モンゴル帝国/キプチャク汗国のもとで征服者のジンギスカン遺伝子Y-DNA「C3c」が 主要の集団に変化し、 ●チムール帝国、セルジュクトルコ帝国、オスマントルコ帝国と西進するに従い、メソポタミア の農耕民遺伝子集団Y-DNA「J2」を取り込み農耕民化したようです。 その際に既にアナトリアに居住していた、Y-DNA「R1b」も取り込んだようです。 しかしBashkirの「R1b」の起源はまだ?です。 しかし大きな謎は、テュルクと交配した集団は何故テュルク語を採用したのだろうか?と言う点です。
ブルガリアのBulgar人はもともとテュルク系の集団でしたが、「R1a」に取り込まれスラブ化してしまいました。 オスマントルコ帝国の征服時に再度テュルク化する機会はあったのですが、スラブを維持したようです。 他の集団もスラブ化、モンゴル化、イラン化やアラブ化しても不思議ではなかったはずです。 最も合理的な推測では、イスラム教を取り込んだことがテュルク語を守ったことになったのではないかと考えられます。 トルキスタン=イスラム教と言うのが現代の状況なのです。 コーランの経典教育の共通言語としてテュルク語を採用した?と密接な関係があると考えるのが妥当でしょう。 それでも何故アラビア語ではなかったのでしょうか? テュルクの遺伝子構成にアラブのセム系Y-DNA「J1」が 極めて少ないことが結果として経典の単語はアラビア語でも教育システムとしてアラビア語と近縁にならなかったからかもしれません。 http://garapagos.hotcom-cafe.com/ >北狄や続く丁零、高車、突厥など一群の草創期のテュルク系は恐らくY-DNA「N1c1」だろうと考えられます
ヨーロッパの3大遺伝子タイプに続くのはY-DNA「N」です。 しかしXX民族遺伝子と呼ばれる総称はありません。 この遺伝子を持っている民族は全てシベリヤ大地に居住する民族とそのまま西に平行移動した結果ヨーロッパ北部の似た気候の土地に住み着いた集団です。 したがってあえて言えばシベリア系民族です。寒冷地適応を成し遂げた民族なのです。 極東シベリヤほど高頻度なY-DNA「N」が残るためこの辺り、 特にヤクート族の居住するヤクーティアが発祥の地のようです。 西に進むに従い他の遺伝子との交配が進んでいます。 言語的にはテュルク語系、ウラル・フィン語系とバルチック系のほぼ3言語に集約されます。 前回のスラブ度チェックにバルト3国が全てリストアップされていましたが、 シベリア度チェックでも3国全てリストに見える見事な交配度なのです。そしてスラブ度では出てこなかったフィン語系の民族が顔を出します。 ヨーロッパ3大遺伝子と異なるのはY-DNA「P」、「Q」や「D」との交配がある民族もでてくることです。 Y-DNA「N」はユーラシア大陸を10000〜12000年前頃に東から西へ横断大移動を行った遺伝子のようですが、有史前の出来ごとになると該当する民族移動を探すのは難しいようですね。
欧米の王朝先祖調査FTDNAプロジェクトによると、ロシアのリューリク王朝のウラジミールU世(1053-1125)はY-DNA「N1c1」だったらしいく、従兄弟のOlegT世はY-DNA「R1a1a」だったらしい。 しかもこのリューリックのY-DNA「N1c1」(変異:DYS390=23)子亜型は現在ロシアのウラル語族内ではなくスカンジナヴィアで見つかるそうだ。歴史はなかなか複雑でまさしく小説より奇なりのようだ。 ヨーロッパで見つけられるY-DNA「N1c1」子亜型は、12,000年前に南シベリアを横断し、10,000年前にヨーロッパ北東部に拡散したと考えられます。
それはクンダ(Kunda)文化(8000-5000 BCE)および後の櫛目文土器(Comb Ceramic)文化(4200-2000 BCE)に関係し、フィン人やプレ-バルト人へ発展しました。 インドヨーロッパ語族の縄目文土器(Corded Ware)文化(3200-1800 BCE)は、紀元前2,500年前頃からバルト海沿岸地域およびフィンランド南部に進出してきました。 2つの文化の混合はハイブリッドKiukainen文化(2300-1500 BCE)を生じさせました。 現代のバルト人は、ウラル語族とスラブ語族の文化の合併に起因する、Y-DNA「N1c1」とY-DNA「R1a」のほぼ等しい割合を持っています。 低頻度のY-DNA「N1c1」は、すべてのスラブ語族やスカンジナビアの集団に見つかり、同様に北西部を除いたドイツの大部分でも見つかります。 その起源は現時点ではまだ不確かですが、最も恐らくはロシア、ベラルーシおよびウクライナからドイツ東部に向かった鉄器時代及び中世早期のプロト-スラヴ種族の拡散によるものでしょう。 スカンジナビア人のY-DNA「N1c1」は次の3つのオリジンの可能性があります。: 1. 鉄器時代以来のスカンジナビア人/ドイツ人の集団による北部サーミ(Sami)人集団の進歩的な同化による。 2. 最近の2000年の間に起ったドイツおよびポーランドからの移住。 3. 特に8世紀間に渡るスウェーデンとフィンランドの政治的な結合の間でスカンジナビアの支配を受けた時、フィンランドおよびバルト海諸国との人口交換。 ●ウラル語族のY-DNA「N1c1」 Y-DNA「N1c1」はウラル語族に強く関係しており、代表的な言語系統図は下記のようになります(分類は諸説あり、それぞれ階層の詳細はやや異なるが、属する言語に違いはない)。 サモエード語派(Nganasan語、Enets語、Nenet語およびSelkup語)。 ガナサン(Nganasan)語 エネツ(Enets)語(イェニセイ-サモエド) ネネツ(Nenets)語 セルカップ(Selkup)語 フィン・ウゴル語派 Finno-Permic諸語 バルト・フィン諸語 フィンランド語 カレリア語 エストニア語など ペルム(Permic)諸語 コミ(Komi)語 ウドムルト語 サーミ(Saamic)語 ヴォルガ(Volgaic)諸語 マリ(Mari)語 モルドヴィン(Mordvin)語 ウゴル諸語 ハンガリー語 Ob-ウゴル諸語 ハンティ(Khanty)語 マンシ(Mansi)語) 北シベリアのサモエード語派で最も早く分離したのは子亜型のY-DNA「N1c1*」とY-DNA「N1c1a」に一致します。 ペルム(Permic)諸語とヴォルガ(Volgaic)諸語の話し手は、Y-DNA「N1c1a1」(変異:L708)、Y-DNA「N1c1a1a」(変異:L1026)、Y-DNA「N1c1a1a1」(変異:VL29)、Y-DNA「N1c1a1a2a」(変異:Z1935) およびY-DNA「N1c2b」(変異:P43)を含む広く様々なY-DNA「N1c」の子亜型を持っています。 バルト・フィン諸語は、Y-DNA「N1c1a1a1」(変異:VL29)がヴォルガ-ウラル地域からカレリア、フィンランドおよびエストニアへの移住時に分化したように見えます。 VL29(Y-DNA「N1c1a1a1」)およびその子亜型もバルト・スラブ集団で見つかったY-DNA「N1c1」の子亜型群です、インド・ヨーロッパ語族の亜型Y-DNA「R1a」が吸収し後に中央・東ヨーロッパの あたりでY-DNA「N1c1」から分化したことを確認します。 西シベリアのKhantyとMasiの言語と同様に、ハンガリー語を含むウゴル諸語はY-DNA「N1c1a1a2b」(変異:L1034)子亜型に相当します。 http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-5.htm
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