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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「風土記に見える、海人族」に、ご興味をお持ちでしょうか。
風土記の中には、海人族の記述が数多く見られます。ただ、海人族は入れ替わりが激しいし、後世に残される神社も少なく、正確なことが分りませんが、まあ、『お花畑』ということで、今回の記事にしてみました。
★ ただ、風土記の大半は史実に基づかない「ウソ」「作り話」「駄洒落」だと思います。
A 出雲国風土記・安来の郷。(今の島根県安来市あたり)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
・・・天武天皇の674年、(出雲臣に従属する語り部の)語臣猪麻呂(カタリノオミ・イマロ)の娘が、この崎に来て散策していると、たまたま、和邇(ワニ)に出遭って、襲われて殺され、家に帰って来なかった。
父親の語臣猪麻呂は、殺された娘を浜辺に埋葬して、怒りに震えたが、日にちが経っても怒り、嘆き悲しみ、娘の墓を訪れて泣き崩れる毎日を送った。
やがて、復讐心が燃え上がり、弓矢を研ぎ、槍を研いで、神に『千五百万の天津神よ、千五百万の国津神よ、出雲に鎮座する三百九十九の神社よ、海若(ワタツミ・海神)たちよ。私にワニを殺させたまえ』と祈願した。
しばらくして、百余りのワニが、静かに一つのワニを取り囲んで、猪麻呂の所に寄ってきて、彼を取り巻いて静止した。猪麻呂は鉾(槍)で、その一つのワニを突き刺して殺した。
終わると、百余りのワニは、囲みを解いて、散り散りに解散した。
★ 出雲国意宇郡安来郷は、大国主の頃は自前の水軍を保持していたが、天武天皇の頃は国造の実力しか無く、海岸部は和邇(たぶん安曇氏系)の支配下にあったと、推測されます。
B 播磨国風土記・飾磨郡・因達(イダテ)の里。(兵庫県姫路市の南側あたり)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
因達(イダテ)と称するは、息長帯比売命(神功皇后)が、韓国を平定しようと思って渡海したとき、御船先(先導神)の伊太氐(イダテ)の神が、この処に居られるから、神の名によって里の名前にした。
★ 兵庫県下の海岸部の大半が、神功皇后配下の海人族で占められていたと、推測されます。
C 肥前国風土記・基肄(きい)郡・姫社(ヒメコソ)の郷。(福岡県南部の鳥栖市・小郡市あたり)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
姫社(ヒメコソ)の郷に山道(ヤマヂ)川があり、川の西に居る荒らぶる神が通行人の多くを殺した。占いによって、筑前の国の宗像の郡の「珂是古((カゼコ)という人に祀らせたら鎮まると出た。
そこで、珂是古(カゼコ)が姫社(ヒメコソ)神社を建てて祀ると平和になった。
★ 鳥栖市方面は古代遺跡の宝庫であり、「吉野ヶ里」や邪馬台国の伝承も残されているようです。宗像郡の珂是古が、海人族の宗像氏かは分りませんが、宗像と何らかの関連性があったことが、読み取れそうです。
ここで、
ややこしいのは、珂是古が、「旧事紀(天神本紀)」の物部阿遅古連(水間君等の祖)に比定されていること。その筑紫の水間君(久留米市方面が本拠地の説)は、筑前国の宗像郡の沖ノ島に天降った宗像神社の祭主であること。そして宗像神が「道主貴(ミチヌシノ・ムチ)」と呼ばれて道中の守り神であること。
だから、通行を妨害する姫社の女神を静めるのは適当であること。
D 肥前国風土記・佐嘉郡。(佐賀県佐賀市あたり)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
佐嘉郡の西に佐嘉川(今の嘉瀬川)があり、名を世田姫(ヨタヒメ)という。海の神(ワニ・鰐魚)が毎年、流れに逆らって世田姫の神のもとに来るが、海の底の小魚も沢山に従がって来る。
その魚を恐れ畏む人には災いは無いが、これらを捕って食べると死ぬことが有る。魚たちは2,3日とどまってから、再び海に戻る。
E 肥前国風土記・松浦郡・値嘉(チカ)の郷。(今の五島列島と平戸島諸島が比定地)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
昔、纏向(マキムク)の日代の宮に天下を治めた天皇(景行天皇)が巡幸されて、志式島の行宮に来て、西の海を見ると、海の中に島が有って、烟(ケムリ)が沢山たなびいていた。
そこで、付き人の安曇連百足(アヅミノムラジ・モモタリ)に命じて見に遣らせた。・・・
★ 安曇連百足は、綿津見神の子供の穂高見命の子孫。景行天皇の側近と推測されます。
F 山城国風土記(逸文)・水渡(ミト)の社・(原文は「釈日本紀・八」の引用から)。
(京都府城陽市寺田のあたり)
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
山城国風土記にいう、・・・久世郡の水渡(ミト)の社。その名は、天照高彌牟須比命(アマテラス・タカミムスビ・ノ・ミコト)、和多都彌豊玉比売命(ワタツミ・トヨタマヒメ・ノ・ミコト)である。
★ 京都府の久世群は、京都市の南部方面の木津川の北側の一帯を云うようですが、その南側には京田辺市の大住地区があり、月読尊を奉祭した隼人族の伝承が有るようです。
このことから、京都府の南部広域に、海人族の各種豪族が入植していたようです。
G 山城国風土記(逸文)・南郡(ナミクニ)の社・(原文は「卜部本・神名帳裏書」の引用から)。
(京都府久世郡久御山町佐山のあたり)
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
雙栗(ナミクリ)の社。風土記にいう南郡(ナミクニ)の社。その名は、宗形の阿良足(アラタシ)の神。・・・
★ 『宗形の阿良足(アラタシ)の神』とあるので、宗像氏の入植地が有ったことが、推測されます。
H 山城国風土記(逸文)・桂の里・(原文は「山城名勝志・十」の引用から)。
(京都市西京区の桂川沿いのあたり)
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
山城国風土記にいう、月読尊が、天照大神の命令で豊葦原の中つ国に降り立ち、保食神(ウケモチノカミ)のところに行った。
その時、一本の湯津桂(ユツカツラ)の樹木が有ったので、その木に依って立った。その樹の有ったところを、今も、桂の里と名付けている。
★ 桂川のある京都市西京区の「葛野坐月読神社」が比定されますが、桂川の南は宇治川・木津川が合流し、その木津川の京田辺市大住地区の月読尊を考えると、京都市西部の桂川方面にも、月読尊を奉祭した隼人族が入植していた可能性が、考えられます。
I 摂津国風土記(逸文)・住吉・(原文は「釈日本紀・六」の引用から)。
(大阪市住吉区の住吉大社のあたりで、今の住之江区は海中だった)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
摂津国風土記にいう、・・・住吉(スミノエ)と称する訳は、昔、息長足比売天皇(神功皇后)の御世に、住吉(スミノエ)の大神が天下を巡行して住むべき国を探し求めた。
そして最後に、『真住(ス)み吉(エ)し、住吉(スミノエ)の国』と言って神社を定めた。今は「須美乃叡(スミノエ)」と称している。
★ 神功皇后の「三韓征伐」で大活躍した海人族が、大阪に進出し、大阪湾岸に次々に領地を獲得したことが、読み取れます。
ちなみに、泉州方面は海人族の大伴氏系列の大領地があり、阪神・播磨方面には神功皇后支配下の海人族が全面的に領地を獲得している、ようです。
J 摂津国風土記(逸文)・下樋山・(原文は「本朝神社考・六」の引用から)。
(大阪府能勢町の剣尾山(ケンビサン)を比定する説あるが不明)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
風土記にいう、・・・昔、大神があった。天津鰐(ワニ)と言った。鷲になって、この山に下り、とどまった。(以下は省略)。
★ 「天津鰐(ワニ)」と有るので、海人族が入植したことが、推測されます。
K 因幡国風土記(逸文)・白兎(因幡の白兎・(原文は「塵袋・十」の引用から)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
「因幡の記」を見ると、高草の郡(鳥取市の千代川の西の地域)が有る。ここの竹林に、老いた兎が居た。ある日、竹林を洪水が襲って、老兎が隠岐ノ島に流された。元の場所に戻りたいが、海を渡る体力が無かった。
海の中にワニ(鮫)が居たので、『ワニとウサギの、どちらが多いか』と質問したら、ワニが答えられないので、『お前の一族の数を数えてやるから、一列に並ばせよ』と言って、並ばせて、ピョン、ピョンと飛んで、「竹の崎」に戻ることが出来た。
うかつにも、『騙してやったー』と口が滑って、水際のワニに捕まり、兎の着物を剥ぎ取られた(毛をむしり取られた)。その後、大己貴(オホナムチ)に教えられて、蒲の穂を敷き散らして、寝転がり、元に復活した。
★ ここのワニは海人族ですが、大己貴(大国主)以前のことで、隠岐ノ島を根拠とした海人族です。今の隠岐ノ島には地主神が多いようですが、大己貴(大国主)を含めた出雲神も祭られているようです。
L 播磨国風土記(逸文)・藤江の浦・(原文は「万葉集註釈・四」の引用から)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
住吉大明神が、藤の枝を切らせて、海に浮かべて誓いを立てた。『藤の枝が流れ着いた所を領地にしよう』。流れ着いた所を「藤江の浦」と名付けて領地にした。
★ 「藤江の浦」は、兵庫県明石市の藤江海岸のこと。住吉神の奉祭氏族の領地が有った。
M 伊予国風土記(逸文)・「大山積の神・御島」・(原文は「釈日本紀・六」の引用から)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
伊予の国の風土記にいう、・・・乎知(オチ)の郡。御島に坐す神の名は大山積の神、またの名を和多志(ワタシ・渡海)の大神。
この神は、難波(ナニハ)の高津の宮に天下を治めた天皇(仁徳天皇)の御世に、顕現した。この神は百済の国から渡って来て、摂津の国の御島に坐した。云々。
御島というのは、津の国の御島の名である。
★ 大山積の神が、朝鮮から渡来して、初め大阪の淀川の三島に居て、愛媛県の大三島に移動した。中世の村上水軍や河野水軍は後継氏族と云われます。
N 筑前国風土記(逸文)・怡土の郡・(原文は「釈日本記・十」の引用から)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
筑前国風土記にいう、・・・怡土(イト)の郡。昔、穴戸の豊浦の宮に天下を治めた足仲彦(タラシ・ナカツヒコ)天皇(仲哀天皇)が、球磨贈唹(クマソ)を討とうとして、筑紫に行幸した時、怡土(イト)の県主らの祖の五十跡手(イトテ)が、天皇の御出座と聞いて、穴戸の引島(彦島)に参じて出迎えた。
天皇が、『お前は誰か』と問うと、五十跡手は、『高麗の国の意呂山(オロサン)・蔚山・ウルサン)に、天から降った日桙(ヒボコ・天日槍命)の末裔の五十跡手です』。
天皇は誉めて、『恪(イソ)し(忠勤な)ことである。お前の本拠地を恪勤(イソシ)の国と呼ぶが良い』と言った。今、怡土の郡と言うのは訛ったのである。
★ この五十跡手については、日本書紀・仲哀天皇・即位8年の条にも「五十迹手」として類似の記述が見られます。
注目すべきは、五十跡手の先祖は蔚山から渡来した天日槍ということです。(真偽不明)。
事実なら、天日槍の子孫の一部が北九州の海人族になっていたことになります。
O 筑前国風土記(逸文)・宗像の郡・(原文は「防人日記・下」の引用から)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
西海道の風土記にいう、・・・宗像の大神が天から降って埼門山(サキトヤマ)に居られた時、アオニの玉を奥津宮に、ヤサカニの玉を中津宮に、ヤタの鏡を辺津宮に納めて、隠れた。
それで、身形(ミノカタ)の郡と言う。後の人が改めて宗像と言った。その大海(オオアマ)命の子孫が、今の宗像朝臣らである。
★ 宗像朝臣は、「姓氏録・右京・神別」では、「大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」と見え、大神朝臣はスサノオの後裔の大国主の後裔のようですから、海人族の宗像朝臣は出雲神の系統と考えられます。
P 壱岐国風土記(逸文)・鯨伏(イサフシ)の郷・(原文は「万葉集註釈・ニ」の引用から)。
(現代翻訳文の、概略の再翻訳)
壱岐国風土記にいう、・・・鯨伏の郷。昔、鰐が鯨(イサ)を追いかけたので、鯨が走って来て隠れ伏した。ゆえに鯨伏(イサフシ)と言う。鰐も鯨も共に石に化して、一里ほど離れたところに有る。
★ 単に魚の話か海人族の話かは不明ですが、海人族の話だとすると、鯨とは「鯨面」のイレズミを表し、海人族の例えになります。「倭人伝」にも『男子無大小、皆黥面文身・・・』と有り、「鯨面」という言葉が使われています。
ここで、鰐を凶暴な海人族の例えとすると、元々、北九州に居た古い海人族を、朝鮮半島から渡来した新しい海人族(つまり武闘派の戦闘集団と化した海人族)が駆逐したことも、考えられます。
★ どう思われますか。
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