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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「国譲り神話は、ウソだった」に、ご興味をお持ちでしょうか。
「国譲り神話」と言いますが、歴史的事実に照らすと、国譲りではなく、大国主の隠居と、子供たちの「東方拡大」が実態のようです。
(★ ただ、高天原の神霊の意識が、人間に憑依して、「革新的人間」に意識変換(アセンション)したという意味においては、精神世界での国譲りが有ったのかも、知れません)。
A はじめに、国譲り神話の、おさらい。(新解釈)。
(★ 記紀神話は、「学問」だけでは絶対に解けないと思います。ノイローゼになるだけです。
「霊肉一致」の「お花畑」の視点で『あはは、アホくさ』と笑いながら読み解く度量が必要でしょう。
当初の「第7次太陽系次元の日本」には、アマテラスが女王として君臨する高天原の「幽霊の精神世界」と、(スサノオを神と崇めるところの)大国主を盟主とする地上の「動物本能的な物質世界」が有りました。
アマテラスは、天孫の支配する国を求めて、大国主に対して、『出雲が気に入ったから、天孫に与える。大国主の一統は、荷物をまとめて、黙って出て行け』と一方的な要求を突き付けました。
要求の実行のために、アメノホヒや天の若彦らを派遣し、最後には、タケミカヅチやフツヌシらを派遣して、武力を発動して強奪しました。
これにより、アメノホヒが大国主に憑依し、ニギハヤヒが事代主に憑依し、天の若彦がアシスキタカヒコネに憑依し、天の若彦の妻の下照姫がアシスキタカヒコネの妹(妻)の高照姫(下照姫)に憑依し、タケミカヅチが健御名方に憑依して、地上世界の乗っ取り作戦は大成功に終わりました。
B 実は、国譲り神話は、大国主の国譲りではなく、大国主の引退物語だった。
ア) 国譲り神話をよく読むと、大国主は杵築大社に鎮まり、日々の世話は、大国主の子孫が、代々にわたって勤めています。
これは、大国主が出雲の国魂神として静まっているわけですから、一般にいう国譲りというイメージが湧いてきません。何か、おかしいです。
イ) 天の若彦は、「アシスキ・高・彦根」の一人二役だった。(省略)。
長くなりますので、別の本文で投稿したいと、思います。
ウ) 「タケ・ミカヅチ」も、「フツヌシ」も、大国主の子供だった。
出雲国風土記・出雲郡・美談(ミタミ)郷の条に、『天の下を造らしし大神の御子の和加布都努志命(ワカフツヌシ)、・・・』と見えます。
「ワカフツヌシ」とは、若経津主神のことであり、アマテラスの使者として、大国主に「国譲り」を命じた経津主神と考えられますが、その神が、大国主の御子とは、どういうことでしょうか。
大国主の子供が、父親の大国主に、国譲りを強要するというのでは、辻褄が合いません。逆に、大国主が、子供の経津主に対して、天下平定のための出陣命令を下して、利根川河口まで遠征させたと考えるほうが、シックリします。
タケ・ミカヅチは、出雲国風土記には見えないようですが、タケ・ミカヅチも大国主の子供と考えて、利根川河口まで遠征させたと考えるほうが、シックリします。
エ) 建御名方(タケ・ミナカタ)は、信州に鎮座して、「神国日本」を守った。
国譲り神話では、建御名方は、武甕槌と戦って破れて、信濃に逃げ込んだが、追い掛けて来た武甕槌に、命乞いをしたことになっています。
ところが、建御名方を祀る「南方刀美神社」(諏訪大社を比定社とする)は、「神名帳」で一位という破格の格式が与えられています。
ですから、建御名方が人間であり肉体であり、武甕槌が神霊であり精神であるなら、霊肉一致となり、武甕槌が建御名方に憑依したと考えられます。
また、建御名方とは、『武勇に優れた御名前の方』という意味であり、実名が伏せられています。
そして、諏訪の位置は、東山道の要衝に在り、西に向かえば京(みやこ)に、東に向かえば北関東・奥州に、南に向かえば伊豆・南関東に、北に向かえば越後に出られます。
そしてまた、利根川河口に鎮座する武甕槌・経津主を援護できる位置にも有ると云えます。
(★ 武甕槌が、建御名方に憑依して南方刀美神社に鎮まり、さらに、利根川河口にも鎮座できるのは、神霊は「分け御霊」が出来るからです)。
そして、鹿島・香取・諏訪の三社は、古くから「武家」が「軍神」として信奉しています。
オ) 訳の分からない、日本書紀の、おかしな記述。
日本書紀・神代下・第九段・一書二に、
『於是、大己貴~・・・乃薦岐~於二~・・・故經津主~、以岐~爲ク導、周流削平。・・・是時、歸順之首渠者、大物主~及事代主~。・・・』
(簡略の翻訳をしますと)、
『国譲り命令に大国主は従った。そして、大国主は岐神(フナトの神、道の神)を、武甕槌(タケミカヅチ)と経津主(フツヌシ)にガイド役として差し出した。
経津主は岐神をガイドにして、葦原中国を平定した。この時に帰順した集団の長は、大物主と事代主だ』、と解釈できます。
どうして、大物主~が出てくるのか。大物主~は奈良県の三輪山の神であり、関係有りません。
また、帰順した神が、大物主と事代主の二人になっており、大国主が登場しません。
カ) 事代主の「青柴垣神事」は、出雲から大和への、アセンションだった。
出雲に「青柴垣神事」が有ります。日本書紀・神代下・第九段本文六に、
『二~、於是、降到出雲國五十田狹之小汀、・・・時大己貴~對曰「當問我子、然後將報。」是時、其子事代主~、遊行、在於出雲國三穗・・・時、事代主~、謂使者曰「今天~有此借問之勅、我父宜當奉避。吾亦不可違。」因於海中造八重蒼柴柴、此云府璽籬、蹈船竭D竅A此云浮那能倍而避之。使者既還報命。』
(簡略の翻訳をしますと)、
『武甕槌と経津主の二神が、出雲に降り立った。大国主が『事代主と相談する』と答えた。この時、事代主は美保にいた。二神の使者が事代主に事情を説明した。
事代主は『国譲りに従う』と答えて、海の中に青柴垣を作り、船の「へさき」を踏んで、姿を隠してしまった。』というような、感じです。
ここで、不思議なのは、船を引っくり返して、その中に隠れてしまったことです。なぜ、船なのか。
キ) ニギハヤヒと事代主の二重性。(省略)。
長くなりますので、別の本文で投稿したいと、思います。
C 国譲り神話の後、天津神は、誰も出雲を支配しなかったという、歴史的事実。
国譲り神話では、大国主が杵築大社に隠居し、事代主が消え、建御名方も信濃に去ったのに、歴史的な記録では、天津神は誰も出雲に来ませんでした。
(最低限、アマテラス系列の豪族は、誰一人として、出雲を支配していません)。
ようやく、崇神天皇の時に、「出雲の神宝事件」で平定に来ました。それでも、出雲臣が国造として実効支配し続けました。
では、アマテラスが、大国主に『出雲から出て行け』と強要した騒ぎは、いったい何だったのか。
★ 『アメノホヒが出雲を治めた』と言うなら、それは「歴史」ではなく、オカルトの「お花畑」です。
D 国譲り神話に隠された、「国家百年の大計」とは。(想像)。
ア) 当初の計画では、アマテラスが高天原を治め、スサノオが地上世界を治めて、国作りをする計画でしたが、(アクシデントが発生して)、スサノオが、途中から根の国に去ってしまいました。
イ) 後を継いだ大国主も、初めは、高天原のカミムスヒが派遣した(参謀総長の)少彦名と、共同で国作りを行いましたが、少彦名が去ると、どうしたら良いか分からず、手探りで国作りを継続しました。
(タイムスケジュールでは、3百年代の終わりごろには、高句麗が朝鮮半島を統一して、日本と戦うことが想定の範囲内に有りました)。
ウ) 当初の予定通りに舞台が進行しないために、高天原の総監督のタカミムスヒが、大国主にアメノホヒを憑依させて出雲を守らせ、アシスキタカヒコネに天の若彦を憑依させて美濃の攻略に当たらせ、建御名方に武甕槌を憑依させて信濃を攻略させ、事代主にニギハヤヒを憑依させて天皇として奈良に鎮座させました。
(北九州の首都では、攻略される危険性が高いし、日本全土の統一には、中心軸の奈良に首都機能を移転するほうが合理的でした)。
また、ニニギに海人族の一部を与えて鹿児島で控え、オシホミミは遠賀川を死守させました。
エ) そして、3百年代の終わりまでには、北海道を除く本州全土を統一させて、高句麗と対峙させ、ひいては、超大国の中国に対抗できる国家に作り上げようと考えていたと、想像します。
★ つまり、地上の人間に任せていたのでは、日本が滅亡する危険が有りましたが、日本が滅亡すると「ゲーム・オーバー」で、アウト。6,500年間のVRゲーム「第7次太陽系次元」が根底から瓦解します。
これは、地球のエンジンが日本であり、日本が世界の中心軸であり「核質」に設定され、日本人が人類の「精神核」になっています。そして、白人や黒人などは「別の核質」に所属し、日本に関与し交差する構造になっている、らしい。
(また、日本人は精神化に向かう上昇方向の流れで、白人は物質化に向かう下降方向の流れであり、意識の方向性が、日本人と白人では、逆向きに設定されているので、注意が必要だ、そうです。知りませんが)。
E (話を戻して)、出雲の神々は、総出で、大和(日本)を守護した。
大国主は、出雲を鎮守しましたが、事代主も、健御名方も、アシスキタカヒコネも、大和方面に移動して、日本の守護に当たりました。
北九州は、大国主の息の掛かった「宗像氏」などに託し、関東の経営は、フツヌシ・タケミカヅチに任せました。
F 東遷の直接的原因は、何だったのか。(想像)。
ア) ニギハヤヒも、ニニギも、北九州を放棄して、奈良や鹿児島に旅立ち、北九州は「もぬけの殻」になりました。
(「天孫降臨」で、ニニギが鹿児島に辿り着くなんて、理屈に合いません。降臨するなら、九州で一番繁栄している福岡県に降り立つのが、常識というものです)。
すると、何で福岡県を放棄して、移動したのか。その直接的な原因は何だったのか、気になりますが、記録が無いので、分かりません。
イ) 2百年代晩期の極東情勢は、中国は「五胡十六国」時代の動乱開始で、日本を侵食することは考えられません。朝鮮半島は「三韓」の成立前ですから、日本に来る余裕は有りません。
ウ) 他に考えられる原因は、「加羅系」と「安羅系」の対立です。たとえば、九州のイザナギ・アマテラス系列を「呉系」と考えると、出雲のイザナミ・スサノオ系列は「越系」と考えられます。
これは後世には、北九州が「親新羅」で、大和朝廷が「親百済」政策で、何回も対立しました。
たとえば、景行天皇時代の九州の鎮圧、仲哀・神功皇后(摂政)時代の北九州の鎮圧、継体天皇時代の筑紫の磐井の反乱などが有ります。
(大化の改新までは中央集権国家ではなく、地方豪族分権国家でしたから、九州が、中央に反乱する理由は無いのです)。
エ) そして、古代の朝鮮半島では、「浦上八国の乱」が起きていますが、朝鮮半島南岸部の倭人が、伽耶を攻めた記録が残されています。
これは、まさに、「加羅系倭人」と「安羅系倭人」の対立だったかも、知れません。
オ) すると、大国主の勢力に敵対する倭人勢力が、北九州を襲ったために(あるいは襲う危険があったために)、大国主の勢力が奈良に根拠地を移動した可能性が、考えられます。
★ どう思われますか。
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