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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「呉系倭人の発生と来日ルート」に、ご興味をお持ちでしょうか。スサノオやアマテラスを語る前に、彼らの源流である「呉越」の滅亡と、どのような経路で日本に辿り着いたかを、考えてみたいと思います。
A 彼らの大半は、朝鮮から日本に来た。
呉系倭人も越系倭人も、揚子江から直接、日本に来たというよりも、朝鮮半島で勢力を保ちながら、徐々に来日して数を増やしていったのではないかと想像します。
その理由として、彼らは、国の滅亡というアクシデントの中で、急遽、母国を脱出した訳ですから、計画的な移住を行った訳ではなく、穀物の種や農機具や建築用具も十分に整えられず、「着の身、着のまま」同然だったと思います。
すると、対馬暖流を渡って日本に行くよりも、とりあえずは、朝鮮に渡るほうが渡航のリスクが少ないし、また、紀元前の古代では、朝鮮のほうが日本よりも発展していたと、想像します。
(もちろん、直接、日本に渡来した者も有ったと思われますが、少数だったと思います)。
B 呉系倭人は、3派にわたって、朝鮮に渡った(仮説)。
呉系倭人が朝鮮に渡ったことは定説になっていますが、明確なことは、歴史的資料が乏しいために、明らかにされていません。
ですから、以下は、想像であり仮説だと、あらかじめ断っておきます。
ア) 第1派は、夫概(フガイ)の妻子が、朝鮮に渡った(可能性)。
呉王の闔閭(コウリョ)に夫概(フガイ)という弟がいました。(「春秋左氏伝」や「史記・呉太伯世家」参照)。
(「風俗通義・廣韻〜餘(後漢代)」によると、(真偽不明だと断っておきますが)、
『呉の公子の夫概は、楚に奔走した。その子に国があり、夫餘(フヨ)を氏とした。今の百済王夫餘氏である』。
上記については、「大宋重複廣韻」大中祥符元年(1008年)に、引用として、
『風俗通云呉公子夫概奔走楚其子在国以夫餘氏今百済王夫餘氏也』と有るようです。
(百済の王姓は、余、または夫餘ですから、辻褄は合っています)。
(流れとしては)、
BC506年、呉と楚が対決した。このとき闔閭王と共に、弟の夫概(フガイ)が5千の兵を率いた。呉が勝利した。
BC505年、呉は秦と楚に攻められて、敗北した。
この時、夫概は、闔閭王が楚の国から帰国できないチャンスに、クーデターを起こした。
(一説には、夫概は兵1万で楚に破れ、勝手に帰国して、王を名乗ったとも、有ります)。
ところが、闔閭王が呉に帰国して、夫概は敗北して、楚に逃走して「堂谿氏(ドウケイシ)」に封じられた。
この時、夫概の妻子や、クーデター失敗組が、呉を脱出して朝鮮に渡った可能性が有りそうです。
(夫概の妻子やクーデター失敗組が、朝鮮に渡った記録や証拠は有りませんが、クーデターの発生が、闔閭王の政治に対する呉の民衆の不満や王族・貴族を巻き込んだ大規模なものと考えると、失敗組は、陸路か、海軍の反乱勢力と共に海路で、山東半島経由で朝鮮に渡った可能性が有ります。
もちろん、夫概に追従して楚の堂谿の地に移った者も考えられますが、夫概が楚に脱出したからと云って、楚王に殺されるかも知れませんし、召抱えられたとしても、即日で堂谿に領地が与えられたとは思えませんから、時間差を考えるなら、北方に逃げたものと考えられます。
また、呉の北方には斉などの国が有りましたが、これらは呉と同じく周と同室の国でしたから、比較的好意的に通行を許可したと想像します)。
イ) 第2派は、呉王の夫差の妻子が、朝鮮に渡った。
呉王の闔閭の子供の夫差(フサ)が、BC473年に、越王の勾践(コウセン)に敗れて、呉が滅亡しました。その時、妻子や王族貴族らが北方に逃げて、朝鮮に入りました。
「資治通鑑」(シジツガン、1084年成立)によると、
『周の元王3年(前473年)、越が呉を滅ぼし、その庶(親族)共に、海に入りて倭となる』と有ります。
つまり、王族・貴族らの多数が、海に逃げたことになります。
(呉の海軍力について)
呉は、揚子江河口部に展開した海軍国家でも有りました。呉の滅亡前のBC485年には、呉の大夫の徐承が水軍を率いて、山東半島の斉を攻めた記録も有るようです。
ですから、呉は長距離を航海する技術を持っていたし、山東半島を攻めるくらいですから、朝鮮に渡る技術は当然に持っていたと思います。
ウ) 第3派は、楚王国の(夫概の子孫の)堂谿氏(ドウケイシ)が、朝鮮に渡った。
上記の(ア)で述べたところの、夫概が、堂谿の地に封じられ、その子孫が「堂谿氏」として、紀元前223年に、秦の始皇帝によって楚が滅ぼされるまでの間、存続していました。
「史記・呉太白世家」には、
『前505年に、兄が呉越の戦いの最中に、こっそりと陣払いして、自立して呉王を名乗ったが、戻って来た闔閭の兵に敗れて、楚に亡命した。その後、楚から領土を与えられて、子孫が堂谿氏と称した』(真偽不明、要確認のこと)。
(要約しますと)、
紀元前223年に、楚を滅ぼした秦は、楚が強大なことを恐れて、住民を国外追放にしたとされる。
同時に、始皇帝は、満州方面の遼東の長城建設のために、堂谿氏を含む楚人を動員した。
秦の滅亡に伴って解放された楚人らは、関内が「漢楚の攻防戦」の最中にあり、帰国できなかったので、朝鮮に向かった。
馬韓に入った堂谿氏らの楚人は、馬韓王から半島の東側の土地を与えられて入植し、後に、「秦人」と呼ばれるようになった。(「魏志・辰韓伝」)。
彼らの中から、南の弁韓(後の金官加羅とか任那日本府とか)に入った者、さらに日本に至った者、あるいは、北に逃れて「濊族」や「高句麗」や「扶余族」に同化した者、辰韓に残って後の新羅を建国した者、などが考えられますが、明確な記録が見つからないので、想像の域を出ません。
(堂谿のこと)
堂谿(ドウケイ)とは、地名であり、淮水(ワイスイ)の最上流部にある。周の初期に房子国とも云う。呉を封じたので「呉房」とも云う。
堂谿は、周の時代から、銅や鉄の産地で、金属器の生産地だった。(「論衡(後漢・王充)・言毒篇」参照のこと)。
(このことから、楚人が、長城建設のために遼東に入り、後に辰韓に入って南下し、洛東江の鉄を採取して「弁辰の鉄」を生産した可能性も否定できません。
これについて、朝鮮の鉄器は、紀元前3〜4世紀からと云われ、紀元前200年の楚人が製鉄に従事した可能性は否定できません。
C 呉の遺民が、直接、日本に来た可能性。
日本の米の生産は、弥生時代より以前から行われていた説があり、呉の滅亡当時には、日本での米の生産が有ったと考えられます。
だからと言って、呉の遺民が、直接、日本に来たことには成りません。
国を追われてパニック的に逃げる者は、十分な用意が出来ていないので、より安全で、日本より開けていた朝鮮に逃げるのが、常識だろうと思います。
(呉は、強力な海軍を持っていたので、滅亡以前から朝鮮の地理や風俗を知っていた可能性があり、大規模集団で入植するなら、日本よりも朝鮮を選択しただろうと推測します)。
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