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★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。
★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。
@ ところで、「綿津身と筒之男と塩土の老翁の考察」に、ご興味をお持ちでしょうか。実は、日本の海人族というのは、なかなか複雑な構造になっているのではないかと思っています。
A ナギとナミの退場で、物語は、国家の黎明期から骨格の形成期に入った。
記紀神話の物語は、第1幕のイザナギとイザナミによる黎明期の土台造りを終えて、第2幕のスサノオのための前段階としての、海人族の形成期に入りました。
古代日本の国家建設において、朝鮮からの移動は最重要であり、それを達成するためには、強力な海運業が必要でしたし、国防力としての海軍も必要でした。
このために、紆余曲折し、栄枯盛衰を重ねながらも、強力な海人族が形成されていったものと思います。
A 大綿津身は、イザナギとイザナミの2神が生んだ。
古事記によりますと、イザナギとイザナミの2神が、(海の神の)「大綿津身」を生んだことになっています。
(この点について、日本書紀では、2神は、国を生んだ後に、海や川や山を生んだことになっています)。
ところが、イザナミの死に際して、イザナギが、カグツチを斬った後で、禊(みそぎ)の中から、「少童(ワタツミ)」と「筒男(ツツノオ)」を生んでいます。
すると、2神が生んだ「大綿津身」と、イザナギが単独で生んだ「少童と筒男」は違う存在ではないのか、という疑問が生じます。
(個人的な解釈としましては)、少童と筒男は、あくまでも九州方面に発生した(人間活動をする)海人族のことを指し、それ以外の地域に発生した海人族は、「大綿津身」に分類されるのではないか、と思っています。
あるいは、「大綿津身」というのは、日本書紀に有りますように、純然たる自然の海を表しているのかも知れないとも思います。
(ただ、この場合には、『九州以外の各地にも海人族が発生しているはずだが、それらは、どこに分類されるのか』、という疑問が生じて、シックリしません)。
B 少童(ワタツミ)と筒男(ツツノオ)は、なぜ、2種類も有るのか。
イザナギが生んだ少童と筒男は、基本的には、同じ海人族ではないかと思います。
イザナギが、(古事記では)「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」(日本書記では筑紫の日向の小門の橘の檍原)で、少童と筒男を生みました。
(この場所については、『筑紫の日向』との記載があるために、福岡県と宮崎県で争いがあります)。
ところで、なぜ少童と筒男の2種類が有るのかについては、元々は1つだったものが2つに分かれた説と、逆に、最初から2つ有った説の、の2説が考えられますが、分かりません。
ただ、言えることは、少童(ワタツミ)とは、北九州の安曇氏に代表される「綿津身」のことだろうし、筒男(ツツノオ)とは、南九州の隼人族に代表される「塩土の老翁」のことだろう、と思います。
C 筒男(ツツノオ)は、塩土の老翁(シオツチノオジ)のことで、鹿児島県だった。
筒男(ツツノオ)が塩土の老翁(シオツチノオジ)と云うのは、ツツノオ→シオ・ツツノオ→シオ・ツツノオ・ジ→塩土の老翁に変換できるからです。
また、塩土の老翁は、ニニギが降臨した後で、鹿児島県方面に出現していますし、山幸彦の段でも登場していますから、隼人族の守護神ではないかと想像します。
また、「塩土の老翁」は、「潮つ路(道)の大きな霊(ち)」か、「潮の土(国)の大きな霊(ち)」の意味だろうと想像します。
また、「筒男(ツツノオ)」は、「潮つ路(道)の大きな霊(ち)」から、「潮」を削除した言葉だろうと想像します)。
また、「筒」は、「津津」か「津霊」か「津地」が、考えられそうです。「ツツ」を漢字の一文字で表すために「筒」を充てたと想像します。
D 筒男と塩土の老翁が、同一というのは、なんかシックリこない。
筒男と塩土の老翁が、同一と言っても、時代の変遷があり、厳密には違いが見られると思います。
つまり、(イザナギの神霊であるところの)呉系倭人をルーツとして、弥生時代に、北九州に安曇氏に繋がる綿津身(少童)が発生し、南九州に隼人族に繋がる筒男が発生したと、想像します。
時代が下って、北九州の海人族が、半島南部との交易を重ねる中で、次第に隆盛していきました。
(ただ、北九州の倭人が隆盛したのか、半島南岸の洛東江流域の海人族が南下したのかは、本当のところは、分かりません)。
そういう経過の中で、南九州では、古い海人族の筒男の中から、塩土の老翁に象徴される新しい海人族が生まれてきたと想像します。
ですから、古い筒男から新しい塩土の老翁が生まれ、さらに時代が下って、北九州と融合する中で、住吉神に発展して権力者側に就いたものや、隼人族に分かれて行ったものがあった、と想像します。
★ 権力者の階段を登った者が、尾張氏や海部氏や津守氏などの「火明系列」であり、上れなかった者が「隼人族」かも知れません。
E 上・中・下(表・中・底)の3種の意味。
少童と筒男には、それぞれに、上・中・下(表・中・底)の3種が生まれています。
なぜ、海人族に3種類あるかについては、生業(なりわい)が異なるためだと想像します。
すなわち、「上」とは海面のことであり、これは海運業者のことではないだろうか。北九州であれば、西日本や朝鮮との交易があり、南九州であれば、琉球に続く諸島とか、中国にまでも交易をしていたのではないかと想像します。
また、「中」とは海中のことであり、これは魚釣りのことであり、漁業(漁師)のことではないかと想像します。
(古代には魚網などという大きな網は無く、魚は釣るか、モリで刺したと思います)。
また、「底」とは海底のことであり、これは「海女・海士」(アマ)のことであり、海底の貝や蛸や海草を取る業者をいうのではないかと想像します。
このように考えますと、3種に分かれた海人族の理由が納得できそうです。
F 平時には正業を営み、戦時には海軍に早変わりした。
古代氏族には、安曇氏とか宗像氏などの海人族出身の豪族がいますが、元々、古代の豪族というのは、平時においては農業を営んだり、漁業や海運業を営んでいたと思います。
(戦争や争いの時だけ、武装して戦争をしたのであって、普段は正業に従事していたと思います)。
「兵農分離」が行われたのは、1つは、奈良時代の律令体制の確立により「職業軍人」(官軍)が作られたのと、2つは、織豊政権の以降から「兵農分離」が行われた2つが挙げられると思います。
(戦国時代までは、上層部だけが武士団で、下層部は半農民であり、戦争になったときに非常召集を受けて、鎧や兜をかぶって槍を担いで戦争に行ったと思います)。
G お断り。
海人族の変遷の歴史は、陸上の豪族よりもダイナミックな交代があり、しかも、前者の歴史を上塗りしている(つまり前者は抹殺された)と想像しますので、真実を知ることは困難だと思います。
あるいは、北九州の海人族の宗像氏は、「姓氏録」では大神朝臣同祖とあり、大国主の後裔であり、安曇氏とは出自が異なります。さらに遡れば、スサノオの金官加羅に行き着くかも知れませんが、分かりません。
ですから、海人族については、単なる「想像の域」を脱することが出来ません。
★ どう思われますか。
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