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深夜のフィールズアベニューでは娼婦と男が堂々と歩く姿が
米軍撤退後のフィリピン 経済的損失の過酷な状況
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160721-00000001-pseven-int
SAPIO2016年8月号
フィリピンでは1992年までに米軍基地が完全撤退した。しかし、中国との領有権問題やローカル経済の低迷などから米軍駐留時代を懐かしむ声も聞こえる。在フィリピン12年のノンフィクションライター・水谷竹秀氏が現地ルポをお届けする。
* * *
午前1時、ネオンが明滅するバーに挟まれた通りには欧米、アラブ、韓国系の男たちがそぞろ歩いていた。キャミソールに短パンといった露出度の高いフィリピン人娼婦たちは店の前で客引きを続け、路上に座り込む少年たちはたばこや「サンパギータ」と呼ばれる白い花を物乞いのように売る。朝まで営業しているバーもあるこの界隈は、まるで不夜城の気配を漂わせていた。
「昔ここへ遊びに来ていた米兵たちが、お金やキャンディーをくれたのを記憶しているわ。確か街の消火活動も手伝ってくれたの。私が手配した女の子の何人が米兵と結婚したことか」
とあるバーのママさん、ペルラ(65)はそう語り、1992年まであったクラーク米軍基地内のクラブで働いていた頃の写真を、携帯電話で見せてくれた。ピンクのジャケットを羽織ったペルラが黒人の空軍兵、ダンサーの若い女性と一緒に写っている。それを懐かしそうに眺めながら続けた。
「米軍がまたクラークに戻って来るというような話を最近、聞いたわ。女の子にお金を落としていくから、できれば実現して欲しい」
クラーク空軍基地跡に沿うフィールズアベニューには現在、ビキニ姿の娼婦たちが踊るゴーゴーバーが約90軒ひしめく。マニラから車で2時間北上したルソン地方パンパンガ州アンヘレス市に位置し、戦後しばらくしてから、基地に駐留する米兵のたまり場となって繁盛してきた。
クラーク空軍基地の広さは約6万3千ヘクタールに上り、シンガポールの国土面積とほぼ同規模の広大な米軍事拠点だった。ベトナム戦争勃発後は出撃地として使用された。ところがマルコス政権の1980年代初頭、「基地の存在は独立国家として認められない」、「米政府による内政干渉だ」といった反発から基地撤退を求める機運が本格的に高まり、比米両国で政治的駆け引きが続いた。
1991年6月にはピナツボ火山が大噴火を起こし、火山灰が降り積もったクラーク基地から約1万5千人の米兵や家族が、南西に約60km離れたスービック海軍基地に一時避難した。3か月後、上院議会で基地存続条約が否決されて米軍は撤退に追い込まれ、90年近く続いた米軍基地の歴史が幕を閉じることとなった。
この経緯を語る時、多くは国の独立性という点で称賛されがちだが、その裏で多大な経済的損失を被った事実は否定できない。
「米軍駐留による経済効果はバーだけではない。家族が借りていた家賃も入らなくなり、米兵に販売していた衣料品店、家具店、チョコレートなどの輸入品販売店が軒並み閉店し、経済的損失は大きかったはず」
そう語るのはアンヘレス市役所観光課の副課長だ。特にアンヘレス市の場合はピナツボ火山噴火による被害も重なったため、その経済的損失を割り出すのは難しい。とはいえ基地には最大時で約1万5千人のフィリピン人が働いていたため、補償はされたものの多くが失業状態に陥った。
「ディスコが入居するクラブで警備員として10年近く働いたんだ。時々もらえる米兵からのチップも含めると地元で働くよりは随分と稼げた。だから米軍が撤退した時は寂しかったよ」
といった元労働者の本音も聞こえてくる。
【PROFILE】水谷竹秀●1975年三重県桑名市生まれ。上智大学外国語学部卒業。現在フィリピンを拠点にノンフィクションライターとして活動中。2011年『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』で開高健賞受賞。近著に『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』。
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