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74年前の12月7日に日本軍は真珠湾を奇襲攻撃したが、「馬鹿な選択」はアジア侵略を始めたこと
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201512080001/
2015.12.09 03:54:25 櫻井ジャーナル
ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲攻撃したのは1941年12月7日午前7時48分(現地時間)のことだった。アメリカ側はある程度、攻撃を予測していたようだが、詳しく知っていたとしても通告前に攻撃した以上、奇襲攻撃であることに変わりはない。
この攻撃について、「馬鹿な選択」だったという声をよく聞くが、それは「馬鹿なアジア侵略」の必然的な結果だった。当時、日本とアメリカとでは生産力も科学技術力も大きな差があり、勝てる見込みはなかったということはマスコミも主張しているが、それはアメリカに従えば問題はなかったと言いたいだけのことだろう。中国での戦闘が泥沼化、苦し紛れにアメリカを攻撃しただけだが、中国で勝てなかったという事実と向き合おうとしていない。
週刊現代のサイトによると、今年6月1日、官邸記者クラブのキャップとの懇親会で安倍晋三首相は「安保関連法制」について「南シナ海の中国が相手」だと口にしたという。http://gendai.ismedia.jp/articles/print/43909
日本でのことは知らないが、安倍政権は中国との戦争を想定しているわけで、外国では話題になっていた。アメリカに従っていれば中国と戦争しても勝てると安倍首相のような好戦派は思い込んでいるのだろう。
ところで、日本軍が真珠湾を攻撃する半年前、ドイツ軍はソ連に向かって進撃を開始した。「バルバロッサ作戦」だ。7月にはレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲し、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。
こうしたドイツ軍の進撃も日本側の判断に影響したかもしれないが、この段階で日本軍がアメリカを攻撃することはドイツにとって好ましくはなかった。アメリカ軍が参戦することはドイツにとって不利になるからだが、実際のところ、アメリカは参戦後もドイツのソ連攻撃を傍観している。ちなみに、真珠湾攻撃の前、アメリカでは約70%の人びとがアドルフ・ヒトラーを倒すべきだとしていたが、同じ比率の人びとが参戦に反対していた。(Daniel Yergin, “Shattered Peace”, Houghton Mifflin, 1977)
本ブログでは何度も書いているように、1932年の大統領選挙でウォール街が支援していた現職のハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北、新大統領を排除してファシズム政権を樹立させるためのクーデターが計画された。その中心がJPモルガンだとされている。海兵隊のスメドリー・バトラー少将が議会で証言し、計画を明るみに出している。
JPモルガンは関東大震災以降、日本の政治経済に大きな影響力を持つようになり、最近の用語を使うならば、「新自由主義」を導入させた。彼らが最も親しくしていた日本人は1920年の対中国借款交渉を通じて接近、浜口雄幸内閣と第2次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣を務めた井上準之助。この井上が血盟団に暗殺されたのは1932年だが、その年にJPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーが駐日大使として日本へやって来た。グルーは戦後、日本の民主化を止めて戦前回帰させたジャパン・ロビーの中心的存在でもある。
グルーと親しかった日本人のひとりと言われている松岡洋右は柳条湖事件、国際連盟の脱退と絡んで記憶されている。フーバー政権時代の1931年9月、日本軍は柳条湖の近くで満鉄の線路を爆破(実際は音がしただけではないかとする説もある)、中国軍が実行したと主張して攻撃を開始、約4カ月で中国東北部を占領した。
この事件についてイギリスのビクター・ブルワー-リットンを団長とする調査団が1932年2月から調査を開始、10月に報告書が公表されるが、侵略された側の立場が反映されているとは言い難い内容だった。何しろ欧米各国も植民地を作り、略奪していたのだ。
しかし、アメリカでは1933年に反植民地、反ファシズムの政権が誕生、状況が大きく変化する。ニューディール派のルーズベルトが大統領に就任したのだ。日本と結びついていたJPモルガンは主導権を奪われてしまう。日本の迷走はそうした背景も影響しているだろう。そして真珠湾を攻撃することになる。
ルーズベルトをクーデターで葬り去ろうとしたウォール街は日本よりドイツと強く結びついていた。そのドイツがバルバロッサ作戦をはじめると、反ファシストの米大統領はソ連への支援に前向きな姿勢を示すのだが、支配層には逆の考え方をする人が少なくなかった。例えば、ハリー・トルーマン上院議員(後の副大統領/大統領)は「ドイツが勝ちそうに見えたならロシアを助け、ロシアが勝ちそうならドイツを助け、そうやって可能な限り彼らに殺させよう」と主張している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
また、ジャーナリストのC・アンソニー・ケイブ・ブラウンによると、1939年頃、イギリス支配層にはソ連と戦うために「日本・アングロ(米英)・ファシスト同盟」を結成するという案があったという。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)
こうした案も真珠湾攻撃で消え、その一方でルーズベルト大統領は1942年6月に戦時情報機関のOSSを組織、ウォール街の弁護士だったウィリアム・ドノバンを長官に任命している。ドノバンはコロンビア大学ロースクールでルーズベルト大統領のクラスメートだった。このドノバンが情報活動に引き入れた弁護士仲間のひとりがアレン・ダレスだが、このダレスたちはルーズベルトを完全に無視して動くことになる。何しろ、彼らはウォール街の代理人だ。
当初、スターリングラードでの攻防戦はドイツ軍が優位だったが、冬に入ると形勢は逆転し、1943年2月になるとドイツ軍は全滅、ソ連軍の反撃が始まった。それを見てアメリカ支配層は慌てる。それまでは静観していたのだが、1943年7月にアメリカ軍を中心とする連合軍がシチリア島へ上陸、44年6月にはノルマンディ上陸作戦を敢行してパリを制圧した。
その一方、アメリカとイギリスは1944年夏にゲリラ戦部隊のジェドバラを編成するのだが、言うまでもなく、この段階で壊滅状態のドイツ軍に対するゲリラ戦を行う意味はない。想定していたのはコミュニストの影響を強く受けていたレジスタンスや目前に迫っているソ連軍だろう。
このジェドバラ人脈は戦後、アメリカの破壊工作機関OPCを組織、1950年10月にCIAの内部へ潜り込んで52年8月に計画局、秘密工作の実態が明るみに出た後の73年3月に作戦局へ名称を変更、2005年10月からはNCS(国家秘密局)として活動を続けている。
大戦の末期にアレン・ダレスたちはナチスの高官と接触、保護しているが、ウィンストン・チャーチル英首相はドイツが降伏した直後、JPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、そこで考え出されたのが「アンシンカブル作戦」。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。
この作戦が影響したのか、チャーチルは7月26日に退陣するが、翌1946年3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで、「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説、「冷戦」の幕開けを告げている。それだけでなく、チャーチルは1947年にアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいたという。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2826980/Winston-Churchill-s-bid-nuke-Russia-win-Cold-War-uncovered-secret-FBI-files.html
米英はソ連というより、ロシアの制圧を目論んできた。それを「ハートランド理論」としてまとめたのがハルフォード・マッキンダー。1904年のことだ。この理論については何度か触れたので今回は割愛するが、この戦略は今でも生きている可能性が高い。アヘン戦争の後、イギリス、後にアメリカは日本を侵略の手先として使った可能性が高く、その従属関係が揺らいだルーズベルト政権で真珠湾攻撃は実行されたと言えるだろう。
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