http://www.asyura2.com/15/warb16/msg/586.html
Tweet |
真珠湾で米戦艦を雷撃する直前に撮影された前田氏が搭乗した九七式艦上攻撃機(前田武氏提供)。戦後、偶然撮影した米国人カメラマンから前田氏が譲り受けたという
奇襲!真珠湾 「空母加賀」航空兵が回想する米戦艦を雷撃した“あの瞬間”〈dot.〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151208-00000002-sasahi-peo
dot. 12月8日(火)7時10分配信
日米開戦から74年……熾烈な戦いを経験した旧日本軍関係者も少なくなる一途だ。ここでは1941年の真珠湾攻撃に参加した航空兵のインタビューを紹介する。
※この記事は今から7年前の週刊朝日2008年8月29日号に掲載されたものをニュースサイト「dot.」編集部が再構成したものです。
※ ※ ※
太平洋戦争の火ぶたを切った真珠湾奇襲攻撃。この攻撃に加わり、米戦艦を魚雷で攻撃した元飛行兵・前田武氏(87=取材当時)は、現在もあの日の出来事を鮮明に覚えている。「もう戻れない」と飛び立った甲板に生還し、その後も戦い抜いた元飛行兵に、あの戦争への思いを聞いた。
1941年12月7日早朝(現地時間)、ハワイ・真珠湾に停泊する米戦艦「ウェストバージニア」が無防備な横腹を晒していた。800キロの魚雷を抱いた日本海軍の雷撃機が、海面から高度10メートルの低空飛行で、米戦艦群に魚雷攻撃を加えようとしていた。
「とにかく訓練どおりにまっすぐ走ってくれ」
3人乗りの雷撃機の真ん中に座り、ナビゲーター役を務めていた当時20歳の前田武・二飛曹は、そう心で祈りながら、魚雷投下のレバーを握りしめていた。機内は緊張感に満ちていたが、猛訓練を重ねた搭乗員は、非常に冷静だった。
「発射用意!」
パイロットの吉川與四郎・三飛曹が、訓練と変わらない落ち着いた声で合図を出す。機体の外では、米軍がやみくもに機銃から放つ銃弾が、まばゆい光を引きながら、操縦席の左右を飛び交っていた。その時、まるでバケツを叩いたような音がした。
一発の銃弾が命中したのだ。機体は大きく揺れたが、幸いにも飛行に支障は出なかった。
「テッ(撃て)!!」
掛け声と同時に、前田二飛曹は発射レバーを思い切り引いた。魚雷の重みから解放され、機体はグーンと浮上する。
「魚雷は走っているか!」
海面に視線を落とすと、ウェストバージニアの左舷に向け、魚雷が直進していく。機体の前方には、すでに日本軍機の爆撃を受け、黒煙に包まれた戦艦群があった。その黒煙の中に直進し、ウェストバージニアの艦橋をかすめるように敵の対空砲火からの離脱を図った。その際、戦艦の艦上に逃げまどう米兵の姿がはっきりと見えた。
離脱に成功して後方を振り返ると、海底の泥を巻き上げたためか、ウェストバージニアの左舷から十数メートルの茶色の水柱が立ち上った。
「よおし、命中だ!」
だが、喜びもつかの間だった。後方に続いていた友軍機は、魚雷投下後に黒煙を避けるように右旋回で離脱を図ったところ、ここぞとばかり、待ち構えていた対空砲火の餌食となったのだ。苦楽を共にした戦友の機体が火だるまとなり、落ちていった−−。
開戦前夜、日本は中国や仏領インドシナへの進攻を巡り、米国と鋭く対立した。対米開戦を決意した日本軍は、ハワイ・オアフ島の真珠湾に停泊中の米太平洋艦隊を航空機で奇襲攻撃し、これを壊滅する。太平洋戦争の火ぶたは切って落とされた。
作戦に参加した日本軍機は350機で、その多くが生還した。しかし、搭乗員の大半が、後に繰り広げられた激戦で戦死する。終戦から63年(※取材当時)が経過し、生存する真珠湾攻撃の経験者は限られている。前田氏は、まさに生き証人といえる存在だ。
前田氏は1921(大正10)年、福井県大野町(現・大野市)で生まれた。早稲田大学への入学を夢見ていたが、父親が亡くなったため、大学進学を諦め、中学卒業後、17歳で甲種飛行予科練習生として海軍に採用される。
「中学に来ていた陸軍の配属将校が威張っていたので、陸軍が嫌いになった。将来は海軍に入ろうと思っていたところ、海軍の将校に『うちに来ないか』とスカウトされたんです」
3年間の猛訓練を耐え抜き、海軍航空隊の一員に加わった。運命を決定づけたのは41年9月18日。空母「加賀」の航空隊に選抜され、転属が決まったのだ。
「加賀の母港の長崎・佐世保に着任したのですが、すぐに鹿児島に行けと言われ、汽車に飛び乗りました」
加賀に所属する航空隊は鹿児島県の鴨池基地などに集結していた。日本海軍はすでに加賀などの空母機動部隊による真珠湾攻撃を計画していたが、一般の兵士には知らされていなかった。
●目標知らぬまま魚雷発射の訓練
攻撃参加予定の各空母に所属する航空隊は、鹿児島の錦江湾で昼夜問わず激しい訓練を積み重ねていた。早朝に鴨池基地を離陸し、鹿児島市内の城山公園の上空で針路を変え、徐々に高度を下げながら、海上にある400メートル先の目標をめがけて魚雷の発射訓練をした。
「市街地にあった遊郭をギリギリの高度で飛行するため、朝に客を送り出した後の娼妓が色っぽい姿で訓練を見つめる姿をよく見かけました。彼女らは、常連客の機体番号を知っていたんです。お目当ての飛行機が近くに来ると、手を振って、何かを叫んでいる姿が機上からよく見えました」
11月中旬、猛訓練を終えた加賀の航空隊は、豊後水道に面した宮崎県・富高基地に移動した。富高基地には、海軍工廠から多くの工員がやって来た。飛行機の翼に「耐寒艤装」と呼ばれる、凍結防止の装置を取り付けるためだ。さらに銀色の機体には、迷彩のためスプレーで青黒い塗料が吹き付けられた。
「搭乗員は、細かい目の紙ヤスリで機体を磨くように指示されました。少しでも表面に凹凸があれば、スピードが遅くなるためです。機体を磨きながら、いよいよ開戦が近いなと感じました」
整備が終了すると、搭乗員には3日間の休暇が与えられた。その時はまだ攻撃目標は知らされていない。鹿児島市内に繰り出し、酒を酌み交わしながら、攻撃地点について語り合った。
「(英国領の)シンガポールじゃないのか」
「機体に耐寒艤装を施したのだから、(米海軍基地がある)北のダッチハーバーだろう」
「真珠湾はあまりに日本から遠すぎる。攻撃は無理じゃないのか」
休暇を終えると、富高基地の沖に加賀が姿を現した。艦載機を収容し終えると出港。東方に針路を取った。出港から2時間後、集合がかかった。
「総員、飛行甲板へあがれ」
艦橋の前に整列すると、艦長の岡田次作大佐が遠くに見える陸地を指さした。
「あれは四国である。本艦はただいま重要な任務を帯びて某地へ航行中である。諸氏のうち何人かが、否、艦の全員が再び故国を見ることがかなわぬことになるやもしれない。ただいまより日本の本土に別れを告げる」
●ビールかけ合い、出撃前の無礼講
すべての乗員が陸地に向けて大きく手を振った。大きな声で叫ぶ者、黙々と手を振る者。それぞれのやり方で、二度と土を踏めないかもしれない母国に別れを告げた。
加賀は日本列島を北上し、11月23日早朝には、択捉(エトロフ)島・単冠(ヒトカップ)湾に寄港した。艦内の窓から外を眺めると、目の前で、日本海軍が誇る連合艦隊が湾内を埋め尽くしていた。主力空母をはじめ、戦艦や巡洋艦……。その艦影が美しく見えた。
「一体、こんな大艦隊でどこを攻撃するのか」
答えは翌24日にわかった。艦隊司令部から加賀の航空隊員に対し、旗艦の空母「赤城」に集合するよう命令があった。赤城の作戦室に入っていくと、厳しい表情を浮かべた第一航空艦隊参謀の源田実中佐のほか、艦隊の幕僚たちが顔をそろえていた。作戦室の中央には、畳4畳分の巨大で精巧な模型が置いてあった。湾内に島がある地形を一目見た前田氏はピーンと勘が働いた。
「まさか真珠湾では……」
米太平洋艦隊が停泊する真珠湾に開戦と同時に奇襲攻撃し、米国民の戦意を失わせ、早期講和に持ち込む、そんな方針が搭乗員に初めて伝えられた。模型を使い、真珠湾周辺の防空陣地や飛行場、艦船の位置を示しながら、細かく作戦内容が説明された。加賀の攻撃隊は真珠湾に浮かぶフォード島周辺の戦艦群を攻撃するという方針も伝えられた。前田氏は、その時の心境をこう振り返る。
「開戦の気配は感じていたが、日本の何十倍も国土が広い米国と本当に戦火を交えるとは正直驚いた。絶対に生きて母国には帰れないと覚悟をした」
11月26日午前6時、いよいよ艦隊はハワイに向けて出港した。艦内には大音量で軍艦マーチが流された。血湧き肉躍る心地で外を見ると、出撃を祝うかのように、戦艦や巡洋艦が、択捉島の山並みに向けて砲撃した。砲弾で氷雪が吹き飛ばされる光景は壮観だった。
真珠湾攻撃2日前の12月6日。夕食時の搭乗員室で、艦長から整備員まで多くの関係者が参加した盛大な送別会が開かれた。席上、飛行隊長を務める橋口喬少佐はこう訓示した。
「この酒宴を最後に、攻撃終了まで一切のアルコールを禁止する。だから、今夕は心ゆくまで飲んで英気を養ってほしい」
四斗樽を開き、作戦成功を祈って乾杯した。上下関係が厳しい海軍でも、この日ばかりは無礼講だった。部下に頭からビールを浴びせられた艦長や飛行隊長が、逃げ惑う姿があった。室内はこぼれた酒やビールで水浸しになっていた。そして、搭乗員全員が酔いつぶれるまで、宴会は果てしなく続いたのだった。
12月8日早朝、日本艦隊はハワイ沖に迫っていた。朝食は、普段の質素な食事と異なり、赤飯と尾頭付きだった。飛行服に着替えて、出撃する準備を整えた。前田氏は、艦内の「加賀神社」と呼ばれた神棚に向かい、手を合わせた。
(自分の命がなくなってもいいので、どうか発射した魚雷を敵艦に命中させてください)
外に出ると、水平線が朝焼けで赤く染まっていた。太平洋の波もうねり、艦が大きく揺れていた。
飛行甲板には攻撃機がエンジンの試運転をしながら、出撃の時を待っていた。前田氏は、搭載した魚雷がうまく投下できるか、念入りに確認した。作業を終えると、整備員が歩み寄った。そして、前田氏の手を固く握り締め、声を絞り出した。
「敵艦に命中させてくれ、頼んだぞ」
「わかった、まかせろ」
戦闘機、爆撃機、水平爆撃機、雷撃機の順で、次々と甲板をけって飛び立っていく。前田氏は、3人乗りの席の真ん中に座り、出番を待つ。演習とは違い、高品質の燃料を搭載したため、エンジンの動きも快調だ。操縦席に伝わるエンジンの振動が何とも心地よかった。飛行甲板の脇では、白い作業着を着た整備員が勢いよく帽子を振っていた。その光景を見ていると、胸がカッと熱くなった。
魚雷を抱いた機体は、飛行甲板を勢いよく飛び出す。みるみる高度を上げていくと、整備員たちの白い固まりが次第に小さくなった。遠ざかる加賀を見つめながら、覚悟を決めて心の中でこうつぶやいた。
「さようなら、加賀よ。無事に日本の母港へ帰ってくれ。オレたちは二度とお前の甲板に降りることはあるまい」
空母群から飛び立った第1次攻撃隊183機は一路真珠湾を目指した。しばらくすると、ホノルルのラジオ放送を傍受した。この電波を追っていけば、ハワイまでたどり着ける。緊張感に満ちた機内にグレン・ミラーの「サンライズ・セレナーデ」が静かに流れていた。晴れ渡った真珠湾上空にたどり着くと、演習場所の錦江湾とそっくりの光景が目に飛び込んできた。前田氏はこう振り返る。
「こんな南国の楽園のような島に爆弾や魚雷を落としていいのか、少し躊躇しました。上空には敵機の姿はなく、砲台も攻撃してこない。宣戦布告前の『7日午前7時45分(ハワイ時間)より前には絶対に攻撃してはならぬ』と厳命されていた。だが、米軍のあまりの無警戒ぶりに、米軍に宣戦布告が伝わったのか、不安に思いました」
●戻らぬ戦友分も用意された昼食
オアフ島の北西方向から敵レーダーの死角となる山岳地帯を進んだ。視線を落とすと、パイナップル畑で作業している日系人らしき人影も見えた。
「ト・ト・ト(全軍突撃せよ)」
第1次攻撃隊の総指揮官・淵田美津雄中佐の搭乗機が打電した攻撃命令を受信した。編隊を解き、雷撃隊は一直線に並んで攻撃態勢に入った。バーバース岬に進むと、フォード島周辺に目刺しのように並ぶ米太平洋艦隊から水柱があがった。
「トラ・トラ・トラ(我奇襲に成功せり)」
淵田機の打電を受け、加賀の雷撃隊も戦艦群に攻撃を開始した。日本軍は2度にわたる空襲で米太平洋艦隊をほぼ壊滅させた。だが、最重要目標だった2隻の空母は真珠湾に停泊しておらず、また、米軍の反撃をきらって予定した第3次攻撃を中止したため、真珠湾の燃料タンクやドックは手付かずだった。
前田氏は加賀に戻り、戦友の帰還を待ったが、結局、加賀の雷撃隊12機のうち、5機が未帰還だった。
「艦内に戻ると、全員分の昼食が用意してあった。予定時刻を過ぎても、やはり戦友は戻らない。だが、誰も冷えきった昼食を片づけようとしませんでした」
前田氏はその後、日本海軍が加賀をはじめ空母4隻を失う惨敗を喫したミッドウェー海戦で、左足に重傷を負った。再び戦線に戻り、ラバウル、トラック諸島などを転戦する。戦争末期の硫黄島攻防戦、沖縄戦での熾烈な戦いにも航空兵として参加した。前田氏は、あまりに長い戦争だったと思っている。こうつぶやいた。
「国を守る任務を完遂しようと、一生懸命やったので、個人的には後悔はありません。ただ、日本は講和に持ち込むチャンスがあったのに、見逃し続けた。戦死した戦友たちも、あんなにいい連中だったのに……」
数々の修羅場を経験した老兵は、あの戦争を決して忘れることはできない。
(金子哲士)
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。