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<どゆこと!?>米下院議員「トルコはISと戦うよりも、ISを支援するためにはるかに多くのことを行った」
http://www.asyura2.com/15/warb16/msg/535.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 12 月 03 日 22:45:00: igsppGRN/E9PQ
 

【どゆこと!?】米下院議員「トルコはISと戦うよりも、ISを支援するためにはるかに多くのことを行った」
http://xn--nyqy26a13k.jp/archives/9676
2015/12/03 健康になるためのブログ



http://jp.sputniknews.com/middle_east/20151202/1260348.html

米下院軍事委員会のメンバーであるタルシー・ギャバード氏は、トルコについて、同国は「IS(イスラム国)」と戦うよりも、ISを支援するためにはるかに多くのことを行ったとの考えを表した。


ギャバード氏はCNNに出演し、次のように語ったー


「トルコにあるシリアとのオープン・ボーダー(開かれた国境)や、トルコがISや他の過激派に行っている直接的あるいは間接的な協力は、トルコが我々(米国)と共にないことを証明している。トルコがISとの戦いで行ったことは、トルコがISのために行ったことよりも少ない。


トルコにとっての優先課題は、クルド人の鎮圧、排除だ。クルド人は戦場で最も効果的な戦力であり、イラクとシリアでISに打撃を与えている。


トルコにとって2つ目の優先課題は、シリア政府からアサド大統領を排除し、『アルカイダ』や『アル=ヌスラ戦線』などのイスラム過激派組織を含む、武器や弾薬を必要としている者たちに、それを供給するためにあらゆることを行うことだ。トルコは我々の敵を強くし、ISを強化している」。


以下ネットの反応。










トカゲのしっぽ切りという奴が行われるのでしょうか?日本もアメリカの事情次第でどうとでも扱われる国なので他人事ではありません。


 

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コメント
 
1. 2015年12月04日 00:07:31 : qFBZAvwg0G : vk0tf5q5vAI

 ISが陸送して トルコが集めたオイルは 船で イスラエルに送られる

 一番悪いのは だれでしょう!!

 それを 見逃していたのは アメリカなんだけど〜〜
 
 ===

 なぜか 日本のメディアでは ロシアのプーチンが悪人になっている
 


2. 2015年12月04日 01:02:00 : jXbiWWJBCA : zikAgAsyVVk
2015年12月3日 橘玲
ISが「神の名の下に無辜の市民を殺す」論理を
イスラームは、完全否定できるのか?
[橘玲の世界投資見聞録]
 パリ市内でIS(イスラム国)による大規模なテロが起きたことから、イスラームに対する関心がふたたび高まっている。もっともこれはムスリムにとって歓迎すべきことではなく、(私を含む)一般人の関心は「なぜ神の名の下に無辜の市民を殺すのか」に尽きるだろう。

 この問いに対して“正統派”のムスリムは、「テロはイスラームの教義ではなく、彼らはムスリムの名をかたっているだけだ」と批判してきた。大多数のムスリムが暴力を否定し、異なる宗教や主義主張の相手とも話し合いで妥協点を見つけようとする合理的(理性的)な平和主義者であることは間違いない。しかし残念なことに、凄惨なテロが「イスラーム」の名で繰り返されると、「無関係」というだけでは説得力を保てなくなる。

 ISは“正統派”に対して「自分たちこそが真のイスラームだ」と主張しており、その教義に共鳴してヨーロッパからイラクやシリアに向かう多くの若いムスリムたちがいる。ISの教義がデタラメなら、なぜ“正統派”のウラマー(イスラーム法学者)はそれを論破できないのか。

 こうした疑問に答えられる知識人は、日本にはおそらく一人しかない。それがイスラーム法学の権威でムスリムでもある中田考氏だ。

 今年1月のシャルリーエブド事件を受けて、中田氏はイスラームについての入門書を何冊か出版している。ここではそれを参考に、テロとジハードについて考えてみたい。

イスラームとヒューマニズムは両立できない

『私はなぜイスラーム教徒になったのか』(太田出版)などで中田氏は、「イスラームはムスリムにならなければわからない」と強調している。アッラー(唯一神)への信仰こそがイスラームの根幹で、それを共有せずにクルアーンの字句をいくら解釈しても本質がわかるはずはない。――このような理由から中田氏は、日本の「イスラーム研究者」を(ほぼ)全否定する。なぜなら、ムスリムのイスラーム法学者はいまのところ日本に中田氏しかいないのだから。このように中田氏は、自分が“オンリーワン”であることを巧みに活用している(もちろんそれが悪いわけではない)。


中田考『私はなぜイスラーム教徒になったのか』(太田出版)
 イスラームとはなにか? 中田氏はそれを「神への服従」だという(イスラームの原義は「服従」)。イスラームへの入信の際、「アッラーのほかに神はなし」「ムハンマドはアッラーの使徒である」の2つの章句を唱えるのだが、この章句をこころの底から信じたときに価値観の全面的な転換が起こる。この宗教体験がなければイスラームを語る資格はないし、説明されても正しく理解することはできない、というのが中田氏の立場だ(当然、私にもイスラームを語る資格はない)。

 こうした厳しい留保をつけたうえで中田氏は、「神への絶対的な服従」とは、アッラー以外のいかなる権威も認めないことだと述べる。従うべきは神だけなのだから、世俗の権力者はもちろん、カトリックにおける教会のような宗教的な権威もイスラームには存在しない。神の下にひとは平等であり、「いかなる人間の組織にも他者を従属させる権利はない」という“神中心主義”がイスラームの根本原理なのだ。

 このことから、イスラームとヒューマニズムが両立できないことがわかる。ヒューマニズムは神の場所に人間を置く「人間中心主義」で、アッラーに対する冒涜以外のなにものでもない。この論理では、当然、「人権」の居場所もないだろう。

 またイスラームでは、法人を認めない。法人とは特定の人間集団を「法的なひと」と見なすことだが、イスラーム法では、来世で懲罰を受けることがない「ひと」には存在の余地がない。そうなると「真のイスラーム社会」では会社は法人格を剥奪され、株式市場も廃止され、資本主義は廃棄されるだろう。そのあとにどのような経済が残るかは判然としないが、「権威によってひとを従わせてはならない」のなら、自営業と家族経営の小企業しか存続を許されないのではないだろうか。

 さらには、原理主義的なイスラームは近代国家の存在を認めない。国民国家は「国民(民族)が自らの国家を持つ」仕組みだが、部族(民族)主義こそがムハンマドがクルアーンで口をきわめて批判し、打倒しようとしている当のものだ。イスラームは民族を超えた宗教共同体(ダール・アル=イスラーム〈イスラームの家〉)で、国民国家の体裁をとった現在のイスラム諸国は(イランやサウジアラビアを含め)すべてニセモノなのだ。

 王権神授説から生まれた主権概念では国家は“神に相当する至高の権利”を持つが、これは唯一神の権威を否定する偶像崇拝以外のなにものでもない。また民主政(デモクラシー)も、“民主的”とされる手続きで選ばれた為政者の決定に国民を服従させる制度だからイスラームとは相容れない。唯一の正しい統治はシャリーア(イスラーム法)によるもので、民主政という「制限選挙寡頭制」の実態は独裁政治と変わらないのだ。

 このように原理主義的な立場からは、イスラームは反ヒューマニズム、反人権、反資本主義、反国家、反デモクラシー、反近代ということになる。

イスラームにはテロを批判する論理がない

 中田氏は、ヒューマニズムは「人間中心主義」だから反イスラームだという。だとしたら、ヒューマニズムの名のもとにテロを批判してもなんの意味もない。

 もちろんイスラームでも殺人は禁じられている。だがこれはすべてのひとに平等に人権が与えられているからではなく、クルアーンに(モーゼの律法にも)「殺すなかれ」と書いてあるからだ。

 テロが無差別殺人であれば、それが神の法に反することはいうまでもない。だがISはこれをジハード(聖戦)だと主張していて、クルアーンではジハードは「義務」であると同時に「天国への最短ルート」だから、賞賛されるべきことになる(ジハードで死んだ者は最後の審判を待たずに天国に直行できる)。

 卑劣なテロがジハードであるはずはない、と誰もが思うだろう。だが中田氏の論理では、これもまた信仰を持たない者の誤解だ。世俗の宗教的権威を否定しているイスラームでは、ジハードかどうか決める者はいないのだ。

 むろん多くのウラマーがテロを批判するファトワー(勧告)を出している。しかしISに近いウラマーは、「フランスは空爆によってイスラーム国の一般市民を殺害しており、報復としてフランス市民を殺すのはジハードだ」と主張するだろう。

 カトリック教会のような宗教的権威を持たないイスラームでは、ウラマーが異なる見解を述べた場合、いずれの主張が正しいかを客観的に知る方法がない。そうなると、個々のムスリムは誰の見解を「真のイスラーム」と見なすかを自由に決めていい(というか、それ以外にやりようがない)ことになる。このことを中田氏は、「イスラームは人の内心(プライバシー)に干渉しない」と述べる。内心を知るのは神だけで、ムスリム(を名乗る者)の行為をテロだとかジハードだとか、第三者が決めつけることは許されないのだ。

 こうして(中田氏のいう)イスラームでは、イデオロギー教育はすべて否定される。シャリーア(イスラーム法)をそのまま実行すると、一人ひとりのムスリムにそれぞれ「正しいイスラーム」があるというアナーキズムになるほかないのだ。――これは、イスラームに複数の教義がある、という相対主義ではない。教えはひとつしかないが、どれが正しいかは神しか知らない(人間には神の真意を知る術はない)のだ。

 だがそうなると、イスラームにはテロを批判する論理がなくなってしまう。ISのファトワーを信じてテロ(ジハード)を行なったのはその信徒の「内心の自由」で、神がそれをジハードと認めれば死者は天国に直行し、殺人と見なせば地獄の業火に焼かれる、というだけのことだ。

 そのうえ中田氏によれば、イスラームでは無知は罪にならない。偽のファトワーを信じたことが無知によるものであれば、テロの実行犯はアッラーの寛大さによって地獄行きを免れるかもしれない。すべては神の御心次第(インシャラー)なのだ。

「死や不幸は神の意思として受け入れる」という信仰

 ムスリムの法学者として中田氏が何冊もの入門書を出したのは、日本にイスラームを布教する、ないしはイスラームに対する正確な知識を伝えるためだろうから、無用な誤解を招く話題を避けるのは当然のことだ。そのため、シャルリーエブド襲撃事件についても、日本人の誘拐・斬首についても直接の言及はほとんどない。

 だがテロについての中田氏の立場は、2001年の同時多発テロへの次の一文によく現われている(『イスラーム 生と死の聖戦』集英社文庫)。

 ジハード=テロというイメージが広がったのは、いわゆる9.11事件からでしょう。ハイジャックしたジェット旅客機で体当たりして、ニューヨークの世界貿易センタービルを全壊、米国防総省ビルを半壊させた事件は世界中に衝撃を与えました。

 もちろん中田氏はテロを肯定しているわけではない。「実行者はムスリムであったかもしれないけれども、そして彼らの主観としてはジハードをしているつもりであったかもしれないけれども、あれはあくまでも世界各地で起きている反米闘争のひとつであって、ジハードとは言いがたいものなのです」「イスラーム学者としては『自爆テロはいけません』と言うほかありません。そもそもイスラームでは自殺は禁止されているのです」と述べているのだから。

 だがここで誰もが奇異に感じるのは、“事件”についての描写だろう。中田氏は「建物」の破壊について書いているものの、ハイジャックされた旅客機の乗客や、世界貿易センタービルで働いていたひとびとの死についてはいっさい言及していないのだ。

 私の理解によれば、これは中田氏がテロの犠牲者を軽んじているからではなく、近代的な市民社会とは死生観が根本的に異なるからだ。

 イスラームにかぎらず、ユダヤ教やキリスト教でも同じだが、この世界は無から神が創造し、神は過去から未来永劫に至るまで宇宙で起きるすべての出来事を知っていると考える。そうであれば、生も死も、それがいかなるものであれ神の計画ということになる。このような立場からは、死や不幸を「理不尽だ」とか「こんなことがあっていいはずはない」と考えることは間違いだ。それは神の意思を否定することになるのだから。

 ハイジャックされた旅客機に乗っていた乗客たちが感じた恐怖や、世界貿易センタービルで炎に包まれたひとびとの絶望を神への疑念に結びつけてはならない。遺族が悲しむのは当然だろうが、すべての出来事を神の御心として受け入れるのが正しい信仰なのだ。

 パリの同時テロに関する報道に比べ、それ以前のレバノンやイスタンブールのテロがほとんど報じられず、シリアやイラクではさらに多くのひとたちが殺されている、との批判がある。だが原理主義的なイスラーム(サラフィー主義)では、こうした議論も死を否定的にとらえているという意味で、神を疑念にさらしていることになるだろう。

 この世界に起きたことで「間違っている」ものはなにひとつなく、自分の夫や妻、父母や子どもがなぜ犠牲になったのかは人知を超えている。善悪を評価できるのも神だけなのだから、9.11は「飛行機が建物を壊した事件」と説明するほかない(パリの同時テロは「サッカースタジアの近くで爆発があり、劇場とレストランが破壊された事件」になるだろう)。

 中田氏がハイジャック犯の死について述べているのは、犠牲者よりも(ムスリムを名乗る)犯人を重んじているからではなく、その死がジハードであるか否かがイスラーム法において問題になるからだ。それ以外の死者は「神の御心によって召された」だけで、イスラーム法では議論の対象にならないのだから、わざわざ取り上げる価値はないのだ。

 もちろんこうした説明をほとんどのひとは受け入れないだろうが、それはしかたのないことだ。(私を含む)大半の日本人は、アッラーへの帰依による価値観の全面的な転換を経験していないのだから――ということになるのだろう。

サラフィー主義では、自由や平等、人権、デモクラシーなどの近代的な価値を認めない

 神についてのこうした極端な(原理主義的な)見解は、自由意志についての深刻な問いを引き起こす。すべてを神が決めているのなら、どれほど理不尽な出来事も運命として受け入れるほかない。欧米の植民地主義も、イスラエルの建国も、ムスリムに対する差別や偏見もすべて「神の意思」であるとするならば、ジハードする必要もなくなってしまう。

 しかしその一方で、クルアーンは侵略者へのジハードを義務とする。ムスリムは自由意志によって、「聖戦」に参加しなければならないのだ。

 そうすると神は、ジハードの機会を与えることで最後の審判の材料を集めているのだろうか。しかし神の全能性によれば、誰がジハードを選び、誰が尻込みするのかもすべて知っているはずだから、けっきょく「起きたことはすべて正しい」という話に逆戻りしてしまう。

 この難問に対して中田氏は、この世界は過去から未来へと連続するものではなく、神が一瞬ごとに創造しているのだという。私たちはすべて、「過去」の記憶を持たされてこの瞬間に生まれ、そして消えていくのだ。

 だがリセットされて消滅する前に、私たちは「自由意志」によってなにかを選択することができる。この選択によって世界は分岐し、「創造→選択→消滅→創造→」の繰り返しによって無数の「現在」が生まれる。中田氏の世界観は、量子力学における多重宇宙論のようなものなのだ。

 これについて、中田氏は次のように書く。

 私が寝ている世界、そもそも、私がいない世界とか、まさに世界が始まってから終わりまでの無数の世界がすべてアッラーの知識の中にあるわけです。その中に、子どものころからのいろいろな無数の私がいるわけです。もう死んでしまっている私もいるかもしれません。さまざまな私が無数にあって、その中にいまの私もいるわけです。すべてが実は同格に存在している。けれども、この、いま私たちが生きているこの世界、選択肢だけが、私一人だけでなく世界中の人にとって、唯一そこで人間が意識を持っている世界である(『イスラーム 生と死と聖戦』)。

 正直のところ、中田氏の「思想」をどのように理解すればいいのか私には判然としない(理解する必要があるのかどうかもわからない)。ただしこの解釈では、9.11やパリ同時テロの犠牲者は無数の世界のひとつでたまたま死んだだけで、それ以外の世界では生きているのだから、「現在」という仮象の出来事を嘆く必要はない、ということになるのだろう。――この説明で遺族がどれほど慰められるかは知らないが。

 私のような凡百の徒には、このような複雑怪奇な立論が必要になるのは、「神による世界の創造」を前提としているからだと思える。この前提を外してしまえば、無数の宇宙で無数の「わたし」が生きているという荒唐無稽な(「宗教的な」ともいえる)お話をする必要もなくなるはずだ。

 ムハンマドは6世紀後半から7世紀前半のひとで、進化論や分子遺伝学、相対性理論や量子力学はもちろん万有引力の法則すら知らなかった。いくら宗教的天才とはいえ、むかしのひと考えたこと(それも、たたかいのなかで味方を叱咤激励するためのとっさの言葉)を現代社会に通用するように“論理的に”語ろうとすれば、このような思考の迷宮にはまりこむのは当然に思えるが、これもまた信仰を知らないものの戯言だろう。

 現代イスラームのなかで、ムハンマドの時代を重視するスンナ派の宗派をサラフィー主義という。これは初期イスラーム(サラフ)の時代に復古すべきだという「原理主義」で、中田氏は自ら認めるようにサラフィー主義者だ。

 サラフィー主義的な立場からは、イスラームは自由や平等、人権、デモクラシーなどの近代的な価値を認めない。これはまさにISが自らの統治下で行なっていることだが、それはIS(およびカリフを名乗るアブー・バクル・バグダーディー)がサラフィー主義の分派(もしくはカルト)だからだ。

『イスラーム 生と死と聖戦』のなかで、中田氏はわずかではあるがISに触れている。それによると中田氏はISに否定的だが、その理由はIS(バグダーティー)がイスラーム法の解釈を狭くとっているからだ。不寛容なシャリーア解釈はイスラームに対する敵愾心を煽り、中田氏が目指すカリフ制再興の障害になる。すなわち、ISの主張はイスラームとして間違っているわけではないが(というよりも、サラフィー主義的には正しいが)、宗教的理想を実現するための戦略が稚拙なのだ。――これはオウム真理教事件のときに、一部の宗教学者が「テロはよくないが、既成仏教に対する麻原の批判は正しい」と述べたこととよく似ている。

 中田氏はきわめて論理的にイスラームを語るが、このような宗教=政治思想が市民社会と共存できるのか、疑問に感じるのは私だけではないだろう。――そして中田氏は、当然のことながら、イスラームと近代的な市民社会は共存できないとこたえるにちがいない。

 だとすれば、世俗的なムスリムや正統派のウラマーがなすべきことは、「テロとイスラームは無関係」と繰り返すことではないだろう。市民社会の疑念を晴らすために必要なのは、中田氏のようなサラフィー主義者の論理を否定する説得力のある反論であるように私には思える。


オスマン帝国の首都、イスタンブール

(追記)
「なぜイスラーム教徒になったのか」との問いに対して、中田氏は、神以外に善悪の基準を決められるものはなく、すべての判断を神(とイスラーム法)にゆだねてしまえば生きるのが楽だからだ、とこたえている。

 近代的な理性では「殺すな」という道徳を説明できない。なぜなら「自由な個人」には、法を犯してひとを殺す「自由」も与えられているのだから(法は事後的に犯罪を処罰することしかできない)。

 しかし私の考えでは、道徳は神なしでも根拠づけることができる。それは単細胞生物からヒトへと至る長い進化の過程のなかで、仲間を殺すこと(無意味な殺人)への嫌悪や禁忌が脳にプログラミングされたからだ。これが「自然法」で、一神教でも多神教でもあらゆる人間集団に「殺すな」という掟があるのは、それがヒトの普遍性(ヒューマンユニヴァーサルズ)だからだ。

 さらにいえば、チンパンジーのような霊長類や、あるいはアリやハチのような社会性昆虫にも、それが進化適応的であるかぎり、「モーゼの律法」がプレインストールされている。なんらかのバグで自然法=道徳に従わない個体が現われても、彼らは子孫を残すことができず遺伝子が死に絶えてしまうのだから。

 近年の進化心理学や脳科学は、「ヒトはなぜ神を信じるのか」も自然科学のフレームで解明しつつある。スピリチュアルセンス(超自然的な因果関係)を感じると、脳は無意識のうちにその感覚を合理化(正当化)しようとする。その結果、無から神という説明原理を「創造」するのだ。――こうした議論に興味のある方は、新刊の『「読まなくてもいい本」の読書案内』を手にとってみてください。


橘 玲(たちばな あきら)

作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、歴史問題、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ『橘玲の中国私論』が絶賛発売中。最新刊は、『「読まなくてもいい本」の読書案内』(筑摩書房刊)●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)
http://diamond.jp/articles/-/82665


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