2. 2015年10月13日 16:39:21
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アラブ 2015年10月13日 岩永尚子 教えて! 尚子先生 エルサレムに複数の宗教の聖地が集まっているのはなぜですか? 【中東・イスラム初級講座・第27回】 イスラム教、キリスト教、ユダヤ教という3大宗教の「聖地」となっているイスラエルのエルサレム。なぜ、複数の宗教が同じところを聖地としているのか? そしてなぜ彼らは争うのか? 中東研究家の尚子先生がわかりやすく解説します。 エルサレムがユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3大一神教の聖地であることはよく知られていますが、なぜ聖地なの?と尋ねられると、正確に答えられる人はひじょうに少ないでしょう。今回はエルサレムの複雑な歴史を簡単に説明しつつ、宗教の難しさを考えてみたいと思います。 イスラエルの首都になれないエルサレム イスラエルが建国されることとなった第一次中東戦争(1948〜49年)の際の休戦協定によって、エルサレムはアラブ人地区の東エルサレム(ヨルダン領、1967年まで)と、イスラエルが占領した西エルサレムに分断されました。そして、イスラエルは1950年、エルサレムを首都として宣言します。これにはアラブ側だけでなく多くの国が反発し、この宣言は国連においても認められませんでした。 イスラエル議会は1980年に、第三次中東戦争(1967年)におけるアラブ側の敗北によって、東西を統一したエルサレムを、あらためて「永遠の首都」として制定しました。しかし、この決定によって大使館や領事館を移動させた国はありませんでした。 つまり、現在にいたるまで、エルサレムはイスラエルの首都として認められてはいません。これは各国の大使館や領事館がエルサレムではなく、テルアビブにおかれていることからも明らかです。最強の後ろ盾であるアメリカですら、いまだに大使館をテルアビブにおいているほどです。 エルサレムにはおそらくユダヤ教徒やイスラム教徒にだけでなく、キリスト教徒にとっても特別な思い入れがあるため、首都として認められないという原則が貫かれているのだとも考えられます。 4つのエリアに分かれるエルサレム旧市街地 ところで、「聖地」エルサレムという場合、通常、エルサレム市全体のことではなく、わずか1キロメートル四方を城壁で囲まれた、旧市街付近を意味していると考えた方がよいでしょう。 旧市街はユダヤ人地区、イスラム教徒(アラブ人)地区、アルメニア人地区、キリスト教徒地区の4つに分かれています(アルメニア人は最初にキリスト教を国教<301年>とした民族で、そののちにイエスが神であるか人であるかという論争において、カトリックやギリシャ正教徒と袂を分かちました)。 キリスト教徒とイスラム教徒の地区は、お土産物屋や安宿でにぎわっていますが(まるで「浅草」のようだと例えた旅行者もいるほどです)、アルメニア人地区とユダヤ人地区はひっそりと静かです。 物価はアラブ人地区がユダヤ人地区にくらべ、5〜10分の1程度になっており、同じ町の中でもまったく違ったムードを漂わせています。物価がこれほどまでに違うのは、アラブ人地区の人々がイスラエル政府への税金の支払いをボイコットしているためです。その代償として、アラブ人地区は都市整備を受けられていないため、ムードだけではなく、町自体のつくりそのものが異なっています。 旧市街地にあるダビデの塔の前には多くのユダヤ教徒が行きかう (Photo:©Alt Invest Com)
アラブ人地区には日常雑貨を扱う商店が並ぶ (Photo:©Alt Invest Com) 三者三様の意味を持つ「聖地」 この旧市街の中に、ユダヤ教徒にとっては「嘆きの壁」が、キリスト教徒にとっては「聖墳墓教会」が、そしてイスラム教徒にとっては「岩のドーム(アル・アクサモスク)」があるために、「聖地」と呼ばれているのです。 左に聖墳墓協会、岩のドーム、そして嘆きの壁と続きく (Photo:©Alt Invest Com) では、それぞれの歴史的建造物がどのような意味を持っているのか、順に説明していきましょう。
ユダヤ教徒にとってのエルサレム エルサレムというとよく取り上げられるのですが、黒い帽子に長い巻き毛を垂らした黒づくめの人たちが、石造りの壁に向かってお祈りを唱えている、あの場所がまさに「嘆きの壁」です(彼らは超正統派と呼ばれ、ユダヤ教を学ぶことを生業としていて、生活費など一切は補助金によって賄われています)。 ユダヤ教徒にとって嘆きの壁とは、二重、三重の意味で宗教的に重要な建築物です。 ユダヤ人の祖先であるとされるアブラハムが神への忠誠を試され、息子イサクを殺すよう神から命じられます。そして、アブラハムが息子を殺そうとした寸前に、神はそれを制止して、アブラハムの神への忠誠がゆるぎないことが明らかとなったという場所が、現在の嘆きの壁がある「丘」であるとされています。そのため、紀元前1000年頃、イスラエルを統一し、エルサレムを首都としたダビデ王が、この丘に神殿を建設したのです。 その後、古代イスラエル王国はバビロニア軍に侵攻されて滅亡し、ユダヤ人はバビロニアに連行されます。滅亡から50年後にユダヤ人たちは帰還を許され、ふたたび同じ場所に神殿を再建しました。 けれども、ユダヤ人たちは新たな為政者であるローマ人に対して2度も反乱を企てたために、神殿は破壊され、ユダヤ人はエルサレムに戻ることが許されませんでした。ようやく紀元3世紀になって、エルサレムに戻ることはできましたが、神殿のある丘への立ち入りは禁じられ、神殿は再建できませんでした。 そのため、ユダヤ人たちは神殿の丘に廃墟のまま残されていた壁に向かって立ち、神殿が失われたことを「嘆き」つつ祈りをささげました。このことから壁が信仰の中心となり、「嘆きの壁」として知られるようになったのです。 キリスト教徒にとってのエルサレム この嘆きの壁から北西に500メートルほどの地点に、イエスキリストが処刑されて亡くなった場所に建設されたという「聖墳墓教会」があります。 キリスト教は313年にローマの国教となりましたが、320年頃にコンスタンティヌス帝の母がエルサレムの巡礼を行なったために、エルサレムは「聖地」として見直されたのです。そのため、聖墳墓教会もこの頃に建設されたといわれています。 聖墳墓教会の中には、イエスキリストの遺体が横たえられたという石や棺、お墓があります(遺体は「復活」したため存在していないとされています)。そして、イエスキリストが十字架を背負わされて歩いたとされる道が、悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)です。この道はイスラム教徒地区を東西に横切るかたちで存在しており、キリスト教徒はこの道をたどって聖墳墓教会へと向かいます。 観光客であふれる聖墳墓教会 (Photo:©Alt Invest Com) キリスト教には多様な宗派がありますが、イエスキリストのお墓のある聖墳墓教会はすべての宗派のキリスト教にとって、ひじょうに重要だと考えられています。皆がその重要性をみとめているために、聖墳墓教会についてはひじょうに細かい決まりごとがあり、その規則は「ステイタス・クオ(現状維持)」問題と呼ばれています。
この決まりごとは1852年から現在に至るまで、まったく変化していないままだといわれています。たとえば、多数の宗派がひしめき合っているために、聖墳墓教会でシリア正教会が礼拝ができるのは祝日のみとか、アルメニア正教徒が礼拝してよいのは教会正面の右側のみなどと決まっているのだそうです。 そのほかにもこの柱を磨いてよいのはギリシャ正教徒で、あの梁はカトリックだけといった具合に、掃除や用具の配置にいたるまで、他宗教のものにとっては信じ難いほどの細やかな規則があるそうです。 キリストが横たえられたといわれる石に跪くひとびと (Photo:©Alt Invest Com) こうした細かな規則をめぐって、1984年にはベツレヘムの生誕教会で、東方正教とアルメニア正教の修道士が、梁の掃除をめぐって殴り合いになったそうです。2008年にもギリシャ正教とアルメニア正教の修道士たちが、まさにこの聖墳墓教会内において、乱闘するという事件も発生しました。
もちろん、同じ宗教の中だけで諍いが起きているわけではありません。エルサレムをめぐる戦いとしては、絶えずつづいているといっても過言ではありません。 ユダヤ教の次にやってきたのはキリスト教で、さらにその後の638年にはイスラム教徒がエルサレムを占領しました。けれども、十字軍によって1098年にはキリスト教徒が再度エルサレムを奪います。 この時にエルサレムに居住していたユダヤ教徒とイスラム教徒のほとんどが殺害され、両宗教の人々は居住を許されませんでした。ですが1239年には再度、エルサレムはイスラム教徒に占領されることとなります。 イスラム教徒にとってのエルサレム では、イスラム教徒にとっては、なぜエルサレムが重要なのでしょうか? そもそもこの3大宗教は姉妹宗教と考えられており、神の呼び方は異なるものの三者ともに同じ神を信仰しています。ユダヤ教がユダヤ民族だけの民族宗教であったのに対し、キリスト教はユダヤ教の改革(刷新)運動として登場しました。この改革によってユダヤ教はキリスト教となり、世界宗教へと変化します。 さらに、イスラム教ではユダヤ教のモーゼもイエスキリストも預言者であると認めたうえで、ムハンマドが最後の預言者であり、イスラム教こそが2つの宗教を完全な形にした最終形であるとします。 ですから、イスラム教ではユダヤ教のアブラハムが、最初の「イスラム教徒」であるイブラヒムとして登場しています。そのため、当然、イスラム教徒にとってもエルサレムも重要な土地となります。 現在ではイスラム教徒はメッカの方角を向いて祈りを捧げますが、メッカが選ばれる以前は、祈りはエルサレムに向けてささげられていたほどです(のちに礼拝の方向は神の命によりメッカに変更されます。変更の理由は神が命じたためであり、理由を問うべきではないとされています)。 そして、アブラハムが息子を殺そうとした場所(岩)は、イスラム教にとっては違う理由で重要なのです。ムハンマドが天使ガブリエルによってメッカから一夜にしてエルサレムのモスク(神殿)にやってきて、そのモスクにある岩から天馬に乗って神の御前に至ったという一説がコーランにあるためです。 この岩にはムハンマドがつけた足跡があるとされ、この岩を中心に「岩のドーム」がめぐらされ、その横にアル・アクサモスク(アラビア語で遠隔のモスクという意味)が建設されているのです。 ですが、このムハンマドの足跡については、十字軍がエルサレムを占領していた11世紀には、「キリストの足跡」とされ、岩のドームはキリスト教の礼拝所として、モスクは王の宮殿として転用されていたといいます。また、この岩のドームとアル・アクサモスクはユダヤの神殿の上に建設されているために、嘆きの壁を共有するような形になっており、イスラム教徒とユダヤ教徒の最も熾烈な対立の場となっているのです。 比較的最近の争いとしては、2009年にアル・アクサモスクにイスラエルのシャロン外相が武装した側近1000名を伴って乗り込んだことから始まり、パレスチナ人との全面的衝突へと発展した第二次インティファーダ(民衆蜂起)があります。この対立によって1000名とも2000名ともいわれる犠牲者がでました。 そもそも、旧市街地にあるすべての宗教的・歴史的建造物が、本当にエルサレムにあるべきであったのかについての確証はありません。つまり、アブラハムが息子を殺そうとした場所についても諸説あり、イエスキリストが亡くなったのも本当に聖墳墓教会の建設された場所であったのかについてもわかってはいません。 もちろん、イスラム教の場合にも同じことが当てはまります。これらの3つの宗教以外の人々にとって、そしてたとえ3つの宗教を信じていたとしても熱烈な信仰心のない人々にとっては、聖地の持つ重要性はいまひとつピンとこないというのが本当のところではないでしょうか。 オリーブ山から眺めた岩のドーム (Photo:©Alt Invest Com) 増え続ける超正統派ユダヤ教徒
これはエルサレムに居住していた「熱狂的ではない」ユダヤ教徒(ユダヤ人)にも当てはまっていたようです。旧市街だけでなくエルサレム市に居住していたいわゆる「普通」のユダヤ人たちも、パレスチナ人との騒乱に巻き込まれたくないために、エルサレム市を去る人が多数現れたのでした。 さらにエルサレム市から近郊の市や町へ移る経済的理由もありました。熱狂的なユダヤ教徒(超正統派)には、納税の義務も兵役の義務もありません(兵役については法律改正の予定です)。エルサレムにこうした超正統派の人々が増え続け、ユダヤ人の人口の3分の1を占めるほどとなっていました。 超正統派の増加により、エルサレム市の財政は圧迫され、普通のユダヤ人たちが彼らの生活を支えるために、高い税金を払わなくてはならないという状況に陥っていました。 ユダヤ人地区は静寂が漂う (Photo:©Alt Invest Com) 人口流出がなぜそんなに問題になるのかというと、この問題はたんなる「移転・転居」の問題として片づけられるものではないというイスラエルの特殊事情があるためです。
人口流出を食い止めなければ、エルサレム市全体では、人口増加率の高い、旧東エルサレムに住むアラブ人の割合が高くなってしまいかねないためです。イスラエル政府としてはエルサレムが「永久の首都」であることを証明すべく、この事態だけは阻止しなければならないと考えたようです。 政府はイスラエル人の多い近隣の町を吸収合併して、エルサレム市の境界線を変えたり、入植者を増やし(オスロ合意違反)、アラブ人の住居を破壊したりと、あらゆる手段を使ってユダヤ人の割合維持・増加に努めています。さらに、他の地域からのパレスチナ人の流入を防ぐべく、パレスチナ人の多い地区を悪名高い「分離壁(アパルトヘイトウォール)」で覆い、他の西岸地区と分断してしまいました。 一方、エルサレム市の高い税金と騒乱から逃げ出した普通のユダヤ人たちも、たまったものではありません。逃げ切ったと思ったのは束の間、彼らはまたエルサレム市民に逆戻りになってしまったのでした。 一向に解決に向かわない「聖地」エルサレム問題 実は、エルサレム問題はこれまで解決に向かったことはありませんでした。1994年のオスロ合意によって両者の関係が良好であったわずか数年間の間でも、その帰属と管理、つまり聖地を誰が管理するのか、そしてそれはどちら側のものなのかという問題は、他のすべての問題が解決した後に話し合う問題(最終地位交渉の一つ)として棚上げされたままでした。つまり、この時期でさえ、エルサレムについては、まったく何も決まっていなかったのでした。 このように、「エルサレムこそがまさに聖地である」と信じる人々にとっては、聖地はひじょうに重要な場所なのでしょう。熱烈な信者であれば、それは新たな血を流してでも守るべき場所なのでしょう。このことはエルサレムの丘が、アブラハムが息子を生贄にささげた丘であると想定された紀元前の昔から、2,000年間以上も続く争いからも明らかでしょう。けれども、そうでない者にとって「聖地」は複雑で不可解、かつ理解しがたい問題のままなのかもしれません。 (文:岩永尚子) 著者紹介:岩永尚子(いわなが・なおこ) 日本では珍しい女性中東研究家。津田塾大学博士課程 単位取得退学。在学中に在ヨルダン日本大使館にて勤務。その後も専門のヨルダン教育現場のフィールドワークのために、スーツケースを抱えて現地を駆け回 る。2012年まで母校にて非常勤講師として「中東の政治と経済」を担当。現在は名古屋にて子育て奮闘中。「海外投資を楽しむ会」最初期からのメンバーで もある。 http://diamond.jp/articles/-/79610 |