渡部良三著『歌集 小さな抵抗−殺戮を拒んだ日本兵−』
私たちは、日中戦争時の日本軍による住民虐殺や人体実験等の戦争犯罪について、戦後30年たったころ、本多勝一の『中国の旅』(1972年刊)や森村誠一の『悪魔の飽食』(81年刊)などを通して、広く知るようになりました。また武田泰淳は戦後すぐに、日本人兵士による、無抵抗な中国人老人に対する「不必要な殺人」をテーマにした小説(『審判』47年)を発表し、日本人の戦争犯罪に対する痛烈な自己批判を試みました。
これらはいずれも、加害者や被害者への取材をもとに、第三者によって書かれたものでした。しかし、『歌集 小さな抵抗−殺戮を拒んだ日本兵−』(岩波現代文庫 2011年刊)は、著者である渡部良三氏が、みずからの軍体験を密かに短歌に詠み、メモを軍服に縫い込んで持ち帰った、極めて貴重な記録です。冒頭章の「捕虜虐殺」(100首)を紹介します。
著者は、大学在学中に学徒出陣で中国河北省の駐屯部隊に配属され、陸軍二等兵として新兵教育を受けました。そこで直面したのが、捕虜虐殺でした。新兵に度胸をつけさせるためとして、中国共産党第八路軍(「八路」パロ)の捕虜5名を、新兵48名で虐殺させました。
朝飯を食みつつ助教は諭したり「捕虜突殺し肝玉をもて」 あさいいを はみつつ・・・
刺し殺す捕虜の数など案ずるな言葉みじかし「ましくらに突け」
まず教官が、模範を示します。
「刺突の模範俺が示す」と結びたる訓示に息をのみぬ兵等は
ひと突きしゆるゆるきびすをかえしつつ笑まえる将の血に色ありや えまえる
人殺し笑まいつくろう教官の親族おもえば背の冷え来ぬ うからおもえば
捕虜を突き刺した後、笑いながら戻ってくる教官。一方、捕虜となった八路軍兵士は、笑みつつ刑台に向かいます。決定的に異質な「笑い」が、交差します。
憎しみもいかりも見せず穏やかに生命も乞わず八路死なむとす
徒らに剣おびたるつわものに八路の笑まいの澄むもむなしよ
捕虜虐殺の現場を、地元の中国人たちが、遠巻きに見ています。そして、そのなかから、ひとりの女が、近づいてきました。
纏足の女は捕虜のいのち乞えり母ごなるらし地にひれふして
生命乞う母ごの叫び消えしとき凛と響きぬ捕虜の「没有法子!」メイファーズ(仕方がない)
教官の刺突命令に従順に、戦友たちは、捕虜を虐殺しつづけた。
刺突せし戦友はいくたり刑台の捕虜の便衣は血を垂る襤褸 らんる(ぼろのこと)
あらがわず否まず戦友ら演習に藁人形を刺す如く突く
渡部二等兵の順番が、迫ってきます。殺人をしなければならないという現実を前に、どうしてよいのかわからないといった情況に、追い込まれました。ついに、殺人専用の銃剣を手渡されました。
血と人膏まじり合いたる臭いする刺突銃はいま我が手に渡る ちとあぶら
いかがなる理にことよせて演習に罪明からぬ捕虜虐殺するとや
ぎりぎりのところで、キリスト者であり反戦論者であった父の、別れの際の言葉を思い出しました。「神を忘れるな」。捕虜虐殺を、宗教的理由により、拒絶します。
「殺す勿れ」そのみおしえをしかと踏み御旨に寄らむ惑いことなく
祈れども踏むべき道は唯ひとつ殺さぬことと心決めたり
虐殺されし八路と共にこの穴に果つるともよし殺すものかや
捕虜虐殺を拒否。上官や戦友たちは衝撃を受けます。
「捕虜殺すは天皇の命令」の大音声眼するどき教官は立つ すめらぎのめい
新兵ひとり刺突拒めば戦友らみな息をのみたり吐くものもあり
縛らるる捕虜も殺せぬ意気地なし国賊なりとつばをあびさる
しかし、虐殺は中止させられることなく、つづきました。
「次」「次」のうながし続き新兵の手をうつりゆく刺突銃はも
塚穴のまわりは血の海四人目がひかれて来て虐殺なお止まぬなり
新兵らみな殺人に馴れてきたるらし徐ろなれど気合い強まる
渡部二等兵による捕虜虐殺拒否の情報は、中国人たちの耳にも入ります
炊事苦力ゆき交いざまに殺さぬは大人なりとぞ声細め言う クーリー、たいじん
むごき殺し拒める新兵の知れたるや「渡部」を呼ぶ声のふえつ とうべえ
小さき村の辻をし行けばもの言わず梨さしいだす老にめぐりぬ
村人のまなざし温しいと小さきわがなしたるを誹ることなく ぬくしい、そしる
以上が、『歌集』冒頭の「捕虜虐殺」の章です(最後の4首は後章から)。表現は「短歌」という形式をとっていますが、捕虜虐殺の実態が赤裸々に描かれ、戦友や教官たちの心の動きも的確に捉えられ、また、中国人たちの無言で抵抗する姿を、垣間見ることができます。短歌による稀有な歴史証言の書といえます。
このあと、八路軍の女性スパイに対する「拷問見学」の命令が下ります。そして、虐殺拒否に対するリアクションは、軍法会議による処罰ではなく、上官による陰湿なリンチへとすすみます。著者は、それぞれ拷問と私刑についても、詳細に短歌として詠いつづけました。今日敗戦の日、これらを含めた700首にのぼる稀有な歴史証言に、静かに耳を傾けたい。
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http://hide20.web.fc2.com/burogu3.html#36
陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて
次の如く談話し、教育したというものである。
「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には
初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」
「此には銃殺より刺殺が効果的である」
上記のような訓練が常態化していたと思われるが、当時初年兵として実際に中国人の捕虜刺突を命ぜられた土屋芳
雄氏(後に憲兵となる)の証言を「聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)から抜粋する。
鬼になる洗礼−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
らさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や
中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男
たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示
した。男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)
が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。内地からきた
ばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。
どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だ
ナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。
ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立
ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀
を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来
ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷
つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何
人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土
屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられ
た。 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。
・・・
「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった
刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもし
ていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。
目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、
後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の
言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手
の目もそうだった。
恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・
以上、「刺突訓練」部分引用終了。
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