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「私を殺して!」 知花くららの祖父が生き残った沖縄戦〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150815-00000005-sasahi-soci
週刊朝日 2015年8月21日号より抜粋
モデルで国連WFP日本大使の知花くららさん(33)は沖縄出身。那覇市に住む祖父、中村茂さん(86)は、沖縄戦での集団自決の生き残り。これまで沖縄戦のことを、祖父になかなか聞けなかったという知花さん。戦後70年の今年、当時の詳細なできごとや祖父の思いをじっくりと聞いた。
* * *
1944年9月、沖縄・慶良間(けらま)諸島の慶留間島(げるまじま)の北部に日本軍が駐屯するようになった。兵舎造りや食料調達など、兵隊がしっかり戦えるようにと住民も心をこめて協力した。「いざとなったら、自分たちを守ってくれるはずだ」。日本の勝利をみじんも疑わずにいた。国を守るためにやって来た兵隊が、勇ましく見えたという。
当時、長女の八重子おばは日本軍のための食料調達や農作業などを手伝っていた。私が幼い頃、八重子おばが、「兵隊さんたちと、楽しく故郷のお話したこともあったわ」と、懐かしそうに語っていた。戦場となる前の、人間らしい、あたたかい交流だったのだろう。これから待ち受ける地獄を、誰も想像することなどできなかった。
翌45年3月26日、沖縄戦の始まりは、米軍の慶留間島上陸だった。祖父は港に無数の黒い艦隊が押し寄せているのを見た。
「鬼畜米英に捕まれば、女は強姦され、男は引きずり回されて殺される。捕虜になるのは恥」
住民はそう教えられていた。
3姉弟を含め15人ほどの村人が森で身を隠すように集まっていたが、米軍の攻撃が激しくなり、みんな逃げて散り散りになった。ふと気付くと、長女とはぐれ、祖父は次女と数人の村人と一緒だった。そして、自決のために、島の北西にあるサーバル近くの壕(ごう)へ。他の人はとっくに殺されて、残っているのは自分たちだけだと思い込んだ。
「私を殺して!」
次女は、弟の祖父にそうせがんだという。祖父が次女の細い首をひもで絞め、自分も一緒にと自らの首も絞めた。だが、失敗。次女は苦しさから指でひもを必死に緩め、そしてまた叫んだ。
「茂、お願い! まだ私は死んでないよ! 早く殺して!」
何度やってもうまくいかず、そのうち二人の瞼(まぶた)は真っ赤に腫れ上がり、首は皮がむけ、赤黒いあざがついた。ふらふらと次の死に場所を探しさまよっていると、途中で長女の八重子と再会。3姉弟が島の西側を占める森の山頂であるウンザガーラにたどり着いた。そこでは悲惨な光景が広がっていた。
生まれて数カ月ほどしかたたない祖父の叔父の子どもである赤ん坊が、木の枝にぶらさがっていた。その下には、叔父と叔母、そして4人の娘がうずくまるようにして、死んでいた。祖父は言う。
「でも、それを見ても、かわいそうだなんて思わなかったよ。早く死ねてよかったねえ、って心から思ったさー」
確実に死ぬために、祖父は、日本兵のところへ手投げ弾をもらいに行くことにしたという。
「そこにはもう日本兵は誰もおらんかった。先に逃げとったんじゃなあ」
頬をなでながら、遠い目をする祖父。いつもの笑顔は消えている。
そして、銃弾や砲撃から逃れ、手ぶらで森に戻ってきた祖父たちは、「最後にみんなで首をくくっていっせいに死のう」。布切れや葉っぱや腰ひもなどをかき集め、それぞれが木にくくりつけた。首を輪にかけて、いざ、死へのかけ声。けれど、
「ちょっと待って、待って、まだよ」
一人は足を滑らせたり、一人は木の枝が折れたり。なかなかうまくいかなかった。もう一度、もう一度……。死への号令を繰り返しているうちに、そのうち、皆が死ぬことに疲れ果ててしまった。このまま鬼畜米英に捕まるのか──。心は、地獄をさまよっていた。
ふと、向こうで大きな声がした。先に捕虜になった村人の声だった。
「みんなは生きているんだよ!」
聞けば、米軍の捕虜になったという。祖父たちが山を下りると、死んだと思っていた人たちはまだ生きていた。米軍は、チョコレートや缶詰、たばこ、何でも持っていた。
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