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戦時中の飛行時間は、約8000時間を記録した〔PHOTO〕gettyimages
【戦後70年特別企画】 いまも仲間たちの「最期の姿」が忘れられない…… 98歳の元ゼロ戦パイロット「命の授業」が泣ける
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44499
2015年08月08日(土) 週刊現代 :現代ビジネス
安倍晋三内閣が提出した安全保障関連法案が、衆議院特別委員会で強行採決された日。70回目の終戦記念日を前に、最高齢の「元ゼロ戦パイロット」が、言葉を振り絞って「命の大切さ」を説いた。
■ゼロ戦との出会い
真珠湾攻撃からゼロ戦に乗り、数々の戦場を経験した98歳の原田要氏。戦時中の負傷の後遺症もあり、歩くには杖が必要だが、往時について語り出すと目に力が戻る。戦後は地元・長野市で幼稚園を経営し余生を過ごしていたが、あることを契機に自身の体験を語り継ぐ必要を感じ、講演会などで全国を駆け回る「語り部」となった。
私たちは、子供の頃、戦場で兵隊が死ぬ時には「大日本帝国バンザイ」、「天皇陛下バンザイ」と言うと教わりました。しかし、実際の戦場でそんな人はいなかった。最期はみんな「おっかさん」、そう叫ぶのです。戦争で母親の存在ぐらい大きいものはないのです。
私が戦争体験を語り始めたのは、湾岸戦争がきっかけでした。テレビでミサイルが撃ち込まれるのを見た若い人たちが「花火のようでキレイ」と言っていた。ミサイルが落ちるところには一番弱い人々がいて犠牲になっている。そのことに思いが至らなくなっていると感じたのです。
昭和12(1937)年に海軍の第35期操縦練習生を首席で卒業後、支那事変で出撃したのが最初です。その4年後、昭和16(1941)年の9月に航空母艦「蒼龍」への乗艦を命じられ、大分県の佐伯航空隊で初めて30機ほどズラッと並んだゼロ戦と出会いました。
大きく、風格を持った機体で、早速、飛んでみたら実に素晴らしい。これに乗れるのは男冥利に尽きる、ゼロ戦の誕生で日本はどこの国と戦っても負けないんだ、という実感を持ちました。
■真珠湾で上空哨戒
空母での訓練を2ヵ月ほどこなしたある日、艦に防寒装備が施されていて、針路は北に取られていました。
「ソ連と戦争するのかな」
そう仲間と話していたんですが、択捉島の単冠湾に着いた時に、真珠湾を攻撃すると明かされました。ですが、私の役割は、艦隊の上空哨戒。納得がいかず、上官に攻撃隊に加えてくれとねじ込んだのですが、艦隊防衛のほうが大切だと返され引き下がったのです。
当日は3回上空哨戒をしたけれども、幸い敵が来ない。そのうち第1次攻撃隊が帰ってくる。「戦艦を沈めました」、「巡洋艦、輸送船、みんなひっくり返って軍港が火の海になりました」というような報告があった。艦に残ったみんなが「バンザイ、バンザイ」とまるで戦争に勝ったかのような雰囲気です。
それでも、「航空母艦はいくついた?」と聞いたら、「あれっ、ひとつもいなかった」と。
えらいことだなあ、バンザイもないもんだ。近い将来、必ず米国の空母が出てくる。そう思うと、私は祝いの酒を飲む気にはなれませんでした。
■空中戦では敵の表情までわかる
真珠湾攻撃では、第2次攻撃隊のゼロ戦1機がはぐれてしまいました。出撃前に、自分の位置が分からないなら、誘導電波を艦隊に要求し、電波に乗って帰れることになっていた。
しかし、電信員は「電波を要求しているが出せない」と言う。「ひどいじゃないか」と詰め寄ると「敵の攻撃隊が電波に乗ってきたら、元も子もなくなってしまう」と言うのです。大を生かすために小を犠牲にする、戦争というものの無慈悲を、その時に感じましたね。
真珠湾の後は、セイロン島(現・スリランカ)にあった英国軍基地の攻撃に向かいました。敵はホーカー・ハリケーン数十機の大編隊です。私たちは六十数機で飛んでいた。すると敵機が上空から襲ってきて、一撃で逃げようとする。どうにかして敵機に追いつき、撃墜するんです。
空中戦では、確実に機銃を相手に当てるため、時には十数mほどにまで接近するので、敵の表情まで分かるのです。追い詰められると、敵のパイロットは「もうやめてくれ」という顔をする。身振りでもおびえているのが分かりました。でも、撃たなければ次は自分が撃たれるから、撃つしかないんです。
戦後、講演会で「敵の飛行機を落としたときは気持ちがいいでしょう」と聞かれたこともありますが、とんでもない。ちっとも気持ちなんかよくありません。
まず、自分が落とされないで助かったとホッとする安堵感。次に、技術が相手よりも上だった優越感。このふたつの気持ちが頭の中をサッとかすめる。
その後、撃墜した相手への思いが浮かびます。相手を撃ち落として気持ちいいはずがない。相手を殺さなければ自分が殺される、極限の状況だからこそ罪も憎しみもない同じ人間にとどめを刺すのです。
実は、この空戦で仲間とはぐれ、同じく迷子になった若いパイロットとともに、艦隊を探して洋上をさまよいました。
水平線の彼方には千切れ雲しかない。燃料はゼロに近い。すると雲の中に母親の顔が出てきたんです。輪郭が似てるな、そう思ったら目鼻が見えてくる。その雲がこっちへ来い、こっちへ来いと呼んでる。その時は、おっかさんのほうへ飛んで行って、ダメだったら自爆をすると決めた。
そうしたら一緒に飛んでいた僚機が急降下したんです。その先に艦隊がいた。私も蒼龍に着艦して格納庫へ降りるリフトまで行ったところで、燃料が切れた。間一髪でした。
■ミッドウェー海戦を生き残る
日米が空母を総動員して洋上決戦に臨んだミッドウェー海戦では、私はゼロ戦で迫り来る雷撃機を撃退していました。
艦隊の攻撃目標がミッドウェー島、空母と二転三転し、そのたびに付け替えた魚雷や爆弾が飛行甲板にゴロゴロ。そこへ米軍の急降下爆撃機が襲ってきたのです。赤城、加賀、蒼龍の3隻がダメになり、残った飛龍に着艦せざるを得ませんでした。
着艦して2時間ぐらいしたら、ゼロ戦を1機飛べるよう整備できたと報告があった。私が乗り込んで発艦した直後に爆弾が落ち、飛龍も使えなくなりました。
1機だけで艦隊を守り続け、夜になって着水。機体から脱出して海に浮かんでいると、周りで浮いている兵士が「オレは諦めた」と言ってピストルで頭を撃った。沈んでいく者もいる。自然に死ぬのを待とうと目をつぶっていたら、また母親が出てきた。「おっかさん」と呼んで目を開けると、スッと消える。何度か「おっかさん」と呼んだ時に、駆逐艦が目の前に来て救助されました。
しかし、駆逐艦の甲板は、手や足を失った兵士や顔が黒こげになった兵士で埋め尽くされ、地獄のようでした。治療のために近寄ってきた医官に、「私はなんともないから、苦しんでいる人を診てください」と言うと「何を言ってる。君のように少し手当てをすれば戦える人間から治療する。ここは最前線なんだ」と返され、愕然としました。
ミッドウェー海戦から戻り、どこへ行ったと思います? 大本営が惨敗を勝ち戦のように発表したので、嘘がバレないよう生き残ったパイロットは鹿児島県の収容所のような基地に幽閉されたのです。
■子供たちに伝えたいこと
1ヵ月後に空母「飛鷹」への乗艦を命じられ、再び最前線へ戻りました。ガダルカナル島の攻略戦では、グラマンに撃たれて左腕に卵大の穴が空き、ジャングルに不時着。命からがら日本軍の特殊潜航艇の基地にたどり着き、また奇跡的に一命を取り留めたのです。
その後、内地に戻った私は、北海道の千歳基地でロケット戦闘機「秋水」の搭乗員養成教官として終戦を迎えました。
戦後は公職追放に遭い、職を求めるのにも苦労しましたが、地元の自治会長になったのがキッカケで、幼稚園の理事長に就任することになった。戦争では死ぬような目に何度も遭いながらこの年まで生きてきて、人の寿命なんて分からないものだと、つくづく思います。
94歳で引退するまで、園の子供たちには物を大切にすることが自分の命を守ることに繋がるんだよ、と教えてきました。
私は自分の一生を日本のために捧げるつもりで、17歳から海軍に奉公しました。しかし、実際に戦争を経験して、戦争ほど憎いものはないと思うようになりました。本当は思い出すのも嫌だけど、このありがたい平和は自然にできたわけではない。多くの犠牲の上に成り立っていると伝え、平和を永遠に守っていくことが、残った我々の務めではないでしょうか。
(構成/半田滋・東京新聞論説兼編集委員)
「週刊現代」2015年8月8日号より
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