1. 2015年8月06日 06:55:37
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【第2回】 2015年8月6日 ダイヤモンド・オンライン編集部 原爆投下直後の焼け野原で保険金支払いに 奔走した、第一生命広島支社長の気概第一生命広島支社とそれを率いた支社長が、原爆投下直後の広島で、絶望の淵にいた市民たちに一筋の光を与えたエピソードとは? 日比谷通りを挟んで皇居と向き合うDNタワー21に、第一生命保険の本社がある。この建物の前身となる第一生命館は、日本の戦後史を象徴する場所だ。1945年9月から1952年7月まで、6年10ヵ月にわたって、あのGHQ(占領軍最高司令部)の本部が置かれていたのだ。 GHQの申し出により、日本政府から第一生命に第一生命館の接収命令が出されたのが1945年9月10日。以来、当時の第一生命社長・石坂泰三氏が使っていた6階の社長室は、マッカーサー元帥の部屋となった。GHQによる接収後、同じく6階にある大会議室には民生局が置かれ、ここでは日本国憲法の草案が作成されている。まさに戦後日本の「国の形」が、かつての第一生命館で決められたのである。 ここまでは、よく知られている話だろう。実は最近になり、終戦直後の第一生命について、新たに興味深いエピソードが語られ始めたことを、ご存じだろうか。それは、第一生命広島支社とそれを率いた支社長が、原爆投下直後の広島で、絶望の淵にいた市民たちに一筋の光を与えたエピソードである。今回は彼らの「気概」を紹介し、戦後70年の今、我々日本人が胸に刻むべきことを考えたい。 絶望の淵にいた市民に光を与えた 第一生命広島支社の「保険金支払い」 第一生命にGHQの本部が置かれて以降、石坂泰三社長が使っていた6階の社長室は、マッカーサー元帥の執務室となった。旧社長室は当時の姿のまま保存されている。写真は当時マッカーサーが使用していた革張りの椅子。現在、この部屋は非公開 1945年8月6日、人類史上初の原子爆弾が広島に投下された。人や建物は紅蓮の炎に包まれ、焼き尽くされ、広島は一瞬にして廃墟となった。当時広島市の中心部にあった第一生命の広島支社も、甚大な被害を被った。しかし、かつて誰も経験したことのない混乱の直後から、第一生命広島支社はいち早く市内に仮設事務所を設置し、市内の生命保険の契約者を対象に、保険金の支払い業務を開始したというのだ。驚くことに、それは終戦の玉音放送が全国に流れた8月15日前後と、原爆投下から10日も経たない時期だったという。
保険金支払いの指揮を執ったのは、当時の第一生命広島支社長・菊島奕仙(えきせん)という人物だった。爆風により、建物と建物内にある全ての書類が失われてしまったものの、一部の契約関係の重要書類は他所へ疎開させていたため消失・紛失を免れたこと、被爆後も広島市内を拠点とする一定数の職員が存在していたことという、いくつかの幸運が支払い業務を可能にした。 興味深いのはその中身だ。彼らの対応は、死亡証明書や保険証書がなくても、仮設事務所を訪れた契約者に請求された通りの保険金を、署名と拇印のみで無制限に支払うという、大胆なものだった。また、支社の建物自体が焼失し、現金・小切手が手元になかったため、一般の領収書を小切手の代用として保険金を支払っていた。 これは日本銀行広島支店において、市内各銀行が預金通帳などがなくとも、預金支払い業務を8月10日から開始していたことに触発されたものだとも考えられる。第一生命広島支社で代用小切手を受け取った契約者たちは、少なくとも銀行が通常業務に復していった9月には現金化して、命をつなぐことができたはずだ。 結果として、原爆投下後の約10ヵ月間において、判明しているだけでも3233件の保険金が契約者に支払われたという。これは、2011年に発生した東日本大震災のときの保険金支払い件数1300件を、大きく上回るものだった。 調査によると、広島市内に支社・支店がある保険会社のうち、原爆投下直後に広島市内で保険金の支払い活動を行ったのは第一生命だけであった可能性が、非常に高いという。また、後に支払われた保険金の請求内容と第一生命社内の管理簿を照らし合わせた結果、ほとんど相違がなかったそうだ。家族や同僚を原爆で失った直後の極限状態にありながらも、生命保険マンの使命を全うしようとした広島支社の職員たちの気概もさることながら、保険金を受け取る側の契約者の道徳観も非常に高かったことがうかがわれる。 広島支社長・菊島奕仙が 極限状態で下した決断とは? 原爆投下時の第一生命広島支社長・菊島奕仙(前列右から3人目)。1899〜1978年。1927年1月水戸支部の主事補として第一生命に入社。長崎支部長、山口支部長(支部は当時の支社)などを歴任し、1940年広島支社長に就任。戦後は神戸支社長、大阪支社長、調査役を務め、1965年まで同社に在籍。広島支社長時代から実父の跡を継ぎ、550年の歴史を持つ山梨県甲州市塩山の曹洞宗寺院・法幢院の住職も務めた(ただし、同寺院に在住したことはない) そもそもこのエピソードが表に出るきっかけとなったのは、2013年に行われた第一生命広島支社の創立100周年記念式典において、渡邉光一郎社長が、広島支社の次長職にあった人物の手による社内報の記事に書かれていた証言を引き合いに出したことによる。渡邊社長は、「人類の歴史に刻まれる悲劇と困難に直面しても、お客様第一主義を貫こうとする先輩方による信用の植林があって、今の自分たちがいると痛感した」と語った。
しかし式典の当時、社内報からわかる情報は限られており、他には社史に広島・長崎での支払い件数と支払額が掲載されているだけだった。この式典での社長発言に心を打たれた第一生命経済研究所 経営環境研究部の河谷善夫・部長兼研究理事は、「もっと真実が知りたい。この事跡を詳しく調査し、後々に記録しておかなくてはいけない」と感じ、以後、この内容を裏付ける証言や情報探しに奔走することとなる。 河谷氏は調査を開始してから、新たな資料を通じて当時の広島支社の活動の様子を知ることに成功し、2014年5月に「中間報告」としてまとめた。前述した保険金支払いのエピソードは、このときの調査で判明したものだ。 しかし、疑問は残った。当時支払い業務の指揮を執った広島支社長・菊島奕仙は、なぜ極限状態の下で支払い業務を断行できたのか、ということだ。河谷氏が中間報告を行った時点でも、菊島氏に関して、その詳しい経歴、原爆投下時の所在や行動の詳細、支払い業務の実態、その後の動静などについては、ほとんど不明のままだった。 支払い業務の旗振り役だった菊川氏の当時の思いや行動をつまびらかにすることなく、このエピソードが持つ真の教訓は語れない――。河谷氏は、その後も関係者や関係各部門の協力を仰ぎながら、独自調査を進めて現在に至る。方々の資料を丹念に調べ、時には当時の広島支社の状況を知る存命中の関係者を探して、ヒアリングを行った。疑問の多くは、河谷氏が中間報告後に改めて行った調査で判明した。それはいかなる内容だったのか、紹介していこう。 辛くも難を逃れたものの町は焼け野原 惨劇から立ち直り保険金支払いを開始 第一生命広島支社は、もともと広島市播磨屋町に社屋を構えていたが、原爆投下後は社屋焼失のため、支社事務所を一時西蟹屋町(倉庫会社内)に移転。その後1945年9月に支社事務所を佐伯郡廿日市町に移転した。菊島氏は1899年12月に生まれ、第一生命には1927年1月に入社。1940年に広島支社長に就任している。 そもそも菊島氏が、原爆投下時に被害に遭わなかったのは何故なのだろう。被爆当時、播磨屋町の支社は爆心地から500m強程度の場所にあった。広島県史によれば、爆心から1km以内では被爆後の温度が摂氏1800度以上になったとされている。播磨屋町は建物損壊率100%、人の死亡率100%とされたエリアだ。つまり、原爆投下時に菊島氏が支社にいたとしたら、生き残った可能性はゼロであり、当時は支社にいなかったことが確実と考えられる。 実は菊島氏は、戦災から逃れるために支社の疎開先を求めて準備中であり、原爆投下直前には県下の安全な場所に分室を作ろうとしていたようだ。そのため原爆投下時は市内におらず、広島市から約100Km西方にある福山市近辺にいた可能性が高かった。原爆投下を知り、4日ほどかけて8月10日に広島市内の富士見町の実家にたどり着き、家族が犠牲になったことを知る。菊島氏の一家のうち5人が死亡するという惨状だった。 そんな混沌とした状況下で、保険金支払いなど可能だったのだろうか。菊島氏は、家族や多くの部下を失った悲しみで茫然自失となっていたはずだ。しかし、その精神力の強さ、業務遂行に対する熱意は並々ならぬものだった。 8月中旬には広島市西部の己斐(現西広島)に事務所を設け、無制限の保険金支払いに着手したと推察される。壊滅した播磨屋町の支社に契約関係の資料や書類があれば、それらが残存した可能性は極めて低かった。しかし、被爆直後に事務所を一時移転した蟹屋町の倉庫に、原爆投下以前からそれらを避難させていたとしたら、この地域は火災などがそれほど発生していなかったことから、保険金の支払い活動において役立ったはずだ。菊島氏が蟹屋町を支払いの拠点にせず、己斐を拠点としたのは、被爆後の復興が比較的早く、人の集積度も高かったことを考慮したのだろう。広島市街での支払いは8月中旬から2週間程度の短期間であったとされ、9月に入ると菊島氏は、仮設からより安定した拠点へ移動したと思われる。 キャッシュを受け取るために上京 銀行との有無を言わせぬ交渉も 気になるのは、保険金支払いのための資金繰りはどうしたのか、そして契約者への保険金の支払いは具体的にどう行われていたのか、ということだ。己斐での多数の契約者に対する保険金支払いのため、菊島氏は広島支社の人々と共に、8月中に現金を受け取りに上京していたという。広島支社が保有する小切手帳は焼失していたはずなので、大きな保険金を支払うためには、正規の小切手の代用となるものを使用する他なかった。また、戦中に保険金支払い事務が各業務局・支社に委譲されたことにより、保険金支払いも支社口座を使っていたと考えられる。 しかし、被爆後の大量の保険金支払いを行うためには、支社口座に十分な資金が必要になったはずだ。菊島氏は、支社口座に振り込む小切手とある程度のキャッシュを受け取りに上京したのだろう。 その後廿日市へ移った支社事務所では、保険金支払いの担当者は3名だった。終戦後1年半ほど、菊島氏は毎月定期的に彼らを連れて東京へ出張していた。保険金支払い実績の報告に加え、本社の原簿と支払先・金額との照合も行っていたはずだ。前述のように、西蟹屋にも契約関係書類が保管されていた可能性があるが、全てが保管されていたわけではなかったのだろう。 契約者は証券や保険科領収書など、契約関係帳票類をなくしていた人がほとんどだったと思われ、まずは保険金を支払い、後で諸帳票によって確認を行っていたと考えられる。そして、毎月の支払い額の推移を踏まえながら、本社から毎月一定額の資金を小切手の形で受け取り、広島に帰って支社口座に振り込み、それを資金として支社が発行した小切手によって、契約者に保険金を支払っていたのではないかと推察される。 冒頭で述べたように、市内銀行の金融活動が日銀広島支店1階のスペースを借りて再開されたのは8月10日のことだが、代用小切手を受け取った契約者が現金化できるようになったのは、9月以降だったと思われる。この間、広島支社と銀行間で広島支社が発行した代用小切手を認めるかどうかについて、菊島氏による「銀行に有無を言わせない交渉」が行われたことが推測できる。支社が判断できる業務分担を越えて、全ての契約について支払い対策を行ったのは、被爆という非常事態下での緊急行為とはいえ、菊島氏の合理的かつ非常に強い意志を感じさせられる。 さらに菊島氏は、廿日市だけでなく、可部・三次といった広島郊外にある支部の職員に対しても、当時使用されていた職員の契約手控えを利用し、市内の契約者の安否確認に当たらせながら、支払い対応を行うよう指示をしていた。 広告を出さずとも大挙した契約者 10ヵ月間の支払い件数は3200件以上 それにしても、あの混乱期において保険金支払いがスムーズに進んだのはなぜなのか。河谷氏の調査によると、当時広島支社が地元の中国新聞に保険金支払いに関する何らかの広告を出していた形跡は、一件も確認できなかったという。代わりに、いくつかの他生命保険の広告は確認できたが、これらは保険金の支払いにおいて、全て契約番号がわかるものを求めており、またその多くは郊外に疎開している保険会社の事務所まで請求を求める内容になっていた。 第一生命ではこのような広告を出さなかったにもかかわらず、連日多くの契約者が詰めかけた。それは、広く広島市民に保険金支払いの事実が知られていたからだろう。いち早く己斐で無制限の保険金支払いを始めたこと、職員が事務所で待っているだけでなく自ら契約者の安否確認に向かったことなどに関して、市内で評判が立ったことが考えられる。 以上が、中間報告以後の河谷氏による独自調査によって明らかになった事実だ。冒頭で述べた通り、こうして広島支社での保険金支払いは、被爆直後の10ヵ月あまりで3200件を超える規模になったのである。ただし、被爆直後から1年半程度は担当者が本社に保険金支払いの報告に赴いていたということであり、そのことから、最終的な支払い件数・支払い額はさらに多かった可能性もある。 今回、調査に当たった河谷氏は、「広島という街やそこに住む人たちからは、『当時のことを後の世に語りつがなくてはいけない』という力を、ひしひしと感じた。第一生命の保険金支払いについては、調査がもう10年早かったら、もっと詳しいことがわかったかもしれない」と振り返る。 当時の菊島氏や広島支社の対応が、他の生保会社と比べて「異次元」なものだったのか、確証はない。日銀広島支店をはじめ、市内の銀行、医療関係者、一般市民に至るまで、被爆直後から超人的な努力を行ってきた人は他にも大勢いた。当時の広島支社の取り組みは、そうしたケースの1つとして後世に語り継がれるべきものだろう。 戦後は実父の思い出が残る寺院を再建 人のために働き続けた菊島氏の気概 第一生命退職後、山梨県の法幢院を再建した菊島奕仙氏が、自身の家族も含む原爆犠牲者の供養のために建造した慰霊碑。同寺院の再建には、第一生命の石坂泰三元社長、後に首相となる大平正芳氏、ヤンマーなど企業のトップ、大蔵省・国税庁関係者など、140名近い政界、実業界、官界の著名人が協力した。菊島氏の人脈の幅広さがうかがえる このエピソードが物語るもの、それは「企業は人である」ということだ。言わずもがな、戦前・戦中の日本にも企業活動はあった。そして、企業で働く人たちの業務遂行にかける情熱が産業界を下支えしていた。彼らの情熱は戦後も脈々と企業社会に継承され、その後の日本経済に高度な発展をもたらす下地となった。企業人の倫理がそこかしこで問われる今の世の中において、そうした先人たちの気概を見つめ直すことは、戦後70年の節目において、日本という「国の形」を見つめ直すことにもつながるのではないか。
被爆直後の広島市民に一筋の光を与えた菊島氏は、戦後も1965年まで調査役として第一生命に在籍した。広島支社長後に就任した大阪支社長時代は、ヤンマーの事業資金の工面に菊島氏が尽力したつながりで、同社創業者で初代社長の山岡孫吉氏と深い信頼関係を築き、同社の相談役として、山岡氏の死後も20年に渡り関係を保ったという。また、広島支社長時代から実父の跡を継いで山梨県法幢院の住職も務めていた氏は、第一生命退職後に同寺院の再建に尽力した。 1978年9月に亡くなるまで人のために働き続けた、激動の生涯であった。 (取材・文/ダイヤモンド・オンライン 小尾拓也) (注)第一生命経済研究所の河谷善夫氏による、第一生命広島支社および菊島支社長に関する調査報告の中から本稿で紹介した内容は、次に述べる資料を基にした分析、人物への取材が基となっている。 【2014年5月の中間報告】元広島支社次長による「第一生命相互通信昭和23年10月5日」集録記事、広島市医師会の元副会長による「広島市医師会だより」集録「原爆当時の私の周辺-日誌と記憶による集録」、日銀広島支店長の被爆直後の行動記録、昭和生命保険史料別巻(1)業績統計 【中間報告以降の独自調査】山梨県法幢院の慰霊碑序文(菊島氏が自身の家族も含む原爆犠牲者の供養のために建造したもの)、『月刊アナリスト』平成7年7月号などの編集後記(原爆投下当時、菊島氏の下で広島支社内務次長職を務めていた人物が、戦後自ら発行した保険業界誌に記したもの、およびその人物から業界誌の発行を受け継いだ子息が、父から聞いた話を基に記したもの)、第一生命中国業務局の元職員の証言(元職員が勤務していた中国業務局は、広島支社と共に1945年9月初頭には廿日市の支部建物に存在) http://diamond.jp/articles/-/76219 |