1. 2015年6月23日 20:34:24
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>戦利品として、占領している軍隊という意識から生まれてくる色んな問題がある。 色んな犯罪を犯しても許されるという雰囲気沖縄に限らないし、米兵にも限らない http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html ソ連軍兵士の強姦、殺戮、暴行、強奪 「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、 口ではいい表せないほどひどいものだった。 暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。 ・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、 抵抗するものは片っぱしから殺した。 ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、 いまでもぞっとするほど残虐なものだった」 と述べている。 強姦された日本人女性のほとんど総ては、 その後、自殺、絶望死、病死、衰弱死した。 凄まじかったソ連軍兵士の日本婦人強姦 筑紫野市湯町の二日市温泉の済生会病院旧館のはずれに小さな水子供養祠がある。 1946年、満州からの日本人民間人の引き揚げが開始されてから、博多港に上陸した 日本人引き揚げ者は約1年半で139万人に上がった。 ソ連兵や北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、身ごもった女性も多数いた。 上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性もいたといわれる。 身ごもった女性の妊娠中絶手術が厚生省博多引揚援護局二日市保養所で行われた。 手術は、麻酔を使わないで行われたといわれる。「白い肌、赤い髪、長い指。 一目でソ連兵の子供とわかる水子もいた」といわれる。 極悪非道なスターリンの侵略戦争の犠牲となり、 何度も【地獄の責め苦】に苛まれた女性たちを慰める言葉が出ない。 戦争を絶滅して、再び、このような悲劇が起こらないことを祈るのみである。 2.【歴史の闇】に葬り去られた強姦被害 http://yamushokey.com/modules/picoarchive/content0050.html アメリカ軍の性犯罪 SAPIO-2007.4.11 水間政憲 (2007)4月26、27日に予定の安倍首相初訪米の直後に米国下院議会で採決されようとしている「従軍慰安婦非難決議案」は、「日本帝国軍隊が第2次大戦期に若い女性たちを慰安婦として強制的に性奴隷化(セックス・スレイブ)したことに(略)謝罪する」ことを日本に求めるものだ。前文では「20世紀最大の人身売買」であり「集団暴行、強制中絶、殺害、手足切断など」の蛮行を犯したと断じている。 「従軍慰安婦」については、史料検証でその事実がなかったことが証明されているが、詳述は別稿(90ぺージ)に譲ろう。 ここでは、「戦争と性」の問題を考える上でひとつの史料を提供したい。それは、GHQ占領下の日本人女性にたいする米兵の「強姦事件」についてである。 マッカーサーが厚木に降り立った直後に強姦事件 占領初期のGHQ1945年9月「月例報告」では、「日本人は米兵に協力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」などと記載されている。また、GHQ外交局長W・J・シーボルドは「(米軍)戦闘部隊兵士の行動は、特に感銘すべきものであった」、「米兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」と記している(『マッカーサーの日本』1970年刊、新潮社より)。 しかし、これら米国側の記録は、事実ではない。 この米軍の「嘘」を暴く鍵は、占領下の1945年10月4日に解散させられた「特高(特別高等)警察」(約6000人)の記録の中にある。米軍進駐後、「特高」は「治安維持法」に基づく監視の必要もなくなり、もっぱら進駐軍の素行調査をしていた。前掲の『マッカーサーの日本』にこの記録のことが一部記されており、原本をこの目で確かめてみたいと思った筆者は、国立公文書館でこの資料を発見した。手書きの原本が白日の下に晒されるのは今回が初めてだろう。 そのファイルが377ぺージに及ぶ「進駐軍ノ不法行為」(内務省警保局外事課)である。マッカーサーが厚木に降り立った8月30日から10月4日の解散命令までの米軍の不法行為を特高警察が取り調べたファイルを内務省警保局がまとめたものだ。 ファイルによれば1945年8月30日〜9月10日の12日間分だけでも強姦事件9、ワイセツ事件6、警官にたいする事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件(この中には、後述するような理由で強姦事件も含まれていると考えられる)。特別事件として「葉山御用邸侵入」「二重橋二侵入皇居撮影事件」「宮様御用列車二同乗未遂事件」などが発生している。 「特高」は解散命令が出た10月4日の記録も残している。その日の記録には「各種学校、倉庫等二侵入シ保管品等ヲ不法徴発 被害発生場所 屋内10件 屋外10件」「両国ノ浴場ニテ女性暴行未遂事件」などとある。 掠れたぺージもあり、正確な数字ではないが、全ファイル約1か月間で少なくとも強姦37件(未遂を含む)、その他の不法行為945件を数える。 実際、「特高廃止」指令が出ると、全国の「特高」は、書類を焼却してしまった。しかし、「特高」の元締「内務省警保局」の秘密報告書は焼却されず、この米軍の不名誉な記録は、没収され、米国に持ち去られたのだ。 その後、実は1973年12月日本に返却され、翌年1月から、国立公文圭鳳館に所蔵されていた。 妻36歳、長女17歳に対し拳銃で脅して・・・・ 米軍の不法行為を明らかにする前に、敗戦後、日本政府が日本女性を米軍の「性の暴力」からいかに守るか、苦心惨憺した様子を少し述べてみたい。日本政府が「慰安所」設置に直接関与したのは、戦時中でなく占領下の米軍(進駐軍)のためにだったのだ。 1945年8月21日の閣議で近衛文麿国務相が、米軍兵士用の慰安所の設置を主張し、池田勇人主税局長の裁断で5000万円の貸し付けが決定し、1945年8月28日「特殊慰安施設協会」(後に、国際親善協会RAAと改称)が設立された。 その目的は、「関東地区駐屯軍将校並びに一般兵士の慰安施設」となっていた。GHQは、1945年9月28日、都内の占領軍人用売春街を指令している。 しかしこれでも日本人婦女子の貞操が守れなかったのである。実際は主権回復後まで膨大な数の女性が「強姦」されていた。 ファイルに記された調書をつぶさに見ていこう(公開された文書は被害者の氏名などが黒塗りにされており、その部分は省略して記す)。強姦事件は、米軍の進駐とほぼ同時に始まっている。8月30日は横須賀に海兵隊が上陸した日だが、いきなり事件が発生している。 〈強姦事件 (一)八月三十日午後六時頃横須賀市○○方女中、34右一人ニテ留守居中、突然米兵二名侵入シ来リ、一名見張リ、一名ハニ階四畳半ニテ○○ヲ強姦セリ。手ロハ予メ検索ト称シ、家内二侵入シ、一度外二出テ再ビ入リ、女一人ト確認シテ前記犯行セリ (二)八月三十旧午後一時三十分頃横須賀市○○方。米兵二名裏ロヨリ侵入シ、留守居中ノ右同人妻当○〇三十六年、長女○○当十七年二対シ、拳銃ヲ擬シ威嚇ノ上、○○ハニ階ニテ、それぞれ○○ハ勝手口小室二於テ、夫々強姦セリ(以下略)〉 同9月1日、房総半島に米軍上陸。ここでも事件発生。 〈○○方二侵入セル米兵三人二留守番中ノ妻(二八)(中略)奥座敷ニ連行、脅迫ノ上、三人ニテ輪姦セリ〉 〈九月一日午後六時頃トラックニ乗リタル米兵二名(中略)市内○○ニ来リ女中一名(24)連レ去リ(中略)野毛山公園内米兵宿舎内二於テ米兵二十七名(二)輪姦サレ假死状態二陥リタルモ(中略)三日米兵ニヨリ自宅迄送リ届ケラレタリ〉 このような記載が「特高」解散の10月4日まで続く。 〈九月十九日夜十一時頃、(横浜市)保土谷区、出征中○○妻(27)、(中略)二侵入シ「ジャックナイフ」デ情交ヲ迫リ、被害者之ヲ拒否シテ戸外二逃避セルヲ(中略)畠(畑)二連行、三名ニテ輪姦シタル。更ニ通中ノ三名ノ黒人兵ガ同所ニ於テ輪姦逃走セリ〉 調書を総覧すると、米兵の蛮行が眼前に浮かんでくる。 警察官はいたるところで暴力を振るわれ、拳銃を取り上げられている。一般人は、「乗用車」「ラジオ」「現金」「腕時計」「背広」や「ゲタ」まで、手当たり次第に強奪されていた。 〈九月二日午前十一時三十分頃武装米兵六名ハトラックニテ横浜市中匿山手町二一二番地共立女学校内、校長神保勝也二侵入各室ヲ物色シタル後現金二千七百十圓及ウオルサム腕時計一個ヲ強奪逃走セリ〉 とこのような「強奪逃走せり」が続くのだ。 その中に、首を傾げたくなる記述がある。それは、「民家に米兵が押し入り、若い女性から腕時計だけ強奪して逃走せり」との記述が散見することである。 貞操は取り返すことができずとも、せめて当時、貴重だった「腕時計」だけでも、取り返したいとの思いから被害届を出していたのではと思われる。先述した945件の強盗・略奪に強姦(あるいは強姦未遂)も入っているのではないかと考えるのはこのためである。 このような状況は、神奈川県民を震憾せしめたであろう。当時の朝日新聞(1945年9月5日付)は三段見出しで「神奈川県の女生徒は休校 教職員が家族を巡回指導」と記している。 しかし、9月19日、GHQ「プレスコード」が発令されて以後は米兵を批判する記事は、新聞紙面からすべて消えている。これで米国は、「強姦」など人道上の米軍の犯罪を封印できたと考えたであろう。しかし記述のように「特高」の調書は、言論統制されてからも継続して綴られていたのだ。 青少年犯罪者が「米兵の真似して何が悪い」と開き直る |