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「「沖縄外務省アメリカ局」での勤務を命ず!」
「沖縄の声」をワシントンに届ける
2015年5月20日(水) 吉川 由紀枝
2012年3月、筆者は縁あって沖縄県庁に勤務することになった。普天間飛行場移設問題について、沖縄の声を米国の首都、ワシントンに伝えるために。筆者はこの前、ワシントンにあるジョンス・ホプキンス大学高等国際関係大学院(通称SAIS)附属ライシャワーセンターの研究員であったため、ワシントンでのネットワークや知見を買われてのことだった。当時はまだ仲井真弘多知事が辺野古埋め立て承認をする約2年前であった。
まずは、「普天間飛行場移設問題」とは何か、「沖縄の声」とは何か、「ワシントン」とは誰を指すのかについて説明する。
普天間飛行場移設問題の経緯については新聞などで見かけることもあるだろう。1995年に起きた米兵による少女暴行事件を契機に、沖縄では参加者が約8万5000人に上る抗議の県民大会が開かれた。これを受け、日米両政府は沖縄の人々の怒りを鎮めるべく、沖縄が負う米軍基地の負担を軽減する措置を考えるためのタスクフォース(通称SACO)を新設。翌96年には、普天間飛行場を含めた在沖米軍施設を移設あるいは土地を返還すること通称SACO合意を発表した。
普天間飛行場は、宜野湾市の市街地のただ中に位置し、軍用機が墜落すれば大惨事に至ることが容易に想定された。実際に2004年、軍用ヘリが普天間飛行場近くの沖縄国際大学キャンパス内に墜落している。奇跡的に死者は出なかったものの、普天間飛行場の危険性を改めて認識させるものだった。
ただし、普天間飛行場の移設先は1996年時点では検討継続とされた。そして2006年、日米両政府が移転先を辺野古に決定し、「再編実施のための日米のロードマップ」(通称ロードマップ)に明記した。
ところが2009年、この決定についての地元との調整が完全にはついていないうちに、「県外移設」を掲げる鳩山由紀夫氏が率いる民主党政権が誕生。その後、鳩山首相(当時)は発言を二転三転させ、結局、辺野古に戻った。
この間、地元沖縄では、辺野古を抱える名護市と沖縄県が2010年に、それぞれ市長選と知事選を実施。いずれも県外移設を求める候補を当選させることで民意を示した。しかし、県外移設を掲げて当選した仲井真弘多知事が2013年12月に辺野古埋め立てを承認。現在、埋め立てのための調査が辺野古で進められている。
普天間飛行場を辺野古に移設させたい理由
普天間飛行場の移設スキームは意外に知られていない。普天間飛行場を管理しているのは、米国海兵隊である。海兵隊は、陸上部隊、空挺部隊、兵站部隊の三位が一体となって行動する。沖縄では、陸上部隊は主にキャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブに、空挺部隊は普天間飛行場に、兵站部隊は主にキャンプ・キンザー、キャンプ・フォスターに点在する。
地図を見れば、くの字型をしている沖縄本島の北東(キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブ)から中部(普天間飛行場)、南西(キャンプ・キンザー)へと斜めに突っ切るように各拠点が並んでいる。沖縄県の人口の8割は沖縄本島の中南部に集中しているため、この配置が交通渋滞を起こす。
例えば中部から南部の那覇へ通勤する人は、これらの基地の間を縫うように抜けるくねくねと曲がった幹線道路、もしくはそのバイパスを利用する。このどちらも、交通量はそのキャパを超えてしまっている。新しいバイパスを造る余地はない。また、本島中部を東西に移動するには基地を迂回しなければならない。このように、基地の存在は沖縄の生活に少なからぬ支障をきたしている。(実際にはこれに、騒音や事故の危険性が加わる)
この空挺、兵站機能を、陸上部隊がいる辺野古周辺に集約することで、沖縄と米軍はウィン・ウィンの関係になれる。沖縄は、普天間飛行場が有する危険性を除去することができる。加えて、人口密度の高いエリアにあるキャンプ・キンザーなどの土地を返還してもらえる。海兵隊約5000人がグアムに移転すれば、駐留する米兵の数が減少する。米軍は、海兵隊の3機能を近いエリアに集約することができる。ただし、キャンプ・キンザーなど米軍が返還する予定になっている基地の代替地を日本政府が提供できれば、の話である。
沖縄が感じる基地負担を巡る不公平感
ただし地元民としては、「基地の返還といいながら、単なる土地の移動にすぎない」――という思いをぬぐい去ることはできない。結局、沖縄に基地が有り続けるからだ。基地負担を軽減してほしいとの願いは、戦後70年にわたって沖縄が抱いてきたもの。27年間にわたる米国統治が終結した1972年の日本復帰以来、沖縄は日本政府に求めてきた。
現在、面積で言えば米軍専用施設の約75%が沖縄県にある。沖縄以外の場所では、米軍専用施設の59%が終戦直後、日本に返還された。沖縄が日本に復帰する際、県民は同様に負担が軽減されることを期待していたが、沖縄県にあった米軍専用施設の18%程度しか返還されなかった。ここに、基地負担を巡る不公平感を沖縄が感じる根底がある。
こうした経緯に加え、鳩山首相の「海外移転が望ましいが、最低でも県外移設が期待される」といういわゆる「県外移設」発言が、それまで日本政府がしてきた説明に対する不信感を膨らませた。同首相の発言は、沖縄は「地の利」(難しく言えば「地政学的要衝」、歴史的に言えば「太平洋の要石」)を持つために米軍基地を集中せざるを得ないという日本政府の従来の説明をくつがえすものだったからだ。さらに同首相が半年足らずで安易に発言を撤回したことへの怒りなどが絡み合う。
こうした感情が、基地に対する沖縄の人々の態度を硬化させ、2014年1月の名護市長選において、辺野古への移設に反対する稲嶺進氏を市長に再選させた。2014年11月の沖縄県知事選では、埋め立てを承認した仲井真知事を落選させた。
以上が普天間飛行場移設問題のこれまでの経緯と概要である。
「沖縄への過度の負担は日米同盟の根幹を崩す」
次に、「沖縄の声」について考えよう。
筆者が「沖縄の声」としてワシントンに伝えるべきメッセージは次のようなものであった。「沖縄の民意はいまだ、普天間飛行場の辺野古への移設を容認できる状況にはない。したがって日米両政府は辺野古以外の選択肢を速やかに模索すべきである。このまま辺野古案を進めれば、反対派との間に衝突が生じ、死傷者が発生する可能性がある。そうなれば沖縄は、収拾がつかない騒然とした状況になるであろう(すべての基地を返還するよう要求するようになってもおかしくはない)。その場合、日米同盟にも大きな打撃を与えるだろうし、地域の安全保障にも深刻な悪影響を与えてしまう」。
全基地返還について少々解説しよう。沖縄には兵隊以外にも、空軍、海軍、陸軍が駐留している。軍人だけで約2万6000人。これは日本全国にいる米兵の約7割に相当する。さらに、軍属や家族を含めれば約4万7000人に及ぶ(2012年6月現在)。これだけの規模の米軍を日本の他地域に移動させることがどれだけ大変なことか、想像するに余りある。
米軍にとって最重要な施設は、「東アジア最大の空軍基地」と言われる嘉手納飛行場である。面積は、成田空港の約2倍に当たる約20平方キロメートル。米空軍最大の戦闘航空団である、第18航空団を抱えているほか、特殊作戦機能や偵察、哨戒機能も充実している。ベトナム戦争では、米軍出撃基地として機能。戦略爆撃機B52が連日、嘉手納飛行場を飛び立ちベトナムを爆撃していた。平時には東アジアをパトロールし、有事には主要攻撃・兵站拠点となる、米軍には不可欠な存在なのである。
米国の有識者の中には、普天間飛行場を返還すれば、沖縄は嘉手納飛行場の返還も要求するのではないか、と心配する声もある。それくらい虎の子の存在なのだ。米軍としては嘉手納飛行場の返還だけはなんとしても避けたいところだろう。
このコラムについて
「沖縄外務省アメリカ局」での勤務を命ず!
1995年の少女暴行事件を契機に始まった普天間飛行場移設問題は、いまだに迷走を続けており、行き着く先が見えずにいる。
移転に絡む調査や工事が進むたび、また、沖縄県内で首長選挙が行われるたびに、この問題が首を持ち上げ、日本中で注目を集める。
東アジアの地域安定の要として米軍が沖縄にいることの重要性が叫ばれるが、東京でも、ワシントンでも、沖縄に対する理解は乏しい。在沖米軍や米軍基地に対して沖縄がどのような感情を抱いているのか。それがどのような政治環境を生んでいるのか。鳩山由紀夫首相(当時)の「県外移転」発言がどのように沖縄を刺激したのか。
沖縄県の仲井真弘多県政(当時)は、沖縄にも受け入れられる普天間飛行場移設問題の打開に向けてもがく中、ワシントン対策のテコ入れに外部の有識者を招聘した。それが吉川由紀枝氏である。
沖縄で、吉川氏はどのような窮状を目にしたのか。改善すべく何をしたのか。そして、どのような壁にぶち当たったのか。約3年間にわたる奮闘を吉川氏自身が振り返る。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150515/281164/?ST=top
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