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12月9日になくなった野坂昭如さんと(左)/(C)日刊ゲンダイ
あの人は今こうしている ウーマンリブ論客の道下匡子さん「とても腹立たしい毎日」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/171785
2015年12月24日 日刊ゲンダイ
1970年代、アメリカで火がついたフェミニズム運動を日本に紹介し、「川崎敬三のアフタヌーンショー」や「3時のあなた」などのワイドショーで女性解放運動、ウーマンリブの論客として活躍したのが道下匡子さんだ。今どうしているのか。
■「こんなにひどい時代は戦後初めて」と怒りをあらわ
「とっても腹立たしい思いで毎日を送ってます。福島の原発事故がまだ収束してないのに、原発を再稼働させたり、憲法9条をないがしろにする戦争法案を成立させたり、沖縄では県民の意思を無視して辺野古の海を埋め立てようとしている。こんなひどい時代は戦後初めてです」
都内の自宅マンションで会った道下さん、語気強くこう言った。
「1カ月に1度、札幌の実家で一人暮らししてる母の様子を見に行ってます。106歳になる母は、戦後、女性が選挙権を得てから一度も棄権したことがないのが自慢でしてね。樺太から命からがら引き揚げてきた過酷な体験を経てるため、原発事故で故郷を追われ、二度と帰れないかもしれない福島の避難者に深く心を痛め、私と一緒に政府の無策に怒り狂ってます」
道下さんが樺太から北海道に引き揚げてきたのは3歳の時。それからの苦難を極めた生活は第2回蓮如賞受賞作「ダスビダーニャ、わが樺太」(95年)に詳しい。その後、小学生の時にHBC(北海道放送)にスカウトされ、ラジオ、テレビで活躍。60年、アメリカ・ウィスコンシン州の高校に留学し、帰国後、藤女子大に入学。64年に奨学金を得て、ウィスコンシン州立大学ジャーナリズム学科に転入した。
「全米にベトナム反戦や黒人運動が燃え盛ってた時期でしたから、私も授業の一環としてデモや集会の取材をしました。後にジェーン・フォンダと結婚する反戦運動家のトム・ヘイドン率いるSDS(民主社会学生同盟)も参加した1968年、シカゴの民主党全国大会での歴史的なベトナム反戦デモも目撃してます」
69年に帰国してからはアメリカ文化を発信する東京アメリカン・センターに就職。97年まで勤めた。
「勤務のかたわら、フェミニズム運動の象徴的存在であるグロリア・スタイネムの本を翻訳・出版したのがきっかけで、テレビのワイドショーから声がかかり、特にフェミニズムに関心を寄せてくださった伊丹十三さんがリポーターを務めたアフタヌーンショーには何度も出演しました。講演にも呼ばれるようになりましたが、当時はリブを自称する人たちでさえ、“女の自立で必要なのは精神的自立”といい、私が“精神的自立で家賃は払えない”と反論しても多勢に無勢。“女がみんな立派になったら、デキが悪い息子に嫁の来手がなくなる。なぜあんな女を呼んだのか!”と主催者が吊るし上げられる場面もあったようです」
「現在? まだまだ全然ダメですよ。『女性が輝く時代』なんて言ってるようでは。女性が本当に求めているのは『女が平等の社会』です」
今も「一票で変える女たちの会」や「憲法を愛する女性ネット」などの運動に参加している。
「3・11後、ずいぶんデモに参加しました。私、人混みは死ぬほど嫌いなんだけど、私よりも年上の方々やSEALDsの学生さんたちが頑張ってるのを見ると、私ひとりでも行かなくちゃと思って。彼らを見てるとSDSを思い出すんです。非暴力のヒッピーや学生たちが“MAKE LOVE、NOT WAR(戦争ではなく愛を)”を合言葉に、警官に暴力的に排除されながらも、平和を訴えていた姿をね」
愛猫と暮らす。
「私の唯一のぜいたくは自宅での食事で時々、シャンパンを飲むこと。まあ、貧乏貴族趣味ですね。でも、戦争になったらシャンパンどころじゃない。もう戦争だけはこりごり。日本は最強の安全保障である日本国憲法第9条を堅持していかなくてはなりません」
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