http://www.asyura2.com/15/senkyo198/msg/550.html
Tweet |
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/fe85f918885af9398fb5a8c464834012
2015年12月24日
昨日のコラムで、心配するような出来事は起きなかった。会見に臨み天皇陛下は、安倍官邸の陰ひなたに亘る嫌がらせや圧力に、お見事と云う水準で、厳しくカウンターとも思われる戦後70年の歴史に触れられた。特に印象的なことは、戦争によって犠牲になったのは、軍人だけの問題ではなく、多くの民間人の犠牲を忘れることは出来ないと、強くクローズアップして語っている部分は、安倍官邸や日本会議の連中には、酷く鼻じらむお言葉だったろうと推察する。筆者には、靖国に祀られている人々だけが、お国の為に犠牲を払った歴史ではなく、民間人はじめ、アジアの人々の犠牲も、同じ価値の尊い命が失われた。そんな感じに、彼らの一部礼賛言動を諫めているようにも読み解けた。
まさに、その証左ではないが、読売・産経は木で鼻を括る「天皇記者会見」の扱いだったが、朝日・毎日は、相当力を入れて報道していた。報道ステーションは、昭和天皇メッセージと沖縄米軍基地問題を絡ませて、昭和天皇の晩年の心の葛藤と、今生天皇の、その葛藤の心を受け継ぐ身を削ってでも実行しようという、その決意に、一定以上の評価をみているようだった。NEWS23は見損なったが、おそらく、NHKや日テレ、フジと異なる報道姿勢であったと想像する。
毎日新聞が、埼玉大学との共同で「日本の世論」と云う世論調査を行っている。26面、27面で、その調査の結果を公表している。相当に興味深い結果が出ていた。取り急ぎ、コンビニで久々に毎日新聞23日号を購入しておいたので、この「日本の世論」は多岐にわたる調査で、よく答えてくれたなと云う水準の調査なので、明日、じっくりと、その辺を検証してみたいと思う。
≪ 天皇陛下、82歳に 「先の戦争を考え過ごした1年」
天皇陛下は23日、82歳の誕生日を迎え、これに先立ち記者会見した。戦後70年の今年を「様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年」と振り返り、年々戦争を知らない世代が増えるなかで「先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います」と話した。 天皇陛下は、会見の半分ほどの時間を使って戦争や平和への思いを語った。民間人の犠牲が大きかったことに触れ、「平和であったならば、社会の様々な 分野で有意義な人生を送ったであろう人々が命を失ったわけであり、このことを考えると非常に心が痛みます」と述べ、民間船員の犠牲に言及した際には感極まった様子で言葉を詰まらせた。(島康彦、伊藤和也)
◇
■戦後70年、思い切々と
82歳の誕生日を前に、記者会見に臨んだ天皇陛下。戦後70年の節目が終わろうとする年の瀬に、戦争や平和に対する思いを切々と口にした。
天皇陛下は戦時中、民間人の犠牲が大きかったことに触れ、代表例として民間の船員を挙げた。戦時中、軍に徴用され、物資の輸送や監視業務にあたった民間船は軍艦に守られることもなく海に沈んだ。船員の犠牲は6万人を超え、3割は20歳未満の少年だった。天皇陛下は長く思いを寄せ、神奈川県横須賀市の慰霊碑に7回足を運んでいる。
天皇陛下はそうした「外国航路の船員になることも夢見た人々」が犠牲になったと紹介。「制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います」と話す際は声がかすれ、思いがあふれたように見えた。幼少時に楽しんで見ていた絵はがきにあった船は、その大半が海に沈んだことを後に知ったとも明かした。
4月に慰霊に訪れた太平洋戦争の激戦地・パラオ共和国については、海に無数の不発弾が沈み、処理に大変な時間がかかることを知ったとして「先の戦争が島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います」と述べた。
一方、今年の喜ばしい出来事として大村智、梶田隆章両氏のノーベル賞受賞を挙げた。関東・東北豪雨などの自然災害については「困難に遭遇している人々を助けようという気持ちが日本人の中に豊かに育っていることを非常に心強く思います」と述べた。
自身については「年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました」と明かし、「一つひとつの行事に注意深く臨むことによって少しでもそのようなことのないようにしていくつもりです」と語った。8月の全国戦没者追悼式でお言葉のタイミングを誤ったり、10月の全国豊かな海づくり大会で式典中に段取りを確認したりしたことが念頭にあったとみられる。
宮内庁が、天皇陛下の公務を同年齢時の昭和天皇と比較したところ、都内や地方への訪問は約2倍、赴任大使との面会などは約5倍だった。天皇陛下は公務負担の軽減について「しばらくはこのままでいきたい」との意向を示しているが、宮内庁は負担軽減策を模索している。 ≫(朝日新聞デジタル)
≪ 災害に胸痛め、ノーベル賞の2人に喜び
陛下の会見全文
天皇陛下は82歳の誕生日を前に記者会見に臨んだ。全文は次の通り
◇
【宮内記者会代表質問】
今年は自然災害などいたましい出来事があった一方、日本人2人がノーベル賞を受賞するなど、明るい話題もありました。天皇陛下は戦後70年の節目に当たり、新年のご感想で「満州事変に始まる戦争の歴史を学び、今後の日本のあり方を考えることが極めて大切」と述べられ、パラオをはじめ、国内外で慰霊の旅を重ねられました。また、全国戦没者追悼式では「さきの大戦に対する深い反省」という表現を新たに用いてお言葉を述べられたほか、玉音盤の原盤や、御文庫附属庫の公開もありました。年明けには、フィリピンへの公式訪問が予定されています。
戦争や平和への思いに触れながら、この1年を振り返るとともに、来年へのお考えをお聞かせください。
【天皇陛下】
今年の自然災害としては、まず5月に鹿児島県の口永良部島の新岳(しんだけ)が噴火して、海岸まで達する火砕流が発生し、全島民が島から避難したことが挙げられます。火砕流は雲仙岳の噴火災害のお見舞いに行った時に見ましたが、海岸まで達する火砕流は本当に恐ろしい光景だったと思います。島民は幸い皆無事でしたが、まだ避難生活が続いていることに心を痛めています。
9月には豪雨により鬼怒川などが氾濫(はんらん)し、8人が亡くなる大きな災害となりました。氾濫により多くの人々が家々に閉じ込められ、どんなにか不安な時を過ごしたことかと思います。自衛隊を始めとするヘリコプター等の救助活動により、人々が無事に救出されたことは本当に幸いなことでした。危険を伴う救出活動に携わった人々に深く感謝しています。水につかった家屋や田畑の復旧作業には多くの労力を必要とするもので、多数のボランティアが協力してくれていることをうれしく思っています。困難に遭遇している人々を助けようという気持ちが日本人の中に豊かに育っていることを非常に心強く思います。後日、常総市の被災地をお見舞いしましたが、泥水につかった田畑が広がり、苦労して作物を育ててきた人々の気持ちはいかばかりかと察せられました。
今年の喜ばしい出来事としては、まず二人の日本人がノーベル賞を受賞されたことが挙げられます。大村博士の生理学・医学賞は、アフリカや南米で、人に感染すると盲目になる危険をもたらすオンコセルカ症を治す薬を地中の菌から作り出されたことなどの業績によるものです。私は以前、オンコセルカ症を患って盲目になった人々が連なって歩いている痛ましい映像を見ていましたので、この病気を治す薬が出来たということを本当にうれしく思いました。一方、梶田博士の物理学賞は、神岡鉱山の地下にあるスーパーカミオカンデにおけるニュートリノの研究で、ニュートリノに質量があることを見出されたことに対する授賞でした。11年前、スーパーカミオカンデを訪問したことが思い起こされました。お二人の長年にわたる地道な研究を誠に尊いものと思います。
また、日本製のジェット旅客機が完成し、試験飛行が行われたこともうれしいことでした。かつて日本で戦後初めてつくられたプロペラの旅客機YS11の試験飛行を、羽田の空港で関係者と共に見守ったことが懐かしく思い起こされました。それから50年以上がたったわけです。
今年は先の大戦が終結して70年という節目の年に当たります。この戦争においては、軍人以外の人々も含め、誠に多くの人命が失われました。平和で あったならば、社会の様々な分野で有意義な人生を送ったであろう人々が命を失ったわけであり、このことを考えると、非常に心が痛みます。
軍人以外に戦争によって生命にかかわる大きな犠牲を払った人々として、民間の船の船員があります。将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が、民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き、敵の攻撃によって命を失いました。日本は海に囲まれ、海運国として発展していました。私も小さい時、船の絵葉書を見て楽しんだことがありますが、それらの船は、病院船として残った氷川丸以外は、ほとんど海に沈んだということを後に知りました。制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います。今年の6月には第45回戦没・殉職船員追悼式が神奈川県の戦没船員の碑の前で行われ、亡くなった船員のことを思い、供花しました。
この節目の年に当たり、かつて日本の委任統治領であったパラオ共和国を皇后と共に訪問し、ペリリュー島にある日本政府の建立した西太平洋戦没者の 碑と米国陸軍第81歩兵師団慰霊碑に供花しました。パラオ共和国大統領御夫妻、マーシャル諸島共和国大統領御夫妻、ミクロネシア連邦大統領御夫妻もこの訪問に同行してくださったことを深く感謝しています。この戦没者の碑の先にはアンガウル島があり、そこでも激戦により多くの人々が亡くなりました。アンガウル島は、今、激しい戦闘が行われた所とは思えないような木々の茂る緑の島となっています。空から見たパラオ共和国は珊瑚礁(さんごしょう)に囲まれた美しい島々からなっています。しかし、この海には無数の不発弾が沈んでおり、今日、技術を持った元海上自衛隊員がその処理に従事しています。危険を伴う作業であり、この海が安全になるまでにはまだ大変な時間のかかることと知りました。先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います。
パラオ訪問の後、夏には宮城県の北原尾、栃木県の千振、長野県の 大日向と戦後の引揚者が入植した開拓の地を訪ねました。外地での開拓で多大な努力を払った人々が、引き揚げの困難を経、不毛に近い土地を必死に耕し、家畜 を飼い、生活を立てた苦労がしのばれました。北原尾は、北のパラオという意味で、パラオから引き揚げてきた人々が入植したところです。
この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います。年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います。
私はこの誕生日で82になります。年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました。したがって、一つ一つの行事に注意深く臨むことによって、少しでもそのようなことのないようにしていくつもりです。
今年もあとわずかになりました。来る年が人々にとって少しでも良い年となるよう願っています。
≫(朝日新聞デジタル)
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK198掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。