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「七士之碑」を知らない稲田朋美に東京裁判見直しの資格はない
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2015年12月23日 天木直人のブログ 新党憲法9条
きのう12月22日の毎日新聞「70年ウォッチ」で、古賀攻論説副委員長が教えてくれた。
JR熱海駅から車で15分程度の急峻な山腹に興亜観音という宗教法人があり、そこに東京裁判のA級戦犯7人を祭る「七士之碑」があると。
A級戦犯七名の遺体は、処刑日である1948年12月23日に(筆者註:ちなみにこの日は今上天皇の誕生日であり、わざとその日に合わせて、A級戦犯を処刑し、永久に忘れられないように仕向けたといわれている)、横浜で火葬され、遺骨は米軍が運び去ったが、戦犯の弁護士らがわずかに残っていた遺灰をひそかに回収した後に、翌1949年に遺族とともに興亜観音を訪れ、保管を依頼したという。
私がその記事で注目したのは、その「七士之碑」が建てられた碑文に「吉田茂書」という文字が刻まれていると書かれていたところだ。
この事について、古賀氏は次のように書いている。
吉田茂は東京裁判についてコメントらしきものを全く残していない。しかも処刑と同じ日に新憲法下初の衆院解散に踏み切っている。吉田にとって、連合国が求める戦争責任に早くけりをつけ、日本を再建することが大事だった。一種の「割り切り」が感じられる、と。
古賀ははっきり書いていないが、割り切りとは、7人に戦争責任をかぶせて天皇制を守って再出発するしかなかった、という事に違いない。
その思いがあったからこそ、吉田茂は「七士之碑」を建てる時に松井石根陸軍大将から碑文を頼まれたとき、それに応じたのだ。
古賀氏は次のように書いている。
なぜ吉田茂が碑文を書いたかは今でも謎だが、吉田なりに敗戦の政治的な産物である東京裁判と、7人の慰霊とを、区別していたように思える、と。
しかし、私がここで読者に伝えたいことは、そのような興味深い、「七士之碑」建立のいきさつではない。
古賀氏が書いている、以下の事だ。
すなわち古賀氏は稲田朋美政調会長に、「七士之碑」の存在を知っているか尋ねたという。
その時、稲田朋美政調会長は次のように答えたという。
「聞いたことはあるけど、行ったことはない」と。
これは嘘だ。
知らなかったに違いない。
私のように東京裁判の見直しなど主張しない者が「七士之碑」の事を知らなくてもいい。
しかし、稲田氏のように東京裁判を認めない者は、「七士之碑」の事を知っていなくてはいけない。
ましてや、聞いたことはあるけど、行ったことはない、などというのは言語道断である。
どっちに転んでも、稲田朋美政調会長には東京裁判を見直す資格など断じてないのである(了)
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