http://www.asyura2.com/15/senkyo198/msg/384.html
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野坂氏本葬。遺されたもの….「戦争は何も残さず悲しみだけが残る」 「(火垂るの墓) これからの日本を考える中で、大切な1冊にしてほしい」 by・野坂暘子夫人.
http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann/archives/52266417.html
2015年12月19日 22:58 晴天とら日和
山藤章二「ただ野坂昭如さんは文章ではイヤミをいうんです。山藤には盆暮れに付け届けをしているのに、俺の顔は猿みたいに書く、とか。それはネタです。読者が面白がるから、書いてやろうという気持ちがあった。会うとむしろ丁寧でしたよ。照れ屋で」 pic.twitter.com/NRfL2uck01
— 新宿デイジー (@Shinjukudaisy) 2015, 12月 15
野坂昭如さん葬儀 文化人やファン別れ惜しむ
■野坂昭如さん葬儀 文化人やファン別れ惜しむ
今月9日に亡くなった、作家の野坂昭如さんの葬儀が19日東京・港区で営まれ、
文化人-やファンなど、およそ600人が参列して別れを惜しみました。
" 戦争体験をもとにした小説「火垂るの墓」で直木賞を受賞し、歌手としても活躍した作家-の野坂昭如さんは平成15年に脳梗塞で倒れたあとリハビリを続けていましたが、今月9-日心不全のため85歳で亡くなりました。
葬儀は19日午前11時から東京・港区の青山葬儀所で営まれ、生前親交のあった文化人-のほかファンなど、およそ600人が参列しました。式では野坂さんと対談集を出すなど-、親交が深かった作家の五木寛之さんが原稿用紙に書いた弔辞を読み上げ「“野坂昭如”-の名前は私たちの時代の象徴であり、旗印だった。今あなたを見送ることになって欠落感-を覚えずにはいられない」と話しました。このあと、妻の暘子さんがあいさつし、野坂さ-んが亡くなる間際まで「戦争は何も残さず悲しみだけが残る」と話していたことを明かし-、代表作の「火垂るの墓」を「これからの日本を考える中で、大切な1冊にしてほしい」-と述べました。
会場では野坂さんのヒット曲が流れる中、大勢の人たちが献花を行い、野坂さんとの別れ-を惜しんでいました。 "
■朝日新聞 2015年12月19日16時42分
野坂昭如さん葬儀 高畑勲さん五木寛之さんら別れ惜しむ
http://www.asahi.com/articles/ASHDL5G3WHDLUCVL01Q.html
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音楽葬にして、戒名はなし。9日に85歳で亡くなった作家の野坂昭如(あきゆき)さんの葬儀が19日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。破天荒に生き、最後まで反戦を貫いた作家に、著名人ら約600人が別れを告げた。
祭壇にはトレードマークのサングラス姿の遺影が掲げられた。「黒の舟唄」「マリリン・モンロー・ノー・リターン」など野坂さんの歌声が響くなか、映画「火垂るの墓」の高畑勲監督らが参列した。長年親交があった葬儀委員長の永六輔さんは「大好きな言葉があります。『二度と飢えた子どもの顔は見たくない』。私たちが、その言葉を言っていきましょう」と涙声であいさつした。
作家の五木寛之さんは原稿用紙に記した弔辞を読み上げた。「野坂昭如とは私たちの希望のともしびであり、さきがけの旗のようである。言葉にならない大きな欠落をおぼえずにはいられない」。作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんの「痛ましいです。惜しいです。悔しいです。このままではこの国は滅びると、厳しい筆致で憂え続けられました」との弔辞は、俳優の檀ふみさんが代読した。
喪主を務めた妻暘子(ようこ)さんは「亡くなる前まで、戦争は何も残さず、悲しみだけが残るんだと言い続けた。(野坂さんの戦争体験が題材の)『火垂るの墓』は日本の大切な一冊になってほしい」とあいさつした。
こんな小さな入れ物に収まっているのって、
どう考えても野坂さんらしくないよね、。。。
■神戸新聞 野坂昭如さん葬儀 五木寛之さん、瀬戸内寂聴さん弔辞の要旨
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201512/0008660284.shtml
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野坂昭如さんの葬儀・告別式で、弔辞を読む五木寛之さん=19日午前、東京都港区の青山葬儀所(代表撮影)
小説「火垂(ほた)るの墓」などで知られ、9日に85歳で死去した直木賞作家で元参院議員の野坂昭如さんの葬儀・告別式が19日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。野坂さんは生後すぐから神戸市灘区の養家で育ち、少年時代に空襲を体験した。「焼け跡闇市派」を自称し、戦後の焼け野原を原風景に小説を書き、鋭い社会批評を展開した。
【五木寛之さんによる弔辞の要旨】
野坂昭如。それは僕らにとって単なる一個人の名前ではない。1960年代という反抗の季節に世に出た世代は、あなたの名前を一つの旗印のように感じていたはずである。野坂昭如とは、そんな時代の象徴であり、合言葉であった。
放送、コマーシャル、歌、雑文など、ジャーナリズムの底辺からボウフラのように浮上してきた私たちを、軽佻浮薄と笑う人々もいた。蛇蝎のようにさげすむ人もいた。「焼け跡闇市派」と呼ばれ、「外地引き揚げ派」とからかわれ、ときに偽善のマスクを、ときには偽悪の衣をまといつつ、格好良さと格好悪さを虚実皮膜の間に演じつつ、私たちは生きてきたのだ。
野坂昭如とは、そんな私たちの希望のともしびであり、先駆けの旗だった。同じ時代を生きてきた仲間は次々と逝き、今またあなたを見送ることになって、言葉にならない大きな欠落感を覚えずにはいられない。
本来、弔辞とは、和紙に薄墨の毛筆で書くと教えられた。しかしあえて400字詰め原稿用紙に万年筆で記すのは、「筆は一本、箸は二本」の厳しい世界を生きてきた仲間へのあいさつである。
倶会一処。いずれ、いずこの地にか、まみえん。
【瀬戸内寂聴さんによる弔辞(檀ふみさん代読)の要旨】
野坂昭如様。あなたが亡くなったと伝えられ、ぼうぜんとしています。つい先日、雑誌の往復書簡で「野坂さんと私は死ねないのかもしれませんね。覚悟して、地球の爆発するのを見てやりましょう」と書いたばかりでした。それなのに、あなたは突如一人で逝ってしまいました。まだ85歳とは。若過ぎる享年です。痛ましいです。惜しいです。悔しいです。
脳梗塞で倒れ、右手でペンを持てなくなったあなたは、どんなに悔しかったことでしょう。幸い暘子様というご愛妻が口述筆記まで果たされ、あなたはご自分の思想や意志を麗しい文章で発表し続けられました。愛読者にとっては、なんと幸せだったことでしょう。
厳しい筆致で日本の政治のだらしなさを叱責し、原発反対の筆をおかず、日本の前途を憂い続けました。このまま進めばやがて日本は滅びると言い続けられた野坂さんの声を忘れない国民もしっかりと残っています。
「軍事では日本は守れない。といって平和国家をお題目のように唱えていては駄目である」というあなたの手紙の最後の文章は、切実な遺言になってしまいました。残された私たちはこの遺言を忘れず、若い人たちに伝えていくのが、せめてもの報恩になるでしょう。
朝まで生テレビ 日本軍人の証言1/3
朝まで生テレビ 日本軍人の証言2/3
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