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田中元総理と「雪国対決」を戦った野坂昭如さんとの思い出ー(田中良紹氏)
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11th Dec 2015 市村 悦延 · @hellotomhanks
野坂昭如さんが逝った。
安保法制が強行可決された年にまた胸にズシンとくる訃報を聞かされた。
フーテンには32年前に雪の新潟で田中角栄元総理を相手に選挙戦を戦った思い出が甦る。
世間は野坂さんに「田中金権政治批判」を期待したが、
野坂さんはあの時も「飢えた子どもの顔は見たくない」と反戦を訴えていた。
フーテンが野坂さんと知り合ったのはイラストレーターの黒田征太郎さんを介してである。
70年代初めの新宿ゴールデン街、喧嘩と議論が渦巻く中で野坂さんは静かに酒を飲んでいた。
フーテンはテレビ・ディレクターなりたての若造で、
野坂さんや黒田さんから酒の飲み方や男の生き方を吸収しようとしていた。
その野坂さんが雑誌『面白半分』に永井荷風の作とされる「四畳襖の下張」を掲載した事から
刑事被告人となる。フーテンは「被告人・野坂昭如」と題するドキュメンタリー番組を作り、
判決が下るまでの野坂さんを密着取材した。
野坂さんは原発予定地に指定され村人全員が立ち退いた新潟県刈羽村に行きたいと言い、
我々はその廃村で野宿しそこで野坂さんに「終末論」を語ってもらう事にした。
暗闇の中でたき火を囲みウイスキーを飲みながらフーテンがインタビューすると、
野坂さんは「暗闇を知らない子供たちが増えていくのが怖い」と言った。
自然に逆らう人間の生き方に心底危機感を抱いていた。
その後「アドリブ倶楽部」というラグビーチームを作り週に一度
上智大学のグラウンドで練習する関係になる。夏に信州で合宿をすると、
野坂さんは缶詰やお菓子を大量に持ってきた。
思えば「焼け跡闇市派」には「合宿」をする青春時代などなかった。
顔には出さないが遠足に行く子供のような喜びを感じているように見えた。
事情があってフーテンは「アドリブ倶楽部」を辞め、
その後しばらく顔を合わせる機会はなかった。それが再会したのは1983年、
ロッキード事件の一審判決で田中角栄元総理に有罪判決が下った直後である。
野坂さんは二院クラブから参議院選挙に出馬して国会議員になったばかり、
フーテンは中曽根内閣の後藤田官房長官を担当する政治記者だった。
永田町では全野党が「田中辞職勧告決議案」を国会で議決しようとしていた。
議員会館に野坂さんを訪ねると、野坂さんは秘書と二人きりでがらんとした部屋にいた。
そこで野坂さんが言ったのは「国会というところは何が何だかさっぱりわからん」だった。
野坂さんが嘆くのは無理もない。国会は議席の数がものを言い、
二院クラブのような小会派には「何が何だかわからない」仕組みになっている。
そこでフーテンが記者として知りえた情報を野坂さんに提供し、
野坂さんが発行する手書きの「鬼門タイムス」という新聞の材料にしてもらうようになった。
何度か通ううち野坂さんの不満は野党に向いている事が分かった。
「国会に来て野党の駄目さが良く分かった。
選挙で選ばれた政治家を国会が辞職勧告するのは筋が通らない」と言う。
「その通りです。田中角栄を辞めさせるなら選挙で落選させるのが筋道です」と
フーテンも言うと、野坂さんは「鬼門タイムス」に「求む!新潟三区立候補者」の一文を書いた。
そこでフーテンが
「野坂さんこそ新潟高校卒業生で親父さんは新潟県副知事だったのだから出るべきですよ」
と言うと、野坂さんはフーテンをじろりと見て「俺は当選したばかりだ。
まだ辞めるわけにはいかん」と即座に言った。
ところがそれからひと月ほどで野坂さんは記者会見を開き、
参議院議員を辞任し衆議院新潟三区から立候補する意向を表明する。
フーテンには言わなかったが、様々な情報を集めて立候補の可能性を探っていたらしい。
その日、後藤田官房長官は会見で
「当選は無理だが、マスコミが騒ぐのを野坂さんは計算している。野坂さんは天才だ」と言った。
こうしてロッキード事件で有罪判決を受けた田中角栄氏と「戦後焼け跡闇市派」の野坂さんが
選挙で戦う事になる。メディアは「雪国対決」と囃し立て、
フーテンは新潟三区に入り込んで取材をする傍ら、
選挙のやり方についてアドバイスをすることになった。
東京から来た選挙スタッフは、野坂さんの唄を街宣車で流しながら
有名女優などを動員する選挙戦を考えていたが、
フーテンは地元紙の記者たちと相談し、
最も雪深い僻地で教育や医療に従事する人たちと野坂さんが膝づめで語り合う
選挙戦術を考えた。その方が県民の支持を集めやすいと判断したからだ。
それを野坂さんに提案すると野坂さんはすぐに町場での選挙運動を切り上げ
豪雪の山奥に入って行った。
すると「野坂さんは売名行為ではなく本気で選挙に出た」という噂があっという間に
選挙区中に広まる。
そこでフーテンはさらに「田中元総理は高速道路や新幹線を作ったがその使命を終えた。
田中さんが作ったハードに乗せて私は文化を運ぶ。ソフトの時代の新潟を作る」と訴えるよう提案した。
野坂さんはじっと聞いて何も言わなかった。
そして演説で訴えたのは「飢えた子どもの顔は見たくない」という「火垂るの墓」のテーマだった。
フーテンの提案は受け入れず、またメディアが期待した田中批判でも金権批判でもなく、
自らの原点である戦争体験と農業の大切さを訴える事が野坂さんの選挙戦だった。
フーテンは野坂さんの戦争体験の重さを改めて感じさせられた。
この選挙で田中元総理は22万票という驚異的な得票を集め、
日本の司法が下した判決を地元の民意が総ぐるみで否定した。
そして野坂さんは3万票弱で次点に敗れた。しかしこの票数は野坂さんに重くのしかかる。
選挙戦で野坂さんは各地で本気度を試され、新潟に移り住む覚悟を迫られた。
そのため選挙区に家を1件借りることになる。
フーテンは東京と往復しながら次の選挙に臨めば良いと思ったが、
諸般の事情がそれを許さなかった。
借りた家にはボランティアの学生が一時住んでいたが、
野坂さんには次第に負担になっていったようだった。
フーテンも選挙が終わると「闇将軍」として政界に君臨する田中角栄氏の取材を
担当する事になり野坂さんと会うことも少なくなった。
最後にお会いしたのは2001年にフーテンが経営するCS放送の「国会テレビ」に
野坂さんが出演してくれた時である。
「国会テレビ」は田中角栄氏を取材するうち日本の政治構造に疑問を抱いたフーテンが、
米国の議会中継専門テレビ局を真似て作ったものだが、
野坂さんは米国を真似する事に批判的な様子が伺えた。
その夜、銀座に誘われて酒を飲んだのが今生の別れとなる。
病に倒れたと聞いて会う事は難しいと思っていたが、今年の政治の動きを見るにつけ、
もう一度話を聞きたいと思っていた矢先の訃報だった。
元秘書の中島氏が野坂さんの死に顔を写真に撮って送ってくれた。
口ひげをはやした死に顔には武将を思わせる威厳があった。合掌。
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