http://www.asyura2.com/15/senkyo197/msg/813.html
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反戦漫画を描きながら「反戦」と言わない水木しげるさんと、「美しい国」を唱える人たちの違い。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/26380f65b7f46f88dd2207b02009daee
2015年12月10日 Everyone says I love you !
コミック昭和史 1~最新巻(文庫版)(講談社文庫) [マーケットプレイス コミックセット]
水木しげる著
講談社
中国人民のねばりづよい抵抗にあい、日中戦争は膠着状態におちいった。撤退もままならぬ中で、日本の軍部は太平洋に眼をむけた。石油資源を確保するためである。大東亜共栄圏の美名のもとに作戦が練られる。開戦を避ける日米交渉も決裂。昭和16年12月8日、真珠湾に奇襲をかけ、ついに太平洋戦争へ突入。
さきほど、マガジン9条に載った雨宮処凜さんの記事
第358回水木しげるさんの死〜なぜ「戦争反対とは決して言いません」だったのか。の巻
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/24461/
を読んで、なぜ、私が安倍首相や橋下市長の政治のやり方に反対するのか、思うところがありました。
水木さんの死を悼んで、水木さんの8ページの漫画「従軍慰安婦」をご紹介させていただいた記事は、おかげさまでうちの小さな記事の100本分くらいのアクセスを集めました。
追悼 戦争で片腕を失った水木しげる先生が描いた「従軍慰安婦」。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/ab43aa09a246ca265aaa7ac4f53aa4e6
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カランコロン漂泊記 ゲゲゲの先生大いに語る
水木 しげる (著)
小学館より。
この漫画を読んでいたいただいたり、この記事に載せた多くの反戦漫画を読んでいただいたらお分かりになるように、水木しげるさんは、決して反戦漫画を描かなかったわけではありません。
それどころか、日本で最も反戦漫画を描いた漫画家の一人だといえるでしょう。
しかし、その水木さんが、インタビューなどで反戦を声高に唱えなかったことについて、雨宮さんはありきたりのようですが
『氏が「戦争反対」という言葉を決して言わない理由が、なんとなくだけど、わかった気がした。
「戦争反対」という、ある意味でありきたりな言葉では、とても言い尽くせない思いがあったのではないだろうか。
たった四文字の漢字になどとても託せないほどの、経験していない者には決してわからない気持ちが、氏にその言葉を吐かせなかったのではないだろうか。』
と書いておられます。
それが証拠に、水木さんは
《『総員玉砕せよ!』のあとがきで、以下のように書いている。
ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りが込み上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う。》
と。
総員玉砕せよ! (講談社文庫)
水木 しげる (著)
講談社
昭和20年3月3日、南太平洋・ニューブリテン島のバイエンを死守する、日本軍将兵に残された道は何か。アメリカ軍の上陸を迎えて、500人の運命は玉砕しかないのか。聖ジョージ岬の悲劇を、自らの戦争体験に重ねて活写する。戦争の無意味さ、悲惨さを迫真のタッチで、生々しく訴える感動の長篇コミック。
ここが、百田直樹氏が特攻隊員を描いた「永遠の0」などとの決定的な違いなのでしょう。
百田直樹氏の作品は、むしろ反戦を唱えているんです。
しかし、特攻隊員の死を美化してしまっている。
宮崎駿氏がそれを、「またばかなことを書いている奴がいる」と激怒していましたが、戦争で死んだ人を「尊崇する」と称して美化することは、馬鹿にすることに近いのです。
安倍首相の戦後レジームを破壊して「美しい国を取り戻す」も同様です。
戦前だって人間の営みがあったのですから、もちろん何もかも真っ黒だったわけじゃない。
しかし、日本の植民地支配や侵略をありのままに学ぶのは自虐史観だとして、「慰安婦」はただの売春婦だ、南京大虐殺はなかったなどと歴史を捻じ曲げてしまったら、それは戦争で死んでいったすべての人を馬鹿にし、踏みにじることになるのです。
アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫)
野坂昭如 著
新潮社
奇しくも、本日亡くなられた野坂昭如氏が原作を描かれた火垂るの墓を映画化した高畑勲監督(宮崎駿監督の盟友)も、この映画は反戦の役には立たないのではないかと書かれた。野坂昭如氏は、昭和42年に発表した「火垂るの墓」を含む二作品で翌43年直木賞を受賞。
絶対ハズレなし 超お勧め映画! 火垂るの墓 「4歳と14歳で生きようと思った・・・」
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/7c4ef39ff9b851630527ff26132d6e8c
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しかし、私がアベ政治や橋下維新の政治を思い出したのはそこではありません。
今の日本経済、だれが首相として担当しても難しいのはわかるのです。
だって、財政赤字でお金がないのに、少子高齢化の中、福祉を実現しないといけない。非常に困難です。
そんな時に、
「そうだ、日銀がお札をどんどん刷ればいい」
などという万能の特効薬、「解決策」を持ち出すことが、どれだけ罪深いことか。
また、大阪経済はさらに難しい、そこを難しいといえばいいのに、大阪の問題は二重行政の解消で解決できる、大阪都にすれば毎年4000億円の財源が出ます、いや無限に出ますと言ってしまう橋下市長らの傲慢さ。
それらは、ありていにいえば、虚構の栄光、縮めると「虚栄」です。
それこそが、「反戦」さえ口にしなかった水木しげるさんが最も嫌ったものでしょう。
だから、控えめに、しかし断固として、「慰安婦にバイショウはすべきだろうナといつも思っている」と90歳になっても書かざるを得なかったのだと思います。
白い旗 (講談社文庫)
水木しげる著
講談社
玉砕か、降伏か、人間の尊厳を問う衝撃の問題作!戦記ドキュメンタリー完全復刻!
「硫黄島は、その名のごとく硫黄の島であった。井戸を掘っても、硫黄臭い海水まじりの湯が出る」。昭和20年2月、米軍に包囲されながらも、日本軍は必死に戦っていたが、押し寄せる物量の前に徐々に攻略されてしまう。やがて弾薬も食料も尽き、決断の時が迫る。玉砕か、降伏か、人間の尊厳を問う衝撃の問題作。
水木しげるのラバウル戦記
水木 しげる (著)
筑摩書房
太平洋戦争の激戦地ラバウル。水木二等兵は、その戦闘に一兵卒として送り込まれた。彼は上官に殴られ続ける日々を、それでも楽天的な気持ちで過ごしていた。ある日、部隊は敵の奇襲にあい全滅する。彼は、九死に一生をえるが、片腕を失ってしまう。この強烈な体験が鮮明な時期に描いた絵に、後に文章を添えて完成したのが、この戦記である。終戦直後、ラバウルの原住民と交流しながら、その地で描いた貴重なデッサン二十点もあわせて公開する。
敗走記 (講談社文庫)
水木 しげる (著)
講談社
戦争を生き抜いた著者がつづる生と死の物語
戦記ドキュメンタリー完全復刻!
昭和19年、南太平洋ニューブリテン島中部、部隊は壊滅的打撃を受けたものの、ひとり生き延び、仲間の鈴木と合流することに成功する。そして断崖を通り抜け道なき道を進み、敗走を続けた。敵に追われ、飢えや渇き、暑さに苦しみながらも九死に一生を得た著者が綴る、生と死の物語。戦記漫画の傑作を6編収録。
姑娘 (講談社文庫)
水木 しげる (著)
講談社
中国侵略の途上、日本軍のある部隊が山村にいた若い美女・姑娘を発見、捕虜とする。だが姑娘と出会ってしまったことで、分隊長と上等兵の運命は予想もしなかった方向へと向かい出す(表題作)。その他、戦艦大和艦長・有賀幸作の苦悩を描いた「海の男」など4作品を収録。戦争を体験した著者が描く戦争の悲劇。
本当に実体験から戦争を書ける人が少なくなっていく。
第358回水木しげるさんの死〜なぜ「戦争反対とは決して言いません」だったのか。の巻
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/24461/
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11月30日、漫画家の水木しげる氏が亡くなった。
その訃報に触れた時、「ああ、やっぱり会えなかったか…」としみじみ思った。
本当は、今年の1月、水木氏に取材をすることになっていた。取材内容は、水木氏の戦争体験。マネージャーの方を通して本人の快諾を頂き、日程も決まっていたものの、取材数日前、体調を崩されたとのことで話は流れてしまったのだ。高齢のため、大事をとりたいという旨の丁寧な連絡を頂き、残念だったが、出版の日も決まっていたので「水木氏への取材」は叶わぬ夢となってしまった。その本が、今年7月に出版した『14歳からの戦争のリアル』だ。本書には、実際に戦争を経験した人として、俳人の金子兜太さんと女優の赤木春恵さんにご登場頂いている。
そんな水木氏の取材を巡るやり取りの中で、私の中に強く印象づけられた言葉がある。それは取材を快諾して頂いた際の、マネージャーさんからのメールの言葉。
高齢のため、長時間の取材は受けられないなどのいくつかのことわりの言葉の後に、こんな文章が続いていた。
「それと水木は『戦争反対』とは決して言いません。
そのために、記事をうまくまとめられない記者さんも過去にはおられました」
ラバウルの激戦地に送られ、左腕を失い、生死の境を彷徨うほどの経験をし、仲間も多く失った氏なのに、なぜ、「戦争反対」とは決して言わないのか。取材が叶った際には、そのことをこそ、聞きたいと思っていた。しかし、もう氏はこの世にいない。永遠に解けない謎だけが、私の中に残された。
この国の多くの人が「水木漫画」の影響を受けてきたように、私も子どもの頃から彼の漫画のファンだった。のちに「ガロ」系漫画に猛烈にハマったのも、おそらく水木漫画という下地があったからだと思う。
そんな氏の存在が私の中で決定的に変わったのは、ある本を読んでからだ。それは『昭和二十年夏、僕は兵士だった』(梯久美子 角川書店)。戦争を体験した人々にインタビューをしている本書で、水木氏は今から7年前の08年、86歳で取材を受けている。
氏の体験は、やはり壮絶だ。しかし、本人の語り口はあくまでも飄々としている。寝ることと食べることが最優先のライフスタイルを軍隊でも変えず、毎日遅刻して毎日殴られたこと。交代で不寝番をし、望遠鏡で海上を監視していたら、ついオウムに見とれてしまい、小屋に戻るのが遅れたこと。すると小屋が直撃弾を受けて、分隊は全滅したこと。また、仲間がどんどん「勇ましい戦死」とはほど遠い形で命を失っていったことも語られる。
ある者は生きた魚を喉につまらせて死に、ある者はワニに食べられて死ぬ。それも、何人も。川に落ちた帽子を拾おうとして水に少し手を入れるなどした際に、あっという間に引っ張られるのだ。ワニは上半身だけ食べて下半身は泥の中に埋めておく習性があるそうで、2、3日経つとゲートルをきちんと巻いて靴を履いたままの下半身が流れてくるのだという。そんな描写が続いたかと思うと、現地の集落の人たちと仲良くなり、のんびり暮らす彼らの村に入り浸るようになった上、自分の畑まで作ってもらうというあり得ない展開になる。
戦争が終わった時、水木氏は現地の人々に「ここに残れ」と言われたという。「みんなとトモダチになったし、景色はきれいだし、のんびり暮らせるし。自分に合ったところだと思った」という氏は現地除隊を一時は真剣に考えた。しかし、相談した「軍医殿」にとにかく一度日本に帰るよう説得される。もし、この時、水木氏が現地除隊していたら、『ゲゲゲの鬼太郎』などの名作が生まれることはなかったのだろう。
そんな氏の不思議な戦争体験を知った私は、彼の戦争体験を綴った漫画を読み漁った。『総員玉砕せよ!』『敗走記』、イラストと文章からなる『水木しげるのラバウル戦記』などなど。
「私はなんでこのような、つらいつとめをせにゃならぬ」。慰安婦が歌う「女郎の歌」を、最後の突撃の前に兵隊たちが歌う『総員玉砕せよ!』。印象的なシーンはたくさんあるが、もっとも強烈に覚えているのは、敵に撃たれて負傷し、倒れた仲間の指を切るシーンだ。
まだ生きているというのに、「遺骨を作るんだ」と上官に言われ、スコップの先で小指を切り落とす。土砂降りの雨の中、指を切られた兵隊は去っていく仲間の気配を感じ、「おめえたちゃあ行っちまうんか」と呟く。
『水木しげるのラバウル戦記』には、氏が左腕を失った際の描写もある。寝ている時に敵機のマークが上空に見え、穴に避難しようとするものの間に合わない。そこに爆弾が落ち、左手に走った鈍痛。バケツ一杯あまりの出血をし、翌日、「七徳ナイフみたいなもの」で軍医が腕を切断。「モーローとしていて、痛くなかった」という。が、その後、マラリアが再発。以下、『水木しげるのラバウル戦記』からの引用だ。
一日中寝ているしかなく、ぼんやりと考えごとばかりして暮らしていた。文明なんてなんだ、いじめられ、そして、何かあると天皇の命令だから死ねとくる。また、忙しいばかりで何もない。それにくらべて土人(著者注 現地人のこと)の生活は何とすばらしいものだろう。即ち、日本人には味わえないゆったりとした心があるのだ。
いぜんとして乾パンもめしものどを通らず、熱も下がらないまま、ある夜、注射が突然こわくなり、じっとしていられなくなって軍医のところへ行こうとヨロヨロ歩きだした。
あとでわかったことだが、少し狂ってきていたのだ。意識もあまりはっきりしていず、気がついた時は、豪雨で川みたいになった道をヨロヨロと歩いていた。熱い体に冷たい雨が、なんとなく心地よい。あたりは真っ暗。
そのうちジャングルの中に入り、前にもうしろにも行けなくなった。動こうと思っても、指と首ぐらいしか動かない。「ああ、俺はこんなところで死ぬのか」と思ったまま、意識がなくなった。
ガヤガヤという声がして、二、三人の戦友と軍医さんに手足を持って壕の中へ運ばれ、リンゲルという注射を打たれた。
病気は一進一退で、寝たままだった。外では玉砕の歌が歌われ、死の気分が漂っている。いま生きたとしても、どうせ敵が上がってきて一年後には死ぬだろうというのが、そのころの兵隊の気持だった。前線は、はるか先の沖縄あたりになっているのだ。
ジャングルに埋もれた、左手のない遺骨。一年後の自分の姿を想像したり、頭も少しおかしかったとみえて、軍医さんをなぐったりしたのもこのころだ。
水木氏のこういった描写や漫画を読んでいると、「ああ、こんなふうに死んでいったんだろうな」という無数の死者の無念がひしひしと伝わってくる。東部ニューギニアだけでも、日本兵の死者は12万人を超えるという。
この原稿を書くにあたり、水木氏の戦争漫画などを改めて読み返して、氏が「戦争反対」という言葉を決して言わない理由が、なんとなくだけど、わかった気がした。「戦争反対」という、ある意味でありきたりな言葉では、とても言い尽くせない思いがあったのではないだろうか。たった四文字の漢字になどとても託せないほどの、経験していない者には決してわからない気持ちが、氏にその言葉を吐かせなかったのではないだろうか。
水木氏のインタビューをした梯氏は、『昭和二十年夏、僕は兵士だった』で以下のように書いている。
インタビューの中で、水木氏は一度も、いわゆる正論を吐かなかった。あくまでも”駄目な二等兵”の視点から戦争を語り、見出しになるような決め台詞や恰好いい言葉はひとつも出てこない。
おそらく氏は「美学」が嫌いなのだ。食べて、排泄して、寝る――戦記マンガの中で繰り返しそのことを描いたのも、戦場における「美学」の対抗軸としてではないだろうか。美学に酔って、人間を軽んじた軍人たちへの痛烈な批判がそこにはある。
そんな水木氏は、『総員玉砕せよ!』のあとがきで、以下のように書いている。
ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りが込み上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う。
戦死者たちの霊に突き動かされるようにして「戦争」を描いた漫画家が、戦後70年の冬、93年の生涯を終えた。
水木氏の戦争漫画は、妖怪漫画とともに、長く読みつがれていくだろう。
ああ、でも、一度お会いしたかった!
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