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り・びじょん2 せんそうとかくめい
1941年、対米開戦をめぐる御前会議の内容は米国大使に漏れていた。情報を提供したのはおそらく吉田茂ではないかと五百旗頭真はいう。
『米国の日本占領政策』 五百旗頭真 …………
第七章 国務省原案の成立――1944年
日本の戦後処理という問題にグルーが真正面から踏み込んだのは、8月25日に「戦争目的」をテーマとするラジオの番組に出演した時である。軍国主義者の圧政から解放された日本人が、戦後、教訓を学び取って立ち上がり、彼ら本来の美質を発揮するであろう、との展望をグルーは語った。米国の任務は、日本の旧弊を切除しつつも、民主主義と国際主義のもとでの再生の機会を与えることでなければならなかった。
そして、カイロ宣言が発表された12月には、グルーの姿勢はいっそう明瞭となった。「日本の軍国主義者は日本自身の最大の敵である」と断定した。さらに、天皇を善良な一般日本国民の代表として位置づけ、その擁護論にまで進もうとする。天皇が真珠湾攻撃前の御前会議(1941年9月6日)において、対米戦争反対の異例の発言をおこなった秘話を、グルーはラジオ放送で披露した。43年12月16日のダンバートン・オークスでの演説において、グルーはさらに天皇制の問題に踏み込んだ。「天皇は戦争を望んでいなかった。そのことは詳細な内部情報によって明らかである。」しかしながら「天皇は実際のところシンボルであるに過ぎない」。歴史上、天皇の先祖は将軍たちによって、何世紀もの間、京都に閉じ込められてきた。「もし1941年に天皇があくまで抵抗しておれば、東条将軍もしくは他の軍事独裁者によって新たな幕府が樹立されたであろうことを、自分はいささかも疑わない」。
なぜグルーは、かくも確信をもって天皇が〈真珠湾〉に責任がないと断定するのか。
1941年10月25日、日本政府の「最高指導層と接触のある」「信頼すべき日本人情報提供者」が、グルー大使に面会を求めた。グルーが日記にもその名を伏せたこの日本人は次のように語った。――10月16日の近衛内閣総辞職以前に御前会議があり、その席で天皇は軍の指導者たちに対し、対米不戦の政策の確認を求めた。陸海軍の指導者はそれに答えなかった。すると天皇は、祖父の明治天皇が追求した進歩的政策に言及して、自分の意向に従うことを陸海軍に命ずる異例の発言を行った。東条が現役大将のまま首相となったのは、陸軍を効果的に統制しつつ日米交渉を成功裏にまとめるためである、と――。
ある「日本人情報提供者」がグルーに告げようとしたのは、9月6日の御前会議の概要である。(中略)
50日を経た10月25日時点でのアメリカ大使へのリークが、誰により、どのような経緯からなされたのか。日米関係が戦争と平和の間のとがった稜線をきわどく歩む当時の状況において、日本政府の奥深くでなされた会議の最高機密を、ほかならぬ米国大使にもらすことは、国家反逆罪にも相当する行為である。忠実な公僕や節度ある親米家のなしうる業ではない。第一に日本政府内の高度な情報に通じ、第二に常軌を逸した大胆な行動を取る蛮勇に恵まれ、第三にグルーとの間に格別に親密な関係を持つという三条件を満たしうる人物は、樺山愛輔か吉田茂以外に考えられない。グルー文書に収められている当時のグルーの面会リストや日誌からも、二人のうちのどちらかである可能性が高いと感じられる。もう一つ、機会を喪失した近衛が、その挽回を計る季節はずれの努力として人を遣わした可能性も考えられないではない。グルー日記に示される行動様式や、牧野伸顕を通じて高度な情報に接しうる立場を考えれば、吉田である公算が高いであろう。(後略)
……………………
「日本人情報提供者」がグルーに「詳細な内部情報」を提供したのは何のためだったのだろう、そして両者の情報交換はいつまで続いたのだろう。毎日新聞の連載「原子の森深く」は湯川秀樹博士は広島の原爆投下を知っていたのではないか、という疑問を弟子に当たる森一久が抱くところからはじまる。情報ルートは戦争中にもつながっていたのだろうか…。
一方で、昭和天皇とその周辺のトップエリートたち「宮中グループ」と「軍」との関係・相克についてこんな報告もある。
『象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦「日本計画」』 加藤哲郎 …………
ライシャワーの傀儡天皇構想
雑誌『世界』2000年3月号に、カリフォルニア大学サンディエゴ校T・フジタニ教授が、興味深い論考を寄せている。
「新資料発見 ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想 と題して、ハーバード大学で長く日本史を講じ、ケネディ大統領時代に駐日米国大使として来日し「日本の近代化の成功」を説いたエドウィン・O・ライシャワー教授が真珠湾攻撃一年足らずの1942年9月14日付でメモランダム(覚書)を作り、日米戦争勝利後の「ヒロヒトを中心とした傀儡政権puppet regime」を陸軍省次官らに提言していた、というのである。
それは、戦後米国の代表的「知日派」ライシャワーの、日本や日本文化に対する愛着・尊敬から発したものではなかった。T・フジタニが見出したように「日本の人々を侮蔑しており、また存続させようという天皇そのものについても軽蔑的な態度」が染み出ていた。
以上に概略を見た「日本計画」ダイジェスト版三頁だけでも、1942年6月時点での、米国における対日心理戦略の基本的方向がうかがわれる。米国を中心とした連合国の戦争の文明と国際法にのっとった大義を示し、日本の戦争を、文明からの逸脱であり侵略的企図を持つものとしてアジア人に示すこと、戦争に導いた日本の軍部と「天皇・皇室を含む」国民との間に楔を打ち込み、「軍部独裁打倒」に力を集中することである。
1942年4月のCOI対外情報部の草案は、――
「目的D 日本人に、新体制が誤った概念であり、達成不可能であると確信させること。新体制を作るあらゆる試みが、苦労・悲惨・貧困の増大と数百万の日本人少年の無益な死に帰結する」
「目的G 国内の多くの派閥をフルに利用し、それら不満グループをさらに離間させること。
「3 藩閥将校対『青年将校』」では、最近の軍内部の薩長藩閥将校から青年将校への主導権の移動を挙げ、暴力的で過激主義の青年将校たちが『リベラルな藩閥将校』を駆逐しつつあること、この貧しい農村出身の青年将校たちの政治哲学は『きわめて社会主義的で反ビジネスstrongly socialistic and against businessmen』であること。等々を述べる。
……………………
ここから一方には貧しい農村出身の青年将校たち(『きわめて社会主義的で反ビジネス』)が主導権を握る「軍」「新体制」運動(それに対するアメリカの恫喝――『数百万の日本人少年の無益な死』)と、他方にはアメリカがパペット・操り人形として利用しようとする(逆から言えばアメリカを利用して生き残りを図る)昭和天皇と吉田茂などの「宮中グループ」の姿が浮かび上がってこないか。
この時代を雨宮昭一はこう描写している。
『占領と改革』 雨宮昭一 …………
総力戦体制と敗戦
総力戦体制の前の時代である1920年代の日本の社会は、どのような社会であったのか。農村における過酷な地主・小作関係、都市労働者の無権利状態、古い家族制度のもとで抑圧された女性の地位、都市と農村での生活水準の違いなどを見ると、格差と不平等のある社会であったことは明らかである。それをドイツの場合と比較してみよう。
ドイツは第一次世界大戦の敗北によって、占領はなくても、政治、経済、軍事において民主化と近代化が進行した。しかし、日本の場合は、第一次世界大戦の段階では、総力戦体制としては、まだ非常に微弱であり、戦勝国であったこともあって、ドイツのような徹底的な変革の試練を受けなかった。
しかし、農村と都市、ジェンダー等々を含めた様々な格差と不平等は、1930年代以降も存在した。とくに1929年から始まる世界大恐慌の中では、この格差と不平等が緊急に解決すべき問題として出てくる。この問題の解決には三つの方法があったと考えられる。第一は社会運動による解決、第二は社会の中の支配層の進歩的な勢力と社会の中間層以下との連合による解決、第三は総力戦体制への参加による平等化と近代化、現代化による解決である。
第一の社会運動による格差と不平等の解決の方法は、治安維持法などによって運動が弾圧されたり、政治参加が限定されることによって不可能になった。
第二の社会の中の支配層の進歩的な勢力との連合は、どうだろうか。例えばスペインの場合には国外における反植民地運動と、国内における軍部と進歩派との同盟による民主化によって現実的に成功した。日本の場合には、民政党と無産政党との連合によりこの可能性はあったが、日中戦争によって不可能になった。
しかし、社会に存在する格差と不平等の問題は依然として残り、それどころか、一層強化された形で1930年代の後半には出てきた。したがって、いま言った第一と第二の二つの方向が閉ざされたことによって、大部分が第三の総力戦体制に参加し、平等化と近代化、現代化するという解決方法によることになる。
結論を言えば、日本では国家総動員体制(総力戦体制)によって社会が変革されたのである。1930年代の後半から40年代前半の総力戦体制によって、社会関係の平等化、近代化、現代化が進行した。
――
次に、以上みたような総動員体制がどのような担い手によってつくられたのかを見てみたい。
それは、社会の変革がすでに敗戦前に進行していて、この変革が占領期に、どういう人々によってどのように継承され展開していったか、という主体の側から問題を考えたいからである。
また戦争中に、単に受動的に国家総動員体制がつくられたり、社会関係を近代化、現代化したのではなくて、それを担う政治潮流が存在したということを明らかにしたいからである。
その政治潮流は四つあったが、これは戦時期あるいは総力戦体制期にだけあったのではなく、占領期、さらには占領以後の時代にも継続して存在している。
まずこの四つの政治潮流について概観しておこう。
第一の潮流は東条英機など陸軍の統制派、岸信介、賀屋興宣などの商工官僚を中心とした革新官僚、新興財閥を中心とした、上から国防国家を作ろうとするグループで、上から軍需工業化を強行的に行おうとした人々である。日本を軍需工業化するということは、それに即して社会関係の平準化と画一化が行われざるを得ない。このことによって、それまでのような前近代的、あるいは多様に存在する格差等々をある程度平等化、平準化、画一化するということがかなり強制的におこなわれたし、社会福祉や労働福祉の問題もこの工業化に即した形で改善せざるを得ないという側面をもっていた。たとえば、戦後社会党の政策審議会長になった和田博雄は当時企画院の官僚であったが、国防国家派であった。彼らは戦後、軍事抜きの国防国家派になる。
第二は社会国民主義派といわれる潮流である。これは第一次近衛文麿内閣が成立する前後に近衛周辺に結集したブレーンたち、昭和研究会系の人たちが多い。風見章、有馬頼寧などの農村の産業組合運動を基盤とする人々、麻生久、亀井貫一郎などの労働運動や農民運動の指導者、千石興太郎など1920年代に労働組合法や小作権法を作った官僚たちである。彼らは第一の国防国家派とは違って、社会運動も含めて下から社会を平準化する、近代化する、現代化することを考えていたグループである。それはやがて外に東亜共同体、内に社会国民主義というかたちで結集していく。
彼らは労働者、農民、中小企業経営者、女性などの平等化、現実の政治経済過程への参加を要請する。だから、国防国家派と社会国民主義派は、社会の平準化、画一化、平等化、現代化については同じ方向をとるが、国防国家派が全体としては軍需官僚を含めて官僚制を中心とした派であるとすれば、社会国民主義派は社会運動的思考を非常に多くもっていると考えてよいだろう。
第三の潮流は、自由主義派である。1920年代の財界主流と、それに基盤を置いた既成政党勢力や官僚の主流である。代表的な人物をあげると、20年代では田中義一、勝木礼次郎、浜口雄幸など、40年代では鳩山一郎、吉田茂などである。自由主義派は恐慌期の30年前夜の浜口、若槻内閣の時期には、徹底的な産業合理化、軍縮、財政整理など過激ともいうべき自由主義的政策を行い、軍部と大衆の双方から激しく抵抗された。彼らは、日本の経済は国家に補完される段階から、民間企業が自立した経営を行えるようになった(自由主義経済)と考える。40年代には総力戦体制に対し、反(あるいは非)総力戦体制を主張した。なぜかというと、総力戦体制は利潤本位を否定し、所有より経営を重視するというように、現実の自由主義的なシステムに対してかなりの制約や制限をおこなったからである。したがって自由主義派は総力戦体制に対して消極的であった。
最後の第四の潮流は反動派である。反動派には、真崎甚三郎などの陸軍の皇道派、末次信正など海軍の艦隊派、三井甲之などの観念右翼、大多数の地主などがいる。彼らは大正デモクラシーの時代に始まる労働運動や農民運動、あるいは軍縮運動によって既得権益を奪われ、総力戦体制によっても、一層既得権を奪われたので、総力戦体制に対して非常に反動的な動きをしたグループである。
――
総力戦体制は既得権を奪いながら再編成せざるを得ないので、既得権をもった潮流と、既得権をもたないで新しいシステムを作ろうとする潮流の対抗は必然的であった。
――
社会国民主義派と国防国家派の連合は東条内閣の成立でピークを迎えるが、国内での総力戦化への一層の進展と国外での軍事的敗退の始まりによって、東条内閣の後半には、総力戦体制に否定的な反動派と自由主義派の連合が台頭した。45年2月に出された「近衛上奏文」は、まさにこの反東条連合のマニフェストであった。
近衛の主張の趣旨は、現在政治を行っているグループは私有財産を侵し、家族制度を侵し、労働者の発言権を増大させているということに尽きる。私有財産を侵すという意味は、総力戦体制における所有と経営の分離、利潤本位から公益本位への経済の移行ということであり、非軍事産業から軍事産業への強制的な転業、非軍事産業の強制的廃業など転廃業の強制であった。つまり、私有財産を侵すものに反対するということを通して、総力戦体制の根幹的な問題にふみこむものであった。
総力戦体制下では現実に富を生みだし、労働するものが相対的に地位を向上せざるを得ないのである。したがって、従来の地主や資本家の思うがままの体制に対抗して労働者の福祉や保険の制度、地主の持前をいちじるしく削る食糧管理制度等々がつくられて、労働者や農民の経済的、社会的地位が向上した。それが、近衛上奏文の「労働者発言権ノ増大」という表現にあらわれている。
また家族制度を侵すというのは、総力戦・総動員体制の中で、女性労働力の社会への進出、女性の社会的地位の向上を意味した。
こうした総力戦体制を肯定するか否定するかをめぐる激しい争いに決着がつくのが、44年7月18日の東条内閣の総辞職であった。つまりここで、自由主義派、反動派を中心とする反東条連合が勝利したのである。
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したがって、占領と改革の問題を考えるときに、じつは敗戦ないし占領の前に、主流派になった自由主義派を中心とする政治潮流がすでに存在していたこと、また総力戦体制によって変革された社会が存在していたことが、敗戦、占領の前提となったと考えるべきであろう。
従来、占領と改革は総力戦体制と真っ向から対立するものと考えられてきたが、じつは総力戦体制の方向を引き継ぎ、完成させたという面があるのではないか。その意味でいえば占領と改革は戦後の原点とは言えないのではないか。吉田茂や鳩山一郎たちのような自由主義派は、敗戦後も引き続き、戦後改革に抵抗したのではなかったのか。戦後の出発点は反東条連合の成功と総力戦体制によって変革された社会にあり、それが日本における「社会民主主義的体制」だったという現在まで続く戦後の出発点でもあったのである
……………………
占領改革を推進しようとするニューディーラーたちを排除して「逆コース」を準備する動きに昭和天皇が深くかかわっていたことが今では知られている、そのことをここに付け加えておけばよい。そして、
『戦時戦後体制論』 雨宮昭一 …………
一方、総力戦体勢と占領改革による変化はいかなる社会を1950年代日本においてつくったか。
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この戦後体制において、冷戦=サンフランシスコ体制と一党優位体制と企業中心社会体制、そして民需経済体制というサブシステムは、相互に関連していた。それゆえ、そのうちの一つのサブシステムが変化しても、全体のシステムの性格は変化する。冷戦体制が崩壊すれば(その崩壊のひとつの不可欠の契機は、日本の戦後体制による“日米経済戦争”の日本側の“勝利”によるアメリカ経済の悪化→軍事費の負担減要求→米ソ緊張緩和→両国の軍事体勢の正当性の崩壊、である)――
……………………
ところで雨宮は奇妙に2.26について沈黙している。それは彼にとって「反動派」のエピソードにすぎないのだろうか。
この時代を「国家改造」と「対外進出」という軸で俯瞰してみよう。
日本は深刻な過剰人口、農地不足という問題を抱えていた。(と思われた。)日本の国土は狭すぎて、日本の人口を支えきれない、といって海外への移民という道は、排日移民法などによって閉ざされていた。これは人種差別だ。(と思われた。)海外へ商品を売ろうとしても世界市場は欧米の植民地になっていて、締め出された日本が利潤をあげ資本を蓄積することができなかった。(と思われた。)このままでは日本人は餓死者を出しつつ狭い国土に閉じ込められ、永久に貧困にあえぎ続けるしかない。(と思われた。)
国民を養う新たな土地を獲得し、資源と市場を求めて海外に「雄飛」するしかない。(と思われた。)
この認識は正しいだろうか。
石原莞爾がある講演で、日本国内でどうがんばっても三町歩の地主になるのがせいぜいだ、しかし満州へいけば三十町歩、いや三百町歩の地主になれる、と語っていた、これは「侵略」そのものではないか、と加藤陽子が毎日新聞で引用していた。
人口に対して「土地」の絶対量が足りないのなら、土地は「殺して分捕る」しかない。ある民族が自分たちの住んでいる土地が自分たちの命を支えきれなくなって新たな土地に流亡・移動を始め、するとその先にいた民族が追い立てられて玉突き状態で世界的な規模で民族大移動が始まる、その過程で滅び消滅する民族も出れば興隆する民族も出る、ということはかつて何度もあった。これはとめようとしても無理で、「自然現象・自然過程」でしかない。そういうことが起こったのだろうか。それなら、「侵略」だ、と言われたら、そうだ、それがどうした、と答えればよい。
しかし事態はそういうことではない。
戦後、海外から数百万の軍人、移住者が日本本土に引き上げてきて、一千万以上の餓死者が出るかと危惧された。しかしそういうことは起こらなかった。農地改革が成功したからだ。自分の土地を手に入れた農民は一億の人口を支えてみせ、さらにはコメあまり、減反などという現象を引き起こすまでになった。
土地の絶対量が不足していたのではない、地主・小作制度こそが問題だったのだ。
一国民が一年に産出する財(商品とサービス)の総額は、国民の一年の総収入(賃金・利潤・地代)に等しい。国民が生産し、しかし国民の消費しない部分(剰余)=利潤は国民の消費しない分野、生産財に投下するのでなければならない。しかし当時の巨大財閥は利潤を使いこなすことができなかった。利潤・地代が有効な需要として生産に投下されず貯め込まれてしまうと総需要が不足し、失業・貧困が発生する。と言ってマルサスが「人口論」で書いているように、労働者が生産したものを労働者が消費しきれないのだから、その分を貴族、富裕者が消費しなければならない、というのは現在ではあまりにもばかばかしい議論だ。
国民の総収入、賃金+利潤(地代は今では利潤に含めている)がすべて支出されれば国民の総産出はすべて売り切れる。利潤も実現する。海外に輸出した分が国の利潤であるわけではない。海外に植民地を獲得してその市場に商品を売り込まなければ国の利潤が実現しない、などということはない。帝国主義など必要はない。
自分では耕作しない土地を地主から取り上げ、直接耕作する農民に引き渡す、巨大な資本をコントロールできない財閥から資本を取り上げ、直接の生産者に引き渡す。それが課題であった。
つまりそれは「収奪者を収奪する」社会主義革命の課題であった。
雨宮の第一の「社会運動による解決」の頂点となったのが2.26クーデタであった。
国家改造に成功していれば、満州進出は革命の輸出であった。満州に財閥と不在地主のいない世界を作れていれば、国家改造・革命の輸入もありうると思われた。
『北一輝と「革命」の「アジア」』 萩原 稔 …………
だが、橘の目に映る中国革命の進展は必ずしも満足のいくものではなかった。彼は中国社会の自立性に着目し、強固な中央集権国家ではなく、村落共同体やギルドに見られる相互扶助的なつながりを基盤とした新中国の建設を望んでいた。しかし現実には資本家や地主と提携する蒋介石が実権を掌握し、中央集権的な体制を確立する。いわゆる国民革命は橘にとって「未完」の革命に過ぎなかったのである。
このような状況の中で起こった満州事変に対し、橘は当初否定的な態度を示していたが、事変からまもなく石原莞爾・板垣征四郎関東軍の幹部と会見する機会を得て、基本的に事変を支持する方向へと「転換」した。その理由として橘は関東軍の背後に「本国における同志将校の大集団」と「全国農民大衆の熱烈な支持」があったこと、そして「今次の行動の直接目標はアジア解放の礎石として、東北四省を版図とする一独立国家を建設」することにあるが、間接的には日本に対しても「真にアジア解放の原動力たり得るごとき理想国家を建設するような勢いを誘導する意図」を発見したことなどをあげている。橘は満州国の建設が日本の「国家改造」そして「アジア解放」へとつながる礎になると考えたのである。さらにいえば、橘が事変を支持した背景には、「未完」に終わった国民革命への批判があった。蒋介石という新しい軍閥を生み出した国民革命に対し、満州事変は東北軍閥(張学良)を崩壊させた。そして新たに成立する「満州国」が、少なくとも資本家や地主と癒着した軍閥勢力とは無縁であると判断したことにより、この国家で真の「革命」が実現すれば、中国にも日本にも少なからぬ影響を与えるに違いないと予測したのである。
……………………
国家改造のビジョンは戦後改革に引き継がれた。その方向性が正しかったことはその後の歴史によって証明されている。
貧しい社会は貧しい。当たり前だ、しかし豊かな社会も貧しくなることがある。
資本蓄積が少なく、生産性の低い世界は貧しい。しかし資本蓄積が進み生産性が高い世界にも貧困が発生する。たとえば100人の農民が100人分のコメしか生産できない社会では失業者など出していられない。しかし70人が働けば100人分のコメを生産できるようになると、30人が失業してしまう。30人が賃金を得られなければ30人分のコメが売れ残る。
資本が巨大になりすぎて、「資本家」の手に負えなくなったとき、社会主義革命が課題に上る。ところで、レーニンがロシアを引き継いだとき、資本は過剰であったのか。資本家の手に負えないほどの巨大な資本蓄積があったのか。そうではなかった。当時のロシアは「ヨーロッパのアフリカ大陸」とマルクスに揶揄される最後進国であった。ロシア革命とは百万台のトラクターとシベリアの電化だ、とレーニンがH.G.ウエルズに語り、クレムリンの夢想家、と評されたそうだけれど、レーニンの課題は資本の蓄積、蓄積につく蓄積、であった。過剰な資本をどう使いこなすか、ではなかった。そしてそれは「資本主義」の課題であって「社会主義」の課題ではなかった。レーニンが作り上げたのはコムニストがブルジョアジーの代わりになって国民を搾取し資本を蓄積する巨大な「国家資本主義」であった。それは「悪」ではない、ロシアにとって必要な「進歩」だ。しかしそれは「社会主義」ではなく、50年遅れの明治維新とでもいうべきものであった。レーニンの十月より北一輝の2.26方が本当の「社会主義革命の試み」であったと評価しなければならない。
補 利潤は増えたのではないことに付いて
利潤とは何か、という問いに経済学は答えられないことはかつては常識であった。
『科学としての会計学』 木村和三郎 …………
下 簿記理論
いじょう述ぶるごとく、従来の簿記原理の通説は、取引なる具体的現象における矛盾の統一性、すなわち等価と等価の交換でありながらしかもその累積的結果として企業利潤をもたらすという性質を把握せず、取引なるものを一面的・皮相的に解し、取引は――
第二編 原価計算論
原価計算は、生産された生産物の価値=価格を計算するものではないのであろうか、それとも、これらの引用がのべるように生産工程において消費された材料費、労務費、経費等の価値=核を計算するのであろうか、これが最大の問題である。生産工程は価値の消費と同時に生産である。我々は何物かの消費なしには生産することはできない。このような消費を生産的消費というのであるが、原価計算は生産的消費の価値を計算するのであるか、それともこれを媒介として生産された価値を計算するのであろうか、原価計算論者はこの重大な一点を全く看過して論じているのであり、このことは洋の東西を問わず、すべての会計学者、原価計算学者が簡単に見過ごしている一点である。もっとも、消費した価値と生産した価値とが同額、同僚であるならば問題はないのであり、いずれにしても同じ結果になるのであるが、そうすれば社会経済的には拡張再生産における剰余価値の創出の根源もなくなると同時に、個々の経営の利潤もその創出の基礎を失うことになる。我々の経済生活においては、剰余価値とりもなおさず利潤を創出し、増殖していることは我々の社会が生存していること、生活内容をより豊富にしている現前の事実を見てもこれを否定することはできない。
したがって、原価計算において消費された価値と、生産された価値とが量的に、したがってまた価値的に差等があり、生産された価値が消費された価値よりも大であるということは、理論の前提として疑うことができないのである。そこで、消費価値を計算するのか、生産された価値を計算するのか、ということが問題になる。
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