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杉原千畝が書き残していたユダヤ人ビザ発給の本当の理由
http://new-party-9.net/archives/2992
天木直人のブログ 新党憲法9条
日本政府の訓令に反してビザを発給してユダヤ人の命を救った外交官杉原千畝。
その功績をたたえる言葉やドラマが話題になるたびに、私は複雑な思いを抱く。
その人道的行為は称賛に値する一方で、シオニズムによる情報操作のなせるわざだということを知っているからだ。
訓令違反の故にながらく外務省から冷遇されていた杉原の名誉を挽回したのは、鈴木宗男が外務省の政務次官であった時だ。
その後ろには佐藤優がいた。
しかし、これから書くことは、そんな杉原千畝の評価の事ではない。
新しい事実の発見についてである。
きのう12月2日の毎日新聞が、杉原千畝の孫である杉原まどかさんのインタビュー記事を掲載していた。
杉原千畝の関連資料がユネスコの世界記憶遺産の国内候補に決まった事について行われたインタビューだ。
その中に、杉原まどかさんの次のような発言を見つけた。
「・・・外務省公電など計20点の登録申請物件の中に、杉原家にある祖父の自筆手記2点が含まれています。祖父は78年に書いた手記の中で、『全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みをかってまで、(中略)ビザを拒否してもかまわないのか、それがはたして国益にかなうことだというのか』と、ビザの発給にいたった心情を打ち明けています・・・」
これはものすごい発見である。
人道的見地からの発給だっただけではない。
ユダヤ人の報復をおそれて発給した事を、自らの手記で認めていたということだ。
ちなみに杉原さんが副理事長をつとめるNPO法人「杉原千畝命のビザ」が取り組んでいる活動は、「命の大切さ」と「平和の尊さ」を世界に発信する事であるという。
そこにはパレスチナ人の命の大切さや、中東和平の尊さについての発信も含まれているのだろうか(了)
◇
そこが聞きたい:「命のビザ」記憶遺産候補 杉原まどか氏
http://mainichi.jp/shimen/news/20151202ddm004070011000c.html
毎日新聞 2015年12月02日 東京朝刊
◇祖父の博愛精神を継承 NPO法人「杉原千畝命のビザ」副理事長・杉原まどか氏
第二次大戦中、多くのユダヤ人にビザを発給し、命を救った外交官、杉原千畝(ちうね)氏(1900〜86年)==の関連資料が国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界記憶遺産の国内候補に決まった。今月5日には新作映画「杉原千畝」が公開される。「命のビザ」が今に伝えるメッセージとは。その心を継ぐ孫のまどかさん(49)に聞いた。【聞き手・田中洋之、写真・内藤絵美】
−−「命のビザ」が記憶遺産の国内候補に選ばれました。
正直、非常に驚いています。祖父は本国から許可が下りず、悩みながらも「人の命を助けなければならない」との思いからビザ発給を決断しました。ユダヤ人を助ければ、本人だけでなく、祖母(故・幸子さん)や子供たちもゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密警察)に捕まる危険がありました。海外のサバイバー(千畝氏のビザで生き延びた人)たちは「日本政府がビザ発給を決めたと思っていたのに、千畝氏は自分の命をかけて独断で私たちを助けてくれたのですね」と感謝してくれます。ビザ発給の経緯を考えると日本では評価されにくい部分もあったので、記憶遺産の候補になったのは、祖父を知る世界の人たちの後押しがあったような気がします。
−−副理事長をつとめるNPO法人「杉原千畝命のビザ」はどのような活動に取り組んでいますか。
祖父の人道・博愛の精神を継承し、「命の大切さ」と「平和の尊さ」を世界に発信しようと、父(千畝氏の長男、故・弘樹さん)が2001年にNPOを設立しました。海外から日本を訪れるサバイバーたちの受け入れ窓口となるほか、日本各地で講演会や写真展を開催しています。祖父が外交官として欧州に駐在していた当時の写真は60点ほど残っています。第二次大戦が終わった45年に、祖父はルーマニアの日本公使館に駐在していました。祖父は終戦後、家族とともにブカレスト郊外の捕虜収容所に収監される際、荷物の検閲を受けて写真の多くを没収されましたが、祖母が「家族の思い出の写真だけは残して」と食い下がり、日本に持ち帰りました。これだけ残っているのは奇跡的といわれています。
記憶遺産登録については、祖父の出身地で杉原千畝記念館がある岐阜県八百津町から昨年暮れに話がきました。「本当にできるのだろうか」と思いましたが、打ち合わせを重ね、NPOとして協力することにしました。外務省公電など計20点の登録申請物件の中に、杉原家にある祖父の自筆手記2点が含まれています。祖父は78年に書いた手記の中で、「全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みをかってまで、(中途略)ビザを拒否してもかまわないのか、それがはたして国益にかなうことだというのか」と、ビザの発給にいたった心情を打ち明けています。
−−ユネスコで次の記憶遺産が決まるのは再来年です。どういう準備を?
当時のビザ発給表、いわゆる「杉原リスト」によると、祖父は計2139通のビザを出しましたが、これを証明するオリジナルのビザで日本に実存しているのは1通だけです。サバイバーの故アレキサンダー・ハフトゥカ氏に発給したもので、ビザが記載された貴重なパスポートを米ニューヨーク在住の娘シルビアさんが93年に八百津町に寄贈してくれました。一方、他のビザの多くが現在どうなっているのか分かっていません。発給から75年がたち、多くのサバイバーが亡くなりました。ビザを失ってしまった人がいるかもしれません。記憶遺産に登録されるには、その書類がきちんとした形で保管・管理されている必要があります。私たちは世界にいるサバイバーの関係先を訪ね、ビザの実物を確認して回る作業に入っています。
−−千畝氏について特に思い出深いことはありますか。
祖父は私が20歳になる直前まで存命でした。時間に正確で、きちょうめんな人でした。外交官時代の話はほとんどしなかったですね。ただ、小中学生のころクラシックバレエをしていた私に「本場のボリショイ・バレエ団(モスクワ)に入りたいのなら、僕が留学させてあげるよ」と言ってくれました。それは実現しませんでしたが、ロシア語を学び、外務省を辞めたあと商社マンとしてモスクワで15年間働いた祖父は、ロシアのことをとても愛していました。
−−杉原家とサバイバーとの交流は今も続いているそうですね。
大学生の長男が昨年と今年、ワーキングホリデーでオーストラリアのシドニーに行った際、サバイバーである故ドラ・グリンバーグ氏の孫にあたるダニエルさんの自宅に滞在しました。ダニエルさんは長男に「いつでもいらっしゃい。あなたの家はここにあるのだからね」と言ってくれました。祖父が救った尊い命のつながりを強く感じます。祖父が残したものを次の世代に伝えていくのが私たちの役目だと思っています。
◇聞いて一言
2001年にソ連崩壊10年でリトアニアを取材した際、カウナスの旧日本領事館に足を延ばした。意外とこぢんまりした建物で、多くのユダヤ系難民が取り囲む異常事態のなか、ビザ発給を決断し、ビザを書き続けた千畝氏の精神力に思いをはせた。現在、欧州には中東や北アフリカからの難民が大量に流れ込む。「祖父は困った人がいたら助けるたちなので、出かけていって自分ができることをしたでしょう」とまどかさん。千畝氏の信念を継ぐ取り組みが求められている。
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■ことば
◇杉原千畝
リトアニア・カウナスの日本領事代理だった1940年、ナチス・ドイツに迫害されていたユダヤ系難民らに対し、難民受け入れを制限する外務省の訓令に反する形で日本通過ビザを発給、シベリア経由での脱出を助けた。約6000人の命を救ったとされる。85年にイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を日本人として初めて受賞した。
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■人物略歴
◇すぎはら・まどか
1966年、神奈川県藤沢市生まれ。清泉女子大卒業、大手保険会社勤務を経て、2012年からNPO法人「杉原千畝命のビザ」の副理事長。理事長は兄の千弘さん(仕事でバンコク駐在中)。
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