11. 2015年12月02日 17:48:16
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2013/06/05 「憲法9条は日本人が作った」 作家・半藤一利氏、安易な改憲論に反論 〜「立憲フォーラム」 第4回勉強会 特集 憲法改正 自民党トンデモ改憲草案の正体を世界に周知させよう! 会員以外の方にも特別公開中! 「押し付け憲法だから改憲、という論を聞くが、憲法9条は日本人が作った」――。2013年6月5日、参議院議員会館で開かれた「第4回立憲フォーラム勉強会」に講師として登壇した作家・半藤一利氏はこのように話し、当時の幣原喜重郎首相が、GHQ最高司令官であるダグラス・マッカーサー氏と会談した際に、憲法9条案を進んで提案したと説明した。 著書『日本国憲法の二〇〇日』(プレジデント社)を出版した際は、マッカーサー氏側から提案があったと認識していた半藤氏だが、その後、勉強しなおし、先述の通りに結論を変えたという。 曰く、幣原氏とマッカーサー氏の会談は通訳を介さずに行われ、録音なども残っていないため、証拠はない。しかし、マッカーサー氏は「幣原が提案した」と語っており、幣原氏は「自分が作った」と語っていないものの、否定はしていない。 幣原氏が9条案を持ちだした背景には、1928年(昭和3年)8月27日フランス・パリで、日本を含む当時の列強諸国15カ国間で締結された「パリ不戦条約」がある、と半藤氏は語る。不戦条約は、第一条において、国際紛争解決のための戦争の否定と国家の政策の手段としての戦争の放棄を宣言しており、調印に関わった幣原氏は、同条項の影響を強く受けていたというのだ。
ところが、昭和6年の満州事変。半藤氏は言う。 「これが陸軍総ぐるみの謀略であることは間違いない。侵略戦争を『自衛』と称し、不戦条約違反にはあたらないとした日本に、世界各国は不信感を持った。国際的信用を失った日本はその後、太平洋戦争への道を突っ走った。せっかくの不戦条約を、日本自らが先に破ったのだ」 「もう一度この精神を取り戻す」。幣原氏のこの提案に、マッカーサー氏は感動し、同意したという。 新憲法制定に向けた議論を行う「衆議院憲法改正案小委員会」では、当時、憲法担当大臣だった金森徳次郎議員が1365回もの答弁に応じ、新憲法に関する議論は何重にも重ねられた。 「昭和21年4月10日、選挙法が変わり、婦人参政権も入った。戦後日本は、新しい議員たちが、選挙で選ばれ、新しい議会を形成した。そこに、政府が決めた憲法草案が提出された。新しい日本が始まった」。半藤氏は、こうした時代背景を語った上で、「決して憲法は押し付けでなく、戦後、新しく選ばれた議員による討議を経て、やっと作られたものだ。こうした事実をみろ、と言いたい」と、「押し付け憲法論」に何度も釘を差すように語った。 ここから会員限定<特別公開中> ―― 以下、全文文字起こし ―― 江崎孝・民主党参議院議員「みなさん、こんにちは。時間となりました。お忙しい中にお集まり頂きましてありがとうございます。私ども立憲フォーラムという会も、これで5回目を開催させて頂きます。本当に有難うございます。司会を担当させて頂きます事務局長の参議院議員の江崎と申します。どうぞ、よろしくお願い致します。 まずは、立憲フォーラムを代表して、代表の近藤衆議院議員のほうからご挨拶を申し上げます」 近藤昭一民主党衆議院議員「みなさん、こんにちは。今、司会の江崎議員からもご紹介がありましたが、第5回目ということになります。今日は、半藤一利先生に起こしを頂いて、立憲主義、また今の日本国憲法。先日にもお話をしましたが、あの戦争で多くの犠牲が、そうした歴史的ななかで、よくしっかり平和を作っていく。国民主権、平和精神、そして基本的人権を守っていくんだと。 国が勝手なことをしないように、こういうことで、その立憲主義を守っていくということで立ち上がった立憲フォーラムであります。そういう意味でも、今日は半藤先生に、歴史のことをいろいろお話を頂いて、また、国民主権、平和精神、そして立憲主義を守るために頑張ってまいりたいと思います。今日は、限られた時間ではございますが、半藤先生、よろしくお願い致します」 江崎「ここで、次回の資料も付けさせて頂いていると思います。このあと先生とお話をさせていただいて、そのあとに若干、次のことをお時間を取らせていただきたいと思いますけれども、今日は時間がありませんので、私の方で最初にお話をさせて頂きますけども、第5回の立憲フォーラムの会、96条先行改憲に反対する連続講演会。 次は4つのグループからの発言ということで、96条の会、日弁連、そして明日の自由を守る若手弁護士の会、自由人権協会。それぞれ4団体から来て頂きまして、そこのお話を聞いて、憲法観を考えています。第5回が、それが6月12日水曜日午後5時30分からでございます。 次回、その次、第6回が、曜日が間違ってますけども、6月20日木曜日です。11時30分から、現場の先生ですが、水島早稲田大学教授をお招きいたしまして、お話を聞いて、憲法観を考えるということになります。 いよいよ、選挙も含め、佳境に入ってまいります。まだまだ、96条が先行改憲、先行改正という動きが少し沈静化しているような状況もありますけれども、まだまだ動きは油断ならないものもございますので、どうぞこれからもガンガンとやりますので、これからもよろしくお願いしたいと思います。それでは、さっそく先生にお願い致します」 半藤一利氏「半藤でございます。わたくし83歳になりましたので、もうまもなくあの世に参るんですけれども、憲法を守るということでは、まだ頑張ってやろうと思っているところです。 ただ96条のことは、先生方、みなさんがたが頑張ったおかげでと言いますか。だいぶ声を潜めているようでございますが、まだまだ危ないと。警戒はしなきゃいけないと思ってますけども。 96条の話は、ちょっと私も、はじめはこのお話を引き受けた時にはやろうかと思ったんですが、ちょっと下火になったので、新しい話をしようかというふうに、今日は思っておりますので、96条とは違う話で、違う話じゃないんですが、ご承知いただきたいと思います。 私もほうぼう、いろんな話で、別に講演をするわけじゃないですが、いろんなところで聞かれるので。立憲主義って、なんのかんのってやたらと言われているが、どんなことなんですか?と言われるんですね。 そこで私はひとことで答えることにしたんです。立憲主義っていうのは、多数者によるときの政府が、少数者を排除しないように、政府を縛り、歯止めをかけることなんだと。それが立憲主義。 もう一つ、言い換えれば、国家の横暴から国民を守ることである。それが立憲主義というもんだというふうに、あっさり答えることにしてるんですが、まあ、間違っているかもしれませんが、なにせ、わたくし憲法学者じゃございませんので、こういう言い分で答えております。 今日は、実は何をお話しようと思いまして。参議院選挙が終わりますと、どういう結果になるのか分かりませんが、またぞろ、憲法改正ということが言われだしまして、たぶん第9条を変えようという声が一番大きくなるんじゃないかと思います。 この9条の問題について、わたし今日、ちょっとお話申し上げたいと思います。実は、わたくし、ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、10年ぐらい前に『日本国憲法の200日』(※1)という本を出しております。この『200日』という本の中では、9条を最初に言い出した言い出しっぺはマッカーサーだというふうに書いてるんです。書いてる。 (※1)『日本国憲法の200日』(半藤一利 著 文春文庫) 2008年04月10日 ■ISBN 9784167483173 実際は、幣原喜重郎総理大臣とマッカーサーとのあいだで話し合いがあったときに、どちらが先に言い出して、どちらがそれに納得して、というようなことは、証拠物件としてはないんです。マッカーサーの発言と幣原さんの発言とか、いろいろあるんですけれども、幣原さんは、どういうわけか、自分の側近の人たちには、俺じゃないというような言い方をしてるんで、そのときの側近の人たちに取材をした時には、大体の人がみんな、どうも幣原さんじゃないようだというようなことを言う方が多かったんです。 それで、たぶん、それじゃあマッカーサーなのかなということで、あの本のなかでは、マッカーサーと書いておりました。書いてあるんです。あの本は、どちらかというと、その9条を主題にしたわけではなくて、天皇陛下の、昭和天皇の、天皇の象徴性というものを、それがどういうふうにしてでき上がったのかと。 天皇の戦争責任を絡みながら、天皇象徴性、国民主権というものがどういうふうにでき上がったのかというところに主眼を置きまして、それで書いた本なもんですから、憲法9条に関する考察がちょっと足らなかったんです。 その後、憲法改正問題がやたらと出てきだしたので、これをちゃんと、きちんともういっぺん勉強したほうがいいなというんで、勉強し直しまして、今は、実は、9条はマッカーサーが言い出したんではないと。幣原さんが言い出したのであるというふうに、立場と言いますか、結論を変えております。 従いまして、あの本は、世の中に出ている本は、『日本国憲法の200日』という本は、間違っておりまして、これは。こういうのは、本当に困るんで。直そうと思っても、たくさん売れて増刷にならないと、なかなか直らないんですね。 だから、そのまんまで世の中に出てるんですが、今日はいい機会なので、ちょっと直させていただくために、お話を申し上げます。 憲法9条、憲法全体が押し付けであるという論が盛んに言われるんですが、特にこれからは、たぶん憲法改正の問題が出てくると、9条は特に押し付けであるということを言い出す人が、これは政治家だけじゃなくて、評論家とか、そういう方々にも言い出す人がたくさんいると思います。 従いまして、9条の問題というのは、当然のことながら、浮かび上がってくるんじゃないかと思います。その時に、またこの押し付け論というのは、今のところ、権力を持っている人たちは、押し付けってあまり言わないことにしようと言い合っているらしくて、あまり言わなくなりましたが、いずれまた言い出すと思いますが、実はこれは押し付けじゃないと。日本人が自分たち自らで決めたものであるということを、これから30分間、お話申し上げます。 憲法という、この9条の問題というのは、みなさんご存知と思いますから、繰り返さなくてもいいんですが、話の都合上、繰り返しますが、当然のことながら、昭和3年のパリの不戦条約。普通、ブリアン-ケロッグ条約(※2)と言っておりますが、パリで行われました不戦条約において、日本も入りまして、15の国で条約を調印いたしました。 (※2)不戦条約:正式名称は〈戦争放棄に関する条約Treaty for the Renunciation of War〉という。署名地の名をとってパリ規約、主唱者であるフランス外相とアメリカ国務長官の名に因んでブリアン=ケロッグ規約、ケロッグ=ブリアン条約とも呼ばれる。1928年8月27日に署名され、翌年7月24日発効した。この条約は、当事国が国際紛争解決のために戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを宣言するとともに、国際紛争を平和的に解決すべきことを定める。 (kotobankより) そして人類は、これから戦争というものをしないようにしようと。それで軍備を放棄しようということを決めたわけです。この時の文言をちょっと読み上げます。読み上げただけで、耳の中に入りづらいと思いますが、これがそのままそっくり憲法第一条になっているんだということをお分かりいただくために、読み上げるわけです。 『締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス』 これが不戦条約第一条の文言です。ここでありますように、紛争解決のために戦争に訴えることはやめる。それから、国家の手段として、戦争を放棄するということを不戦条約で決めたわけです。これは、日本が当時の外務大臣の幣原さんが、幣原喜重郎氏が日本代表として参りまして、調印をしたわけでございます。 ところが、日本へ帰ってきまして、この調印問題をめぐって、議会が大揉めに揉めたわけでございます。なぜ、大揉めに揉めたかというと、別にこの不戦条約そのものに対して反対をしたわけではないんです。『其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ』というところが、日本の国の、国柄に合わない。日本の国は、これ人民というのは、日本語の訳なんです。日本で訳したんで、だから人民とやったんですが、これPeopleですから、国民に訳すと分かりやすいと思います。 これを国民とすれば『其ノ各自ノ「国民」ノ名ニ於テ』これを宣言すると言うんで、日本では主権は国民にないと。当時ですよ。昭和3年の時代は(国民に主権は)ありませんから。天皇陛下にある。天皇にある主権を国民が代わりにこれを行使するというのは間違いであるということで、大揉めに揉めました。 幣原さんは、ものすごい苦労したんです。この時の幣原さんの苦労というのは、実はちょっと調べたことがあるんですが、まあ、本当に気の毒だというぐらいに、もみくちゃにされまして、それでも幣原さんは頑張りまして、そして、日本は条件をつけたんです。『其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ』というのは、日本においては通用しないことにして、これを受けると。調印するということで、各国に通告いたしました。 各国がそれを了承しまして、それで日本は調印に賛成を、ということになりまして、翌年の昭和4年の6月に批准をしたわけでございます。 この時の幣原さんの苦労というもの、この時の幣原さんの信念と言いますか、信条と言いますか、ここで、この不戦条約の、この第一条というものを本気になって、後に考えたというふうに言ってもいいと思います。 ところが、ご存知のように、これに批准したのは昭和4年ですが、昭和6年に満洲事変(※3)というのを起こすわけでございます。日本が。これ、満州事変は、最近はなんかコミンテルンの謀略であるなんていうことを言ってる人もいますが、これは明らかに日本の陸軍の謀略であることは間違いございません。しかも、陸軍と言っても関東軍(※4)のいち参謀とかなんかがやったことではなくて、陸軍総ぐるみの謀略であったと言っても間違いないと思います。ですから、このことを見て、各国は、日本に対してものすごく不信感を持ったわけです。 (※3)満州事変:1931年(昭和6)9月18日、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄線路の爆破事件を契機として始まった日本軍の中国東北への侵略戦争。若槻内閣は不拡大方針をとったが、関東軍は東北三省を占領。翌年、「満州国」を樹立し、以後15年に及ぶ日中戦争の発端となった。 (kotobankより) (※4)関東軍:関東州および満州(中国東北部)に駐留した旧日本陸軍の部隊。1919年(大正8)それまで置かれていた守備隊を改編し、独立させたもの。敗戦に至るまで、大陸侵略・満州国支配の中核をなした。 (kotobankより) つまり、戦争には、これ自衛の名においてやったわけです。自衛の名において、日本は満州事変に、戦い出したわけですが、戦争には自衛戦争と、侵略戦争という区別を、どうも日本はしているようであると。 しかし、我々の不戦条約は、その区別なし。戦争は全て放棄すると。こういう話だと。ところが日本は、それを区別して、戦争を分けて考えている。これは、日本という国は、おかしな国だと。おかしな国というよりは、信じられない国だというんで、昭和の時代というのは、この満州事変を契機にしまして、非常に国際的に信用を失って、そして、あとはみなさんご存知のように太平洋戦争(※5)の道へと突っ走っていくということになるわけでございます。 (※5)太平洋戦争:第二次大戦のうち、アジア太平洋地域が戦場となった日本と米・英・オランダ・中国など連合国との戦争。日中戦争の行き詰まり打開のため、1941年(昭和16)12月8日、日本は米・英に宣戦、一時は南方諸地域を制圧したが、ミッドウェー海戦を転機に42年後半から守勢一方となり、45年8月、アメリカの広島・長崎への原爆投下やソ連の参戦などによりポツダム宣言を受諾して、8月15日無条件降伏した。当時は大東亜戦争と呼ばれていた。 (kotobankより) ですから、そういう意味では、このせっかく結んだ不戦条約と。これ、でかい国は全部入ってますから、15カ国みな入っておりますから、せっかく結んで、人類が新しい理想のもとに歩き出した時に、日本が自ら先に破ってしまったという結果になったわけでございます。 これを幣原、当時の外務大臣は、非常に痛恨の至りとしまして、これをなんとか非難挽回しなきゃいけないというか、日本の本当の誠意と言いますか、そういうものを世界に示さなきゃならないというふうに思っていたと思います。 これが出だしなんですね。つまり、憲法9条の出だしだと、私は思います。 そして、昭和、戦争が終わりまして。戦争が敗戦でもって戦争が終わりまして、マッカーサーから、マッカーサーというよりは、GHQ(※6)から、連合軍総司令部から、連合国と言ったほうがいいですね。戦争が終わってますから。 連合国総司令部から通告が来て、そして、日本の軍隊は、これを廃止せよというマッカーサー通告が来て、これはもらった瞬間に、その通告を日本が受けた瞬間に、戦争が終わった時ですよ。これは、大日本帝国憲法(※7)を変えなければならないということは、当時の政府がすぐに気が付かなきゃいけなかったんです。 (※6)GHQ《 General Headquarters 》総司令部。特に、第二次大戦後、連合国軍が日本占領中に設置した総司令部。マッカーサーを最高司令官とし、占領政策を日本政府に施行させた。昭和27年(1952)講和条約発効により廃止。連合国軍最高司令官総司令部。(kotobankより) (※7)大日本帝国憲法:明治22年(1889)2月11日、明治天皇によって公布され、翌年11月29日に施行された欽定憲法。天皇主権を原理とする成文憲法で7章76か条からなる。天皇の大権、臣民の権利・義務、帝国議会の組織、輔弼(ほひつ)機関、司法、会計などについて規定。伊藤博文を中心に井上毅らが起草した。昭和22年(1947)日本国憲法の施行により廃止。明治憲法。旧憲法。帝国憲法。(kotobankより) なんとなれば、憲法には軍隊のことが書いてありますから、10条と11条でしたか。書いてありますから、それに軍隊があるというのはおかしいんであるから、これはどうしてもなくなんなきゃいけないということで、憲法というものを日本としては考え直さなきゃいけないと。 大日本帝国憲法を新しい憲法として直さなきゃいけないということは、当時の政府はすぐに考えなきゃならなかったことだと、私は思うんですが、どうもそうは思わなかったようでございます。 そのへんは、ちょっと難しい話なんで、あまり詳しく言っても、時間がかかるばかりですので、止めますが、とにかく、それでGHQのほうから、憲法を早く検討せよ、ということが来まして、慌てて、幣原内閣が憲法問題を、憲法の改正問題をやりだすわけでございます。 そういうことがあったんで、ちょっと戦後日本が、なんて言いますかね。一歩も二歩も遅れて憲法問題を考えなきゃならなかったというところに、戦後日本のちょっとまずかったとは言いませんが、もう少し早めに、先取りをして考えるような人がいれば、もっと上手にやったと思うんですが、いずれにしろ、GHQから催促されて、急にやりだしたという状態であったわけです。 それで、この9条の問題に戻りますが、昭和21年の。21年になります。もうこの時には、幣原内閣が、内閣としての憲法委員会を作って、新しい新憲法を作るための討議をやっております。当時の国務大臣松本烝治(※8)さんを、東大の法学部の先生ですが、これを大将としましてやっております。 (※8)松本烝治 まつもと-じょうじ1877−1954 明治-昭和時代の商法学者、政治家。明治43年母校東京帝大の教授。のち満鉄副社長、関西大学長、商工相などを歴任。手形・小切手法、会社法改正などの立案・制定にたずさわる。昭和20年幣原(しではら)内閣の国務相として憲法改正草案を作成したが、GHQに拒否された。貴族院議員。学士院会員。昭和29年10月8日死去。76歳。東京出身。(kotobankより) その時に、幣原さんが病気をしまして、その暮れに。それでペニシリン。当時は高かったんですね。ペニシリンのお陰で治ったというんで、その御礼にマッカーサーのところにうかがいまして、そして2時間。記録には2時間と書いてある。2時間、マッカーサーと本当に対で、膝を突き合わせて話し合ったと。 ただし英語です。幣原さんは外交官ですから、英語はペラペラですから、通訳を入れないでいいんですから、本当にまるまる2時間を話し合った。そのときに、幣原さんの口から。ここが私の間違ったところなんで。そのとき、マッカーサーの口から、と書いたのが私の本なんですね。 ところが、どうも、いろいろ調べて見ますと、調べて、というか、あるんですが、ここの議会にあるんですが、その議会の記録を調べてみますと、幣原さんのほうから言ったみたいです。幣原さんは、何を言ったかというと、この、まさに昭和3年のパリ不戦条約のときのことを言って、そして、日本はこの精神をもういっぺん取り戻して、戦後日本を作りたいと。もっと詳しくしゃべったんですが、ということを言ったようです。 これにマッカーサーが驚いたと同時に、感動したしまして。あの人、ちょっと芝居がかる人ですから、大感動しちゃうんでしょうが、大感動しまして、それは素晴らしいことであると。これに、実は難しい言葉で言うと、昭和天皇の戦争責任問題が絡んでるんです。 後ろ側に、アメリカはもう昭和天皇を、戦争の責任者にはしないというふうにしてましたけども、ソ連とか他の国は、天皇の戦争責任を追及する声が非常に強かったわけです。そこで、なんとかこれを躱さなきゃいけないというので、マッカーサーが、この8条(9条:第1章に条文が追加されたため、第2章の第8条であった本条は繰り下がって第9条となった)を憲法を取り入れることによって、世界の国を納得させることができるというようなふうに、幣原さんと話し合った。 それを、マッカーサーがむしろ自分のなかの、率先的にそういうふうに理解しました。そして、GHQの憲法草案を作るとき、GHQ草案がなぜできたというのは、もうみなさんご存知と思いますので、お話しませんけども。日本でも作ってたんですが、ところが日本のやつが、毎日新聞がスクープしまして、それが発表されたら、あまりにも旧憲法と同じだと。 ぜんぜん変わってねえじゃねえかというんで、GHQが、これじゃ全然憲法改正とは言えねえじゃねえかというんで、お前たちがそんな態度なら、こっちで作るというんで、草案を作ったということになってるんですが、一週間で作ったと。これはみなさんご存知のとおりであります。 そして、9条も含めまして、憲法草案をGHQのほうが出してきて、それを当時の外務大臣の吉田茂。それから、憲法草案委員会の松本烝治、そういった人たちが直接受け取って、そして、それを何とかしろと言われて、これに反対ならば、向こうの偉い奴が、ホイットニーだと思いましたが。 ホイットニー(※9)という局長が、マッカーサーの腰巾着だった局長が、これに不満ならば、お前たちの作った憲法草案を発表しろと。それと、これも一緒に発表してくれと。それで、国民の信を問うための国民投票をしてもらって、どちらかを選んでもらおうというところで、言ったらしいんです。 (※9)ホイットニー Whitney Courtney1897−1969 アメリカの軍人。昭和20年連合国軍最高司令官マッカーサーの側近として来日し、GHQ民政局長となる。憲法改正の草案作りを指揮するなど、戦後日本の民主化に力をそそいだ。26年陸軍少将で退役、帰国。ワシントン出身。(kotobankより) これは、さすがに松本烝治さんも、吉田茂さんも、国民投票までやる気がなかったと。それよりも、自分たちの草案に自信がなかったからと言ってもいいと思いますが、マッカーサーの草案を、GHQの草案をとりあえずは、これを検討してやろうじゃないかというふうに決めて、その検討委員会を衆議院帝国憲法改正案小委員会というものを作りまして、そこで、この憲法問題を一字一句、討議していったわけです。 これが実は議会に残ってるんですね。それを私は、その『日本国憲法の200日』を書くときに、知らないわけがなかったんですが、探して、見つけて、見せていただくというような努力をしませんで、ですから、残念だったんですけども。 それが、最近発表されております(※10)ので、それを見ますと、第9条の第一項は、GHQの草案では、『国際紛争を解決する手段としての国権の発動たる戦争を放棄する』と書いてある。これ、みなさんご存知のように、憲法9条の第一項とほぼ同文面であります。 (※10)帝国議会会議録検索システム ただ、違うのは『国際紛争を解決する手段としての』という言葉を、日本の文案では、これはマッカーサーの原文はこうなんです。ところが日本はこれを解釈するときに、これではちょっと、なんか『国際紛争を解決する手段としては』というんでは、『手段としての国権の発動』では、国際紛争じゃないときは、戦争は使えるじゃないかというふうな解釈ができるじゃないかというようなことで、後ろに持っていったんですね。 ですから日本の憲法としては、『国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』というふうに憲法は直ってます。したがって、第一項は、GHQの文案を揉んだ上に、この委員会で揉みに揉んだあげく、この『国際紛争を解決する手段としての国権の発動』うんぬんをやめて、『国権の発動』うんぬんから始めて、『国際紛争を解決する手段としては、これを永久に放棄する』と、こういうふうに直しております。 さらに、この委員会が、改正の委員会原案の7月23日の第3回の委員会で、芦田均外務大臣です。この方が委員長で、この方がものすごい勢いで、みなさん委員に言いました。これは、皆さん方、議員の先生方は、たぶん簡単に見られるんだと思いますが、見ていただきたいと思いますが。 この7月23日第3回の小委員会(※11)で、『これは国際紛争を解決する手段でなければ、たとえば自衛のためならばよいとも取れる文章になる』と。それじゃ、本当の意味での日本は、平和日本を作ろうという意思がはっきり見えないと。 (※11)第3回は昭和21年07月27日 。(帝国議会会議録検索システムより) だから、したがって、これは、政府原案は『戦争と軍備の放棄が消極的な印象を受ける』と。『もっと我々は平和愛好を積極的に打ち出すべきである』というんで、この今言った『国際紛争を解決する手段としては永久に放棄する』じゃなくて、頭に持っていって、『国際紛争を解決する手段としては、国権の発動たる、これは永久に放棄する』というふうに完全に戦争というものを放棄するという形に直したというのがひとつあるんですね。 それから、もうひとつ、7月29日の第4回委員会で、芦田さんは『日本国民は正義と突如を基調とする国際平和を誠実に希求し』と。こういうふうに我々は本当に正義と秩序を基調とする国際平和を日本人は願っているんだということを頭にかぶせようということを提案いたします。 したがって、これはまた揉めたんですけども、委員の方々が、また全員で賛同しまして、日本国憲法第9条の第一項は、『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し』それで『国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』と、こういうふうに直っているわけでございます。 ですから、一項だけを見ても、つまり幣原喜重郎さんが、昭和3年のパリ平和会議の15カ国が調印した不戦条約をそのまま生かしてきた。そして、マッカーサーにそれを言って、マッカーサーがそれに感動して、マッカーサーの三原則として、憲法を作るための三原則として、憲法草稿を作る委員会に、これをはっきりと言って、それで委員会はそれを書き記してきて、それをまた、日本人が丁寧に検討して、きちんと日本国民がいかに平和を希求しているかということを世界に示すために、直してあると。直しているということである、ということをはっきりと分かるわけなんです。 これを、私は実は、あの本を書くときは、知りませんでした。本当に申し訳なかったんですが。ですから、マッカーサーが言い出して、幣原さんがこれにOKをして、そしてそれを日本国民が、日本の政治家がこれを検討して、これに決めたんだというふうな形で書いたんでございます。 だけど、実際は違うと。やっぱり日本国民の選んだ議員たちが、ちゃんときちっといろんなことを検討して、8条(9条)をちゃんと作ったものである、ということがよく分かるかと思います。 ついでに、さらに芦田さんは、7月29日の第4回の小委員会において、さらにもうひとつ。第二項に、ここはどうしても、前項の目的を達成するために、という文言を上に入れると。そうして、第一項というものを日本人は本当に願っているんだということを世界的に示すと。 そのために、前項の、つまり第一項の目的を達するために、という文言を入れようということを提案いたしまして、これも大揉めに揉めたんですが。そこまでやらなくてもいいんじゃないかと、大揉めに揉めたんですが、満場一致と言いますか、ある程度大多数をもって決定して、第二項にも入っていると。これは事実なんですね。 ですから、決して9条そのものも、よく考えれば、こういうふうにきちっと考えると、押し付けではないと。かくも日本人が丁寧にこれを読んで、丁寧にこれを一字一句検討して、これは、もっと平和主義を願っている、平和日本というものを世界に示すためには、こういうふうにし直したほうがいいと。 それから、さらに、こういう文言を付け加えたほうがいい。さらに、それをしっかりと守るために、この文言を第二項に付け加えたほうがいいというふうに丁寧に討議をしてやっているわけでございます。こうして、日本側の草案ができまして、これが議会にかけられるわけでございます。 私はよく思うんですが、昭和21年の4月10日に、選挙法は、戦後になって一挙に変わりました。いわゆる婦人参政権が新しく入った選挙法ができまして、そして、戦後日本はそれまでは戦前の代議士や貴族院議員たちがずらーっと並んでいたんですが、その4月10日の第一回の総選挙(※12)を経て、新しい議員たちが、国民の選挙を経て選ばれて、議会を形成しているわけなんです。つまり、新しい日本がそこからはじまっているわけです。 (※12)第22回衆議院議員総選挙1946年(昭和21年)4月10日(ザ選挙) そこに、私たちの日本国憲法草案というものが、政府が決めた、政府が揉みに揉んだことで決めた草案が提出されまして、それをそのまま、新しい議員さんたちが、本当に討議したんです。この時は、幣原さんが辞めまして、吉田外務大臣が総理大臣になりまして、吉田首相になっております。 そして、憲法担当大臣として、金森徳次郎(※13)という法学者が担当大臣になっておりまして、そして、そこに、これは吉田さんたちができたのが5月の22日です。吉田内閣ができたのが。そこへ憲法草案が出されたんですから、つまり、憲法草案は吉田内閣で討議したんですが、記録を見ますと、憲法担当大臣の金森徳次郎さんは、なんと答弁の回数が1,365回なんです。 (※13)金森徳次郎[1886〜1959]憲法学者・政治家。愛知の生まれ。岡田内閣の法制局長官のとき、天皇機関説信奉者として攻撃を受け、辞任。第二次大戦後、吉田内閣の国務相として、日本国憲法の起草にあたる。国会図書館初代館長。著「憲法遺言」。(kotobankより) いかにいろんな質問があって、議員さんたちから質問があって、この問題が多くて、そのたびに答弁すること1,365回と。この回数だからすごいんじゃないかということじゃなくて、つまり、そのぐらい国民が選んだ人たちが、選良たちが、もう真剣になって、この憲法問題を討議したんだということを『アメリカの押し付けで、日本人はただ頭を下げて受け取って、ノーと言えなかった』という言葉がなぜ出てくるのか、私はよく分からんです。 本当に、正直言いますと。これ、やっぱりこう見ますと、若い方が多いので。若い方って失礼ですけども、私のように、戦争体験のある人はあまりいないんじゃないかと思いますが、私はこれでも、東京大空襲を受けたり、B51の機銃掃射を受けたり、長岡に行って、また長岡の空襲を受けたりして、戦争の体験をたっぷり味わっているんですが、この憲法ができた時に、僕は本当に感動したんですよ。 この9条を見て。それで、うちの親父に、父親に、これすごいことができたと。日本は本当にこれで戦争をしない国に、平和に接する国になるのかなと。日本の、アジアのスイスになるのかなと、当時はスイスしか頭に浮かばなかったから、そう言ったら、馬鹿野郎、お前と。お前は空襲の時に川へ落っこって、さんざん水を飲んだから、頭に水が溜まってるのと違うか、と。 人類が始まって以来、戦争が止まったことがあるかと。だから、こういうものを作ってもすぐに駄目になるんだよって言って、馬鹿にされた覚えがあるんですけど。私は本当に心の底から、不戦主義というものと平和主義というものを、本当にそう思ってましたから。いいものができたなと思ったことがあるんでございます。 ですから、そういう意味で、なんて言いますか。私たちは決して、憲法というのは押し付けではないと。むしろ、国民の選良が、新しく選ばれた、戦後新しく選ばれた女性議員も含めて、それを含めての選良が実にものすごい討議をやって、やっと作り上げたものなんだということを強調したいと思うんです。 ですから、どうぞ先生方も、押し付けということで、なかなかこれを突っぱねるために大変な努力がいると思うんですよね。だけど、努力はいらないですよ。事実をみろと言えば、僕は、たぶん、向こうは、向こうというか、そういうこと言う人はあまり事実を見ないんですよね。ですから、その点は、ぜひお願いしたいと思います。 それから、話は飛びますが、8月24日に、衆議院で新しい憲法は可決されました。採択されました。このとき、429票中、賛成が421票でございます。それから、10月7日に、貴族院のほうで、採択されました。これが300票のうちの約3分の2以上が賛成されまして、11月3日(昭和21年(1946年)11月3日)に公布されたということでございました。 まあ、ちょうど30分の時間でございましたので、30分の時間ぴったりぐらいで、話は終わります。まだ、ちょっと話してもいいところはあるんですが、まあ、あとは質問を受けたほうがよろしいかと思いますので」 江崎「先生、ありがとうございました。話し足りないところも聞きたいと思いますので、質問者の方、そのへん考えて質問していただきたいと思いますが、では、挙手をしていただきたいと思います。そこまで言ったら手を挙げにくいかもしれませんけども、こんな機会もそんなございませんので、ぜひ質問お受けいたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。 それでは、話し足りなかったところを、そのへんを聞いてから、ということで。はい、よろしくお願いいたします」 半藤「ですから、そういう意味で言うと、私たちは、この憲法は本当に私たち戦争が終わったばかりの日本人、心から、焼け跡を見ながら立っていた日本人が不戦の誓いというものを本当に真剣に考えてやったことであり、同時に、不侵略の誓いも一緒に、この中で思ったと思います。 侵略戦争という定義はない、などと総理大臣が言っておられましたけれども、そんな馬鹿な話はないんでございます。侵略戦争というのは、よその国へ軍隊を持っていって、これをなんでもない無辜の人たちも巻き込んで、攻撃するということは、もうすでに侵略戦争なんです。 これは、世界がもうそう見てますから。そんなことはないということはないんで。その私たちが決して、日本はもう侵略戦争はしないという誓いを、不戦の誓いだけじゃなくて、もちろん侵略戦争もしないんだということを、しっかりと誓ったということを大事じゃないかと思います。 ですから、私は新憲法とは何かを聞かれると、占領軍に押し付けられたなどというのは、そうじゃないと。もちろん、占領軍に押し付けられたら、合衆国憲法をそのまま、お前たちやれ、と言うんだったら、これは押し付けですよね。ところが、そうじゃなくて、あくまで日本人が討議して、日本人が本当にこれでよし、というかたちで作られた。新しく作られた憲法なんである。 その内容は、要するに欧米が時間をかけて培ってきたところの民主主義と人権思想と平和思想の最先端のものが敗戦を機に、日本に応用されたんだと私は思ってるんです。 これ、憲法とは何かと聞かれれば、一番、人類が戦争をたくさんやってきて、そして、これじゃあ人類が滅びるということで、もうお互いに相談しあって、昭和3年になって相談したわけですが、時間をかけて、討議をして、これからは民主主義、それから人権思想、そして平和思想と、この3つが一番大事だと。 これが人類の理想であるかもしれないけど、これを守るのが一番よろしいんだということを世界が決めたことの、その最先端の思想を、あえて理想主義と言ってもいいと思いますが、それを終戦を機に日本国が応用。 応用と言うと言葉が悪いんで、なんかうまい言葉を先生が考えて探していただきたいんですが、日本国が試みにやったというのもおかしんですが、なんて言うんですか。日本国が率先して、むしろこれを引き受けてやっているんだと。世界に先駆けてやっている話なんだというふうに、憲法は考えたほうがいいと思います。 ですから、よく9条を守る会というのがあるんですが、私は入ってないんです。守るということは攻めるということを前提としてるんです。攻めるも守るも、これ戦いなんですね。私は、そんなの、守るんじゃないんです。広げるんです。憲法を広げる。世界に、人類に広げる会。そのほうがよっぽどいいから、自分でそのように捉えまして、自分ではその広げる会の会長なんですけど、会員は誰もいないんです。 これ、余計な話をひとつしますと、クラウゼヴィッツ(※15)という昔のプルシャの、軍人なんですけど、軍人にして戦略家がいるんですが、戦争論という本を書いておりまして、そのなかに、私いままで気が付かなかったんですけども、戦争というものは、守ることから始まると書いてあるんです。で、僕らも戦争というのは往々にして、侵略戦争とか言いますんで、攻めるほうから始まるかと思うんですが、そうじゃなくて、守るところから始まる。 (※15)カール・フォン・クラウゼヴィッツ【Carl von Clausewitz】(1780〜1831) プロイセンの将軍・軍事理論家。主著「戦争論」は近代戦争の特質を示した書としてレーニンら革命家に影響を与えた。(Wikipediaより) 守るということをはっきりと押し出すと攻めてくるほうは喜んで攻めてきて戦争になるんだと。だから、守るということが戦争の一番問題の点なんだと。それをきちっと考えた上でなければ、守るということをあまり正面に出さないほうがいいんだというような言い方をクラウゼヴィッツはしてるんです。 私も、これ見て、そうだったなと。そういうものかもしれないなと思いました。日本の国は、過去の日本の国です。明治からと言ってもいいですが、日本の国は、守れない国なんです。これ、みなさんご存知のように、細長い国で、ダーッと海岸線です。ぜんぶ海岸線。 しかも、真ん中に山脈が、高い山脈がダーッと通っておりまして、そして、我々が生きている、住んでいるところは、ぜんぶ海岸線の平野のところなんです。これを守ろうとしたら、そのぐらいの軍隊がいると思います?これを守るのは陸軍ですね。こんな馬鹿なことはできないんです。 しかも、今の日本は特に、海岸線にぜんぶ原発があるんです。この原発があんなにあって、あそこに2、3発撃ち込まれたら、もう放射能でこの国はどうにもなんなくなると思いますが、そういうような形で、守れない国なんですね。もともと。地政学的に。 そこで、明治の時代から、日本の国を、国防を考える人たちは、攻撃は最大の防御であると。攻撃が最大の防御であるという思想を信奉したわけでございます。これは、もう残念ながら、明治の日露戦争の時から始まりまして、ですから、私たちの国は、日本の国を守るためには。 今はちょっと違いますよ。状況は違いますが。過去の話です。(日本の国を)守るためには、朝鮮半島をどうしても、これを最前線にしなきゃいけないということで、朝鮮半島をどうしても日本の国の防御のための防波堤にしたかったんですね。 それで、朝鮮半島を防波堤にするとなると、今度はこの朝鮮半島の防波堤を守るためには、さらに満州を防波堤にするために出ていかなきゃならないと。これ、攻勢は最大の防御なり、なんです。つまり、防御のために出て行ったんですね。南のほうもそうなんです。 日本を守るため、南のほうは、小笠原諸島をしっかりして守んなきゃいけない。それを守るためにはマリアナ諸島を守んなきゃいけない。マリアナ諸島を守るためにはマーシャル諸島を守んなきゃいけないというわけで、どんどん外へ出て行った。 これ、侵略主義といえば、そのとおり侵略主義なんですが、当時の軍人に言わせれば、私もさんざん軍人どもに会って、軍人どもって。軍人さんに会いまして、良識ある、たとえば今村均(※16)さんとか、そういう方にも会いまして、そんな話を聞いたことがあるんですけど、本当のことを言うと、たとえば、今村さんあたりが言うんですね。 (※16)今村均 いまむら-ひとし(明治19‐昭和43) 陸軍軍人。宮城県出身。 陸軍士官学校(19期)、陸軍大学校卒。参謀本部部員、上原勇作元帥付副官、陸軍省軍務局課員等を経て、1931年8月参謀本部作戦課長、満州事変初期の作戦指導。以後、関東軍参謀副長、陸軍省兵務局長等歴任。39年第5師団長、南寧付近で中国軍の冬季攻勢に遭遇し大損害。40年教育総監部本部長、戦陣訓制定関与。41年第十六軍司令官、太平洋戦争初頭のジャワ進攻作戦指揮。翌年第八方面軍司令官、ラバウル作戦指揮。43年陸軍大将。戦後戦犯、自ら希望し部下が収容されるマヌス島で服役。54年釈放。著作「今村均大将回想録」。(kotobankより) 本当にこの国の国防を考えた時には、我々陸軍としては責任を負えないと。そうなると、どうしてもそうせざるを得なかったんだということを、やっぱり言うんですね。悲しそうな顔をして。 この国は、そういう意味で、本気になって国防を考えるならば、地政学的にちゃんと捉えて、どうすべきかということを基本にして考えなきゃいけないんですよ、これからは、と言いながら、もう守り切れない国ならば、いっその事、憲法9条で頑張ったほうがいいんですと。それを世界に広げていったほうがいいんですと、今村さんも話に言っておりました。 別に今村さんの言葉を信じてそうしましょうと言ってるわけじゃないんで。常識的に考えてみれば、そういうもんでしょうということが皆さんにもすぐ分かるんじゃないかと思います。というようなことを、ちょっとお話したかったんです」 江崎「ありがとうございます。それでは、ちょっと時間が迫ってますけども、質問をお受けしたいと思います。どなたか、どうぞ。せっかく、先生においで頂いて、これだけ貴重なお話だと思います。はい」 【質疑応答】 平岡秀夫氏「前衆議院議員の平岡秀夫でございます。今日は、憲法の押し付け論の話をされたので、もうひとつ押し付け論のなかで言われていることについて、どういうふうな整理をしたらいいのかということでお聞きしたいと思います。 それは、主権回復の日(※17)とも関わる話なんですけども、あえて主権回復の日ということを式典として行なった背景には、主権が回復される前に憲法改正というのが行なわれたんだということを、これから主張しようとしているんではないのかと思うんです。 (※17)2013/4/28 日経新聞「主権回復の日」に考えるべきは何か 占領下において、その国の憲法なり法律を作るということは、これは条約で禁止されていて、それを作った場合でも、それは無効であるという、そういう条約になっているということで、そういう主張をしようとしているのではないかというふうに思うんです。 この点については、どういうふうに整理をしたらいいのかという点について、もしご見解があれば教えていただきたいというふうに思います」 半藤「私、ちょっと今耳が悪かったんで、聞き間違いをすると、間違ってお返事をするかもしれませんが、要するに、占領下では、憲法をなんとかするということはとてもできなかったと。しかしながら、独立したんだから、できたということなんでございますか?」 平岡「逆です」 江崎「主権回復の日って、この前ありましたね」 半藤「ありました」 江崎「あれは1952年ですから、それまでは独立国家じゃなかったと。占領国家だったと。憲法はその前に決まったから、それは無効じゃないか、と主張をするんじゃないかということを今」 半藤「ああ。分かりました。それは正直に言いますと、憲法学者である美濃部達吉(※18)さんとか、その他、松本烝治さんと一緒に憲法草案を作っていた人たちのなかにある考え方なんですね。 (※18)美濃部達吉[1873〜1948]憲法学者・行政法学者。兵庫の生まれ。東大教授。天皇機関説を唱え、君権絶対主義を唱える上杉慎吉と論争。昭和10年(1935)国体明徴問題で右翼・軍部に攻撃され、貴族院議員を辞任。著書「逐条憲法精義」「憲法撮要」などは発禁処分となった。(kotobankより) どうせ、日本はいずれ独立するんだから、独立した時には、日本独自の憲法に変えることはできるんだというふうに思っていたんです。間違いなく。確かに何人かの方が。ところが、独立しても、日本のなかで、憲法改正しようということを、今のお話の、独立の日ですか。 あのときにやっぱりそういう声が挙がったと思います。挙がったんです。事実ですね。自民党を中心としまして。しかし、あのあとすぐ選挙(※19)があったはずです。ちょっとお調べいただきたいんですが。国民は選ばなかったんですよ。その改正のほうを。このままでいいというふうに国民は選んだんです。 (※19)第23回衆議院議員総選挙1947年(昭和22年)4月25日。日本社会党が第一党になる。(新憲法解散 ザ選挙より) それはちょっとお調べいただきたいと思いますけれども。ただ、そういう言い方をもし改憲派の人がしてくるなら、あなたたちは、国民が本当にそれを望んだかどうかということをちゃんときちっと調べたのかというふうにお答えいただきたいと思うんですよね。私たち日本人は少なくとも選ばなかったですよ。だから、独立の日でしたか?なんて言いましたか」 江崎「主権回復の日」 半藤「主権回復の日と変なもんを作ったんですけども、主権回復の日、あれは何のために作って、なんであれに天皇を呼んだんですかね?実際、わたし正直言うと、あまりよく分かんなかったんですがね。 新聞社が聞いてきたから、よく分からんと返事したら、載せなかったんですけどね。ですから、そういう意味では、やっぱり、本当に民主主義国家なんですから、国民が本当にそれを望んだか望まないかというのは大事なことなんですよね。で、たしかあの時、望まなかったんですよ」 江崎「先生、それは選挙で落ちたということですか?松本さんたちが」 半藤「松本さんじゃなくて、憲法改正のほうの声を出した人たちは落ちてますよ」 江崎「はい。それでは他によろしいでしょうか?」 平岡「ちょっと調べてみたいと思います」 参加者「さきほどのお話の中で、マッカーサーと幣原さんが会ったという。あれは何月の?」 半藤「さきほどちょっと申しましたけど、21年の1月24日でございます」 参加者「そのときのことなんですが、獨協大学の法学部の先生で、いまちょっと名前は忘れたんですけど、日本国憲法の制定史を専門に研究されている方は、幣原さんが確かにその話をしたんだと。そのマッカーサーと会った時。 でも、いま先生がおっしゃったように、幣原さんは、9条は俺が言い出したんだということは、周りの人に言わなかった。マッカーサーも米国に最高司令官を辞めてから、米国に帰って、両院の議会で、あれを言ったのは幣原だと言ってるわけですね。 要するに、お互いに、俺が言い出したんじゃないということを言ってるわけです。そのことに関して、先生は、あくまで幣原さんが言ったと。それが、マッカーサーのほうに伝わったんだというふうにお考えですか?」 半藤「分かりました。さきほど申しましたとおり、どっちが言い出して、どっちが本当に先に言って、どっちが感動して、それに納得して、そういうふうにしましょうと言ったのかということは、証拠がないんです。本当に正直言うと。 これはお二人だけで話し合いですから。したがって2人の発言しか、証拠にならないんですね。別に記録が取ってあるわけじゃございませんので。そこで、マッカーサーがどう言った。幣原さんがどう言ったというのは、私たちも山ほど持ってるんです。 マッカーサーは何も国へ帰ったときだけ、クビになって国に帰ったときだけの言葉じゃないんです。この憲法9条に関しては。ですから、マッカーサーが言っていることで共通しているのは、俺じゃないと言ってることは言ってるんです。これは言ってるんです。ところが、幣原さんは、あれは俺だとは言ってないんですね。いっぺんも。 いっぺんも言ってないので、ですから、マッカーサーはなんて言ったって、千両役者ですからね。カッコつけてるところがあるんじゃないかと思うと同時に、マッカーサーのなかには、朝鮮戦争が起きた時に、日本に警察予備隊というものを作らせましたよね。 7万人のアメリカ兵が全部朝鮮半島に行っちゃうんで、日本が空っぽになるからというんで、7万人の。あの、後悔と言いますか。自分でつまんないことやっちゃったという後の思いがあると思うんですよ。 ですから、マッカーサーが手前じゃ言いづらかったのかなというふうに思われるところもあるんで、実際、私は『日本国憲法の200日』という本のなかでは、マッカーサーが言ったんだろうなというふうに思ったんですが、でも最近、私はいろんなものを調べてみますと、これは明らかに幣原さんのほうが言ったなと。 そのひとつの状況証拠としては、さっき申しましたとおり、昭和3年の不戦条約の批准のときに、日本でなんとかこれを日本に批准させるために、幣原さんがものすごい努力と言いますか、ものすごい孤軍奮闘を、ちょっと調べてみまして、分かりましたんで、これ、幣原さんの骨髄のなかに、この考え方はあるなというふうに思わないでもなかったんで、いまはそういうふうに考えているというふうに申し上げたわけです」 江崎「他にございますか?他の方、どなたか。よろしいですか。じゃあ、これが最後の質問になりますが、よろしいですか?はい、どうぞ」 参加者「今のに関連しまして、マッカーサーが、いわゆるマッカーサー三原則(※20)というのを作った時の、一番最初が天皇ですよね」 (※20)マッカーサー三原則 I Emperor is at the head of the state.His succession is dynastic.His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsive to the basic will of the people as provided therein. II War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.No Japanese Army、 Navy、 or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force. III The feudal system of Japan will cease.No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent.No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.Pattern budget after British system.(国会図書館日本国憲法より) 半藤「そうです」 参加者「その次に9条の戦争放棄がある。そのときが、確か昭和21年ですか。1946年2月でしたね。1月じゃなくて、2月で、そのときに、その第一の、天皇について、一回目の極東委員会の問題がありますが、当然それがトップに出さなくちゃいけない。第二のその9条を入れた時に、マッカーサーの頭に沖縄は入ってたんでしょうか?それを確認したい」 半藤「入ってなかったと思います。沖縄は、あの時点で、ですよ。あの憲法を作るための三原則を出した時点では、沖縄は入ってないと思います。自分たちの占領下ですから。沖縄の問題で出てくるのは、もうずーっと後ですから。これは、現在の沖縄問題というのがありますけども、それはGHQの頭の中には全くなかったと思います」 江崎「はい。ありがとうございました。先生、本当にありがとうございました」 半藤「下手くそなお話ですいません」 辻元清美・民主党衆議院議員「今日は本当に元気というか、勇気の出るお話を頂いたと思います。ありがとうございました。先日、半藤先生が福田元総理と三平でそばをお食べになったと。お写真を新聞記事拝見いたしまして、私、数日前に福田元総理にお目にかかったんです。 自民党の本当の意味での保守の皆さんが、他に、河野洋平先生ですとか、土井先生とか、お付き合いさせていただくんですが、今の政治状況をかなり心配されてるというように思えるんですね。 ですから、そういう意味で、そういう危機感を持って、私たちは立憲フォーラムということを立ち上げたということもございます。ですから、根本は、さきほど憲法を守るというより広げる会。会員1名とおっしゃってましたけれども、私たちも広める会に連なろうじゃないですか。みなさん、いかがですか?ねえ。 それで、先生がお書きになりました『日本国憲法の200日』これ、みんな買いましょう。そして、増版になるようにしましょうよ。そして、今日のお話、頂いたことをきちんと記録として残していただくということは、とても大事ではないかと思いましたので、一冊じゃ増版にならないかもしれない。 ですから、これをとにかく買って増版にするということも、して行けたらいいなというふうに思っておりますので、みなさんご協力をよろしくお願いしたいと思います。 そして、もう一度、次回の予告、さきほど事務局長が申し上げたんですけども、特に、たとえば明日の自由を守る若手弁護士の会(※21)。ちょっと面白いんですよ。漫画で、この96条などのことを書いたリーフレットを作られて、あっちこちで、ライブハウスなどで活動を、憲法って何だ?ということをみんなに知ってもらおうという活動をしています。 (※21)明日の自由を守る若手弁護士の会 私も、先週大阪で、若い人たちがコンサートとフリーマーケットをしているなかで、憲法96条討論会というのが開かれたんですよ。ほとんど聞いてる人が20代だったんですね。ですから、いつも同じメンバーで憲法の集会行ったら、やあやあやあ、肩を叩き合っているだけでは広がらないと思いますので、そういう新しい層に呼びかけていくということも、もうちょっと力を入れたいなと。 来週は、各団体の方に来ていただいて、今度、どれだけ広げることができるかという。ちょっと意見交換もしていけたらいいなと思っておりますので、ぜひ、周りにも広げていただければなと思います。今日は本当に半藤先生、ありがとうございました。では、今日はこれで終了いたします。どうもありがとうございました」 江崎「どうもありがとうございました」 【文字起こし・@sekilalazowie, 校正・柴崎】 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/83295 |