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『『永遠の0』と日本人 』(幻冬舎新書)
海外の「kamikazeテロ」報道に右派が「一緒にするな」とヒステリー! 自爆テロと日本軍の特攻は本当に違うのか
http://lite-ra.com/2015/11/post-1728.html
2015.11.28. リテラ
「日本国の神聖な特攻とテロを一緒にするな!」
「特攻とテロは違う 英霊に対する侮辱」
「同じと考えてると言う事は「日本人はテロリストです」と言ってるようなもの。レッテル張りをする左翼はおかしい」
パリの同時多発テロで容疑者の一部が爆弾で自爆したことを欧米メディアが「kamikaze」と報じたことに対し、日本国内では一部のネットユーザーがこんな調子で不快感をあらわにしている。言うまでもなく「kamikaze」の由来は、太平洋戦争末期の神風特攻隊(神風特別攻撃隊)だ。
右派メディアも喧しい。たとえば、産経新聞は17日付ウェブ版で、「特攻隊は『テロリストとは違う』『戦友への侮辱だ』 仏報道に88歳元隊員憤り」なる記事を公開。元神風特攻隊隊員の談話を交えつつ、〈(現地報道は)命をなげうち、祖国を守ろうとした特攻と、無辜(むこ)の民間人を犠牲にするテロを同一視するような報道〉と非難した。また、同じく産経系のウェブメディアである「zakzak」も20日付でこう論じている。
〈自爆テロは一般市民を狙った無差別テロであるのに対し、日本の特攻はあくまでも敵軍を相手とするという明確な違いがある。特攻隊員らは自らの命をなげうち、敵の本土上陸から日本を救ったのだ。彼らには、日本人が培ってきた「武士道」精神が生きていた。〉(「《zak女の雄叫び お題は「士」》「神風特攻隊」と「自爆テロ」を同一視するな!!」より)
たしかに、特攻と自爆テロとの間には、攻撃対象などの態様の差がある。しかし、“十死零生”すなわち生還の見込みのない捨て身の自爆突撃作戦であった特攻が、自殺を禁忌とするキリスト教の影響が強い欧米で自爆テロと同じように捉えられているのは、ある意味自然だろう。
むしろ、右派やネット右翼は、自爆テロと特攻を比較しその差異を強調することで、神風特攻隊を美化、戦前・戦中日本を肯定していることにこそ、注目せねばならない。
そもそも、右派論壇の文脈では90年代半ばから、小林よしのりによる「ゴーマニズム宣言スペシャル戦争論シリーズ」(1995年〜)のヒットに象徴されるように、特攻隊員の「覚悟」や「精神性」を「公に奉じた」と評価することでナショナリズムを煽動しようとするムーヴメントがあった。また、2001年のアメリカ9.11テロ後には、右派論壇誌などで自爆テロとの違いについて論じることが盛り上がり、とりわけ2000年代中盤以降には積極的に特攻を賛美しようとする動きが活性化した。百田尚樹『永遠の0』(太田出版、2006年。のち幻冬舎文庫)が2013年末に映画化され、大ヒットしたことは記憶にあたらしいが、当然のように本作の原作、映画版両方でも登場人物が「特攻とテロは違う」と激高する場面が見られる。
まあ、『永遠の0』の話をすると長くなってしまうので、本サイトの過去記事「テレビ初放映!『永遠の0』に元特攻要員が危機感表明!「この映画を観て多くの人が感動するのは恐い」」などに譲るが、近年では特に特攻隊を“日本古来の伝統的かつ尊い精神”として、よもや戦前・戦中日本に立ち戻れと言わんばかりの論が我が物顔で跋扈している。
たとえば、安倍首相の“タカ派思想のブレーン”と呼ばれ、戦後70年談話の有識者会議にも名を連ねた中西輝政・京都大学名誉教授は、特攻について〈大和とともに「天下ニ恥ジザル最期」を迎えようとした乗組員たちの心情は、日本人が古代から連綿と受け継いできた「花と散る」の精神と間違いなく同一であり、彼らは一瞬に、大きく古代日本とつながっていた〉などとして、しまいには太平洋戦争を〈「民族の栄光」としての戦争〉などと言い切る(「正論」12年1月号/産経新聞出版)。
また、佐伯啓思・京都大学大学院教授は〈特攻の根底に流れていたのは、「あきらめと覚悟」のような日本的精神であった〉=「無私の精神」と評価し、〈中学生か高校生の頃に、社会福祉の仕事や自衛隊の体験入隊などの経験を通して奉仕や国防の実際を知ることをやってもよい〉などと徴兵制的発想に結びつける(「SAPIO」15年2月号/小学館)。佐伯氏の持論が“民主主義の原則は国民皆兵”であることを考えると、特攻隊を都合よく援用しているようにしか思えない。
さらに、文芸評論家の小川榮太郎氏にいたっては、自著で〈特攻作戦は、立案者にも志願者にも、静かな理性と諦念と勇気があるだけだった。作戦遂行の過程の全てが、狂的なものから最も遠かった〉〈(特攻は)死を活路にした究極の生〉〈作戦の全体を通じても、特攻は、無差別な拷問、強姦、殺戮という人間的狂気の、最も対極にあった〉などと書いている(『『永遠の0』と日本人』幻冬舎)。ようは、特攻隊員の精神性だけでなく特攻作戦自体までも“美しきもの”として論じているのだ。
繰り返すが、たしかに昨今言われる自爆テロと特攻は、態様の面には違いがある。しかし、だからといって特攻を〈古代日本とつながっていた〉〈日本的精神〉〈究極の生〉とする右派の言説には、まったくもって頷くことはできない。なぜならば、それは、単に特攻をナショナリスティックな“物語”に回収しているにすぎないからだ。
むしろ、よく考えてみてほしい。“同じか、違うか”という以前に、特攻はテロよりも、はるかに陰惨なものではなかったか。
そもそも、一般にテロリズムとは、政治的目的を達成するための、通常は暴力を伴う、個人ないしは集団による実力行使のことである。9.11以降「自爆テロ」は「無差別テロ」と混同されて使われがちだが、もとより「自爆」(suicide bombing)は暴力に付随する行為あるいは結果、「無差別」(indiscriminate)は暴力を奮う対象についての形容だ(つまり、特攻=テロ論は前者について類似性を認め、特攻≠テロ論は後者について否定している)。
これを確認したうえで、特攻は、お上の“命令”が絶対だった戦争中の軍事作戦だったことを考えなければならない。特攻は形式の上では志願ではあったが、事実上強制されていたという証言は多い。たとえば、戦後に俳優として活躍した西村晃も、機体の不良で引き返し終戦を迎えた元特攻隊員のひとりだ。
〈そのうちに日本の敗色が濃くなり、昭和二十年になると、私も半ば強制的に特攻隊を志願させられました。
いったん鹿児島に渡り、練習機に積める限りの二百五十キロ爆弾を積み、電探(レーダー)にひっかからないよう海面スレスレを飛んで、沖縄近辺の米艦隊に体当たりするんです。出撃は毎回、視界のよい満月の夜。そのたびに少しずつ仲間が減って行く気持ち、たまりませんでした。〉(読売新聞1987年11月22日付朝刊)
次は、ある元海軍予備生の証言だ。終戦直前の軍隊という空間で、志願を断ることがどれほど困難だったかがわかる。
〈1945(昭和20)年6月、海軍予備生徒として航空隊の基礎教程を受けていたある日の夜、就寝前になって特攻隊志願者名簿が回ってきた。近くにいた戦友が「死ぬのはいやだな」とつぶやいた。しかし、彼も他の隊員たちと同様署名した。志願という強制である。こんな場合署名を断ることは絶対できない。〉(毎日新聞14年8月14日)
特攻隊員の本心は必ずしも「お国を守るために死ぬしかない」という心境だったわけではないのだ。続いて引用するのは、元海軍予備少尉候補生として特攻要員となり、250キロの爆弾を積んだ練習機で出撃する前に終戦を迎えた男性の証言である。
〈特攻は志願制だが、45年に入ると事実上強制となった。特攻隊員の中には名誉の死を受容する者がいる一方、飲酒し抜刀して暴れる者や、太鼓をたたき念仏を唱えながら飛行場を周回する者も現れた。いつ出撃命令が来るかおびえ、逃げられもせず、精神状態が不安定になって自殺する者も少なからずいた。
離陸後不時着して基地に救援を求める者も目立ってきた。軍は再教育を施したが期待した効果が上がらず、爆弾と機体の装着部をボルトで締め付けた。体当たりを強いるためだ。築城を発った多くの特攻機が米軍の集中砲火を浴びて玉砕した。〉(朝日新聞14年2月18日付朝刊)
小川氏が主張するような「静かな理性と諦念と勇気があるだけ」というのが、ごく限られた一部の人だけの話だということがわかる。実際、悲壮な決意のもと志願した人でも「当時、両親が亡くなり、6人の弟妹がいたが、それでも血判を押して特攻隊に志願したのは軍隊教育の結果だと思う。今では考えられません」と語っている(朝日新聞04年01月06日付夕刊)。
ひっきょう、“挙国一致”“一億総火の玉”の状況で行われた特攻は、人を人と思わない作戦だった。その事実は変わらない。神風特攻隊の創始者である大西瀧治郎自身でさえ「外道」と言い切ったという(『神風特別攻撃隊の記録』猪口力正、中島正/雪華社)。
これをどうやったら、戦争を経験していない者が「狂的なものから最も遠かった」などと言い切れるのか。なぜ「神聖な特攻」などと胸を張れるのか。
特攻は「お国」の名の下に行われた。その背景に流れていたのが国家神道の思想だった。ある人は「テロは宗教過激派の思想に洗脳された者たちが起こす凶行だ」と言う。だが、その意味で言えば大日本帝国とはなんだったのか問わなければならない。たしかに特攻隊は軍事兵器と兵隊だけを狙った。しかし、あの戦争全体を見てみれば、日本軍もまた大量の民間人を虐殺している。これも歴史の事実である。
しかも、元特攻隊員だからといってみんながみんな「自爆テロと特攻は違う」と言っているわけではない。
作家の井沢元彦氏が、特攻隊の生き残りである濱園重義氏にインタビューをしている(「SAPIO」(小学館)04年10月13日号)。井沢氏は親米保守派らしく“9.11テロは民間人を巻き込んでいるから特攻隊とは違う”と言わせようと、明らかに誘導的に質問するのだが、それが思い通りにはいかない。
〈井沢 アメリカの記者は、9.11でイスラムゲリラが貿易センターに突っ込んだのをどう思うかって聞かれませんでしたか。
濱園 聞かれたです。
井沢 どうお答えになりました。
濱園 それは当たり前だって言いました(笑)。
井沢 ただ、あれは民間機をハイジャックして、民間人を巻き込んでいますよね。
濱園 はい。
井沢 そういう意味で、日本の特攻とは違うような気がするんですけれども。
濱園 私はずっと詰めていけば一緒じゃないかと思うんです。あれもアメリカが憎くなければやらんですよ。
井沢 ああ。
濱園 それは特攻隊もそうですよ。特攻隊で何百機行ったって、アメリカには損害はほとんど与えておらんですよ。(後略)〉
ちなみに、このインタビューで濱園氏は“自衛隊のイラク派遣を批判する人の気持ちがわからない”“部分的には今の憲法を柔軟に変えてもいい”という旨の発言もしており、いわゆる左翼・リベラル陣営の人ではない。しかし、こんなロジックでパレスチナのゲリラを評価している。
〈井沢 特攻ということで言えば、パレスチナゲリラで非常に若い子が、日本で言ったら中学生ぐらいの子が爆弾を巻いて、決意を自らのビデオに語って、それで突っ込んだりしていますが、ああいうのを見て、どういうふうにお感じになりますか。
濱園 私はうちの孫たちにあれをまねしろって言ったんです。まねしろっていうのは、その精神力を。
井沢 えっ、そうですか。
濱園 彼らも国が徹底的にこなされて(引用者注:鹿児島地方で「苦しめられる」「やられる」という意味)、それに反感を持っているわけですよ。
井沢 うん。
濱園 何でかって、(イラク戦争でも)そこにアメリカが来て、結局、無実の罪の人をこなすでしょう。アメリカは「重点的に」「一般市民は避けて」って言うけど、爆弾がうまく避けるわけないじゃないですか。そこにおったのは全部死ぬわけですよ。だれがそれを見分けがつきますか。〉
このやりとりをどう考えるべきか、その判断は読者に委ねたい。だが、特攻と「民族の栄光」を安易に接続しようとする感覚はこの国の現在と未来を生きる人間として、到底受け入れられるものではない。そのことだけは、ハッキリ言っておく。
(梶田陽介)
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