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明治維新の通説を全面否定した本が大人気に!会津地方で大ベストセラー!「長州藩はテロリスト集団である」
http://www.asyura2.com/15/senkyo196/msg/794.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 11 月 20 日 19:20:05: igsppGRN/E9PQ
 

明治維新の通説を全面否定した本が大人気に!会津地方で大ベストセラー!「長州藩はテロリスト集団である」
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-8810.html
2015.11.20 19:00 真実を探すブログ



*維新関係者大集合 フルベッキ写真
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AD%E7%BE%A4%E5%83%8F%E5%86%99%E7%9C%9F


☆「明治維新を全否定」の歴史本 会津地方で大ベストセラーに
URL http://www.news-postseven.com/archives/20151117_364288.html
引用:
「吉田松陰は山県有朋が創った虚像である!」
「久坂玄端は天皇拉致未遂犯である!」
「勝海舟は裏切り者である!」
「長州藩はテロリスト集団である!」


 このように、新聞広告にはなんとも刺激的な惹句が並ぶ。日本を近代化に導いたと教えられてきた明治維新を全否定する歴史書が、ベストセラーになっている。ヒットの背景を探ってみると、やはりあの“遺恨”があった。


 歴史書としては異例の5万部を超えるヒットとなっているのは、「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」のサブタイトルを冠した『明治維新という過ち』。
:引用終了


以下、ネットの反応
























明治維新というのは今の日本を作り上げた重要な大イベントであり、これが太平洋戦争にも繋がります。明治維新が無ければ、海外進出の意欲が低い徳川幕府で戦争を回避することが出来たかもしれません。
現に徳川家というのは無闇な戦いを避ける事が多く、徳川家康の頃から決まり事のように受け継がれていました。


勝てば官軍負ければ賊軍という言葉がありますが、正に明治維新の事を指し示す言葉だと言えます。今のイスラム国とかもそうですが、当時はテロ集団でも戦に勝てば、そのまま政府として居座ることが出来てしまうのです。
今の政府高官には長州藩の出身が多いと聞きますが、明治維新の時代から現代まで影響が残っていることを示している証拠だと私は見ています。


明治維新以来日本はフリーメイソンに乗っ取られた(国際悪魔崇拝陰謀組織)


龍馬の黒幕


           ◇


「明治維新を全否定」の歴史本 会津地方で大ベストセラーに
URL http://www.news-postseven.com/archives/20151117_364288.html
2015.11.17 16:00 NEWS ポストセブン


「吉田松陰は山県有朋が創った虚像である!」
「久坂玄端は天皇拉致未遂犯である!」
「勝海舟は裏切り者である!」
「長州藩はテロリスト集団である!」


 このように、新聞広告にはなんとも刺激的な惹句が並ぶ。日本を近代化に導いたと教えられてきた明治維新を全否定する歴史書が、ベストセラーになっている。ヒットの背景を探ってみると、やはりあの“遺恨”があった。


 歴史書としては異例の5万部を超えるヒットとなっているのは、「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」のサブタイトルを冠した『明治維新という過ち』。出版元・毎日ワンズの松藤竹二郎社長がいう。


「立花隆氏が週刊文春、斎藤美奈子氏が週刊朝日の書評で取り上げて話題になりました。ただし、読みもしないで新聞広告を見ただけで抗議をしてくる人も多いんです」


 著者の原田伊織氏は69歳で、作家のほかクリエイティブディレクターとしても活躍する人物。なぜこんな刺激的な歴史本を書こうと思い立ったのか。


「子供の頃から、自国の歴史を否定する風潮に疑問を感じていました。洋の東西を問わず、戦争に勝った方が自分たちに都合のいいように歴史書を書く。ただし、どの国も戦後100年も経てば必ず当時を検証するものです。ところが明治維新後に生きた日本人はその検証をやってこなかった。そこで明治時代以降の歴史を一冊にまとめておくべきだと思ったのです」


 なかでも原田氏が鋭い筆鋒を向けているのが吉田松陰である。一部を抜粋する。


〈松陰とは単なる、乱暴者の多い長州人の中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。(中略)今風にいえば、東京から遠く離れた地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である〉


〈思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋などがでっちあげた虚像である〉


〈松陰の外交思想というものは余り語られないが、実に稚拙なものであった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだというのである〉


 そして〈長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力として、松陰の主張した通り(中略)軍事進出して国家を滅ぼした〉と原田氏は主張するのだ。他にも、久坂玄瑞を天皇拉致未遂犯として糾弾し、勝海舟を〈長州・薩摩に幕府を売った張本人〉と指弾するなど、維新の志士、英傑たちをなで斬りにしている。


◆幼稚園のお遊戯は「白虎隊」


『明治維新という過ち』はある地方で突出して売れているという。長州と遺恨の深い福島・会津である。


「会津若松市の方からの反響はもの凄く、『よくぞ書いてくれた』という激励の言葉をたくさんいただいた」(原田氏)


「『長州テロリスト』の言葉を見て、即買った」(48歳会社員)という人も珍しくないようで、同市内では100冊以上売れた書店もあるという。


 明治維新において、会津藩は長州藩・薩摩藩を中心とする新政府軍から「賊軍」の汚名を着せられ、徹底的な弾圧を受けた。会津戦争では「白虎隊の悲劇」に代表される数多くの犠牲者を出し、しかも新政府軍が犠牲者の埋葬を禁じたため、会津の人々は家族の遺体が野に晒され、鳥や獣に食い散らかされる悲惨な状況を目の当たりにしたとされる。


 この時の遺恨は150年経った今も消えていない。2007年、山口県出身の安倍晋三首相が会津若松市を訪れて「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語り、2011年7月には東日本大震災の義援金などへの謝意を伝えるため会津若松市長が萩市を訪れたが、市長は「和解とか仲直りという話ではない」と語った。


 歴代の会津若松市長が和解を拒否してきたのは、市民レベルで“反長州”が根強い証左でもある。


「幼稚園のお遊戯会の出し物といえば、白虎隊の剣舞。ラストシーンでは刀を抜いて、お友達と刺し違えて倒れるんです。それが当たり前と思って育ってきたので、長州に対して敵対意識が芽生えるのは当然ですよ」(会津在住・50歳会社員)


「亡くなった祖母の口癖は『薩長から嫁はもらうな』。社内の県人会では年配の先輩たちが酔っぱらって『薩長の首を取れ!』とわめくのが恒例になっている」(会津出身・35歳会社員)


 なかには、「会津を通る国道が“49号線”という縁起の悪い数字なのは長州の嫌がらせ」(会津在住・58歳公務員)と真顔で語る人もいる。会津の人たちが同書を読んで溜飲を下げたのは当然かもしれない。


※週刊ポスト2015年11月27日・12月4日号


 

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コメント
 
1. 2015年11月20日 19:58:09 : v1gbxz7HNs
なぜあの革命が検証されず、ただ日本の解放であったかのように一種美化されてのみ語られ続けているのか、というと、それは革命を組織し支配した者が、今もまだ日本を支配し続けているからに他ならない。

明治維新後に起きたことで、日本の自由意志でできたことは一つとして無かった。
それは安倍政権になってからも続いている。
いや安倍政権自体がそれだ。
誰も選んでない。


2. むやうのすけ 2015年11月20日 19:59:20 : ltsuShGwyUDcQ : 1S9ZDb69po
明治維新を積極的に支持する庶民はほとんどおらず、「勝てば官軍」という皮肉は庶民の抵抗感を表現していた。ちなみに明治時代の庶民感情では、龍馬を暗殺した者のほうがヒーローであった。

3. 2015年11月20日 20:20:00 : xqEk6mxhpE
会津藩御預りの新撰組などは、政権側が取り締まりのために組織した「殺戮集団」だからテロ集団とは言わない。という主張なのか?

歴史には裏表がある。所詮は「勝てば官軍」。


4. 2015年11月20日 21:05:06 : LY52bYZiZQ
長州藩がテロリストなのは納得だが西郷隆盛の容貌を捏造したのは誰なのか?という点も興味あるところ。
http://sun-media.info/
http://blogs.yahoo.co.jp/blog_yamanashi_2/54703103.html

5. 2015年11月20日 21:41:13 : NBpJ50cVIM

 愛です この本は読んだが 「つっこみが足りない」と思うね〜〜

 他の本に記述がある内容を テロの側面から抜き出しただけの本だね〜〜

 ===

 田布施は 基本的には 迫害されていたいわゆる「弱者」だが 徳川を300年

 生き抜いた生命力が 明治維新だと思う 伊藤博文は 元々 忍者だったと考えられるが

 忍者としての 体力・知力・暴力のほとんどを持っていたのだろう

 博文が テロで殺した人の数は 相当なものだろうが 本人も 韓国のテロで殺された
 
 ===

 テロで作られた 明治維新も 最初は良かったわけだが 70年もすると

 太平洋戦争という 大きな間違いを犯すことになる そして 70年後の現在は

 明治維新で活躍した田布施人脈が 150年して おおいに「劣化」した結果が

 安倍 ばか政府だ

 ===

 徳川家康が 「悪の限りを尽くして作った」「初期の江戸幕府」は 秀逸だったはずが

 300年たつと 「最悪の弱体幕府」だから 長州の「ならず者一家」にさへ負けたのだ

 ===

 愛が 主張するのは 長期政権は「劣化」するという事だ
 

 


6. 2015年11月20日 21:49:26 : Lz7YIX31tw
2ちゃんねるは朝から晩まで反会津一色で、会津がいかに卑劣な藩で福島県民がいかに反日かを吹きまわるのに余念がない
双方に武器を貸すのが彼らのやり方だ 
仮に長州が攻撃の最先頭に立っていたとしても、そのバックにあるものは何かを見極めないと結局あちら側の対立誘導に引っかかるだけではないか?
そもそも長州は過激な行動で一旦日本中を敵に回す破滅的な動きに出た
で、明治維新最終段階で今度は東北諸藩が餌食になった 
2ちゃんねるは日本国民を共食いさせようとしているだろ その世界版が対テロ戦争ではないのか

7. 2015年11月20日 21:56:25 : eYOBlOWYhI
血塗られた テロは美談で 金メッキ

8. 2015年11月20日 21:59:43 : Lz7YIX31tw
江戸幕府は最後まで秀逸であり、長州だけで倒せる相手ではなかったと思う
では土佐が付いたから長州は一気に強大化したのか?しかし、土佐というのは高知県である
そこまで土佐は凄い雄藩だったのか?日本で一番豊かな藩だったのだろうか?
薩摩も付き、肥前も付いたから しかし、江戸幕府の領地は各地に天領と親藩・譜代もあり、この四藩が結託するだけで倒せるとも思えない
三菱財閥が土佐から出る必然性が果たしてあるだろうか?そこまで豊かな藩だったのか?

9. アーモンドの芽生え 2015年11月20日 22:08:58 : n5biyl0bqying : mM2fPtZ8Fr

    
       ◆>グラバー亭のテロリストだっただけだぁ・・・・<◆    


    長州藩帝国陸軍とアヘン王岸・山○組・戦争財閥・・・・東条英機裏切りの売国奴隷

    
    https://mamorenihon.files.wordpress.com/2015/08/kishi-nobusuke.jpg

     http://lite-ra.com/2015/08/post-1396.html
     http://lite-ra.com/2015/08/post-1400.html

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   ★>CIAと自称「国士」たち<★〜 児玉誉士夫・笹川良一・岸信介など 〜

    http://blog.livedoor.jp/yamaguchi_tamotsu_2005/archives/50631835.html


   
    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 


    児玉誉士夫→→→子分4人衆〜〜I会系土建8○3

             A:田中角栄   →→→ 子分:小沢一郎
             B:小佐野賢治  →→→ 子分;浜田幸一
             C:渡邊恒夫   →→→ 子分:森善朗
             D:小泉又次郎(刺青大臣)→→→ 首がぁ・・一族

        

   ★>戦後日本におけるCIA諜報員化について〜リチャード・コシミズ氏<★

       【「児玉誉士夫」学習会 09.05.31】

       http://mizu8882.blog.fc2.com/blog-entry-200.html

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


        ★>A級戦犯被指定者<★


    岸信介      不起訴・釈放 1896 1987
    児玉誉士夫    不起訴・釈放 1911 1984
    笹川良一     不起訴・釈放 1899 1995
    正力松太郎    不起訴・釈放 1885 1969


   http://s.webry.info/sp/stktakemoto4216.at.webry.info/201201/article_10.html


    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


    ★>「コミック版黒幕 実録!闇の支配者」<★

    http://www.zakzak.co.jp/gei/200901/g2009012025_all.html


 総理の犯罪として社会を震撼させた「ロッキード事件」で逮捕された田中角栄、小佐野賢治、
児玉誉士夫の3人の生い立ちと交わりに焦点をあて、日本の「闇社会」の支配者の暗闘を描いた

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 

   北の湖さん、残念・・・。放射能汚染を隠してるから、殺されたようなもんだ。

   東京西部は、死人が多い。

  ★>青森県・ノリタケ、長野・マツタケ<が国内初のきのこ出荷制限解除<★


     国内で初めて、野生のきのこの出荷制限解除・・・・、知ってんの地元民・・・
                              山菜もだめでしょ・・・


    ◆:問題は地元の哀れな愚民が、食べ放題に子供に食べさせていること。

       〜〜〜〜 〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜 


     ■:青森の子供千数百人中、14人が甲状腺異常・・・・・

     ■:千葉県柏市の子供、173人中、17人に甲状腺異常・・・・★1割って・・・

〜〜


10. けろりん 2015年11月20日 22:09:23 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

3.11で、東北の鬼門が開いたんだよ。
ウラ鬼門の西南薩長との、拮抗戦の戦端がオ〜プンになり、
このクニの浄化が始まり出す、狼煙のようなものだ。

ある意味、
中臣(藤原)・橘連合 vs 蘇我・物部連合の再来だろうな。
『 仏魔(大仏) vs 古神道(惟神) 』戦争の反映だろう。 


11. 2015年11月20日 22:10:36 : MC3Dtej4S2
日本史は世界で最も嘘にまみれていますね。
象徴天皇制下の民主主義詐欺というのも巧妙で、アメリカを悪役管理職として
雇っている国民騙し以外の何物でもありません。
オバマやネタニヤフが何故日本の天皇にひれ伏すのか可笑しいことだらけ。
キリストを殺め悪魔教を世界に広めた張本人が日本の支配者たちでしょう。

12. 夏も爽席 2015年11月20日 22:29:03 : YlJzBCjjO2yEw : 0ozMqQp9YA
松陰はテロ礼賛論者だったが
弟子たちはそれほどでもなかった
うまく立ち回ったのが
長州の足軽どもで伊藤などが
その筆頭であろう
久坂の家は医術だったので武家願望のあまり
キバリすぎたのだ
松陰の母・妹は熱心な仏教信者(浄土真宗)だったので
松陰には批判的であった
インチキ大河ドラマではもちろん
その辺の事情は隠している

13. 2015年11月20日 22:41:06 : 8vlWUL4Ywv
直接関係ないですが、最近明治維新に関わってこんな話も報道されていますね。

小沢一郎氏「共産党に先を越されてどうするんだ」
2015年11月4日22時59分
■生活の党と山本太郎となかまたちの小沢一郎代表
一強多弱国会で格差は広がり、国民は自民党政権に不満を持っている。我々が受け皿を作らなければならないと言い続けてきたが、思いがけず一番先に反応したのが共産党だった。
皆、共産党というと色眼鏡でみる。しかし、野党が連携し、安倍政権を倒さなければならない。政権交代のため、共産党は各党協力に向けて本気になって変わった。二の足を踏んでいる各党が共産党に先を越されてどうするんだ。
(共産と)一緒の政党になることはないが、自民党政権は国民のためにならず、代えなくてはならない。そのために、野党が協力するという点で一致している。国民のために手を結ばなければいけない。
「共産党と共闘するなんて、けしからん」と言っている人がいる。しかし、明治維新は殺し合いの戦争をしていた薩摩と長州が手を握って初めてできた。
政党がどうだとか、あいつが好きだ嫌いだとか言っていたら政治にならない。何とかして今年中に野党連携のための合意をきちんと取り付け、来年の参院選に臨みたい。(4日、石川県小松市内の講演で)


14. 2015年11月21日 00:04:44 : FlFy4uY4ho
明治維新は八百長だった。
幕府はわざと負けた。
兵力、特に海軍力では薩長を圧倒していた。
後にそれを知った西郷は、西南の役という形をとって帳尻合わせの死を選んだ。
武士として筋を通した西郷は、本当にラストサムライだった。

15. 2015年11月21日 00:21:28 : YxpFguEt7k
昔から、変わらないね。
会津の人の長州嫌い(差別)は…

どうかと思いますよ、非科学的だし。


16. 2015年11月21日 00:22:10 : qR018y1gQY
『“明治維新”とは、とどの詰まりは、武士階級(官僚族)の覇権争い・テロ合戦でしか無かったのである。』

それは、皆様に言う<ヒーロー・坂本龍馬くん>の、怪しい活動歴を悉に検証すれば、パースペクティヴに全てが見切れる。
<龍馬ちゃん>の政治的主張は「大政奉還」一点張りであり、例の「船中八策」も、<グラバー邸>で吹きこまれた“帝国主義・議会制度”でしかない。
要は“徳川幕府”の頚木を脱する為に、例によって例の如き“天皇はん”を持ち出したってだけのお粗末さってこと。
でね、<龍馬ちゃん>は<土佐藩>を脱藩して“維新活動”に邁進したって事になってるんだが、そんなことは嘘っぱちさ。ヤクザの“出入り”同様、盃を返しとかないと、下手を打てば<土佐藩>自体に累が及ぶからね?
<龍馬ちゃん>の活動資金源は、<大英帝国&土佐藩>だったのである。
そうした経緯の中で、<龍馬ちゃん>は単なる「武器商人」へと堕してゆく。
<土佐藩>は明治の覇権争いから脱落した変わりに、「武器商人・三菱財閥」を形成することになるのである。

<薩長野合>の経緯は、機会があれば是非とも論じたいテーマではあるが、今回はケチしてパス、
一点だけ言えることは、<明治維新>のスローガン「尊皇攘夷」の「攘夷」が全て吹っ飛んでしまったって事実だけは、歴史的に再検証すべきである。



17. 2015年11月21日 01:06:29 : ZvNQ19YPQ4
長州安倍から乞食金貰って自県の原発被害すら黙り込んでるカスが何を偉そうに

18. 2015年11月21日 02:14:21 : nWx0USGru6
>1
私は菅官房長官+安倍さんに満足です。
民主党が政権とったときはものすごく期待したものだが、その期待が大きすぎた分失望も大きかった。結局自民内部にも主流派と反主流派がいるので、そこで切磋琢磨してもらえれば野党なんか要らないとさえ思うようになった。前回の安倍さんはどうしようもなかったけれど、今回は命がけでやってくれている。マスコミやSealdsがどうして安倍に反対しているのかまったく理解できない。もっとも反対が多いのはそれだけすごいことをやっている証でもある。

19. 2015年11月21日 02:43:02 : ZFdNQ7RHT6
明治維新を遂行したのは
テロリストの集団だ
それには同意する
しかし、明治維新が不要だったのか
やはり、
世襲で贅肉だらけになった
武士階級のリストラは不可欠だった
今の財務をはじめとした
宦官罵奸僚のリストラも
本気の財政再建のためには不可欠なように
その意味では必要だっと思う
WW2の敗戦も
小利巧な厄人のリセットに
不可欠だった
消費税32%なんていうのは
早く公務員を頸にしろと
罪務の役人が告白してるのだ

20. 2015年11月21日 02:44:27 : fpt8itpB5Q
明治の超簡素な年表です
解釈に間違いがあれば指摘してください
http://005.shanbara.jp/book/view/meiji-ishin.gif

21. 2015年11月21日 03:55:13 : oXwa9M7coc
>もっとも反対が多いのはそれだけすごいことをやっている証でもある。
1億人殺せば反対は無数になるが
それだけ凄いことをやっているというパープリン屁理屈守銭奴会津塵
いっそ国を滅ぼせば歴史も全て消え失せてきれいさっぱりするだろう
言わなくてもそうなるがな

22. 2015年11月21日 05:03:47 : fpt8itpB5Q
安倍晋三の曾祖父はグラバーとツイッターにありましたが
可能性はあるでしょう
岸信介兄弟の顔かたちからして

23. 2015年11月21日 05:28:37 : E4bT3Bpr2w

歴史に関しては学術的に広くコンセンサスが得られているものに限って覚えておいたほうがいいと思うがなあ。

そうしておかないと、結局、正しい知識とそうでない知識を区別して覚えておかなきゃならなくなる。

これは混乱のもとだろう。


24. 2015年11月21日 07:25:34 : jCJH0iawms
>>23
歴史観には唯一の正解なんてものはない。
立場が変われば歴史観は全く違って当たり前。
学術的に広くコンセンサスが得られていると言えば聞こえは良いが、要は金の力で広く流布された見方って事だろ。

25. 2015年11月21日 08:04:24 : d1INYqu1to

>学術的に広くコンセンサスが得られていると言えば聞こえは良いが、要は金の力で広く流布された見方って事だろ。

それは違うね、学術的に広くコンセンサスを得るには証拠が必要になるからね。


26. おじゃま一郎 2015年11月21日 08:17:19 : Oo1MUxFRAsqXk : 1ZQksnJfgY
長州藩がテロリストであるというより、国ができるときは
テロリストに似たような行動をとるということである。

ISILはその名のとおり、自らのイスラム国を作ろうとしているので、
テロで邪魔する者共を殺害するのは、自国を作るための
ひとつの手段にしか過ぎない。


27. 2015年11月21日 08:32:58 : MvF3vAMIAI
関西の私も読んだが、「長州藩はテロリスト集団である」説には納得できた。明治維新というのは一種の武力革命だから、テロなしには徳川幕府を倒せなかつただろう、とは思うが、明治維新の裏の真相を知るためには、非常に良い本と思う。明治維新には「諸外国の思惑」が裏にからんでいるという感じがした。

28. 2015年11月21日 08:35:50 : Mz0XqnNMiM

完成したばかりの上野の西郷像を見て西郷の妻がこんなひとじゃない≠ニ言ったという。そもそも西郷像を造った明治元勲と従者等が西郷の顔を知らぬはずが無く、そこを突いた西郷妻の違和感でもあろう。顔を知られたく無い事情かあったのか?

西郷家で、さらにおかしいのが、弟の西郷従道と従兄弟の大山巌である。
薩摩フリーメーソン人脈は奥行きか深そう。

海軍大将 従一位 西郷従道は極めて怪しい。
※従一位 ← これでくくると数百人の歴史的リストがずらりと並んでいて驚きだ。日本の天皇宗教秩序権威ヒエラルキーか歴然としている。
従一位 島津久光
従一位 陸軍大将 上原勇作 ← フリーメーソンとして有名 なぜ従一位?

従一位ではないが、こういうのもある。
勲一等旭日大綬章 笹川良一
正二位 岸信介


29. 2015年11月21日 08:37:46 : Mz0XqnNMiM
28
くくると→ぐぐると

30. 2015年11月21日 08:37:50 : 7qvR5NNHws
田布施一味が
孝明天皇とその息子(本当の明治天皇)を殺し、
大室寅之助に明治天皇役をやらせ、
日本を乗っ取り、
現在に至っていることが最低5万人に知れ渡ったことは、
今後の日本には良いことですな。

31. けろりん 2015年11月21日 08:41:44 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc


昭和ヒロヒトは、その証拠隠滅のため、
広島田布施・帝国陸軍と、長崎・グラバー伴天連の
秘匿事項の完全焼却封印に、原爆投下地に指定した。

●●●昭和天皇の原爆開発会社_カーママン社

●マンハッタン計画において、ディロンの社員として現場で核兵器開発を指揮したのがデイヴィッド・カーママンである。カーママンは、広島、長崎に投下する核兵器製造の専門家であると同時に、ニューヨークでディロン社の兵器を販売する商社カーママン&ウィットキンを経営していた。

●カーママン社は、カーママンと昭和天皇ヒロヒトが共同で設立した兵器商社である。天皇はこの商社を通じ、日本軍の使用する兵器を敵国・米国から密輸し、その販売利益を「 天皇個人の財産 」として、スイス銀行の口座に密かに蓄財し続けていた。

●天皇はディロン社の日本代理人であり、第二次世界大戦の武器密売で利益を蓄積した武器密売人であった。天皇と同じ会社ディロンで「 働く 」カーママン。商社カーママン社を天皇と共同経営する「 天皇の同僚 」カーママンが、広島、長崎へ投下された原爆の製造担当者であった。

__________________

ヒロシマとナガサキへの原爆投下は
天皇ヒロヒトの、指定。

戦争末期、ドレイパーは、
天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、
「 戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい 」
と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における
天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、
日本に原爆を投下し、その威力がどの程度なのかを見終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。


天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、
それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。
天皇ヒロヒトは、自分1人が助かり、それと引き換えに、
広島、長崎の市民の皆殺しを承諾した。

 
これが、
「 同業者、兵器密売企業の共同経営者 」
天皇とドレイパーの密約である。

__________________


●●●昭和天皇のアジア戦略

1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『 事故 』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品( 価値の高い陶磁器 )の窃盗を監督した。文化的な遺産( 仏教寺院 )を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【 原文では ”tairiki ronin” となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者 】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【 原文 ”Banda Verde” で「 緑色の集団 」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者 】の中国人の首領たちと手を組んだ。


●●●昭和天皇のアジア戦略

いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機( 秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相 )、星野直樹( アヘン独占販売の長 )、松岡洋介( 満鉄の総裁 )そして鮎川義介( 日産の統括者 )【 本文では ”Aikawa Gisuke” となっているが音訳のミスと思われる:訳者 】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段( 身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など )でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「 黄金の百合作戦 」である。

その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

この『 反共 』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。


●●●昭和天皇のアジア戦略

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【 原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者 】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【 朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者 】

この最後の者【 朝香宮を指す:訳者 】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。

軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート( 会計士、財務の専門家など )、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。


●●●昭和天皇のアジア戦略

1941年にフィリップ・ペタン内閣は日本がインドシナ半島北部を占領することを認めた。近衛文麿は『交渉による平和』を望んだが裕仁の説得に失敗し、辞意を表明した。宣戦布告の決意をし、天皇は東条将軍を首相に指名した。彼は満州で組織的な略奪を行った岸の一党【 原文では clan つまり悪党集団:訳者 】の手下であった。

パールハーヴァーの『 だまし討ち 』は、東南アジアにおける日本の好戦性を解き放つシグナルであった。日本はタイ、スマトラ、ビルマに侵攻し、グアムとホンコンをその手にした。さらにマッカーサー将軍をフィリピンの領地から追い出した。新たに付け加えられた領地は憲兵隊によって組織的に略奪された。秩父宮はシンガポールに黄金の百合の総合本部を置いた。専門家たちが目録をつくるためにそこにすべての分捕り品が集められた。

フィリピンでは欧米の銀行が黄金の百合のエキスパートたちの第一目標であったが、彼らはフィリピンの財宝を奪い取って、筆頭株主が裕仁その人である横浜正金銀行【 原文は英語 Yokohama Specie Bank:訳者 】、台湾銀行、そして他の国有銀行の財産にしたのである。その黄金の一部は戦争の経費に充てられた。スイス、ポルトガル、アルゼンチン、そしてチリの銀行が洗浄に使われた。

憲兵隊と黄金の百合の実行者たちが奪った富はシンガポールの集中させられ、最終目的地である日本に輸送されるためにマニラに運ばれた。

[ 黄金の百合からブラックホールの資金へ ]

ミッドウエイの戦いの後、東南アジアにおける軍事的な力関係は米国に有利に傾いた。日本は海上輸送の支配権を失った。裕仁と帝国の第一人者たちは帝国の敗北を予想し始めた。

それ以来、公式には富士山麓で結核療養中であることになっていた秩父宮に率いられてきた黄金の百合作戦は、マニラで足止めを食らっている戦争の分捕り品を救うことに必死になった。秩父宮はまず病院船を使って金を輸送し、その後その金を日本の山地に作られた地下壕に溜め込んだ。


________________________

もちろん、国内事情としては
奈良時代から始まる、
京都・白足袋族(オモテ=藤原)と
和歌山・黒足袋族の( ウラ=橘・紀 )の
仏教徒支配層による、神仏習合が図られ__このクニの惟神(カムナガラ)は、
国家神道・一神教ネチズムへと変遷されていった・・・。


32. 2015年11月21日 09:29:20 : yuBKLdbgC2
通説をひっくり返すってンなら、紀記の呪縛を取り払わなきゃな。
会津だ薩長だ、官軍だ賊軍だと喚いても、本丸は痛くも痒くもねぇよ。

33. 2015年11月21日 11:28:18 : kebDWDUE0w
>30
大室寅次郎が明治天皇なら山口の人や京都の人はみんな知ってる事でしょう。その割には有名になりませんでしたね。そして大室家はその後どうなりましたか。爵位をいただいていますか。またひとつ不思議なのは全て知っているはずの乃木大将が洵死している事です。そんな大室の後追いなど普通はしないだろうし想像できません。その辺のところを説明していただきたいものです。

34. 2015年11月21日 11:46:54 : kebDWDUE0w
>31
たぶんよく調べた上お書きになっているのだと思いますが証明というか証拠を出して欲しいものです。そうでないと捏造になります。いやいくらそれらしく書いても誰も信用しないでしょう。バカにされるだけですよケロリンさん。とりあえずカーママンと天皇の取引記録や契約書いや登記簿いや通信記録等を出してみてください。そしてドレーバーと誰が仲介に入り交渉していたかも出来ればその記録も出してください。さて黄金の百合どこに埋められているのでしょう。誰かそれを発見した人いますか。そう言うのがないと捏造と言われても仕方がないですよ。まあ、ユダ金の悪はひどいものだしそれが現在も続いている事は理解できますが天皇自身がどうのというのは問題です。あいさつ程度はしているでしょうが自ら実務をしかかわったとは考えにくいです。それに日本軍の装備がほとんど外国製だったと言う話もあまり聞きません。そしてスイスに貯めたお金はその後どうなったかの結論も聞きたいものです。

35. 2015年11月21日 11:53:57 : qF4T1YwunA
■世界史の中の日本史という視点から見た明治維新

特に、英米軍産複合体がアジア各国を支配の視点がかけている。
(西欧軍産複合体のアジア進出と言ってもいい)

英米軍産複合体は中国をアヘンを使って支配しつつあった。

中国の次のターゲットは極東の島国日本である。

●江戸幕府の鎖国と外交の実態

英米の中国進出に身構えていた江戸幕府は、国際法にも精通した優秀な幕臣が多く巧みな交を展開していた。幕臣は諸外国にも派遣されその堂々たる態度と交渉力は各国から賞賛されていた。

我々は、江戸幕府の鎖国を「長崎の出島以外は海外に門戸が開かれていない状態」と教え込まれてきたが、まったくそんなことはなかった。

海外との交流は日本の各地で行われており、我々の認識よりはるかに門戸は開放されていたのである。

ただし、宗教に関してはキリスト教の伝搬を制限していた。これも、欧米列強の世界侵略の「入り口」としてキリスト教の拡散があったという歴史認識からの防御手段であっったと思われる。

●英米軍産複合体の日本進出の手段、それが「明治維新」

江戸幕府が手強いことを知っていた英米軍産複合体がとった日本進出の手段は、江戸幕府を倒しどうにでも操作可能な傀儡政権を作ることだった。

そこで、狂人テロリスト吉田松陰に感化された血気盛んな地下浪人や下級武士達をたきつけ、最新の武器を与え江戸幕府を倒し傀儡政権を打ち立てたのです。

これが明治維新の実相です。

英米が世界の各国を支配するやり方は歴史を通じてほとんど同じです。
自分たちは直接顔をださず、傀儡政権を通じて支配するのです。

そそいて傀儡政権の主役には、姿形の似た外国人や国に反感を持っている同国人などを据えます。他のアジアの国でもそうでした。

●グラバーは傀儡政権とともに武器商社の日本パートナー「亀山社中」(後の海援隊)を作った。

明治維新というクーデターの英米軍産複合体の主役が英国の武器商人グラバーでした。長崎のグラバーは日本に傀儡政権を作ると同時に、軍産複合体パートナー(武器商社)も作ります。

それが坂本竜馬の亀山社中(薩摩藩が出資)です。グラバーは亀山社中を通じて長州等に武器や軍艦を売って竜馬を育てました。いわば亀山社中は武器商社として成長を遂げたのです。その後、亀山社中は海援隊と名を変えて商社を続けた。

やがて、竜馬は暗殺され、亀山社中(海援隊)は同じ土佐の岩崎弥太郎の土佐商会に引き継がれた。この岩崎弥太郎もまたグラバーに育てられた者であったのです。

「弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。」(Wikipedia)

やがて弥太郎は軍産複合体ビジネスで巨利を得て三菱財閥を作り上げた。グラバーは三菱の特別役員として厚遇され、長崎のグラバー邸は三菱の所有(当時)となった。

●今日に続く英米軍産複合体による傀儡政権維持と日本支配

さて米英が進めてきた日本の傀儡政権は今もなお続いているのですが、その中枢に座らせてきたのがやはり明治維新の中心となった吉田松陰門下のテロリスト達の血族でした。

この者達を利用して日本の植民地化を確実なものに仕上げていったのです。

第二次世界大戦の後、日本支配の基盤となった日米安保条約を締結(密約)しますが、これの日本側代表が吉田茂でした。吉田茂は、倒幕の戦士である土佐出身の地価浪人と芸者の間に生まれた子供でした。(吉田茂は英国のエージェントであったことが知られています)

さて、その後に新・日米安保条約を締結したのが岸信介ですが、彼もまた倒幕の戦士である長州の下級武士の子供でした。(岸信介は関東軍時代に米国の武器・アヘン商人ブッシュ一族と知己となり、第二次大戦後のA級戦犯の刑死を逃れ、CIAのエージェントとなりました)

そして今日、日米安保条約を更に拡大して戦争法案に仕立てたのが安部晋三・麻生太郎というわけですが、ご承知の通り麻生太郎は吉田茂の孫、安倍晋三は岸信介の孫ですから、吉田松陰つながりということになります。

これは米英側の視点に立って日本支配の戦略を考えたとき、重要なポイントでもっとも安心して使える人的な選択だったのです。

このように、日米安保条約、日米地位協定のような占領政策をどうどうと実現できた背景には、自らの権力と利権のために国を売り、国民を売る「安倍一族」とでもいうべき存在があったからと言えるでしょう。

●今日の日本の傀儡政権と軍産複合体ビジネスパートナー

もちろん傀儡政権は安倍晋三・麻生太郎のコンビで米軍産複合体の日本出張所長アーミテージに指示通りに政治を行います。

また米軍産複合体無事根巣パートナーである三菱には安倍晋三の実兄が役員で入っています。

安倍政権になって以降、防衛費は増額され三菱はじめ日本の軍産複合体及び米軍産複合体は巨利を得ています。(消費税増税はこのためにあったのかと思われるほどです)

●日本の自立を阻んできた米軍産複合体と傀儡政権そして隷米官僚

田中角栄元総理も日本の自立を思った人でしたが、米軍産複合体と隷米三木政権、司法を含む隷米官僚、そしてマスゴミ・立花隆等の総攻撃に遭い政治生命を奪われました。
(米国の手先・文芸春秋・立花隆:http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/3276.html

民主党政権を打ち立てた小沢一郎もまた日本の自立を思う政治家であったため、時の麻生太郎総理の指揮権発動により国策捜査をされ、やがて小沢一郎を起訴するために改悪されていた検察審査会によって強制起訴されたのでした。

このでも麻生太郎という傀儡政権の血筋が機能しています。

日米安保条約、日米地位協定により国土全体を支配され、治外法権にされ、米国に実質支配されている世界でも例を見ない恥ずかしい国にしたのは、吉田茂、岸信介、安倍晋三、麻生太郎というお互いに縁戚関係にある「安倍一族」とでも言うべき存在があるのです。

そしてそのもとをたどれば、長州藩にさえ幾度も投獄され、やがて幕府に捕まり長州藩さえ「死罪やむなし」と言わしめた狂人テロリスト吉田松陰の陰がつきまとっているのです。

●明治維新の実態を多くの事実に基づいて教えてくれる下記資料も参考になる。
   ↓
『維新正観─秘められた日本史・明治篇』
http://www.hihyosya.co.jp/ISBN978-4-8265-0619-9.html

<著者略歴>
1873(明治6)年5月生まれ(1959年8月没)。東京大学法学部卒、同大学院国際法専攻、法学博士。ベルサイユ講和会議、ワシントン軍縮会議など、政治、外交、赤十字国際会議に列席。第1次世界大戦後、「平和時の赤十字」を提唱し、5大国代表と協議し1919年赤十字社連盟を創立した。歴史の専門家ではないが、法学的視点から幕末・維新史の特異な分析を試みる。


36. ボケ老人 2015年11月21日 11:54:36 : nf15y2vSVdhvU : cLlCcv3fYs
なぜ急に話題になったのかわからないが、司馬史観にまみれて明治維新礼賛という一方的な考え方に一石を投じることにはなろう。

橋下一派の維新もいい加減さでは似たようなものだろう。
長州テロリストの方が命を懸けているだけに迫力があった。

原田伊織に100%賛同するわけではないが、どちらかといえば歴史に忠実なのは司馬より原田の方だと思う。


37. 2015年11月21日 13:09:20 : JFmlklA0Ug
やっぱり安倍批判につなげるアホなコメントがあったかw

普通というかまともな頭ならこの記事から安倍批判はつなげないだろう
まともに安倍批判やるヤツには迷惑なだけなんだよ

馬鹿のやっていることは、「狼少年」なんだよな
ここまで言っても理解できないくらい馬鹿なんだろうけどw

まともなヤツはさぁ、こういう馬鹿にきちんと注意しとけよ
注意しとかないとあとで自分たちのほうが不利益を蒙るぞ
一部のアホどものせいで無駄に法制化されて窮屈になった事例はいくらでもあるだろう?

しかし、こういう動きを賛成してるやつは
ポツダム宣言、東京裁判に否定的な言論を否定してはだめだぞ
ダブスタだからな


38. 2015年11月21日 13:19:46 : kebDWDUE0w
>36
橋本一派は朝鮮同和の固まりでしょう。売国奴の固まり。あの和歌山の竹中が顧問です。ただ、地方行政に関しては良くも悪くも面白い。
司馬さんは小説家で歴史家ではない。本を買ってもらわねばならないから創作しているでしょう。気が付かないように司馬さんをうまく利用した人達もいたでしょう。

39. 2015年11月21日 13:32:11 : qF4T1YwunA
●安倍総理の言動は軍産複合体傀儡政権として必然です。

ホルムズ海峡につっこみ(これはあとで嘘がばれた)、海南島につっこみ、ISにつっこみ、イスラエルにつっこみ・・・

これらは全て軍産複合体傀儡政権として自らの戦争法案等の政策を正当化するために紛争に加担しあるいは紛争の原因を作ることが目的でしょう。

そして防衛費という名の国民の税金をガッポリいただくのです。

それにしても、日本において最も恐ろしいのは米軍産複合体が日本で仕掛ける偽テロかなと思う。

外国人の入国はチェックが厳密に行えるが特別な役割を持った米国人は入出国のチェックができない。

なにせ、日米安保条約、日米地位協定によって売国は治外法権扱いですから、米軍機で来日し、米軍者で日本国内を移動し、そして米軍機で帰国すれば、日本からはなにも見えないのですから。


40. 2015年11月21日 15:03:42 : gha4wQHsWY

明治維新は、美化している。

『明治維新という過ち』は読みました。
こういう視点は、新鮮で共感抱いた。

  TPPも・・・過ち?


41. けろりん 2015年11月21日 15:12:32 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

●ヒトラー宗教
●スターリン宗教
●毛宗教
●天皇宗教
●統一文宗教
●大作宗教
●安倍宗教
●米軍が守ってくれる宗教


いままで一番のえげつない< 宗教 >が
人類史上でも稀に見る惨禍をもたらせた・・
『  天皇宗教  』だ。
自国民300万〜400万人にものぼる、無駄死にと犬死にの上に、
核爆弾の実験材料で、非戦闘員・庶民大衆が
一瞬のうちに、焼き殺された・・・・
コソコソネトネトと、米軍の要請のままゲンパツ作りまくり
一瞬のうちに、四発も核拡散事故放ったらかし・・・・

こんなクニは、世界中広しといえどもこの日本だけだ・・。


・・・・・・・・・・・・・・・
< そのクニに魔界の天使が立てば、人民は焼き尽くされ生贄にされる >
これは、世界中、おなじ法則が成り立つ・・。

『 天皇宗教 』は、英国魔界支配の植民地の「 アメリカ 」で
コントロールされ、未来永劫日本を極東の西欧王族の
軍事基地として利用するための、伴天連誘導宗教だということだ。


___________
数年で使い物にならなくなる原爆トマホークの保有数を維持する為に、
「 原子力発電所 」と言う名の『 原爆兵器最生産工場 』が必要であり、
原爆脅威の< 脅し >に基地が必要であり、
その永続的な基地の確保には、100万の兵隊に匹敵する
『 天皇宗教 』こそが最も必要なんだ。


保守だの、革新だの、中道など、というヘ〜コラ兵隊奴隷根性のまま、
歴史的< 真実 >に目を背けたままで、いったい何が変わるんだ?



_____________________

< ニッポン版カースト一億・総奴隷_民主主義 >
【むかし】士・農・工・商・・・エタ・非人・・・・・江戸

【い ま】天・経・官・庶・・・愚民・ネトウヨ・・・東京
※語彙解説/
(天皇)血筋・(経済)ゼニ・(官僚)シガラミ・(庶民)納税百姓

_____________________



●世界最大の武器展覧会_伴天連・バッキンガムイエズスウィンザー家。
●国内最大の武器製造メーカー_三菱重工業・戦争屋。

●世界最大の幇間”傀儡”支配者_日銀一神教・天皇家。

世界二大・妄想お神社会__霊性ドン底・英国&日本。



いまや、イオンでさえ、三菱天皇家の持ち物だ・・・。
最近、竹田ナンタラ・・・などという、天皇教宣伝マンが
暗躍しているな__?
麻薬所持で挙げられたのは、竹田の従兄弟か親戚・・らしいな?

____________________
>>34. 2015年11月21日 11:46:54 : kebDWDUE0w


ウチの母親方の先祖は、ある銀山所有者だった。
明治の富国強兵政策のあおりで、・・結果的に、三菱マテリアルを介在にした
天皇家に、パクられた。家そのものは天皇家に組み込まれたが
それまで働いていた数千人の銀山労働者が路頭に迷い
曾・曾祖父は責任をとって切腹・自害した・・・。

そのやり口はマフィアのようなもので、
証拠を出せと言われれば、ワシが生き証人のようなモノだ。

昭和ヒロヒトの嫁_良子(ながこ)と懇意にしていた、
ウチの祖先からの情報でもある。

朝廷とは、朝鮮半島の宮廷。
北朝・南朝とは、
北朝鮮の宮廷=北朝。
南朝鮮の宮廷=南朝。
奈良時代から延々と続いて来ている権力内部の覇権争いだ。

皇紀2700年。これの淵源は、紀元前700年当時の< 周 >が
紀元になって居り、その追い出された周の王族が、遼東半島から
朝鮮半島を経由し、新羅が半島を統一した当たりから、
西暦500年前後から、この日本に、新たな貴族・奴隷社会を
突如として、構築していった・・・。

このクニのそもそもの紀元は、紀元4,600年もある。
物部の先帝旧事に、上から中華・朝鮮連合軍が、
天皇=周の天帝および皇帝システムを導入し、
中臣&聖徳(藤原)によって、奴隷収税システムを完成させた。


___________________
●大化の改新( 中華・朝鮮連合軍 )による乗っ取り。
●明治維新( 英国・米国連合軍 )による乗っ取り。
このクニの底流には、二重支配構造が息づいている。

本来の原・日本人なら、ビビッと来るハズだ・・・。
現状・日本人の遺伝子・比率・・・は、
________
中華DNA___50%
半島DNA__25%
中北DNA__10%
南方DNA__5%
中東DNA__5%
原人DNA__5%



42. けろりん 2015年11月21日 15:40:38 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

________________________

< 皇紀2700年・天皇宗教のその実態 >

昭和天皇の財産として戦後発表された分だけでも、莫大な額である。貧乏だった孝明天皇の子(?)の明治天皇が即位してから、三代、80年足らずでどのようにしてこれだけの財をなすことができたのか、ずっと疑問であった。その一つの解答がここにあるのかも知れない。赤間剛の「 昭和天皇の秘密 」―地獄でさまよえ天皇裕仁― という本から引用する。天皇家の財産が国民の前に明らかにされた時、その莫大さに国民は驚いていた。

●土地 135万町歩余 3億6000万円余
●木材 5億6000万石余 5億9000万円余
●建物 15万坪 2億9000万円余
●現金 2400万円余
●有価証券 3億1000万円

●●合計 15億9000万円余

評価額は戦争直後の標準によったが、その後の評価では660億円以上とされている。昭和36年の物価は最初の評価の500倍以上にあたるから総計は8000億円以上に達すると思われる。現在の価格では数兆円を軽く超えるものと言えよう。最初の評価の基礎は、土地一反が26円余という当時でも時価の十分の一、木材は一石一円で百分の一という不当に安い評価である。この評価は政府や宮内省が行ってGHQや世界の注目をまぬがれようとした小細工である。
 
土地の135万町歩は日本の面積の3%以上に当たる。5億6000万石の木材は日本全林野の8%に当たる。有価証券では配当金だけで年800万円もあった。天皇家は日本最大の地主であった。日本最大の大ブルジョワになっていた。西洋白人と同じように、植民地から搾取強奪することにより巨万の富を蓄えたのだろうか。また、あの戦争で死んだ日本人310万、アジアの人々2000万人に対して、昭和天皇は責任がないのだろうか。


日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。

『 
天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。しかし、のみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。

梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。( 国際連盟阿片諮問委員会議事録より エジプト代表ラッセル・パッシャの陳述 ) 
 』

なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。
これが大東亜共栄圏の実態である。


シンゾーの祖父岸信介は1936年10月に満州国国務院実業部総務司長(  満州国における行政機関。同国は議会を持たなかったため、国政の最高機関であった   )に就任。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった。阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。


________________________

<  無知は犯罪である。 >

無知は自分をコロし、最終的に周りをも悉くコロしていく。
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43. 2015年11月21日 15:47:58 : 62QaAmZ1Pg

「田布施」タブーが解禁 されたようだ

  本澤二郎は11月16日の「ジャーナリスト同盟」通信で

  「首相は本当に日本人か?」と題して初めて 田布施に触れた

 また「黄金の金玉」氏もごく最近のブログで

  「イスラエルと田布施町の怪について」 書いた

《 最近、検索してて知った衝撃のキーワード「田布施システム」。安倍さんの祖父・岸信介など、歴代首相の出身地だという、山口県の小さな町。ここに「明治天皇 替え玉説」など日本の現代史を理解する重要なカギがあると聞いて、ざっと調べてみました。  (中略)
 明治維新後、田布施出身の多くの志士が明治政府の重要なポストに就くこととなります。そしてその流れは受け継がれ、現在の安倍首相へと繋がっているようです。この明治維新から受け継がれてきた一連の流れは、「田布施システム」と呼ばれています。
日本国家の真相は、明治維新で長州藩田布施一味に国家を乗っ取られた 》

 と書いている 。。。。

       安倍晋三は 

   自らパンドラの箱ならぬ「田布施」の蓋をあけてしまったようだ

     


44. 2015年11月21日 15:58:48 : PirlpRNfL6
・明治維新(笑)。日本だけ植民地化をまぬがれた?(大笑)

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「長州出兵下における長州藩とイギリスの関係  ―イギリス側の視点を中心として― 」
http://www.oshima-k.ac.jp/kakari/tosho/kiyou/kiyou44/contents/10.pdf

このようなクラレンドン卿からの情報をパークスに知らせたハモンド自身は、
日本の体制変革について、次のような意見を述べている。 ハモンドは、

「もし、(日本の)体制に変更がもたらされるならば、それは日本人だけによるものとしてみえなければならない。
それは、実際には、私たち(英国人)の望むものとは異なる方法でもたらされるかもしれないが、
本当に永続的で有益なものであるため、それは完全に日本の特徴の印象を持ったものでなければならない」と、

日本の体制変革は日本人によって、日本の独自性をもった方法で行われなければならないことを強調している。

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ようするに「天皇」を頂点にしろ、ということ。
明治からの天皇制などフェイクでしかない、ということだ。

しかもその天皇も童話の偽物ときてる w
その偽物のために「天皇陛下万歳!」で
ジャップが死にまくったんだから、笑いがとまらんよな wwww
もっと死ね wwwwww


45. 2015年11月21日 16:00:43 : PirlpRNfL6
@takabu_kmb

大英帝国史の見方だと幕末日本は英国の非公式植民地。

効率良く機能する政府に英国の意思で改変する過程が明治維新。

だから、ガチンコのフランスに比し日本は八百長。

江戸城無血開城も英公使の指導で勝-西郷の会談は捏造。

そして今もこれ w
http://i.imgur.com/fU9pwSj.jpg
http://i.imgur.com/zCmcYZc.jpg
http://i.imgur.com/85CWH6u.jpg
http://i.imgur.com/f935Q3Q.jpg
http://i.imgur.com/4s2M05U.jpg
http://i.imgur.com/3MyNNDm.jpg


46. 2015年11月21日 16:02:54 : PirlpRNfL6
幕末に孝明天皇とその子供を殺す

山口のど田舎の童話部落の人間を
代わりに、天皇に据え付ける(明治天皇)

明治元年、明治天皇は、
崇徳上皇 を京都市の白峰神社で新たに祭り上げる。

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
自らの血で綴った崇徳上皇の呪いが完成したため。


なんで、
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
なんて不気味な言葉を書いたタタリの悪霊上皇を
明治になってから、格上げしたんでしょーねー w(意味深

http://moon.ap.teacup.com/komichi/timg/middle_1275353460.jpg


47. 2015年11月21日 16:04:16 : PirlpRNfL6
2011年2月14日 01:10:09: NwnWqvxZZs

イギリスに留学していた人が言うには、王立公文書館での調査では、

明治期の、朝鮮を日本に獲らせたのは英国だというのが、公文書により確認できるそうですよ。

日本人の頭脳ではないそうですよ。英国の操りだっただけでは。


48. 2015年11月21日 16:05:27 : PirlpRNfL6
日本は、明治維新 w で実質、植民地化される。

宗主国は、反感をかわないように「世界は日本の奇跡を絶賛している!」
と明治から定期的にガス抜き記事をたれながす。

猿はバカなので、 支配階層まで、それを真に受け、今に続く。

図に乗って敗戦 。戦争最大のタブー二正面作戦をとったアメリカに片手で捻り潰される。
しかし世界のニッポンは、兵器の質では負けておらず量で負けたのだ、と必死に信じこむ。
おまけに、悪魔的な残虐行為を働き、アジアでの永遠の孤立を決定的にする。

敗戦の不幸を半島に押し付け、冷戦で甘い汁をすうが、冷戦の仁義を無視し、
宗主国様に切れられ、為替戦争をしかけられる。

バブル発生。バブルなのに今だに猿どもは、この頃のバブルが日本経済の真の実力と信じこむ ww

バブル崩壊、冷戦終了も、世界体制の変化に順応出来ず、既得権益の保持に走るばかり。
パソコン、ネット、携帯、スマートフォン、ことごとく失敗。

どんどん、国力低下。保守化に拍車がかかる

窮地を脱するため、調子こいて、また宗主国様たちに無謀な喧嘩をふっかける w
世界のニッポンに不可能はないらしい

宗主国様、ぶちきれ、311をお見舞い。日本、本格終了。 プルトニウム (゚д゚)ウマー
2ch は、今日も、ネトウヨのレイシズムと日本賛美で埋め尽くされる。

今更捨てられないプライドのため、相変わらず対外姿勢は攻撃的な世界のニッポン(笑)。
ボクチン、まだ負けてないモン!ということらしい。しかし希望はもうない。
宗主国様からの次の一撃を待っている段階が今。\(^o^)/オワタ

49. けろりん 2015年11月21日 16:22:29 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

●●●●戦争を主導した昭和天皇

19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。


●●●●日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。

しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「 売春婦 」として海外に「 販売 」する事にした。貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介すると騙し、天皇と三菱財閥は日本人女性を「 売春婦 」として、海外に売り飛ばした。天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船が騙された女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「 売春婦 」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「 命令 」である。天皇が騙し、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。天皇一族の財産はこうして作られた。 参考:山田盟子「 ウサギたちが渡った断魂橋 」上下 新日本出版社 ( 唐行きさん )


「 第二次世界大戦に日本が参戦する事に昭和天皇は反対であったが、軍部と東条英樹首相の暴走と強硬さに押し切られ、嫌々ながら天皇は戦争に関与した 」という、デマ宣伝がマスコミによって流されている。「 天皇を何とかして戦争責任から逃がそう 」という宣伝である。

1995年3月19日付、毎日新聞は、1944年7月20日付の天皇から、東条英樹宛ての勅語を掲載している。
「 あなたは( 東条は )、朕( 天皇 )の行う戦争において、朕の指導の下、十分に職務を果たした。」

天皇はこの公式の勅語で、第二次世界大戦への日本の参加は、「 天皇が 」決断し行った=朕の戦争である、と断言している。そして東条英樹以下、軍部は「 天皇の指導に従っていた 」と明言している。天皇が戦争に反対の「 平和主義者 」などと言うのは、全くのデマ宣伝である事を、天皇自身がここで明言している。

山田朗は著書「 昭和天皇の軍事思想と戦略 」校倉書房刊・・で、膨大な資料と証言を積み重ねながら、政治と軍事の最高指導者として、また、最も正確な情報を収集し得る立場にいた者として、天皇に戦争を起こした責任がある、と結論付けている。この膨大な資料と証言に反論し得る研究は、まだ出ていない。


戦争中、侍従次長として天皇の側近中の側近であった木戸幸一は、著書「 側近日記 」東京大学出版会・・で、真珠湾攻撃の成功直後、戦争の開始を、「 天皇が喜び、飛び上がって、小踊りする 」様子を描いている。戦争の開始を、「 喜び、飛び上がって、小踊りする 」天皇が、どうして「 戦争に反対する平和主義者で、軍部と東条英樹の強硬姿勢に引きずられた 」事になるのか?こうしたデマ宣伝の背後には、再び「 天皇を中心に日本を、力づくで統一 」しようと言う、日本政府の意図が透けて見えている。昭和天皇こそ、戦争を起こした責任者、戦争犯罪人として死刑に処されるべき犯罪者である。

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『  宗教とシンジャ 』
信仰心が強ければ、どれほどの< 証拠 >を提示しようが、信じない。
英国・米国欧州王族にとっては、天皇教徒は、支配シンボルに無くてはならないモノ。
目の前で、ゲンパツが4発も崩壊しようが、ゲンパツ安全神話は揺るがない・・・。
それと、同じようなモノだ・・・。
このクニには、『 天皇宗教シンジャ 』『 ゲンパツ推進シンジャ 』の狂信者が、
まだまだ、80%近くも存在する・・・。



50. けろりん 2015年11月21日 16:54:35 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

< 灯台、元暗し・問題 >


まさに殺されきってきた国の人々の
悲しい心を
思って見ると良いだろう。
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●政治情勢で見ても日本がアメリカと手を切り、中国やロシアと手を組むようになった場合を考えればハワイは孤立して防衛ラインを本土の西海岸まで後退させなければならない。中国やロシアの潜水艦が大手を振って太平洋に出てくるからだ。つまりアメリカが日本を失えば世界の覇権を失う事を意味する。


●第二次大戦中、ディロンの親会社が、現在のブッシュ大統領一族の経営する軍事産業専門投資会社カーライルであり、そのブッシュの経営するハリマン銀行の取締役ロバート・ ラヴェットが、戦争省次官として自分の経営する兵器会社から米軍に武器を納入していた。米軍の兵器と日本軍の兵器購入資金は、同一のハリマン=カーライル=ディロンから出ていた。

●日本軍と米軍が「 殺し合えば殺し合う程 」この銀行が儲かる「 仕組み 」になっていた。この銀行の私的利益のために日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。


●この金儲けシステムの米国側にドレーパーがおり、
日本側に天皇ヒロヒトが居た。


<  アメリカの国立公文書館で発見された・・  >
「 米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

●「 日本プラン 」は1941( 昭和16 )年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「 天皇を平和の象徴( シンボル )として利用する 」戦略が明記されていた。 

●すべての戦争責任を「 軍部 」に押しつけて天皇を免罪し、「 象徴天皇制 」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942( 昭和17 )年5月には「  皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない  」とする「  英米共同指針計画  」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「  日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした”傀儡(かいらい)政権” 」を提言し、「 天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する 」と主張していた。

●アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

●だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡( かいらい )とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。

●アメリカはその理由として、「 日本の軍国的国家主義の根絶 」と「 自由主義傾向の奨励 」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

●プレスコードの「 禁止項目 」には、「 占領軍・占領政策・アメリカ批判 」「 占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写 」「 左翼宣伝 」などとともに、「 飢餓の誇張 」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

●米国=ハワイの商業航路は、それを開拓した「 黒船ペリー 」の「 権益 」を、そのままこのディロン社のペリーが引き継いでいる。そしてそれが、そのまま米国海軍の米国本土とハワイを結ぶ軍事航路として、ペリー=ディロン社の軍艦兵器・備品販売=消費に「 貢献 」している。つまり、ハワイを米国が植民地支配し、その支配継続のためには莫大な米国海軍の装備が必要であり、ハワイ・ルートを開拓したペリー一族のディロンが、その海軍の軍艦、兵器、備品を販売し、利益を上げているという構造になっている。

注2・・第二次世界大戦中、日本の広島、長崎に原爆を投下するための核兵器開発計画=マンハッタン計画の中核を担当したのが、このディロン社である。

●軍人、政治家には、核兵器開発の技術的ノウハウは「 全く 」無く、ウラン、プルトニウムの入手ルート開拓、鉱山開発のノウハウも全く「 無い 」。軍人、政治家が核兵器開発計画を立てても、それを実際に実行に移すのは、ウラン、プルトニウム抽出のプラント( 設備 )のノウハウを持つ軍事産業ディロンである。

●マンハッタン計画において、ディロンの社員として現場で核兵器開発を指揮したのがデイヴィッド・カーママンである。カーママンは、広島、長崎に投下する核兵器製造の専門家であると同時に、ニューヨークでディロン社の兵器を販売する商社カーママン&ウィットキンを経営していた。

●カーママン社は、カーママンと昭和天皇ヒロヒトが共同で設立した兵器商社である。天皇はこの商社を通じ、日本軍の使用する兵器を敵国・米国から密輸し、その販売利益を「 天皇個人の財産 」として、スイス銀行の口座に密かに蓄財し続けていた。

●天皇はディロン社の日本代理人であり、第二次世界大戦の武器密売で利益を蓄積した武器密売人であった。天皇と同じ会社ディロンで「 働く 」カーママン。商社カーママン社を天皇と共同経営する「 天皇の同僚 」カーママンが、広島、長崎へ投下された原爆の製造担当者であった。

●米軍が天皇の戦争責任を問題にせず、真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は、戦争の目的が金であった事、そして米軍が米国政府の代理人などでなく銀行ディロンという私的機関の「 代理人 」である事を良く示している。

●第二次世界大戦後、米国ロックフェラーの原油を日本に運搬するタンカー企業は、日本の水産会社の漁船部隊を再編成して創立された。

●第二次世界大戦中、米国と戦争する日本海軍の軍艦部品は、敵国アメリカのロックフェラー財団から密輸されていた。ロックフェラーは米軍へも兵器を納入し、日本と米国はロックフェラーの兵器販売促進のために戦争を行っていた。

●ロックフェラーと共に、日本海軍の軍艦部品密輸商社を経営していたのが昭和天皇ヒロヒトである。ヒロヒトの部下として、兵器密輸の実働部隊を担ったのが三菱財閥、日本水産=ニッスイ、天皇の右腕で皇室出身の外交官・白州次郎であった。密輸船は日本水産のものであった。

●●●米国スパイ< 白州次郎 >

●戦後、白州次郎は天皇の命令を受け日本水産の社長に就任、兵器密輸仲間の三菱財閥から出資を受け、日本全国の暴力団、総会屋を結集し、ロックフェラーの原油輸入・販売業=< 業転 >を創立する。ロックフェラーのタンカーの操縦は、天皇=白州の< 日本水産 >が担当する事になった。

●< 業転 >が魚の先物取引という奇妙な金融商品を持つ理由は、原油輸入と日本の水産業との一体化という歴史から来ている。

●こうして日本全国の暴力団、総会屋を結集し、闇資金市場を創立し、そのボスに君臨したのが昭和天皇であり、業転は戦争中の兵器密輸企業=死の商人の戦後版であった。

日本の昭和天皇ヒロヒトは、敵国であった米国の兵器を日本に輸入し日本軍部に売り付け、その利益を私的に「 着服 」し、スイス銀行に隠し蓄財していた。そのスイス銀行の口座はヒトラーと天皇ヒロヒトの「 共同名義 」の口座であった。

ヒトラーと昭和天皇ヒロヒトは、戦争を起こし兵器を密売し、
共に「 私腹を太らせていた 」。

ディロン社の代理人として、米国製兵器の密売を行っていたのが昭和天皇ヒロヒトである。ドイツにおけるヒトラー、日本における昭和天皇ヒロヒトの役割は同一であり、従って兵器密売のスイス銀行の「 決済口座 」がヒトラーと昭和天皇ヒロヒトの「 共同名義 」になっていた。第二次世界大戦末期、ヒトラーは自分の資産と部下を続々とアルゼンチンに逃し始める。天皇ヒロヒトも戦争末期、長年の武器密売の利益を金塊の形で、アルゼンチンの銀行に大量に密かに輸送し隠し預け始める。

戦争末期、中国に残された日本人の多くは、日本に帰る船が無く中国、朝鮮で殺害され、女性は強姦され殺害され続けていた。天皇はその日本人を全員「見殺し」にし、船舶を「 独占 」し、武器密売の利益を金塊の形でアルゼンチンへ大量輸送し続けた。


●●●武器販売促進のため第二次世界大戦を起こした武器密輸商人=天皇

天皇は、第世界大戦二次中、日本軍が使用する武器、燃料を、敵国の米国から密輸し、物資の欠乏する日本軍に高額で「 売り付け 」、利益をスイス銀行に隠し、蓄積していた。スイス銀行には、明治時代以降、天皇一族が日本人女性を誘拐し、売春婦として海外に「 売却 」した50万人の女性の「 売却代金 」も蓄積されている。

「 天皇は、米国の軍事産業と一体化 」し、日本と米国の間に戦争を起こし、米国軍事産業は米国政府に武器を売り、武器密輸商人=天皇は日本政府に武器を売り付け利益を上げ、日本人を戦争で大量虐殺した。天皇一族こそ、日本人大量虐殺の犯人であり、最も悪質な売国奴であり、戦争犯罪人である。天皇一族こそ、日本民族の敵である。

1945年8月、天皇は、スイス赤十字社に1,000万スイス・フラン=現在の時価で約33億円を手数料として支払い、数兆円の天皇一族の隠し資金を、赤十字社名義に「 書き換える 」要請を行った。これは、天皇一族が人身売春、武器密輸で蓄積した貯金を米軍に没収される事を恐れ、赤十字社名義に書き換え、不正な資産「 隠し 」を行うためであった。要請は、紆余曲折の末、受理された。

戦争で日本国民全体が1日3度の食事さえ不可能になり、広島、長崎に原爆が落とされ、その治療のために少しでも資金が必要な1945年8月に、数兆円もの資金を天皇はスイス銀行に持ち、預金の名義書き換えのため「 だけ 」に、33億円もの「 手数料 」を支払い、自分の財産隠しを行っていた。日本人が多数餓死している最中に、である。


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天皇財閥のウラ企業___『 日本郵船 』はいま、千人足らず( 血筋血脈企業体 )で数兆円の売り上げを上げている。昔、自国の見目麗しいおんな奴隷売買__いま、優秀な日本車輸出売買。『 日本郵船 』は、血筋血脈企業体だから、ウチの母方の親戚スジが勤めていた・・・・同じように、三井商事・・・にも組み込まれて行く。銀山供出の ”御礼” というワケだ。


51. 2015年11月21日 17:09:01 : qF4T1YwunA
36さん
>なぜ急に話題になったのかわからないが、司馬史観にまみれて明治維新礼賛という一方的な考え方に一石を投じることにはなろう。

●産経色に染め上げられた「司馬物語」

司馬遼太郎はもともと産経新聞の記者です。

同じ産経新聞の土佐出身(高知県)の後輩記者に坂本竜馬を書いてくれとたのまれて書き始めたものだ。

即ち竜馬礼賛、従って維新礼賛物語に過ぎないのです。

しかも、連載した新聞は「産経新聞」ということですから、これはもう司馬遼太郎の作る”物語”は産経色に染め上げられていたということです。

●「竜馬が行く」の大ヒットで司馬と出版社はその後も「維新礼賛」イメージで売ることを決めた。

従って、司馬遼太郎の物語は物語として楽しむのはいいのだが、ここに歴史を読み解こうとするところに問題があるということでしょう。

「維新礼賛」の視点で歴史を捨象し、装飾し(粉飾し)楽しめる物語にした。

それが司馬遼太郎とその取り巻き(出版社等)のビジネスだった。


52. 2015年11月21日 17:26:09 : qF4T1YwunA
51
●従って『司馬史観』という実体はないと言えます。

単なる司馬遼太郎と出版社のビジネスであったか、それ以上に誰かがメディア総動員で明治維新礼賛を仕向けていたのか・・・

例えば、安倍晋三が心酔する狂人テロリスト吉田松陰の「松下村塾」を世界産業遺産に潜り込ませたりして明治維新を美化しようとしているように・・・

「松下村塾」が産業遺産とはなんの関係もないように、『司馬史観』も幕末・明治の歴史の事実とは関係ない理解すべきなのです。


53. 2015年11月21日 17:36:35 : qF4T1YwunA
■どうやら安倍晋三はパンドラの箱を開けたようですね。

そして今ではリチャードアーミテージに勲章を与えたり、居直ったように見えます。

アーミテージももう裏で操るやり方では隠し通せないと思ったようで、最近は大学で講演したり、新書本で顔出しで「日本を恫喝する仕草の写真」を表紙に載せたりしています。

ネットの時代が、譲歩の非対称性を利用した権力者の旧来の手法を使えなくしてしまったと見ることができます。

我々もネットやデモ、集会等々を使って新たに自分たちの権利を守る闘いに進めなければならないということでしょう。


54. 2015年11月21日 17:38:52 : qF4T1YwunA
53(訂正します)

(×)ネットの時代が、譲歩の非対称性を利用した権力者の旧来の手法を使えなくしてしまったと見ることができます。
 ↓
(○)ネットの時代が、情報の非対称性を利用した権力者の旧来の手法を使えなくしてしまったと見ることができます。


55. はろー 2015年11月21日 17:40:17 : TdFHwK8PKxIPA : gC3dpK31Vo
44から48の連コメントさん。
労作の箇条書き、お疲れ。
でもさ、血圧高いんじゃない?
何が嬉しいんだか、はしゃぎすぎすぎじゃん。
お大事にね。


56. 2015年11月21日 17:44:10 : Mz0XqnNMiM
●龍馬も西郷も大久保も殺されていなかったかも?
そして、あの伊藤も実は殺されていたことにされて、どこかで余生を送っていたのかも。
というのは一度、暗殺←これはフリーメーソン内部の深刻対立の材料になる。そうそう内部対立材料を使いまくるだろうか?226主犯も生きていたそうだし山本五十六も生存説有り。その後も仲良くやっているわけだから(アルカイダ友人吐露鳩山弟の坂本龍馬子孫解説あり)どう考えてもおかしな「深刻対立がなぜかなかった内部対立必至の暗殺」が連続したと言うこと。フリーメーソン流思考ならば、隠したまま生かしておいたなら、それが可能なのだし(西郷にしろ、吉田にしろ、外国で生きていたという話あり)後者のほうが得でもあろう。日本の維新メーソンクーデーター偽天皇創設カルト世襲利権継承一族の仲の良さをみれば→すべては作られた歴史だっとかも知れぬ。
また現状では→創価学会池田大作死亡説というのがある。これは逆に自然死しているのに生きているという工作だ。

※すべて芝居・すべて八百長
逆に、今後自分等の都合で・「現天皇の崩御」をでっちあげるかもしれぬ(この場合は本当に殺すと内部対立が起こるので、やはり隠して短い余生を送らせる)。なぜならば、起こったとして自然な状況だから、使えてメーソンが利用しないと考えるのは違うからである。
好きなときに使える→天皇崩御国民思考停止カードも想定しておこう。


57. 2015年11月21日 17:45:42 : DIAPboHbDk
司馬遼太郎の本を2,3冊読んで司馬史観を貶しても意味がない。
司馬は、確かに竜馬礼賛者だが、薩長には結構厳しい。
幕府側に同情的な描写が目立つ。
長州藩の過激派がバリバリのテロリストというのは常識だよ。
竜馬暗殺に背後に薩摩の陰があると司馬も指摘している。
会津藩主が「お前だけが頼りだ」という天皇からの手紙を肌身離さず持っていたというのも有名な話だ。
池田屋事件は、風の強い日に京都に火をつけ大火事をおこし、どさくさにまぎれ天皇を拉致しようという無茶苦茶な長州過激派のテロ計画を止めた新撰組の快挙だ。
勝てば官軍。原爆や大都市無差別爆撃で民間人大量虐殺を実施した米大統領やルメイ将軍は英雄だ。米国が負けていれば、確実に「人道に反した暴虐」と戦争犯罪者として死刑になっていた。

58. ごごご 2015年11月21日 18:42:55 : ic8Rwd/hYvAXE : lRKEaBgKrE
会津の連中がそれほど長州が嫌いならなぜ自民党を支持する。
選挙でそれを見せてみよ。
結局あんたがたは長州の奴隷よ。

59. 2015年11月21日 18:45:23 : kebDWDUE0w
>49
一杯張りつけてくれてありがとう。しかし、嘘とホントを織り交ぜて全て天皇に結び付け天皇大悪人というのは少し悪質ではありませんか。天皇制反対の方もおられますのでその内のお一人ですか。そうだとしたらそれもたぶん宗教みたいに信じておられるのでしょうから何も言いませんがそれをこじつけてで天皇批判をするのは止めていただきたいものです。
これは私の持論ですが日本における天皇は古代から唯一守ってきた犯しがたい宝物なのです。だから日本が消え日本人がいなくなった時になくなるものだと思っています。血塗られた家系であるかもしれませんが、いやそれが暴君であろうとバカ殿であろうとそれこそ手がない足がなくても何でもいいのです。万世一系男子の遺伝子が重要なのです。それがあるからばらばらに分解されても日本は一つにまとまっていると考えます。それに手を付けようとする輩がいますが、それこそ絶対阻止して守らねばなりません。

60. 2015年11月21日 21:28:45 : T3xOivADJM
>>50. けろりん 2015年11月21日 16:54:35 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc 尊師

よくわかりました

では天皇ヒロヒトのその金

>戦争で日本国民全体が1日3度の食事さえ不可能になり、広島、長崎に原爆が落とされ、その治療のために少しでも資金が必要な1945年8月に、数兆円もの資金を天皇はスイス銀行に持ち、預金の名義書き換えのため「 だけ 」に、33億円もの「 手数料 」を支払い、自分の財産隠しを行っていた。日本人が多数餓死している最中に、である。


このきたねえ、薄汚れた、同胞の血で染まった、この金

全額耳を揃えて返してもらいましょう‼


61. 2015年11月21日 21:30:14 : qyczUn9c1U

天皇家を中心にした百済侵略大和朝廷の奴隷が、地獄へ堕ちろ。

62. 2015年11月21日 21:44:05 : tXeQDOvBqQ
会津は長州の作った偽の錦の御旗にまんまと騙されていたね。
清き錦の御旗を、穢れ多き戦争で掲げる時点でおかしかった。
その時から長州テロリスト勢力は天皇や利用し、政治権力を奪うやり口を学んだのだろう。

王政復古と言えば聞こえはいいけど、それは自らが政権の座につくための第一歩。
西郷は王政復古に本気。でも長州勢は南朝天皇の擁立と政権を手中にすることを引き換えに外国勢力と手を結び、武器を輸入。
しかし長州と手を結んだ外国の勢力は、日本の開国だけでなく奴隷化を望んでいた。
それは後の不平等条約に垣間見える。
そして時代の流れは、明治維新〜南朝天皇の擁立〜薩長政府誕生〜世界大戦〜日本敗北〜天皇平民化〜政府の傀儡化〜各業界支配〜国民洗脳。
全て欧米強国の計画通り。現状日本は操り人形となってしまった。
今は長州がつくった偽りの時代。物欲の時代。強い者勝ちの時代。強者に言いなりにされる時代。
長州勢のような嘘や争い事で権力を握るような覇権主義は、今後の時代にそぐわないよ。


63. 2015年11月21日 21:57:32 : Jpr65T5Lik
連合国は捕虜の待遇改善のため、日本に対して資金提供を行ったが、日本はそのお金を、天皇の御用銀行である横浜正金銀行を通じて、不当な為替レートで受け取って、大半をピンハネしたと言われている.
1945年8月6日、広島に原爆が投下された、その翌日の7日、東郷外務大臣は皇后の名前で、国債赤十字に現在の貨幣価値でおおよそ33億円の寄付を申し出たが、そのお金のスイスの銀行の口座が、連合国が捕虜の待遇改善のためにお金を振り込んだ口座と同じであったので、このカネの出所はなんなのだと言うことになり、当然イギリスは寄付金を凍結しようとした.

この辺の経緯は公文書で残っていて、公開されているそうです.



64. けろりん 2015年11月21日 22:09:06 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

仏教叡智にしても、キリスト聖書にしても、・・・だ、
虚偽と真実が、織り混ざり、真贋・虚実が混ざり合う。

< オ〜ル or ナッシング >思考の指向は、
典型的グ〜ミン・ルサンチマンの二元性単細胞思考。

正義の味方、か、悪の宿敵、か・・・
どっちかしか居ない・・・
味方か敵か、東か西か、セかパか、ニッポンかチョンか、

パァ〜

単細胞・おこさま思考から、早めに抜け出すコトだ・・。


65. けろりん 2015年11月21日 22:18:18 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

日本という国は、
中国大陸や朝鮮半島の、地勢や文化抜きにして
なにごとも明確にはならんのだよ・・。

このクニには、現状のGHQ(CIA)による
一億総白痴化政策により、『 史学 』というものが
特に、封印されて来ている・・・。
大衆からアカデミズムに至るまでの、痴呆化政策で、
キミらは、洗脳されまくってきているんだ。


ただの参考だが・・・
____________
山形明郷氏・講演会(1)
https://www.youtube.com/watch?v=l4swAYIl7lc


66. けろりん 2015年11月21日 22:21:31 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

正義の味方、か、悪の宿敵、か・・・
どっちかしか居ない・・・・・・・・

W


こども向け、ヒーロー番組のようには
世界はできていないんだよ。


67. 2015年11月21日 23:35:22 : fpt8itpB5Q
長ったらしいコピペは邪魔だからやめて欲しいのだが
けろりんのコピペはいつも重要だ
自分で理解するのがやっとなので、凄い文章を発見したと思って意味のないコピペを貼っているバカとは違う

明治維新の重要なポイントは
・薩長の中核である田布施の連中が、百済王族であること
 これは日本人に同族意識を持たない危険な連中であるという意味
・薩長の中核である田布施の連中が、イギリスに支援された連中であったこと
 ここが、日本人を構成する中国系や他の朝鮮系とは異なる
 国益を考えない危険な連中であるという意味


68. 2015年11月22日 00:06:10 : M1OrULR0uA

59さん、よく天皇制という統治システムのことを理解されてらっしゃる。

その通りなのです。

天皇という存在は、南朝でも北朝でも、暴君でもバカ殿でも
なんでもいいんです。

それこそ、石ころでもいいんだね。

日本という国は、世界の雛形であり、実は宇宙の雛形でもある。

太陽系に太陽という中心があり、銀河にも同様に中心があり、
この宇宙全体にも実は中心がある。

そして、その中心は空っぽだ。

だから、本当のことを言えば、天皇というのは、空っぽがいい。

でも、空っぽだと、現在の低い意識状態の人類では、そんなもの意識できない
からね。

その空っぽが、我々自身の本質で、天皇は我々自身の反映でもある
ということが諒解出来れば、天皇制も不要なんだけどね。

そこに至るまで、今の日本には、天皇制は非常に有用だね。



69. 2015年11月22日 00:27:09 : jzEmONdjwU
民衆の力が国(地域)を造り育んでいる。
この力が持続されるには中央集権の権限縮小、逆に云えば地域主権が確立されてこないといけないようだ。
自由に世界を造れる環境こそが力を生み出すとおもう。

70. 2015年11月22日 00:40:59 : yvkHSGEsJg
最近江戸の体制が良かったなんて風潮を作り出そうとしてる輩。
身分制や家長制幕府体制が良かったとでも思ってるのかな?
明治維新により近代化が進み優れた者が身分に関わらず政府機関に入れ
そして世界から技術を取り入れ一応は選挙制度で体制を決める事が出来る、
そしてその時代にもし軍備を拡充する事が出来なければ日本は今よりも惨めな
植民地として国を取られていただろうに、その時の時代は世界中国取りに夢中に
なっていた時代だからね、日本の夜明けぞ、なんて聞いた事有るだろうに
それだけ武士階級だって閉塞感に苛まれていたんだよ。
何故今幕府体制を語るのかはそれらの体制が国民を縛り上げる今の欧米連中の
憧れの体制なんだよ、江戸時代農民や町民がどんな酷い扱い受けていたか
学び直せよ、今の体制状況が悪いのは報道と政治に関わる者達の売国なだけ。



71. 2015年11月22日 02:40:39 : IL2gVCuv32
>67さん
>長ったらしいコピペは邪魔だからやめて欲しいのだが
>けろりんのコピペはいつも重要だ

いいえ、けろりん氏のコピペこそ、冗長w
独演会したければ、他でやって欲しいです
ちなみに氏の#41文末の

>現状・日本人の遺伝子・比率・・・は、
>________
>中華DNA___50%
>半島DNA__25%
>中北DNA__10%
>南方DNA__5%
>中東DNA__5%
>原人DNA__5%

「中華」は下記リンク先のDNAグループD・Gとしても
他は、どのDNAグループのことですかね?
http://medical.yahoo.co.jp/feature/haplo/


72. けろりん 2015年11月22日 03:12:10 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc
>「中華」は下記リンク先のDNAグループD・Gとしても
>他は、どのDNAグループのことですかね?


DNA検査キット情報に、何の意味が在る?
このクニの民族構成は多民族国家であり、『 チョン在日と、ニッポンジンッ!・・ダケ 』 というような「 単細胞単一民族・鼻膨らまし ”我こそは〜” 」思い込み単細胞ツッコミ情報であって、詳しく調べれば、混血・混血の混合民族として成り立っている。 ”我こそは〜” などという連中に限って、在特・櫻井のような済州島出身・・・、はたまた、・・・黒塗り街宣大騒ぎニッポンジンッ!特攻礼賛の、その実、その中身の構成員こそが、チョン在日&部落ということが・・・ままある・・・というハナシだ。

幼児っぽい、投稿を重ねるな・・・
歴史認識上で・・多少なりとも、おのれのアタマと労力を駆使して、
洗脳塗れの歴史教科書状態から、ちょっとは離れてだな・・・
たとえ一ミリでも・・・自分のアタマで<  考えろ  >。



73. けろりん 2015年11月22日 03:45:43 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc


ココのコメントを眺めてみただけでも解るが、
どれだけ優秀であろうが、
どれだけ勤勉であろうが、
どれだけモラルが高かろうが、

どこかしら、根本的にドアフォなんだ・・・

一時期、GDP as NO1. になろうが、
世界一のカネ持ち国になろうが、
全世帯中流階級になろうが、
学力レベル・ハイクラスになろうが、

どこかしら、本質的にマヌケなんだ・・・


いつのまにやら、根こそぎ持って行かれ
いつのまにやら、重大事故で首を絞め
いつのまにやら、発展途上国並みに貧困になり
いつのまにやら、重税大国切り捨て国家になり
いつのまにやら、その自覚さえ無いアフォばかりが蔓延・・・


どうするねん?・・・・キミら


政治パァ〜
経済パァ〜
科学パァ〜
哲学パァ〜
史学パァ〜
宗教パァ〜

マンガ・アニメ・コミケのみ
あとは、教科書とマスコミだけの
洗脳思い込みのみ


いったい、これから
どうするねん?・・・・キミら


74. 2015年11月22日 03:54:20 : GBiVW9uBZI
司馬遼太郎ってもさ、
しょせんは商業出版の世界の人間だろ。

いろんな箇所でそれとなく本人も
ほのめかしてるけど、ようするに

編集側の意向には逆らえないわけよ。

こういう編集の意向のまざったものが
彼の作品、エッセイなんだから、
「司馬史観」とか笑えるんだけどね w

しかし彼に対する評価の変化は面白い

冷戦時代:やや右がかったおっさん扱い
90年代:神
21世紀から;左すぎ。反戦主義に嫌悪感を持たれる。過去の人へ。


75. けろりん 2015年11月22日 04:10:22 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc


当の政権担当者ですら
漢字すらまともに読めないどアフォが居座る時代・・・

「 かわいい!   」
「 ガイジキショ! 」

主な語彙は約二語のみ
まともな活字すら読まずに画像ばかりを追いかける
スーツ着てても、追いかける視線のその先は、
マンガか携帯スマホのみの、素の真性アフォ・・・
素真ァフォ。

どうするねん?
人生観や世界観など、すでに死語で
その意味さえ解らんのだろ?
「 哲学って、何ですか〜? 」

ク〜ルだ、ク〜ルジャップだ・・・
70年目にして、
一億・総白痴化_大成功・・・だ w

40や50のオッサンでも、
おそらくは、70年前の15歳並みの
精神年齢なんだろう・・・
投稿内容にそのまま ”おぼこさ” が露出しとる。


76. 2015年11月22日 05:12:34 : LJZRYgPAfk
日本語聖書でも「神」や「主」と訳されその正体が隠されていますが、聖書の神には二通りあることを分かっている人が少ないのは、彼らの思う壺で、残念なことです。

世界の南北問題とは
ゼウス(Theo、天)主神、最高神信仰を貫いた多神教古代ギリシャ・古代イスラエル(北朝)と

Adonaiという主の名前で本体をうやむやにしてすり替えた、神(人間に成り代わった神なる王)を奉じる一神教=タルムードユダヤとの戦いのことで、

天の義を乗っ取ろうとした人間の高慢なる王と、絶対の義なる天=メルキ・ゼデク(ザドク)(正義の王)との戦いということです。

ヒッタイト(ウラル山系西部/現トルコ東部)西世界のカタストロフ、崩壊とともに、文明が宝物をたづさえ東世界に流れた。フェニキア・ユダヤ地中海勢力がそれに続き国譲りを迫り宝物を略奪し世界征服をたくらんだ。それが現在に続いているということです。

ローマの前期と後期は同じ帝国のようにみえるが、友を求めつ選出される「代表王」政の多頭共和制と手段を選ばぬ覇権一頭独裁王国侵略帝国の種の別があります。これが分かれ目となったということです。ローマの時代、すでにユダヤ勢力の金の力が政治を侵食していたということです。

福島は香々背男を奉ずる多神教の星(星宿)信仰の国であり、ユダヤの敵(カルデア=新アッシリア、呉/吴Wu/倭/ウァ/ウル)の集合地の一つである。なので、日本ユダヤが破壊を企てたのでしょう。


77. 2015年11月22日 05:54:02 : LJZRYgPAfk
民族ということばは、
近代領域・領邦国家とともに
創られたのであり(創られた概念であり)、

実体にはほど遠いのです。今日本人が問題にしている
朝鮮や中国でさえも、多部族(多民族)から成り立っているのは
明白です。宣伝に惑わされないようにしていただきたいです。

民族という言葉も、明治期の「創造語」であることは
間違いないのだけれど、むしろ
部族という概念を取り入れれば

輪郭はよりすっきり見えてきそうです。
(意図的に避けているのでしょう。)

日本は後から後から参加する部族が増え、
今は明らかに多部族構成国家です。侵略・強奪系の天皇種族も
古いうちですが、最古ではありません。


78. 2015年11月22日 06:07:27 : LJZRYgPAfk
けろりんさん

70年前の15歳並みの

の箇所を読んで、

一瞬12歳位が適当ではなかろうかと思いました。その後
マッカーサーの同じ言葉を思いだして・・・

当時中学に進学するには今の
大学生かそれ以上に匹敵する資質が
求められていましたから、純真にしてもまだ利口でしたでしょう。

戦後は移民や民族的な混血も進み、
血液(民族構成)も異なることから
占領・支配層の意向(狙い)どおり、
全てを無にする口実となる
ごった煮の、まずいお鍋になってしまいました・・・

憂です。


79. 2015年11月22日 07:17:31 : fpt8itpB5Q
レス読んでて、脱力するのは尊皇派が阿修羅にもいるってことだ
そういう奴こそ明治維新の真実を知るべきなんだよ
竜馬が行くだけじゃなくて日本書紀から日本の書物はウソ満載
日本人を支配するために英国が天皇をでっちあげたのが明治維新だ
(日本書紀は百済人の事情によってでっち上げたもので別の話だが)

天皇はスメラミコトと呼ばれる神社の宮司さんみたいなものだった
万世一系という言葉を作ったのは明治の福沢諭吉か誰か忘れたが、そこらの奴だ
天皇教は創価を1万倍悪質にしただけのもので
そんなものにでも日本の国体として、すがる必要があると思ってる奴は
善悪の区別のない、とても危険な人間だ

南京大虐殺も広島長崎の原爆も、天皇一味がやったものだと分かってきた
アメリカじゃなく、天皇一味が原爆を広島に置いて起爆したんだぞ
(その原爆はB29に乗せられる重さのものではなかった)
そんなキチガイが国体でいいわけがない

天皇が周辺国から金品を奪うのが大東亜戦争の目的だった
けろりんの投稿でも、皇族は盗賊であることが良く分かる
天皇の系図を用意して、大戦中に誰が何をしたか調べて書き込んでみるといい
天皇家は単なる百済のチンピラ一族に過ぎないではないか

そもそも、明治維新で英国の植民地・属国となった日本が「欧米の植民地主義者と戦うぞ」という大東亜共栄圏構想がまやかしであると見抜かないといけない

中国人は日本に対して謝罪ではなく、二度とあのような戦争をしないことを証明してくれと言ってるそうだ
中国人の立場になれば当たり前のことだろう
謝罪なんか無意味で、態度で示せ
天皇を電気椅子に座らせる日本人になれってことだ
そんなこともできない日本は客観的に見てまともな国ではないだろー


80. 2015年11月22日 07:26:59 : Py8dDhOmqQ
伊藤博文や山縣有朋ららテロリストは辻斬りや暗殺を繰り返し、その被害者の手足などを京都の公家の家の門の前などにぶら下げていたとの記述を目にした時に、高麗軍を主体に日本に来襲した元寇の時に、対馬で日本人を虐殺し、その死体の手足を船の舳先に吊り下げて博多湾に侵入して来たという故事を想起させた。
日本のサムライ階級が決してやらない実におぞましい所業だ。
その時田布施は朝鮮人部落だ、という説に納得したのだ。恐らく会津でも同様の所業だっただろう。
尚、こいつらと薩摩を一緒に語られるのはおぞましいのでやめて頂きたい。
薩摩武士はテロリストではないわ。


尊皇攘夷を自称する志士はサイテイ![編集]
天皇の名のもと肉親を殺された神聖ヒロシマ共和国、イッピンが責任逃れの国体護持を掲げたせいでアメリカ軍基地を強制された神奈川県と琉球共和国、そして大韓民国の民衆は、天皇・薩摩藩・長州藩を「悪の枢軸」と呼んでいる。これはイッピンが広めたデマであり、天皇と薩摩に濡れ衣を着せて、自分の悪事を隠蔽しようとするものである。

イッピンは、自分が信じていない天皇教を強制し、自分たちを守るために日本と天皇をアメリカ軍に売り飛ばしたため、民主主義者や共和主義者(殆どのジェンダーフリー主義者もこの論者を兼任する)や平和外交主義者にとっては目の敵である。まあ、「尊皇」の旗印を挙げた割には禁門の変において天皇を拉致ろうと企んだり、天皇のいる京の都で平気で大砲ぶっ放すわ、鹿鳴館で強姦未遂…という所を見ると、彼らが本気で「尊皇攘夷」を考えていたとは到底思えないが。

イッピン歴代総理大臣[編集]
伊藤博文=エロ親父。紅葉饅頭の開祖。壮士安重根義士により「考明天皇弑逆」の斬奸状を突き付けられ誅殺された。言わずとしれた日本一嫌われているヤリチンの先祖でもある。
山縣有朋=軍刀で御就寝中の睦仁を叩き起した神武以来の不敬者。帷幄上奏権乱用の元祖。天皇の政治利用の総本家。
桂太郎=内大臣(兼侍従長)からの初の総理拝命。天皇御都合原理主義の大成者。その御都合振りは尾崎行雄に「玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするもの」と言われた。
寺内正毅=なぜか大阪通天閣に祭られている。日本が謝罪と賠償を求められることになった張本人。
田中義一=満州某重大事件の黒幕。(この事件が統帥権干犯であることはなぜか誰も気にしない。)裕仁に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ。」と勅勘を被り、辞任する。天皇御都合原理主義者にはあるまじき忠義なイッピンである。
岸信介=同じくイッピンの「おそらくヒトラーに買収された」(by裕仁)売国奴・松岡洋右の甥。A級戦犯。安保改定と称し日本をアメリカに売り渡す[9]。自衛隊の銃口を忠良なる百姓(おほみたから)に向けようとしたが、赤城防衛大臣に拒否され辞任。その後衆議院議員も辞任するが、これは何らかの事件の揉み消しで辞任と引き換えに立件見送りという取引があったのではないか、という声もある。実際は藪の中であるが、そのような風評を呼ぶのは、歴代のイッピンたちの功績の積み重ねである。別名、「昭和の妖怪」。
佐藤榮作=岸の弟。売国奴・松岡の甥であるうえ、従姉妹で松岡の姪である寛子を妻とする売国奴の血筋満々。非核三原則・沖縄の核抜き本土並み返還をした功績でノーベル平和賞受賞。しかし死後「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議の上で認める密約をアメリカと結んでいたことが暴露される。やはり総理としては兄と同様売国奴。本文中にあるようにカーチス・ルメイに裕仁の名で叙勲した。
安倍晋三=岸の孫。なんだか訳の分かんない理由で自殺した松岡利勝農水大臣とは血縁関係はない。総理在職中に現役の大臣を自殺に追い込んだのは、鈴木貫太郎内閣において阿南惟幾陸軍大臣が「一死大罪を謝す」と自決して以来二度目である。イッピン自民党の利権のためだけに総理大臣になったといわれるほど公約も定見もなかったが[10]、その重責に耐えられず下痢。下痢によって辞任した初の総理大臣となった。ちなみに成蹊大学出身初の総理大臣でもある。
菅直人=選挙区は東京だが生まれは長州の宇部である。安部が在職時に/日本共産党の吉井英勝から「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を出されていたのにも拘らず、吉井の疑義を安部とともに無視した。その挙句が東日本大震災に伴う福島第一原発のレベル7である。それでもプロ市民上がりかという声が大きいが、菅がイッピンであることを知れば、その不様さも理解できよう。民主党に政権交代したのはいいが、それでもイッピン、選挙区を変えてもやはりイッピン。首相の座にしがみつく様は下痢総理こと安部と並ぶののがある

注:アンサイクロペディアは、この文を含めて嘘と出鱈目にま


81. 2015年11月22日 07:29:02 : 97FghOzcic
>>79. 2015年11月22日 07:17:31 : fpt8itpB5Q 様

>中国人は日本に対して謝罪ではなく、二度とあのような戦争をしないことを証明してくれと言ってるそうだ

いい言葉ですね
ありがたい

日本人全体が肝に命ずるべき言葉です
さすればおのずと、下品な英米イ盗賊戦争屋、日本なんたらアホ会議、低脳アベを直ちに排除すべきとの結論が出ます


82. 2015年11月22日 09:11:20 : hy55y1MCkU
反天連のコメントの巣窟かよ。
朝鮮人のな。

83. 2015年11月22日 09:26:00 : qF4T1YwunA
●会津と長州といった国内の問題に矮小化していては、日本の将来は危うい。

それでは幕末の時代どころか戦国時代、天下統一の時代に逆戻りしてしまいます。

当事者の痛みは十二分に理解できるところですが、日本の近現代史はやはり世界史との深い関わりの中で理解しないといけないと思います。

世界史の中の日本史の一ページというとらえ方をしないと「真実」が見えなくなります。「真実」が見えないと、日本の将来をどうしていくべきかという最も重要な視点が曇ってしまいますから、日本の将来を危うくします。

歴史から学ぶべきということは、もちろん歴史の「真実」から学ぶべきということであり、我々は我が国の近現代史の「真実」を理解しようとする試みを始めたということでしょう。

我々の子度達や孫達が生きるこの国を、あるいは世界をどのような社会にすべきなのかを考え、取り組むために。


84. 2015年11月22日 09:32:50 : 97FghOzcic
>>82. 2015年11月22日 09:11:20 : hy55y1MCkU

>反天連のコメントの巣窟かよ。
>朝鮮人のな。

議論の内容を全く理解できていない

すこ〜し頭良くないんですかね?

あなたは何人ですか?

>現状・日本人の遺伝子・比率・・・は、
________
中華DNA___50%
半島DNA__25%
中北DNA__10%
南方DNA__5%
中東DNA__5%
原人DNA__5%

by >>41. けろりん 2015年11月21日 15:12:32 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc


85. 2015年11月22日 10:04:42 : kebDWDUE0w
>79
よくそこまで嘘がつけますね。それにとんでもなく悪質ですね。気がふれているのですか。気がふれている人に聞いても無駄でした。自分で気がふれていると言う人はいませんからね。ご愁傷様。

86. ボケ老人 2015年11月22日 11:17:06 : nf15y2vSVdhvU : cLlCcv3fYs
>85 kebDWDUE0w さん

>79 fpt8itpB5Q がとくに悪質な嘘をついているとは思いません。
そういう見方があるというだけのことです。
>79に同調するわけではありませんが、万世一系も五族協和も八紘一宇も大日本帝国の作り事であったことははっきりしています。

日本文化としての神話や国生み物語はそれなりに尊重されるべきものです。
それを歴史として強制した大日本帝国は功罪を正しく評価することが必要です。

原田伊織『明治維新という過ち』は半年ほど前に読みましたが、目からうろこの点がいくつもありました。
しかし、所詮作家の文章に過ぎないという思いもあります。
森村誠一の『悪魔の飽食』のように
私には豊下楢彦の一連の書籍の方に惹かれます。


87. 2015年11月22日 12:27:50 : gpBtlQpWh2
>そういう見方があるというだけのことです。

ボクちんがそう思ったんだ!
証拠はないけどそう思ったんだ!
だから書いたんだ!

そういうことで宜しいか?


88. 2015年11月22日 12:34:31 : M6P7nhoK5E
ほほう、いいねえ
で、その本に「明治天皇すり替え説」は書かれているのかな?

89. 2015年11月22日 12:37:51 : gpBtlQpWh2
150年経ってもまだ遺恨が残るんだぜ
もし明治維新ではなくが内戦で決着していたらどうなっていたと思う?
日本中にこの会津の長州に対する恨みつらみが円満していたことは想像に難くないだろ

明治維新を全肯定する気にはならないがかといって全否定する気も無いな
何でも極端を選ぶのは馬鹿の証拠だよ


90. ボケ老人 2015年11月22日 13:14:59 : nf15y2vSVdhvU : cLlCcv3fYs
>89 gpBtlQpWh2
>もし明治維新ではなくが内戦で決着していたらどうなっていたと思う?

まさに内戦で樹立したのが明治政府です。
言葉尻を捉まえるようですが、150年前の『遺恨』があるのですか?バカバカしい。会津の子孫が長州の子孫に武力攻撃するというのならまだしも
150年前の遺恨はイベント上のお話です。

内戦で樹立した政府が外敵を求めたのが、日清日露から原爆投下による敗戦までの歴史です。

天一坊に等しい田布施システムやすり替え説、朝鮮の前の高麗のさらにその前の三国期にさかのぼる百済系だとかなんとかは別に置くとして
明治維新とは後になって作られた虚像であることは間違いない。

念のために書き添えますが、明治政府を全否定しているわけではありません。


91. 2015年11月22日 13:16:33 : qF4T1YwunA
■軍産複合体のビジネスモデルの再構築が必要な時代になった。

軍産複合体にコントロールされた世界を変えていかなければなりません。

巨大になりすぎた軍産複合体は必要な規模のレベルを超えてしまっています。

軍産複合体のビジネスモデルをざっくりと見ると、

@国同士の争いや地域紛争
  ↓
A当事国への最新兵器の販売
  ↓
B実践での性能証明
  ↓
C世界中に拡販
  ↓
D武器メンテナンスビジネス拡大
  ↓
E各地で戦争
  ↓
F武器の費消と更新買い

このビジネスモデルによれば、@BEFで戦争を起こす必要があります。

簡単に言うと「戦争」なしではビジネスがまったく成り立たないのです。

軍産複合体でビジネスで生きている人達を養うためには、世界各地で戦争で死んでゆく人達が必要とされるのです。

●軍産複合体ビジネスの曲がり角

昔は領土問題等が世界中にあり、また情報の流通も現在とは比較にならないほど制限されていましたから、いつでも戦争が起きておかしくない時代でした。

世界中で同じ事を言えますが、例えば日本でだって織田信長が統一するまでは、親兄弟でさえ疑心暗鬼で殺し合う戦争の時代でした。

しかし、時代が進み日本において国内での戦争がなくなっていったように、世界も時代が進むにつれ冷戦の時代から東西雪解けを経て国同士の戦争は極めて少なくなってしまいました。

領土がほぼ確定してきたことや、ネットを通じて世界中が瞬時に世界の事実の情報にふれることができるようになったことの影響も大きいはずです。

こうした時代の変化は、成長を続けてきた軍産複合体ビジネスにとっては脅威以外のなにもでもありません。

戦争のない時代の到来は軍産複合体ビジネスの存続を否定するものと言って良いでしょう。

●軍産複合体が生き残りをかけて進めるテロ戦争や偽装紛争

実際の国家間の戦争がなくなると軍産複合体ビジネスは成り立ちませんから、国家間の緊張状態を創り出したり、テロ戦争を起こしたりすることになります。

特に、テロ戦争は例えば領土問題や資源問題とからんだ国家間の紛争と違って、「終わりのない戦争」といわれるように、理由を変え、場所を変え発生し続ける可能性があります。

これは軍産複合体にはとても美味しいビジネスですから、恐らく今後も繰り返されると思われます。

あるいはイラク戦争がブッシュの嘘の理由で始められた戦争であったように、軍産複合体が意図して起こす戦争も、今後も起こりえます。
(ちなみにブッシュ一族は軍産複合体や石油利権と密接にからんでいます)

米軍産複合体のポチである日本政権は、リチャードアーミテージの指示通りの政治を強行しています。

案の定、ホルムズ海峡の危険だとか、南シナ海だとか、ISだとか・・・とにかく思いつく限りの緊張を煽る宣伝をします。

そしておきまりの防衛費の増額、日米軍産複合体の暴利、政権への献金と国民の税金が回っていきます。

●軍産複合体とビジネスモデルの転換の可能性

このように軍産複合体のビジネスモデルは世界の変化(歴史の奔流)からすれば、やがて縮小せざるを得ないものだと言えます。

企業のレベルで考えれば、このビジネスモデルの転換をいかにして進めるかが企業存続の大テーマなのですが、軍産複合体にはこの自浄作用あるいは自己変革の意向がないように見えます。

なぜなら、軍産複合体の直接の顧客は「政権」なのであり、ここをコントロール出来さえすればビジネスの衰退を食い止めることができると、彼らは考えるからです。

また、長い歴史を通じて軍産複合体はそのようにして成長してきたのです。日本で言えば、英米軍産複合体がテロリスト達に最新の武器を与え明治維新というクーデターを起こさせ自在にコントロールできる新政権を作らせました。

一方、武器ビジネスを日本に中継する商社(三菱財閥)を作りました。

これによって戦争の開始あるいは防衛費の維持・増額を決定する「傀儡政権」と武器を販売するチャネル「現地商社」を作り上げ、軍産複合体の日本でのビジネス環境は整ったのです。

しかし、時代が進み戦争が少なくなってきている現在、なんとか緊張を煽り、できれば紛争を起こし、傀儡政権が防衛費を増やし武器を購入しやすい環境を作り出さなければ成りません。

それと、日本の「憲法9条」はいかにも軍産複合体ビジネスには障害となりますので変えたいのです。

こうした以降に沿って軍産複合体の傀儡政権である安倍政権の政策が憲法無視で進められているのです。

国連で「日本の司法は中世(暗黒時代の意味)のレベル」と指弾されましたが、もはや放置国家ではなくなっています。まさに国そのものが暗黒時代に入っています。

●軍産複合体ビジネスと民主主義の闘い

軍産複合体はこれまで同様あらゆる手段を使って一般市民を犠牲にして行き続けることを試み続けるでしょう。

それは傀儡政権を通じて可能なのです。

従って、我々一般市民が国をやがては世界を自分たちの希望する社会に近づけるためには、傀儡政権を拒否するところから始めなければ成りません。

傀儡政権を受け入れている限り、自分達を含む世界の一般市民を戦争から守る方法はないのです。

このたいへんな作業を政治家にだけ委ねるのでは実現は無理でしょう。
我々一般市民が協力して実際にあらゆる手段を講じて傀儡政権を消し去ることです。

そのためには国政選挙で海外から選挙監視団を招聘するなどだいたんな手法も実現させなければなりませんし、野党の共闘に積極的に関与する具体的な方法も考えて実行する必要があります。

世界中でこのような動きが実現できてくれば、やがて軍産複合体ビジネスモデルは崩壊し、縮小に向かうことが期待できます。


92. 2015年11月22日 13:21:58 : GBiVW9uBZI
こういう本が売れ、こういう記事が出され、
それを補完する投稿も増える。

ようするに、これは、

明治から今まで続いた
ジャップの支配階層に終わりが近づいてる、
ということ。

ソ連の共産党も、チェルノブイリで権力を失った。

明治からのジャップの支配階層も(テンコロ含む)、
フクイチで権力の座から引きずり降ろされる、ということ。

めでたし、めでたし。


93. 2015年11月22日 14:02:32 : 8hapmM7gzY

反天連の朝鮮人がウソばかり撒き散らして自己満足しておる膿。

こやつらは、アメリカ史観が大好きだがアメリカ嫌いw


94. 2015年11月22日 14:05:26 : gha4wQHsWY

司馬遼太郎が

   坂本龍馬を「竜馬」として描いた。

   龍馬と竜馬は別人だ。
   明治維新の粉飾にだまされてはいけない。

    亀山社中?の運営費、グラマー邸から銃を購入した資金は?


    、


95. 2015年11月22日 14:17:26 : K528j9SMZU
福島を復興させない政府はいまだに嫌がらせをしてるんか?

執念深い。


96. 2015年11月22日 14:45:21 : qFBZAvwg0G

 >亀山社中?の運営費、グラマー邸から銃を購入した資金は?

 騙し取った!! のが 龍馬


 それを 岩崎弥太郎が もう一度 騙し取った 

 泥棒の上前をはねたのが 三菱!!
 
 
 


97. 2015年11月22日 15:05:30 : ydWdVFqMSM
>フクイチで権力の座から引きずり降ろされる、ということ

正解。

ただしそれもある勢力にとっては予定事項。

第一段階→明治維新=封建制解体、近代化
第二段階→第二次大戦敗戦=民主化
第三段階→フクイチ事故&資本主義の終焉=中央集権官僚システム解体

こんな感じでしょうか。


98. 2015年11月22日 16:05:22 : BFSTP3A2ZU
長州が関門海峡のイギリス船を砲撃し、そのあとコテンパンにやられて、それ以来英国の手先として動いてきたことには間違いはないだろう。

百済人がどうしたとか、福島の怨念とかとは、また別の話題だ。


99. 2015年11月22日 17:06:10 : fpt8itpB5Q
「竜馬がゆく」は嘘だが「だって龍馬じゃなくて竜馬だもん」と言い返せるようにしている
坂本龍馬は武器商人というか、薩長の朝鮮人への武器配布係なのだろう
アメリカ南北戦争で使用した銃器をグラバー経由で薩長への配布係

この倒幕に向かう薩長が、それぞれ直前に、薩英戦争、下関戦争で英国と戦争状態になっている
その戦争がどのようなものだったかは、明治政府が嘘物語を作っているはずだから
全ての書籍に嘘が書いてあるはずだ
英国と戦争して疲弊した薩摩と長州が倒幕したくなるのが、まずおかしい
英国と戦争はしたが、倒幕の邪魔になる連中を皆殺しにして、英国にやられたー
と言うための戦争だったことだろう

英国は、そのように薩長を操作できるかは、予め宣教師を送って、入念に調べていたはずだ
宣教師というのはスパイ、工作員だからな
英国ロスチャイルドが薩長を支援した目的は銀行を支配すること
http://005.shanbara.jp/book/view/peng.jpg
それで中国もロシアも皇帝を殺害してるし
かれこれ50の政府を転覆させてきたという
明治維新はそのうちの一つにすぎないということだ
シリアの銀行は、ロスチャイルドではなくシリア政府が所有しているので攻撃されている


100. 2015年11月22日 17:08:50 : kebDWDUE0w
>86,90
言葉ははっきりしているのですが、言葉の羅列で取りとめが無く何をおっしゃりたいのか判然としません。ペンネームさんらしいコメントのようにお見受けします。

101. 2015年11月22日 17:55:51 : vicfq3M0cI
>>15
非科学的とは?

これは科学の話ではなく史実の話なのですが。


102. ボケ老人 2015年11月22日 17:58:10 : nf15y2vSVdhvU : cLlCcv3fYs
>100 kebDWDUE0w

それはあなたに読解力がないだけの話でしょう。

>85 のような誹謗中傷の書き込みよりはボケていたとしても、うんと上品ではないかな


103. 2015年11月22日 18:07:14 : 97FghOzcic
>>102. ボケ老人 2015年11月22日 17:58:10 : nf15y2vSVdhvU : cLlCcv3fYs様

お見事
よくぞ同定された

一本とりましたね


104. 2015年11月22日 20:33:13 : hy55y1MCkU
何故、長州乗っ取り日本政府が朝鮮併合したか?

話は簡単だ。
自分たちのルーツの暗黒未開の前近代朝鮮半島を日本の資金で近代化しようとしたからだよ。

東北に回すべき国家予算を半島に回した。
旧賊軍、東北の地は困窮し農村は疲弊し娘を売るはめになった。

更に満州に漢民族の開拓地を展開した。

いま、朝鮮田布施安倍政権が日本国民の生活を奪い、日本の国家財政を国外に流用している。

それくらいわからないんですかねえ。

以下は李明博の国内向け演説だ。
大阪も占領済見になったがな、今日の選挙で。

「北朝鮮の復興は心配ない、日本にやらせるのだ。私が日本にすべてのカネを出させる、我々はすでに日本を征服しているからだ。
奴らのカネは我々が自由にできる、日本は何も知らない、フジテレビが証拠、日本人はよだれを垂らして見ている、私にまかせろ、
日本にいるのは私の命令に忠実な高度に訓練された私の兵隊だ!」と、いわゆる日本征服宣言を行った。


105. 2015年11月22日 20:37:19 : hy55y1MCkU
漢民族→韓民族 以上訂正

106. はろー 2015年11月22日 21:42:41 : TdFHwK8PKxIPA : WbN51ycr9o
>92さんに質問したいのですが、あなたは何処の国の方ですか?

『ジャップ』ということばは、日本人や日系人を侮蔑する差別用語と認識しています。
このことばの日本語訳は無い。
日本人以外の外国人が私たち日本人を、主に蔑むために使用するからです。

あなたが、あえて『ジャップ』ということばを使う意図を教えてください。


107. けろりん 2015年11月22日 21:59:23 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

< 顏はむちゃキレイなオッサン、とヤルか? >
< 世紀のぶっさいくなオバハン、とヤルか? >

『 どっちにする? おたくさん? 』・・・選挙。
・・・ナニワの究極の選択選挙が終わり・・・
結果、偽者のオッサンサイドが勝ってしまった、
ここ、ナニワ事情。

助けてくだされ、全国の他府県の皆々様方。
____________
やはりココは、最後までナニワだ。
圧倒的マスコミ新喜劇DQN・ラテン天国だった。

このドキュソ朝鮮人国家は、これからも永遠に続いて行く。
おそらくは、島国原人種族は、すでに1%も生き残っていないんだ。
アテルイ・モレを筆頭に、全員未だに墓の中だ。


来年当たりから、
『 政権、引退? 確かに言いましたよ、いいましたけれど、どうしてもと言われましてね 』
『 気に入らなければ、わたしを選ばなければいいんですよ、そう思いますけどね 』
/byハシゲ・・・横に・・・管や安倍と並びながら、が始まり出す・・・。

助けてくだされ、全国の他府県の皆々様方。


108. 2015年11月22日 22:07:36 : 97FghOzcic
>>107. けろりん 2015年11月22日 21:59:23 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc 尊師

ケロリン尊師が出ればよかったのに

だってどいつもこいつもどんぐりの背比べ、同じ穴のムジナじゃないですか

大阪市民がかわいそうでした


109. 2015年11月22日 22:10:56 : u1WtSLjHyw

最近、「天皇が教皇とつるんでNWOを樹立しようとしてる〜〜〜!」なんてめちゃくちゃなこと言うやつが蛆虫のように湧いてきてるんだけど、こういうこと書いてるヤツラって解散後のキリシタン、シール図メンバーなんじゃねーのか?w

皇室は「八百万の神、アマテラス大御神、天皇代々のご先祖」という多数の神々を「宮中三殿」に祭って、つつしめやかに古来からの宮中行事をしている。たとえば豊作を願って「新嘗祭」とかね。

つまり多神教だから、彼ら皇室自体が一神教のNWOを設立するっていうこと自体が矛盾なわけ。

NWOで世界統一するためには、必ずキリスト教の一神教でなくちゃ困るわけよ。だから、ここへきて、明治天皇=田布施をもちだせば、現在の平和的な皇室もヤツラの仲間〜〜〜!と単純にそれだけでごり押しの洗脳をしているわけだ。

皇室を自国民の手によって潰させて、日本を一神教のキリスト教化にするなんて、無理、無理・・・。w

まだ諦めていないか?イエズスのザビエル君?!w

つまり、「天皇NWO支配論」というデマゴークは、「多神教の皇室をツブし、日本を一神教のキリスト教化し、NWOを樹立させるために起こされている。」と考えるのが自然だ。

まぁ、こういうこと書くと、「キリシタン蛆虫」がわいてくるだろうけどな。w

.


110. けろりん 2015年11月22日 22:12:47 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

ホントウは、
中華人であろうが朝鮮人であろうが部落民であろうが
なんだっていいんだよ・・・。
日本語しゃべれば、日本人だ。
『 はじめにコトバ(ロジック)ありき 』だ。

民族性とは、コトバのコトなんだ。
『 はじめに言葉は神とともにありき 』だ。


_____________

決して、
「 宗教シンジャ 」や「 宗教教祖 」とともに
は、無いんだよ・・・。


統一教会_政権議員
創価学会_補完議員
幸福科学_補欠信者
エホバ教_下請信者
伴天連教_電波教徒

・・・これら、シンジャ連中
なんとかならんか???



111. けろりん 2015年11月22日 22:29:36 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

>>108. 2015年11月22日 22:07:36 : 97FghOzcic
>>ケロリン尊師が出ればよかったのに

108.氏・・・キミのその気持ちは、痛い程解る。
天才的覚醒意識状態のワシが出て行けば、なんとかなるのではないか?
・・・などという、その期待はワシでも理解できる。

シカシだ。
ワシがたとえそういう人間であろうが、
一に睡眠
二に睡眠
三四オナニ〜
五に睡眠

・・などというワシの今の現状では、
ある意味、ハシゲの10倍ぐらいひどい状態に
大阪市府政がなりかねん・・・危惧がある。

・・・・
ゆえに、いくら期待されようが、
現状の能力状態では、応えられないんだ。


_________
とにかく、多府県民からの応援以外には
どうしようもない・・・。
10年後にはカジノ・ドキュンゴロツキヤンキー府政
になっている可能性がある。
東洋のラスベガス、あるいは、マカオ・・・。
世界中のマフィアの極東・中継地点になる。


___________
『 韓国・済州島&大阪カジノの極東旅行パック 』
JTB辺りが、世界中に売り出す。
「 関西も経済が活性化してきたみたいですねぇ〜 」
/統一教会自民談

___________
アフォか???


112. 2015年11月22日 22:41:31 : GBiVW9uBZI
>>106 だまれジャップ

113. 2015年11月22日 22:49:22 : GBiVW9uBZI
明治ジャップ政府が、
国内の統制もままならない間に、
朝鮮半島を侵略したのは、
完全に宗主国の意向。

そもそも、宗主国は、
太平洋の制海権をロシアに取られないために、
ジャップを「いい条件で」植民地にした。
太平洋の制海権を取るために、ジャップを確保した。

で、さらにジャップ占領を確かにするため、
朝鮮半島をその緩衝地帯にすることにした。
で、実際の朝鮮半島確保は、
植民地のジャップに担当させた、それだけ。


114. はろー 2015年11月22日 23:09:03 : TdFHwK8PKxIPA : WbN51ycr9o
>>112>>113
返コメント、どうもありがとう。



115. けろりん 2015年11月22日 23:13:26 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc


一瞥してみれば、なかなか良きサンプルもあるので・・・
後学のためにも、老婆心ながらのオセッカイだが、
< 日本人とは何か? 民族とは何か? >総論講義_だ。

民族とは、血の前に言葉である。
民族とは、言葉である。
これが、宇宙法則上の定理だ。

決して、DNAや習慣や血や国籍登録ではないんだ。
民族とは、まず始めの始めに、< 言葉 >である。


・・・・・・・・・
ゆえに、日本人なら日本語による、
より多くの概念、語彙、表現手法、
・・を携えているものが、
< より日本人 >という証左になる。

民族純粋性とは、とりもなおさず
文化成熟度数のコトを言う・・・。
・・・・・・・・・

たとえば・・だ、
_________________________
82. 2015年11月22日 09:11:20 : hy55y1MCkU
反天連のコメントの巣窟かよ。
朝鮮人のな。
_________________________

この↑ サンプルにあるような・・・、
この精神性のまま、中華や半島に持って行っても、
シッカリと、「 反日勢力 」としての役割りが100%果たせられる。

「 巣窟かよ。日本人のな。 」/半島・反日
「 巣窟かよ。日本人のな。 」/中華・反日
「 巣窟かよ。ジャップのな。」/米国・反日
「 巣窟かよ。黄猿のな。  」/欧州・反日


・・・人間そのまんま、転用できる。
その上で、ほとんど日本語の語彙を知らない・・。
その数、約、幼児並みの1,000語ぐらいだろうな。
ゆえに、論理展開もクソも、
こういう投稿場面でさえ、一行二行がせいぃっぱいになる。
感情が高ぶれば・・・『 アフォお、ボケェ〜、シネシネ 』
・・・で終る。コトバをそもそも知らないんだ。


現状、普通の日本人で・・・・
その語彙数が、約2万5千前後にまで低下しているらしい。
要するに、現状の大人とは、昔の中学生レベルにまで
堕ち込んでいるんだ・・・。
一億・総白痴化というのは、こういう状態で顕現化して来る。


●幼少時レベル:5百〜1千語、
●小学生レベル:5千〜2万語、
●中学生レベル:2万〜4万語、
●高校生レベル:4万〜4万5千語、
●大学生レベル:4万5千〜5万語

____________________
因みに検査すれば、ワシは、6万5千語レベル。
ワシへの民族性評価がこのサイトでも、
人口に膾炙しつつある
のは、周知のことだと思われるが・・・・
それはひとえに、語彙力のご威力。
つまり、日本人としての威力性と言うことになる。

だから、要するに、本人がどれだけ自己宣伝で
日本人、日本人と叫び喚こうが・・・、
この手 ↓ は、薄ぅぅ〜〜い、日本人、ということになる。
_________________________
82. 2015年11月22日 09:11:20 : hy55y1MCkU
反天連のコメントの巣窟かよ。
朝鮮人のな。
_________________________
一応の日本語はしゃべれるようだから・・・
日本人からは限りなく遠い、『薄ぅぅ〜〜い日本人』になる。
ご本人は青筋立てながら頑張っていて、かわいそうなんだが、
科学的には、そういう結論になる。



116. 2015年11月23日 00:54:38 : fpt8itpB5Q
百済チャンネル桜の朝鮮人がジャップ発言
https://www.youtube.com/watch?v=AfMS598wZec&t=55m30s

日本人は大陸系やら半島系やら色々と混ざっていて
今更、差別のしようもない
しかし、田布施百済人に限っては別だろう
田布施に要塞を作って血を守ってきたのだから
奴らは、日本人に溶け込む気はない
だから日本人に対して同族意識がなく、平然と残虐なマネができるわけだ
そんな連中に対して、縄文人も百済人も一緒だよ〜
などと寝惚けたことを言っているから日本人はこのザマなんだよ
敵が何者か認識できずに、どうやって戦うのか


117. 大和狼 2015年11月23日 03:37:28 : 4bXKnGQAUaNEQ : Py8dDhOmqQ
佐藤某元総理大臣一族は壬辰の乱の頃日本に逃れ住みついたと13代沈壽官さんを訪ねてそう証言したという。
自分のルーツと民族の血を10代も20代も繋げる意識を持つ人間が今の日本でどのくらいいるものなのか。
半島ルーツを意識する限り、日本に居住しようが、戸籍が日本にあろうが日本人ではないだろう。
異邦に棲み民族を対比する血脈の記憶を有する限り、大和の国の大和を愛する民族の一員とはなり得ない精神のジレンマに葛藤するだろう。
日本に忠誠心を持ち子々孫々大和の国と民族を穢れなきままに引き継がせる気持ちがこの国を燻し銀の如き世界最古の輝きを維持継続して来た。

その民族の歴史には権力の簒奪者は居無い。統べらう者が存在しつづけるという大和民族の精神の悠久の継続があるからこそ日本人は民族としてのアイデンテイーを持つ世界最古の一つ国としての存在がある。

田布施がいい例だ。一つの部落に日本に溶け込むことなく、異民族の怨念と
権力を奪い大和支配することを目論んで来た。
過酷な会津への人道の道に悖るような日本人に対する仕打ちはとても血を同じくする民族のものと思えないから会津に未来永劫の怨念を刻みつけたのだろう。
日本人の寛容も人情のかけらも感じとることも出来ないからだろう。
有史以来の日本国の戦国の頃ですら無かった残虐無比の鬼畜の所業は
日本民族のものとは認知されないだろう。

まあ、天皇の実在を非難誹謗中傷して憚らない向きはエ×非人の類いの謗りは免れないだろう。
在特会じゃないが、××は日本から出て行けーって良く言い得てるのかもなー(笑)

さあ、湧いて来い非日本人ども。
日本に忠誠を誓うのか!?

原発で大和の国を穢し、似非新興宗教で誑かし、戰に大和民族の血を使おうとするなど以っての外だ。


118. けろりん 2015年11月23日 04:14:46 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc


>チャンネル桜の朝鮮人


・・・ではなく、あの水嶋の本性・魂は、中華人だ。
あれは半島人ではなく、中華。 過去世で帝国陸軍に惨殺された南京中華の魂。
ゆえに、南京に拘っている。陰・陽反転の原理は、魂上にも作用する。

本人にはその自覚が、爪の先ほども無いが、そうなっている。

______________

縄文や弥生というのも、史実上の捏造で、
このクニの水田形式などは、4,000年前から存在している。
奈良平安の貴族文化は、中華・半島の焼き直し・・・だ。
平安の、例えば・・ファッションで言えば、
京都・西陣などは、中華・蜀の時代の錦糸織りを模倣したもの。
奈良飛鳥を経由して、平安京で完成させた。
中華・皇紀2,700年。

この国の史実は、紀元3,600年・・・先代の旧事。
たかだか1,500年前に、中華・半島から乗り込んで来ている
ガイジン部隊の中臣軍(藤原)に乗っ取られたままだ・・・。
田布施なんぞは、最近の200年前からの
英国バテレン・寄生虫日本乗っ取り軍団__スパイだ。

●殺人事件・刀傷沙汰で一番多いのが、親子・兄弟の肉親同士/公安警察資料
つまり、愛憎問題では、身内程ハラが立つ・・・という人間関係原理が働いている。
自分自身に近しい者ほど、愛情を感じ、逆に憎悪も激しくなる・・。
「 チョンチョン シネシネ 」と雄叫びを挙げている連中の
本性が、最もそのチョンに近い連中だ、ということになる。
在特の櫻井(通名)コウも、済州島出身の半島人、
・・・というのも、典型的な例になる。

自分自身の国や家族を「 うつくしい 」などというのは
外側のニンゲンの表現・・・というのも、解り易い例である。
日本人ならば、口が裂けても自己宣伝をセンものだ・・。
統一教会・半島人らしい、表現だと言うコトだ。

コッチが、天皇制度を解体・批判するのも、
母方側が天皇家に組み込まれているからだろう・・・。
身内のコトほど、ハラが立つ。


以下も若干、参考になるが・・・挙げておく

______________


< 血 >はウソをつかない・・
というトコロで、新規の現日本原人用の情報・・・をば、少々、
____________________________


< 天皇家は1500年前に朝鮮半島からやって来た王族 >


●日本国がずっと前からあって、最初のころは出雲に都をつくり、須佐之男(スサノオ)さんたちにとっては、今の上賀茂神社と言われているところが昔の政(まつりごと)をする場所でした。農耕民族ですから、囲いをして集落をつくるんです。昔は囲いをしないと、いろいろなものが入ってきたりするので非常に怖いわけです。それを「 八重垣 」とも言います。

●須佐之男(スサノオ)さんたちは 3,500年ぐらい前にいた人たちです。そのときに預かっていたものがあるのですが、それはいわゆる大洪水が起きたときに、生き延びて東を目指した時に持って行ったという、「 ノアの箱舟の木っ端 」です。ノアの箱舟は1艘だと言われているけれども、実は50艘つくってありました。形も今のような格好ではなく、笹の葉のような形で中が回転するようになっており、そこにボールがついていてこのボールが船室になります。つまり船がどんな格好に傾いても、この船室は必ず同じ向きを保つことができるという形です。

●都(みやこ)は1回滅んだ。

ではなぜ復活したか。当時の都というのは今の奈良市と、生駒山と東西になっていますね。その中間の学園あたりのところに都というか朝廷というか、そのようなものがありました。須佐之男(スサノオ)の時代は 朝廷も天皇もないわけで、長( おさ )がいたところです。しかしそこに隕石が落下して、一瞬にして蒸発してしまった。 これはどういうことかと思って調べていたら、その隕石落下の2〜3年くらい前に、朝鮮半島の王家が兄弟喧嘩をしています。そして敗れたほうは日本に隠れ住んでいました。今の福井県の白山の麓に隠れ住んで、都をつくり始めている最中だったという遺跡が今もありますね。そんな中で隕石が落下した。そして都( みやこ )というか日本国というか、倭の国の長というか、つまり治めている人がいなくなってしまったわけです。そうなると、この人たちは何を思ったか。

●隕石の落下というのは凄い音がしたと思うのです。何かわからないけれども、凄い音がしたので見に行ってみたら、えらいこいとになっている。そこでこの人たちは多くの人々の前で、「 この前ここに落ちた岩舟に乗って私たちは天から降りて来た 」と宣言したのです。

●その結果、彼らは国を預かることになったけれども、出雲に本家があるし、そちらは被害を受けているわけではないので、とりあえずご挨拶に行かなきゃいけない。だけど(亡くなった)長(おさ)だった須佐之男さんのみ霊のことを考えると、( 自分たちのものにしてしまうのは )ちょっと気が引けるので、この国をお借りしようという話になったのです。「 お借りする 」というと、餅や何かを納めて、要するに土地代とか使用料などを払わなければいけない。実際に出雲では10月15日あたりに、あちこちに散らばった神様が出雲大社に集まるので、その時にお米やいろいろ採れたものを持ち寄って、要するに家賃じゃないけど土地の使用代を払うという儀式があります。そして使用代を払いに行くところが出雲にある熊野大社です。


/以上は、以下典拠の部分抜粋
・・・・・・・・・・
あの世飛行士は見た!?
『 歴史の有名なあの場面 』 木内鶴彦×長典男 
ヒカルランド
2015年10月19日刊

________________________
●『 倭の国 』の元々の所在地は、朝鮮半島と中華の中間地帯_遼東半島が紀元になっている。
これは、最近、ぼちぼちと露出し出してきている・・・。

『 山形明郷(やまがた・あきさと)比較文献史家(古代北東アジア史)』
邪馬台国論争終結宣言―考証 史説の虚構性を衝く__1995/5


______
コッチの主張する、大化の改新時にこのクニは、6世紀・奈良時代に、
中臣( 中華の侵略部隊=藤原 )と半島人・聖徳の官位十二階と硝煙制度制定の、
『 天皇家_朝鮮族帰化説 』
・・・のウラがまたまた、おもわぬところから補強された。

このクニの天皇家は・・、半島を経由して来た中華朝鮮連合部隊。
中華の「 周=紀元前700年 」が元々の出自場所_皇紀2700年。


・・・・・・・・・・・・・・
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊_復活・・・旧事紀・3500年前
( 記録が保持され出したのがこの頃だ )



119. けろりん 2015年11月23日 04:30:57 : xfW5FN1G6ouU2 : WT71dMTeHc

「 八重垣 」
最初の和歌の枕詞。

こっちは、和歌など、いくらでも出て来て詠めるが・・・、
ここの閲覧者から教わった、『 トンスル 』なるもの。
ワシに向かって「 チョンチョン 」などと叫びながら、
『 トンスル1号 』などという名誉称号を授かったが、
糞尿種だと、あとで調べて解った・・・。


_____________
「 チョンチョン 」などと叫んでいるニンゲンほど
チョン・半島人なんだな・・・というコトが明確になった。

えらく、詳しいんだな・・・半島文化に対して。
いま、住んでいるとなり近所には部落や朝鮮人居住区があるが、
ほとんど全くと言っていいぐらい、接触が無いんだ・・。
関係したことが、真横なのに・・・無いんだな。


___________
ゆえに、愛情も憎しみも、何も感じない・・・
そんなものだ。

「 トンスル=糞尿種 」
へぇ〜、すンげぇ〜飲み物だな?
そんな程度だ。
興味も関心すら、湧かない。

ネトウヨが騒いでいるので、ソコで初めて・・・
隣り近所に住んでるゼ・・・ぐらいなものだ。



120. 2015年11月23日 10:50:55 : QMS0Yze326
吉田小陰唇

121. 2015年11月23日 10:51:38 : pg0Wh4QmIA
そうえいば、グラバー邸をはじめとする「軍需産業関連の遺物」が、
なぜか「世界遺産登録」されちゃったね。

これから「日本も軍需で儲ける国になるぞ」宣言なのかね。

かつて会津の街を焼き払った長州藩士の一人である大島義昌の子孫、
安倍晋三が、いま福島の人たちを放射能で痛めつける。

そして日本中の原発が安倍晋三の指図で、次々に再稼働されようとしている。


122. 2015年11月23日 12:14:29 : fpt8itpB5Q
日本人からすると
朝鮮半島に由来する者は朝鮮人という認識しかないが
あの半島は、大陸から頻繁に攻められ、その都度
トコロテンのように押し出されるしかない流動的な地だと思われる

663年の半島での白村江の戦いで百済人は、国をあげて九州に逃れてきたとのこと
神社というもので大麻を売り、日本中に広まった
通貨システムを作り上げたのも百済人だそうだ
今の日本文化の根幹を作った連中なのだろう
しかし、百済王族の大内一族は武家となって九州・中国地方に跨る勢力となったものの
戦に敗れて田布施に篭った
その連中が豹変したのが明治維新だ
英国に支援されて日本を乗っ取った
まぁ、ここまではどこにでもあるような普通の国の勢力争いだろう

しかし、田布施明治政府は違う
ここから150年後の現在まで、英米の傀儡として日本人を苦しめてきた
文明開花って日本女性50万人を海外に売った金が原資だろう
英米に言われるまま、日本人を戦場に追り出した
日米戦争だって、日米で申し合わせた上でのイカサマ戦争だ
そんな必要のない戦争で、日本人は財産を奪われ、戦地で共食いまでした

上の方で、例え天皇が極悪だろうが日本の国体として必要なものだと言ってる奴がいるんだが
それは百済人の主張だ
米誌TIME2015/8/14にも、けろりんと同じような記事が載っている
昭和天皇及び皇族が指揮、または大いに関与して、南京大虐殺、生物兵器、生体実験、略奪が行われたと
それは百済人としての民族的恨みを日本人を使って晴らしたものなのかなんか知らんが
日本人としては、隣国にそのようなことをする天皇は中国その他各国に行かせて土下座させ
最後に日本国民に向かって土下座させてから処刑しないと収まらない
それをセず、また天皇を国家元首にしようとしている
百済人(含むエセ右翼)と戦わないと日本人は絶滅させられてしまう


123. 2015年11月23日 13:30:25 : u1WtSLjHyw

いまだ多神教の日本で、NWOを設立するためにはどうしても日本を神道から一神教のキリスト教にする必要がある。それでヤツラはキリシタンブロガーやキリシタンシール図などを使って日本人をそそのかし、日本人の手で天皇、皇室を滅亡させようとしているのさ。w

なぜなら皇居には、宮中三殿に八百万の神を祭ってあるように、多神教だからだ。

もし仮に皇室が消滅させられてしまったら、日本中のさまざまな神様を祭ってある神社はぶち壊され、代わりにその場所に教会がたてられ、キリスト教が日本の国教とされ、悪徳キリシタン達が君たちの家をノックしこう言うだろう。

「神のご加護をあなたにも・・・」

そして世界統一国家(NWO)のために遂にザビエルの悲願、日本人はキリスト教に洗脳されるんだ。

ってまあ、こんなシナリオだろ? 平和的な皇室を汚い言葉でおとしめる反日キリシタンたちの腹の中はな。w

.


124. 2015年11月23日 14:15:53 : kebDWDUE0w
>122
朝鮮の方は朝鮮族という種族だと思いますが、そして蒙古斑点出ないと聞いています。中国に攻められては日本に逃げて来たのは確かでしょう。ただ朝鮮は裏切りの国だから攻められたというより国内での殺し合いの方が多かったのではないでしょうか。そう言えば6世紀初めまで半島に日本領土がありました。
大麻が朝鮮から伝わって日本に広まったとは聞きませんね、それ最近の話ではないでしょうか。貨幣経済は何と言っても中国からではないですか。百済から仏教伝来、その後陶磁器、染物ぐらいで朝鮮から学んだものはほとんどないのではないでしょうか。日本文化の根幹と言うなら遣隋使、遣唐使というように中国です。それを吸収咀嚼して日本文化が出来たと思います。
朝鮮人は一番大切な物は家系図ですから大内がそうなら家系図があるのでしょうね。まあしかし大内氏の子孫と言うより朝鮮から来て周防に住みついた朝鮮部落民と言う方がいいのではないでしょうか。そして明治維新は英国というより英国の顔をしたユダ金と言った方がいいかもしれません。
日本の国体として天皇が必要というのが百済人の主張だと言う意味が不明です。
余談ですが戦前は日本の国体は天皇でしたが今は日本の国体は米国ですよ。そして
ケロリンさんやtimeが何を言っているか知らないが単に天皇を誹謗中傷して貶めるもので天皇制を否定する詭弁に過ぎないと思います。日本人が唯一守って来た物が天皇であり(女系にしたとたん天皇では無くなる)それは日本のアイデンティティなのです。それを捨てた途端日本は日本でなくなるでしょう。戦後短期間に復興出来たのも天皇の存在が大きかったと考えます。まあ、言ってみれば自分では自覚しない目に見えない力だと思います。日本人である限り天皇は大切な宝として持ち続けなければなりません。天皇を捨てたい人は日本人を捨てるべきです。

125. 2015年11月23日 14:34:59 : fpt8itpB5Q
色々と撹乱用の情報が、まことしやかに流されているのは知っている
特に天皇に関しては明治から御用学者が用意され、天皇の守り人たるヤクザまでいる
でも、それが有効だったのはネットの無い時代だ
例えば、天皇一味が日本女性を海外に売ったというのは、
それを否定したところで、複数の国から記録が出て来れば隠しようもない

仮に、天皇は戦争に関与していないのを事実として
天皇制廃止を目論む者が、天皇は戦争に関わっていたのだとするデマを流すとする
それは明らかな事実と辻褄が合うように、慎重に物語りを作らないといけない
かなり難易度の高い作業になる
とても皇族の方の情報まで捏造するのは無理なことだ
余計な捏造は避けて、天皇についての捏造に集中すべきだ

ところがどうだ、巷に流れている情報では、皇族のほとんどがチンピラだ
誰一人としてまともな人間がいない
南京大虐殺を指揮した皇族、略奪を指揮した皇族
略奪品を守るような仕組みを作った皇族、略奪品の骨董品を販売していた皇族
こういった情報まで捏造できる訳がないし捏造する必要もない


126. 2015年11月23日 20:48:35 : GBiVW9uBZI
ニホン国家に忠誠を誓うやつは馬鹿w

そもそも「忠誠」で結ばれた人間関係なんて、ヤクザの人間関係。

311で500億人以上を肺癌にする
プルトニウムが漏れだしたのに、それを隠蔽し、
さらに「食べて応援」なんてやる体制に「忠誠」を誓ってはいけない。
体制は、我々を騙して、平気で我々を殺しに来てるのである。
目的はただ一つ。連中が支配を続けるためだ。
連中は、チェルノで地位をうしなったソ連共産党の二の舞いになることを、
一番いま恐れてる。これを避けるためなら、国民が何千万人、肺癌になっても
しったこっちゃない。

国家なんかに貢献することが、意味を持つのは、国家が我々のために存在する限りの話。

現在のジャップの国家は、糞テンコロを頂点とする、
明治で成り上がった連中の閨閥の私物でしかない。
こんな連中のために「貢献」する義務など何ひとつない。
逆に倒すべき対象なのである。
こいつらは、我々を殺しにかかっているのだから。


127. 2015年11月23日 21:57:09 : JwUoe1xpDI
>>90

へ?
遺恨がイベント上の話だって?w
あなた、この投稿記事全部読みました?w
もう一度読み返したほうが良いんじゃないんですかねwww


あと、蒸し返して悪いけど、

>そういう見方があるというだけのことです。

重要なのは見方ではなくて、その見方にどれくらいの妥当性が認められるかということではないんですかね?
どんなに突飛な理論でも妥当性があればそれは常識になるでしょう
天動説のようにね
で、>>79の主張には客観的にどれくらいの妥当性が見受けられますかね?w


ボケ老人とかHNつけないほうがいいんじゃないの?
自虐なのかもしれないけど、本当の重度のボケ老人を馬鹿にしているとしか思えないよw


128. 2015年11月23日 23:12:55 : fpt8itpB5Q
79ですが、何か?
歴史というものはその時々の権力者が作るので
坂本龍馬に関する本なら、坂本龍馬に関しては嘘が書いてあるのです
船に関する本に、坂本龍馬の話が載っていたなら、それは信じてみる価値がありそうです

政府が「孝明天皇が病死したよー」と言っていたなら
それは、真っ先に疑わなければなりません
明治天皇の明治神宮は、あんなに立派なのに
なんで孝明天皇の玉鉾神社はあんなに小さいのだろう
しかも明治政府が建てたのではなく、孝明天皇が生前懇意にしていたお相撲さんが
私財を投じて建設したなんて変だね、と別の角度から見るのです
歴史は読むのではなく分析しないといけない
だから文系の人に歴史や政治を見るのは無理なんじゃないのか

日本人がキチガイだったとは思いたくない
天皇一族だけが異常だったのですよ


129. 2015年11月23日 23:28:21 : u1WtSLjHyw

>125、126

は論理がめちゃくちゃだな。w 根拠も無い上、支離滅裂。w

>天皇一味が日本女性を海外に売った

って、キリシタン大名じゃあるまいし、どこにそんな文献がある?w

>複数の国から記録が出て来れば隠しようもない

というところ、証拠もクソもないんだろうが。w

この悪行を行ったのはキリシタンだ。

「日本人は皆殺しにすべし」の名セリフで有名なザビエルが、悪魔教イエズス会キリスト教をひっさげて、日本

の大名をそそのかし、「銃を売る代わりに日本の女を売り渡せ!」と言って、50万人もの女性がイエズス会に

よって性奴隷として海外に売られたのは知っている。これと天皇が一体何の関係があるのかね? 全くバカバカ

しくて嘲笑にも値しない。

http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/50-089c.html


お前らキリシタンの悪行と罪を天皇、皇室に押し付けるな。w

とにかく、お前ら「シール図は朝鮮キリスト教、つまり統一狂会」なんだろ?

つまり、「NWOを日本で樹立させるには、どうしても多神教を祭る皇居、つまり皇室が邪魔」なんだろ?!

もうわかりすぎるくらい簡単な構図だな。w

キリシタンシール図は安保法案の時は一切アメリカを叩かず、怪しいとずっと思ってきたが、無事、その仕事が終わると今度はNWO樹立させるための神道皇室ツブシか。w

日本人は矛盾だらけのたわごとには誰も耳を傾けはしないぜ。ザビエルと同じくしっぽを巻いて自国に帰ったほうがいいんじゃないか?w え?w

今の日本人も、キリスト教を拒絶した先達と答えは同じだ。

.


130. 2015年11月24日 01:15:22 : 8hapmM7gzY
>125、126

↑これらが歴史を捏造したがる朝鮮人だろ。
何かと天皇を批判するのも同じ習性だな。


131. 2015年11月24日 02:18:09 : hy55y1MCkU
最後には天皇に戦争責任転嫁。

こういう連中はまずアッチ系だろ。


132. ボケ老人 2015年11月24日 08:12:15 : nf15y2vSVdhvU : cLlCcv3fYs
>127 JwUoe1xpDI

あなたも空想物語の好きな人だね。
そこまで言うなら、あなたの言う遺恨の事実をこの投稿から抜き書きしてごらん。

>79 さんの妥当性については私が論評する必要もないが、>128でご本人が追加して解説されています。
言葉使いが上品かどうかは別にして、特別にこれが誤りという内容でもないと思うが。

もし誤りがあるというなら指摘されてはどうですか。
孝明天皇毒殺説は学校では教えてくれません。
私にも真偽のほどはわかりません。
しかし、田布施システムやすり替え説よりは信憑性があります。


133. 2015年11月24日 09:52:24 : fpt8itpB5Q
>>129
文献はあるよ

女性を海外に売るというのは、確かにキリシタンもやったし
ヨーロッパから火薬や銃を買うために将軍もやったし
九州の貧しい家庭が売ったのは「からゆきさん」

そして明治天皇が50万人もの女性を海外に売ったというのは確かな証拠がありすぎる
何の根拠もないまま無意味に反発するのはやめて
明治の財閥が誕生した理由を言ってくださいよ


134. 2015年11月24日 15:00:02 : u1WtSLjHyw

>133

しつこい・・・w。だからもうデタラメはやめろって。w お前はシール図の朝鮮キリシタン奥田だろう?w

日本中に存在しているすべての神社の最高峰である神道の神々を宮中三殿で祭ってある皇居。

それをお守りする皇室をつぶして日本をキリスト教に一本化し、日本の首都を大阪にしてNWO達成するなんてことはお前たちには無理だって。

あんまりしつこく日本でキリシタン悪魔教布教と、神道皇室に対してのデマゴークを流すと

「国家転覆罪」で日本国籍はく奪するぞ。どうせ朝鮮と日本の両方の国籍持ってんだろうからな。

.


135. 2015年11月24日 17:35:06 : 3Pfa00GRw6
徳川幕府は軍事独裁政権なんだから、テロもクソもない
バカじゃないの東北人って

136. 2015年11月25日 00:03:05 : tp9CighHd2
>>132

信憑性とか、主観でしょう
そんなものを持ち出してどうするの?

本人がこれは信憑性が有ると認めたらそれで終わってしまう話で、これはもう他人がどうこうできるものではない
幽霊を見たという人を否定しても幽霊を見た人にはそれが真実のだから否定しても徒党に終わるのと同じ事

あのさあ、基本的に間違えているよね
こちらに
>もし誤りがあるというなら指摘されてはどうですか。
というのが先ではないでしょ

先にすべきなのはそちらの主張を裏付ける証拠を出すこと
Aという一般的に流布されている定説は間違っていてB説が正しい!
というのならB説を出した側が十分な裏づけを提出するのが道理では?
信憑性?
そんなもの証拠にはなりませんw


恍惚の人、とかちょっと捻ってくれれば、(お、やるな!)とか思えたのに
ボケ老人とかいうストレートな表現をする
あなた左翼気質でしょw
面白い面白くないでいえば、左翼気質の人ってユーモアに欠けるから面白くないんだよねw
はすみとしこの件でもいくらでもパロディ化、例えば「そうだ、ABEしよう!」とか「そうだ、ネトウヨしよう!」とか出来たのに目を三角にしてストレートな怒りをぶつけるだけ
全くつまらない奴らだよw


137. 2015年11月25日 00:05:16 : LjMCkTbcIQ
ああ、色々誤字があるな
面目ない
申し訳ないけど補完して呼んでください

138. 2015年11月25日 04:01:53 : 8hapmM7gzY
朴甲東という朝鮮人が創った成甲書房の本でも読んでるんだろ。
鬼塚英昭や落合莞爾といった出鱈目ノンフィクション本を文献と言っているんだろw
統一教会もそうだが、朝鮮で繋がっているねw

君らはあと100年もすれば、日本人に同化するのは目に見えているんだから
子孫の為に反日活動をするのやめたほうがいいんじゃないの。

それともいつか朝鮮に帰りたいと思っているのかな。
帰ったら無茶苦茶差別されることわかっているのかなw


139. 大和狼 2015年11月25日 04:40:56 : 4bXKnGQAUaNEQ : hy55y1MCkU
靖国は長州の神社なのか
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/c33271934cb32b256c07fa6e44212806
2013年12月29日
長いのですが引用させていただきます。

 靖国神社とは、筆者にとって千鳥が淵に連なる桜の名所であり、九段の坂の上に存在する神社に過ぎない。そして、戦争により命を失った人々の慰霊を祀った、特殊な神社と云う知識しか持ち合わせていない。故に、神道との深い関わりについて、多くを語れる立場ではないが、この神社の歴史が驚くほど浅いことに気づいてから、なんだろうこの神社は?と云う疑念は常に脳裏の奥底で眠りを貪っていた。

 この神社の始まりは、戊辰戦争の戦死者を祀ることに端を発している。「戊辰戦争」なんて、明治元年に起きた戦争である。王政復古を唱える(天皇の政治利用)薩摩長州新政府軍VS幕府・奥羽越列藩同盟の戦いである。ご存じのように、政府軍が勝利したのが戊辰戦争。つまり、我が国が国際社会の一員となる為に行われた「内戦」と云う位置づけに置くことが出来る。そうして、新日本政府が日本の代表と認められた。しかし、この明治維新のお陰で、我が国は長い富国強兵、覇権国を目指す軍事国家の道を歩むことになったのが史実である。

 この「戊辰戦争」の戦死者を祀るために設立したのが「靖国神社」であり、薩長軍の戦死者を、朝廷(明治天皇)が神社を建立し、祀ったのが始まりである。実は、第一に「靖国神社」の性格を知る上で、とても重要なポイントである。第二のポイントが、薩長軍から薩摩のドロップアウトと長州の跋扈と云う史実だ。つまり、靖国神社の歴史を見ていくと、色々と難しいことが書かれているが、背骨には朝廷を利用し、長州のために戦った戦死者を祀る、長州神社と云う色彩を色濃く持っていることも忘れてはならない。*当然のことだが、安倍晋三は山口長州の人間である。

 靖国神社が長州神社では、日本国の代表的神社の地位に祭り上げるのは、どう考えても恥ずかし過ぎる。そこで、その後の国内におけるいざこざで命を失った政府側の者も祀った。故に、会津藩の戦死者は、その争いにおける立場の違いで、祀られた戦死者と祀られない戦死者(白虎隊)が生まれた。西南戦争における扱いも同様だ。表向きは、朝廷に逆らう者は祀らない神社だが、朝廷自身が、その判断を下したと云うより、新政府の役人たち(殆ど長州人)が祀る人々を決定した神社と云うことだ。その意味で、安倍晋三(長州人)が靖国を参拝しなかったことが「痛恨の極み」になるわけである。単なる個人的心の問題だわな。

 その後靖国は、我が国の内戦終了により、祀る戦死者がいなくなり、英霊不足に見舞われる。そこで、そうだ!外国と戦ってなくなった人も祀れば、「長州神社」と呼ばれずに済むわい、と膝を叩いたに違いないのだ。つまり、“メクラマシ”として、日清、日露戦争の戦死者をも祀る神社に変貌を遂げる。その上都合の好いことに、表向き明治天皇が造られた神社と云う看板があるので、国章である“菊の紋章”を使っても異論は出ない、と云う按配になる。そうして、「長州神社」は、お国のために戦って亡くなった英霊を祀る神社モドキに変容していく。

 特に明治大正昭和の歴史を通して、靖国神社は帝国陸海軍の施設の一部を構成するに至り、第二次大戦に赴く兵士は、靖国に帰還すると云う、奇妙奇天烈な言説を押しつけられたのである。靖国に帰還する=戦死、と云うことで、戦争で死ぬことを美徳とする色彩まで帯びたのである。合理性とか、人間性と最も離れた部分に存在する神社であり、伊勢神社など、古来の歴史に基づく神道の神社だと認識する事には、ドデカイ抵抗の存在する神社である。ただ、この神社が長州勢力に支配されている神社であるため、政府の神社なのだから、当然、 その後の日本神道(神社)における活動の核となり、その個別の藩閥神社の特長を薄めていったに過ぎない。

 個人的には、明治維新が大和の国崩壊の幕開けであったと認識するので、当然、維新のけん引力であった長州藩を祀る神社など、お参りする事はない。伊勢神宮とは、天と地の開きがあり、大国魂神社とも比べものにならない。靖国は、国家権力を権威付ける国家装置であり、それ以上でも以下でもない、と云うことに過ぎない。貴様は戦死者に対し、慰霊をしないのか!と叫ぶバカもいるようだが、慰霊の形には様々な形があり、人様にトヤカク言われる筋合いはないし、まして国家などの権力から強制されるものであるわけがない。

 明治維新以降の軍事史と軸を同じくし、天皇の名を語り人工物として作り上げられたのが靖国神社であり、古来の我が国が信仰と関わる神道とは似て非なるものであること肝に銘ずべきである。日本政府が、歪曲的に、捻りに捻って生み出した「国家神道」等と云うイカサマ神道紛いに騙されて現を抜かす軍事オタクには、頭を抱えてしまう。単に感情のフックに引っかけられたダボハゼであり、無知蒙昧の権化と言えるのだろう。第二次大戦の敗戦における落とし前は、原爆を落とされ全面降伏しただけではない。世界を巻き込む戦争を主導した日独伊に、それ相当の落とし前をつけて貰う約束が、戦勝国の強奪品となり、その概念は、残念ながら今持って厳然と生きており、国連の安全保障理事国を構成している。この事実に目を背け、ただ威勢のイイ話に興じても意味はないだろう。余程の戦略的行動が必須で、ドイツの例に見習うのが、世界の常識になりつつある事も考慮しなければならない。

 つまり、敗戦国の落とし前は、ヒットラーのナチスズムであり、ムッソリーニのファシズムであり、東条の軍国主義ある。つまり、戦争の責任を誰かや何らかの勢力に押しつけることで、世界戦争に決着をつける必要があったのだ。本来、東条(軍部代表)の軍国主義が“誰かや何らかの勢力”であるのか、天皇に帰依する問題なのか、無論議論の余地はある。しかし、日本と連合軍の話し合いに於いて、“誰かや何らかの勢力”は天皇ではなく、軍部と云うことで決着した。この決着が基礎となり、現在の民主主義国家日本が成立している以上、この決着にチャチャを入れることは、連合国を明らかに刺激し、新たな感情のフック勢力の台頭を許すことになる。

 このように、現在の世界情勢の枠組みを基礎に成り立っている、民主主義や資本主義の恩恵の中で、我々は、何故か上手に生きて来た。無論、その方が連合軍にとって有益だったから、と云う議論の余地もある。しかし、その枠組みで利益を享受し、世界一の債権国になっている事実に目を背けるのは、ルール違反だと云う誹りを免れない。そのような戦後の枠組みを無視して、戦前の陸海軍の記念碑が大量に並び、歴史な浅い長州藩賛美の神社(靖国)を信教の自由と云う言説で、逃げおおせるとの思うのは、大変な間違いである。その意味で、中国韓国はいざ知らず、欧米各国、ロシア、ユダヤ協会等々が、安倍靖国訪問を徹底的に糾弾する意味合いがあることを、我々は肝に銘じておく必要がある。

 米国大使館のFB掲示板が炎上しているようだが、“チームセコウの仕業”と揶揄されている。一時の感情に釣り上げられた雑魚の吹き溜まりなのだ、と米国が笑って見逃せばイイのだが……。果たして、米国の器が如何なるものか、結果を注視しておこう。かなり不愉快な現実を認識しなければならないのが、戦後の日本の歴史であり、連合国勢力がはびこる国連における立場だたと云う認識も必要だ。一時は経済力を振りかざし、それなりの存在感を示していたが、国連における安保理事国五カ国が存在する限り、士農工商的な国家の地位差別は存在する。そこで存在感を示さない限り、貧乏代官に取り入る豪商であっても、無礼打ちが行われる危険を包含している事も忘れないようにしたいものだ。

 以上、筆者の浅学による靖国神社の立ち位置の概要は、多くの外国が共通的に持つ概要と似ているので、今さらのように、日本政府が話せば判る、と云った付け焼刃な弥縫策やご説明で言い逃れられる問題ではない。今後、どのような影響が我が国を襲うか予断を許さないが、これこれのペナルティーとして、と云う行動や対応ではなく、真綿で首を絞められるようなジワジワな日本排除論が世界の共通認識になる危険性さえ感じさせる。正直、“ままごとごっこ”を安倍晋三が行っている点は、日本の知識人に共有されているようだが、それを理解する世界の国々ではないと思う


140. ボケ老人 2015年11月25日 08:04:18 : nf15y2vSVdhvU : WK4X1NKyxI
>136 tp9CighHd2

お・ま・え・は・ア・ホ・か

>信憑性?そんなもの証拠にはなりませんw

論戦を挑んでくるなら、いつでも受けて立ってやるよ。
このスレで誹謗中傷の言葉だけを投げつけている輩がいるから、そうではない、いろんな見方があるよと諭してやったのだ。
田布施システム、天皇すり替え説もトンデモ説だけれども、100%ウソと切り捨てることももできない。
このトンデモ説に比べれば、正史として認められていない天皇暗殺説の方がまだしも信ぴょう性が上位にあると書き込んだのだ。
ここまで懇切丁寧に説明してやっても日本語を解さないあなたには理解できないだろう。

バカなのだからA説だB説だとわけのわからないことに抽象化せず、単刀直入具体的に論戦を挑んできてごらん。

長州と会津の150年前の遺恨という、これもおバカな書き込みがあり、これをたしなめたら、このスレ全体をよく読めとぬかしてきた。
そこまで言うなら、遺恨の事実を示せと応じたのです。

>79、>128 さんの書き込みに対し、とくに誤りは認められない。もし誤りがあるというなら指摘されてはどうですかと書き込みました。
このどこに論理矛盾があるのか、
どちらが先に証拠を出せという問題ではないでしょう。

なにをボケているの? ぼけ老人以上に。


最近老人生ボケが嵩じて、言葉使いが上品でなくなったが、ご容赦あれ。


141. 2015年11月25日 08:50:38 : kebDWDUE0w
>140
ボケたらデマを流されても嘘をつかれても理解できないからそうかなと信じてしまうのです。

142. 2015年11月25日 10:43:25 : kfLfKPPJc6
長州統一教会阿部神社本庁が如何に選挙で政治を乗っ取ったか。

長州朝鮮明治政府の再現だな、こりゃ。

https://www.youtube.com/watch?v=pgLCwQQXlSs#action=share


143. ブリテン飯 2015年11月26日 21:30:54 : kfE0dRwONx9Fw : ay06vOngtk
 上の写真は、幕末に長崎で医学校を開いた英国人医師と
門下生たちの記念写真です。有名人は誰も写っていません。
 長州のテロを批判するのは正しいのですが、ニセの証拠
をもとにトンデモ陰謀説を展開しても、「敵」に塩を送る
だけです。
 なお会津藩の幕末での朝廷への貢献は、司馬遼太郎が
「王城の護衛者」という小説にしました。NHK大河ドラマ
の原作にもなったはずです。

144. 2015年11月27日 11:02:04 : kebDWDUE0w
>143
ウキペディア見られました。あなたの根拠は何でしょう。そして長州のテロは正しいといいながら写真がガセだからと敵に塩を送るつまりテロを全否定されていますね。
司馬は歴史家では無く小説家です。小説家の書いた事を全面信用して良いかどうかは疑問です。ただ京都守護職としては天皇を守る役目も当然あっただろうしそれなりの役目は果たしたと考えられます。
それにしても徳川の親藩として最後まで戦った会津の悲劇は白虎隊に象徴されるごとく悲惨です。八重の桜も見ましたが家老の家族の自決は目を覆いました。そして武士はエゾ開拓とか僻地に追いやられて辛酸をなめることとなりました。官軍の仕打ちに長く恨みを持った事は確かでしょう。ただ熱しやすく冷めやすい日本人だから戦後世代で恨みつらみを言う人は少ないと思います。

145. ブリテン飯 2015年11月27日 19:04:42 : kfE0dRwONx9Fw : ay06vOngtk
>>144 ウィキペディアをみられましたか?
匿名のどこの馬の骨が書いたかわからない
無責任な「落書き」を読む暇はありません。
大学教授が名を名乗っての、写真の考証が
ネット上で見られます。下記です。

      記

http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2007/01/post_1dcc.html


146. 2015年11月27日 20:28:15 : kebDWDUE0w
>145
説明が長すぎて最後まで読む気にもならない。長崎の英国人医師と医学生の写真だという結論も何処に書いてあるか見つけられず。失礼。

147. 2015年11月29日 10:16:37 : hy55y1MCkU
医学生がいかに武士階級とはいえ、全員大刀を誇示するようなポーズをとる訳がないだろうポケ 。マルは濁点に変換してお読みください。

148. 2015年11月29日 11:07:08 : 50VQur2Wao
もともと、維新の三傑にも入れなかった脱藩浪人も
今や「維新の中心人物」として定着してるようですが、
定着させた側の意図を推し量る参考に・・・
12月4日16時45分〜 17時30分
BS231

149. かっぺたんパッチ[38] gqmCwYLYgr2C8YNwg2KDYA 2015年12月13日 12:00:52 : ea87LB8lXE : QLXs07ycaI8[297]
80sの事件を2004年にやったと、それは何も起きてなかった事になり。
それはそうと、なぜパリって、買収、フランス乗っ取り。
いかにも、かっぺが欲を出した出来事だなって。
かっぺって、フジテレビ買収とか、フランス乗っ取りとか、好きなんで。
長州、安倍さんは、あそこをああして、ここの路線価をとかって、海外で
平然と口にしたはず。バカ何だよ。
安倍に路線価を語られたくないが、私が住んでるとかなんとか、乗っ取りたくなるらしいね。
バカだね、私はここに一人じゃないのに。
他に誰がどのくらい住んでるのか、知りもしないバカ。
知ったところで、買収しきれない、人々は、せこい日本の買収は、良いデイールではないから、嫌い。


 嫌われても、欲をもって行脚する安倍首相と日本企業は、
裸のおおさまのようである。

 


[32初期非表示理由]:担当:関連が薄いコメントが多数につき全部まとめて初期非表示

150. 2016年5月01日 13:05:13 : fpt8itpB5Q : zW@YYVl31Kw[633]
朝鮮半島に近い長州の素性について

★ 百済国→大内氏→長州藩→山口県 ★

以上。


151. 2016年5月21日 16:51:40 : thNydkuR5Y : DqJ8F0sO2xQ[8]
消えていることになっているサイトのキャッシュ。
気になるので全文転載。

↓これは全くその通りだと思う。

>労働時間は3倍〜〜
>そもそも日本人くらい働くなら普通にリーマンクラスの会社ばかりになってるはずで〜〜


明治維新とは、すべて-二次元裏@ふたば
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=58y901ocVKEJ&p=%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E6%88%A6%E7%95%A5&u=may.2chan.net%2Fb%2Fres%2F408467961.htm(全文)


無念 Name としあき 16/05/19(木)06:49:02 No.408467961 del + 16:22頃消えます
明治維新とは、すべてイギリスのアジア戦略です

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)06:51:18 No.408468077 del そうだねx1
1463608278602.jpg-(60121 B) サムネ表示

キタ━━━(゚∀゚)━━━!!

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)06:51:26 No.408468086 del +
それで得た巨万の富でフリーメイソンができました

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)06:51:53 No.408468108 del +
定説です

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)06:54:54 ID:M3pekG3Y No.408468253 del +
ジャップ奴隷化計画

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:05:51 No.408468741 del +
スレ画武豊

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:09:27 No.408468884 del +
明治維新とは、すべて伊藤の戦略です

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:10:54 No.408468954 del そうだねx3
テロリストが英雄になる

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:12:25 No.408469023 del +
労働時間は3倍

豊かさは階層によるレベル差はあるが
世界レベルから言うと相対的に半分と見ていい

そもそも日本人くらい働くなら普通にリーマンクラスの会社ばかりになってるはずで
そうならない仕掛けが日本政府に現存する
日本企業の特許申請は特許庁が蹴り
数ヵ月後同じ案件がアメリカ企業によってアメリカで特許をとるとか

この構図でいくら教育しても
いくら開発投資しても無駄と踏んだ財界はリストラ経営術で人的資源を放出して開発費を切り捨てたペラペラの転売バイヤーに転進
ある程度の成功を収めるも
切り捨てた氷河期世代が新世代を作れなかったため国としての将来が危うくなっている

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:16:02 No.408469209 del +
戦費使いすぎてるから
江戸城接収でも無かったとされてる徳川埋蔵金も
密かにイギリスにあげちゃった可能性があるのが

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:17:04 No.408469250 del +
日本で何をやっても奪われるだけ

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:20:31 No.408469403 del +
イギリス企業の工作だけでここまであっさりひっくり返されたと言う事は日本もやはり当時の世界情勢のなかでは劣等国だったといわざるを得ないよね

その後、日本を国民軍を擁する中央集権国家化したけど
結局狙いは電話一本で軍隊を中国にデリバリーできる体制を作りたかっただけらしいし
実際そうした事例が多い
さすがに欧州まで軍隊送ってよこせと言う話は蹴ったけど

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:22:23 No.408469492 del +
赤報隊の悲劇の件で
戊辰戦争末期に急激な政策転換が行われた痕跡があるのが恐い
勝手に触れ回った罪通りなら収監恩赦で済んだ話だし

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:22:24 No.408469496 del +
戦後の日本の技術も海外に流出しちゃったし
腕の良い現場の技術者もいなくなってきた
マジ日本は終わりに近い
なんか一発逆転があるとしたら
石油に代わる新エネルギー

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:24:19 No.408469585 del +
普通に戦えば幕府軍が勝てたのになんで負けるかな
okasiizo

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:25:41 No.408469652 del +
明治天皇の話はタブー

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:26:54 No.408469709 del +
でもおかげで幕末から数十年で中国やロシアに勝っちゃう強い国になった

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:28:08 No.408469768 del そうだねx3
ロシアに勝ったと言っても全部イギリスの軍艦じゃん

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:29:32 No.408469840 del +
朝から頭良いあきは頭良いな

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:29:34 No.408469843 del +
日清日露戦争の勝利はおかしい

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:30:06 No.408469868 del +
台風のせいで大型船の技術が発達しなかった

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:30:52 No.408469902 del +
少子化がワープする

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:31:50 No.408469957 del +
結婚できない若者が増えた
何も考えずに結婚するのはDQNだけ

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:33:25 No.408470035 del +
日本海に眠る資源を採掘したらいいのに
原発なんてやめてさ
なんでしないの?

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:34:47 No.408470119 del +
病人の自己完結スレ

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:37:20 No.408470291 del +
朝からキチガイわいてるな…
朝鮮人なら普通だが

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:37:54 No.408470318 del +
興味がない

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:39:52 No.408470437 del そうだねx1
>戦後の日本の技術も海外に流出しちゃったし
>腕の良い現場の技術者もいなくなってきた
戦後の好景気は海外から得た技術を改良して当時人件費の安かった日本で安くていい物を作ったのが成功の理由だった
結果海外では日本製品にシェアを奪われてジャパンバッシングが激しくなるほどに
だが調子に乗って更に安く作ろうとアジア東南アジアに技術や技術者者を流したせいで
アメリカに対して自分達がやった事を逆に今諸外国から返されてる
こうなるのは20年くらい前から分かってた

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:40:48 No.408470500 del +
>アメリカに対して自分達がやった事を逆に今諸外国から返されてる
つまり日本はアメリカみたくなるのね

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:43:57 No.408470698 del +
資源の乏しい日本は日本の技術こそが資源だったのに
それを海外に流出させるとかアホすぎる

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:45:58 No.408470828 del そうだねx3
日本の技術なんか元からないよ
だから流出もしてない

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:47:42 No.408470933 del +
では何が流出したんです?

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:47:55 No.408470944 del そうだねx2
平日朝から何言ってるんだろうな

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:49:05 No.408471011 del +
薬が切れたんだろ朝鮮人

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:50:34 No.408471086 del +
社会の歯車にもなれない落伍者

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:52:16 No.408471184 del +
日本人になりたかったのになれなかった半島人の怨念だけよくわかりますね
自業自得なんだけどさ

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:53:23 No.408471242 del +
半島も愛国オナニー番組たくさん作れば少しは幸せになれると思う

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:54:26 No.408471311 del +
>半島も愛国オナニー番組たくさん作れば少しは幸せになれると思う
そんな番組しかないだろあの国には
しかしそれで何が変わるはずもなく

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)07:58:42 No.408471562 del +
>日本の技術なんか元からないよ
>だから流出もしてない
これで
>では何が流出したんです?
ここに来る流れが笑える
フワッとしすぎだろ朝鮮人
何ら具体性なし

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:06:05 No.408471972 del そうだねx1
日本の事を悪く言うのは朝鮮人です!
日本人の中に売国奴は一人もおりません!

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:22:24 No.408472965 del +
>日本の事を悪く言うのは朝鮮人です!
>日本人の中に売国奴は一人もおりません!
当たり前だろ・・・アホか

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:25:49 No.408473171 del +
朝日や毎日やフジを叩くのは絶対許さないマン

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:28:19 No.408473333 del +
イギリスに明治維新されてユダヤに政治経済操られてHAARPで地震起こされてるんだろ?
日本ヤワ過ぎだろ

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:36:44 No.408473867 del +
いくら日本人に憧れても、やっぱり日本人にはなれないんだよなあ…
なんで日本人に産まれなかったんだろう…

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:37:59 No.408473929 del +
>江戸城接収でも無かったとされてる徳川埋蔵金も
>密かにイギリスにあげちゃった可能性があるのが
埋蔵金は小栗上野介が赤城山に密かに埋めたんだよ

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:41:35 No.408474155 del +
陰謀論者とネトウヨの夢のレスポンチバトルスレ

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:42:59 No.408474228 del +
>イギリスに明治維新されてユダヤに政治経済操られてHAARPで地震起こされてるんだろ?
てゆーかまだこの妄想語ってる奴がいることの方が驚き
十年前に見たのが最後くらいだと思ってた

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:44:22 No.408474316 del +
>明治維新とは、すべてイギリスのアジア戦略です
イギリス?
ああ思い出した
日本の一地方都市でしかない薩摩と戦争して「きょ…今日のところはこれくらいで勘弁しといてやらぁ」と冷や汗かいてた国か

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:46:19 No.408474422 del +
船数隻といい勝負をする地方都市という話にもなる

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:47:49 No.408474511 del +
>日本の一地方都市でしかない薩摩と戦争して「きょ…今日のところはこれくらいで勘弁しといてやらぁ」と冷や汗かいてた国か
なにそのチョンさんがよくやってる感じのホルホル解釈

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:49:25 No.408474585 del +
尊王攘夷を叫んでた志士と
真珠湾攻撃した海軍上層部って
イメージが被るんだよな

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)08:49:49 No.408474610 del +
朝から文字が多くて疲れるスレだな

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)09:01:52 No.408475396 del +
>なにそのチョンさんがよくやってる感じのホルホル解釈
強引に持っていったな

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)09:08:19 No.408475817 del +
何かあるとすぐチョンチョンって言い出す人って…

… 無念 Name としあき 16/05/19(木)09:17:20 No.408476439 del +
まことに小さな国が
開花期を迎えようとしている


152. 2016年5月21日 17:20:25 : thNydkuR5Y : DqJ8F0sO2xQ[9]

日本の未来を語る 「にほんのみらいブログ」

日本の未来がどうあるべきかを、短期的な政策提言ではなく、歴史背景や様々な視点から、長期的に考えていく、長谷川幸世のオフィシャルブログです。

明治維新の真相とは その 15  イギリスのアジア戦略
http://blog.nihon-no-mirai.org/2015/06/15.html#!/2015/06/15.html(全文)


イギリスは、インドや中国南部などを中心に、植民地支配に成功した。

しかし、インドでは大規模な反乱が起き、人命、カネ共に大きな損失が出た。

そこで、カネの問題であれば、中国(清)へアヘンを売り、銀を受け取り、日本で、銀を金へ交換し多額の利益をあげていた。

次なる問題は、人命である。

これ以上、人命を費やしても、日本を植民地化する必要はない。

イギリスは、ヨーロッパ大陸に対しての小さな島国。

日本もアジア大陸にとって小さな島国。

都合の良いように操れれば、ムダな戦争も起こさなくても良い。

何しろ、イギリスは薩摩に負けたばかりなのだから。

この流れに何の不自然もない。

では、どうやって操るべきか。

サムライは、アヘンは吸わないが、武器は欲しがる。

ならば、あの 「BAKUFU」 という得体のしれない中央政権だか、何だかわからないものをなくしてしまい、自分たちに都合のよい政権にしてしまえばいい。

明治維新は、イギリスの巧妙な戦略によってもたらされることとなる。

----

追記

このように自分たちの都合の良い政府にしてしまうことは、現在でも中東やアフリカ北部をみてもわかるように、武器などを支援し、または直接的に攻撃を仕掛けることにより成し遂げようとしていることを通じ、今日まで続いている。

________________________


隠された真実

「維新」と云う幻想
https://sites.google.com/site/uranenpyou/ishin-gensou


山伏 太賢さまのブログより転載

「明治維新」とは一体どこからが維新なのか、そして「維新」の本当の意味を御存知だろうか?

またこの時使われた様々なスローガンの本当の意味を改めて検討したいと思う。

○1853年 黒船来航。

断って於くが先ず明治維新の勝者は長州藩であり、明治新政府はその長州藩が作ったと云うこと。

この時点で多くの史実は明治新政府(長州藩)に都合の良いように作り変えられており、江戸幕府や他の諸藩は悪役であるように伝えられているということである。

「 腐敗の為に不満の溜まった諸藩によって江戸幕府は既に崩壊寸前だった」

「 無為無策で統治能力を失った徳川幕府に代わって薩長等の若い志士が立ち上がり、明治維新を成し遂げ、輝かしい近代国家を建設した」

●これらのことは江戸幕府を悪役にする為の 真っ赤なウソである。

従って黒船来航以来様々な事件は起きるが、まだまだ日本は安泰であった。

(略)

1862年の夏、上海から国家転覆を企む男がひとり、日本に帰って来たことから歴史の歯車が狂い出す。

即ち長州藩を過激な倒幕運動に導き、★国際金融資本の手先として動いた男、 高杉晋作である。

ここからが倒幕テロリズム開始の年となる。

(以下略)

___________________________


みそ汁の具

売国テロリストを美化するかぎりは未来無し

2011-09-30 08:36:26
http://ameblo.jp/adgjmptw-214c/entry-11026627024.html(一部引用)


今、反日・売国奴らは日本でやりたい放題です。何故やりたい放題なのか?理由は簡単。幕末神話が美化されているからです。爆弾魔・高杉晋作ら倒幕側のテロリストを美化し続けるかぎりはこの傾向は続きます。

●日本に必要なのは保守・左翼ではありません。武力を持って日本を守る為に極悪テロリストと闘った新撰組らに対する政治的な立場からの評価が必要なのです。


___________________________



153. 2016年5月22日 01:51:15 : thNydkuR5Y : DqJ8F0sO2xQ[10]
>>151

>日本企業の特許申請は特許庁が蹴り数ヵ月後同じ案件がアメリカ企業によってアメリカで特許をとるとか

   ↓

暇つぶしニュース

【悲報】ハーバード大学「STAP細胞あったわ、特許出したわw」 お前ら小保方さんに土下座しろよ!

2016年05月21日
http://blog.livedoor.jp/rbkyn844/archives/8467448.html(一部抜粋引用)

(前略)

9: カーフブランディング(愛知県)@\(^o^)/ 2016/05/21(土) 07:40:56.96 ID:HHS5bWpJ0.net

武田先生が小保方は悪く無いって言ってた、俺は武田先生を信じてたよ


10: ジャンピングカラテキック(家)@\(^o^)/ 2016/05/21(土) 07:41:05.39 ID:uvvBTccc0.net

200回成功したのに、一回も再現できなかったことについて説明を


29: 足4の字固め(庭)@\(^o^)/ 2016/05/21(土) 07:46:11.69 ID:Xywae4qi0.net

>>10
何者かに妨害されていたとするのが妥当。

99: バーニングハンマー(埼玉県)@\(^o^)/ 2016/05/21(土) 08:13:43.71 ID:5lZdZqCY0.net

>>10
小保方チームは分業体制を組んでいて、STAP細胞作成を担当したのは若山氏だからだ
●若山氏は、小保方が聞いても作成方法を教えなかった
小保方が何度も再現したと言ってるのはSTAP現象のこと
真っ先に逃げ出してしらばっくれた若山氏は相当な悪人だよ

(以下略)


___________________________


理研の主張が揺らぎ始めた。−−今までの小保方バッシングは何だったのか?   西岡昌紀
http://www.asyura2.com/13/nature5/msg/562.html
投稿者 西岡昌紀 日時 2014 年 7 月 24 日 12:40:38: of0poCGGoydL. Tweet(一部引用)


>「不正」をやって居るのは、若山照彦教授と彼の背後の人間たちではないのでしょうか?

2014年7月24日(木)

西岡昌紀(内科医)

___________________________


憂国の魔窟/まつしたまさよの護国道まっしぐら

【ノーベル賞】湯川秀樹は、日本の原爆の機密をアメリカに売り渡した。。。

2011-10-07 21:07:39
http://ameblo.jp/moody-night/entry-11041043561.html


154. 2016年5月22日 02:15:57 : thNydkuR5Y : DqJ8F0sO2xQ[11]

こいつはそういうやつ。孫正義はトロン潰しでもアメリカを使った。
http://www.asyura2.com/0411/it07/msg/128.html
投稿者 てんさい(い) 日時 2004 年 12 月 12 日 00:01:20:KqrEdYmDwf7cM Tweet


>孫正義はなぜトロン潰しを画策したか
http://homepage3.nifty.com/kmahoroba/Mr.K/tyoukanji/kasou/touron6.htm★削除

_____________________________


後藤輝樹様のオフィシャルサイト

日本を、世界一強く、世界一優しく、世界一面白い(美しい)、国にする。リンクフリー

・アメリカに潰された純国産パソコンOSトロンを復活させる
http://gototeruki.web.fc2.com/kagakugijutu/kokusanos.html(一部引用)


>1989年に学校教育でのパソコン使用に
国産OSであるトロンを採用しようとしていたが、
アメリカが異議を唱えたためにトロン採用が見送られてしまった。

________________________________________________________________



155. 2016年5月22日 02:32:20 : thNydkuR5Y : DqJ8F0sO2xQ[12]

川村けんとの「いい加減にします!」

2005年03月27日

ソフトバンク問題 孫正義のトロン潰し 後編
(2)
http://plaza.rakuten.co.jp/kawamurakent/diary/200503270000/(一部抜粋)


昨日の続き。

仮想討論「BTRONの過去と未来」より(http://homepage3.nifty.com/kmahoroba/Mr.K/tyoukanji/tyoukanji.html#kasou)★削除

新田創一 、ゲームメーカー勤務
中野専太郎、電子関連機器の技術者
古木護  、パソコン雑誌の編集者

孫正義氏は何故トロン潰しを画策したかより後半部(http://homepage3.nifty.com/kmahoroba/Mr.K/tyoukanji/kasou/touron6.htm)★削除


中野

●別の本ではね・・・、竹村健一氏がインタビューした「孫正義大いに語る」って本ですが、アメリカ人がいろんな発明をして、日本人がさっぱりなのを・・・孫氏が何のせいだと言ってると思いますか。

新田

● 日本人が発明でさっぱりだとは思いませんけどね、

中野

● 遺伝子のせいだって言ってるんですよ。アメリカ人は独創性を発揮できる優れた遺伝子がある。日本人は遺伝子レベルで独創性に欠けてるんだと。

新田

● それはヤバイですね。下手をすれば人種差別だ。ところで、孫氏がトロンを排斥した理由ですけどね。


(以下略)


156. 2017年2月01日 22:09:12 : iCBmBkVYEs : MSCqStVyV6I[13]
>>152
削除↓本当だったんだ。

>明治維新の真相とは その 15  イギリスのアジア戦略
http://blog.nihon-no-mirai.org/2015/06/15.html#!/2015/06/15.html(全文)

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コマツ住宅の気ままにブログ・・・

坂本龍馬は偉人ではない!美化しすぎ
2013.09.19 Thursday
22:53
http://kimama.komatsu-j.info/?eid=284(序文引用)

『勝てば官軍、負ければ賊軍』

【意味】
たとえ道理にそむいていても、戦いに勝った者が正義となり、
負けた者は不正となる。
物事は勝敗によって正邪善悪が決まるということです。

(以下略)

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Yahoo!知恵袋

【フルベッキ写真の真実】「フルベッキ写真」伝説覆す原板 幕末の志士集合写真→実は佐賀藩校の生徒


ライター:ishikawanoyoshiieさん(最終更新日時:2016/4/20)投稿日:2015/5/6
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[抜書き] 『偽(いつわ)りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』
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『偽(いつわ)りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』
星亮一・だいわ文庫
二〇〇八年三月一日第三刷発行

目次

はじめに


第一章 悲惨な実態
略奪部隊   城下の戦い   会津の誤算   女たちの籠城(ろうじょう)   涙橋(なみだばし)の決戦   郊外へ避難   二〇代の指揮官   強賊の振る舞い
  
第二章 兵士たちの思い
一年かけての行軍   無念の切腹   会津女性の夜襲   非道な板垣退助(いたがきたいすけ)   四面楚歌(しめんそか)の鶴ケ城   郡上(ぐじょう)藩からの援軍   禄盗人(ろくぬすっと)   地獄の責め
  
第三章 会津藩の降伏
白旗   数字の謎   降伏後のゲリラ戦   大垣藩(おおがき)の感慨   分捕り疫病(えきびょう)   ヤーヤー一揆(いっき)   会津藩政の腐敗   財政難の背景

第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)
王城の護衛者   異人嫌いの水戸藩   国元は大反対   天皇を軟禁   新選組(しんせんぐみ)登場   攘夷実行   八月一八日の政変   池田屋事件   禁門の変   残党狩り   長州征伐

第五章 立ちはだかる男たち
西郷隆盛(さいごうたかもり)   名君との出会い   ペリー来航   突然の暗雲   上野の森   坂本龍馬   勝に弟子入り   「幕府は倒せる」   桂小五郎(かつらこごろう)   薩長同盟設立   会津大混乱   高杉新作の最期

第六章 大政奉還(たいせいほうかん)
小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)対勝海舟(かつかいしゅう)   土佐(とさ)藩の口舌(こうぜつ)   フランス皇帝にあやかって   幕府を見限ったイギリス   慶喜、政権を返上   朝敵に転落した会津   捏造(ねつぞう)された倒幕の密勅(みつちょく)   悔やまれる孝明帝(こうめいてい)の死   勝てたはずの戦い   岩倉具視の一喝   無為無策(むいむさく)   江戸無血開城の舞台裏

第七章 挙藩流罪(るざい)
奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)   会津降人(こうじん)   身代わりの切腹   謹慎所での日々   木戸孝允による会津処分   陸奥の地勢   三人の幹部   移住者への布告 
 
第八章 地獄の日々
半病人   絶望的な暮らしぶり   廃藩置県(はいはんちけん)   松平容保(かたもり)、下北に入る   別れの布告   悲報相次ぐ   明治政府の重大犯罪   雪の下敷き   東京に集う会津藩士たち

第九章 二つの道
会津(あいづ)家老の没落   維新転覆計画   鹿児島潜入   谷干城(たにたてき)の懐柔   陸軍学校の教官はフランス人   西南戦争   アメリカに留学した弟妹   長州に不穏の空気   思案橋(しあんばし)事件の真相

第十章 屈折の明治
消えた首席家老   北海道での消息   時代に翻弄(ほんろう)されて   国際派の陸軍軍人   薩長閥の打倒   胸に一点の曇りもなく   会津史の編纂   最後の会津藩主、涙の死   会津武士の典型   原爆と同じ

あとがき
参考文献

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 はじめに
 NHKのテレビ番組「その時歴史が動いた」(二〇〇七年一〇月十七日放送)に、初めて会津(あいづ)藩主松平容保(まつだいらかたもり)が登場した。

 義に死すとも不義に生きず
  会津戦争 松平容保 悲運の決断

 である。この番組はその後三回、全国に放送された。
 「会津戦争、そのとき歴史はどう動きましたか」
 という松平定知(さだとも)アナウンサーの質問に、この番組に出演した私は「会津(福島県)はみずからの正義を訴えるために、全員が死をかけて戦いに臨んだ。そして一四〇年後の審判をあおぐ。そのような気持ちだった」と解説した。
(《偽りの明治維新 はじめに》P.3)

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 あのとき、日本人の多くは薩摩(さつま)(鹿児島県)や長州(ちょうしゅう)(山口県)の肩をもった。日本人は長いものにはまかれろという風潮が蔓延(まんえん)し、会津は孤立した。いまは見捨てられても、いつかは会津の気持ちを日本人が理解してくれる、そういう思いで、会津藩兵は戦場に向かい、白虎隊(びゃっこたい)の少年たちも自刃して果てた。
(《偽りの明治維新 はじめに》P.3〜4)

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 会津の人々は、長いあいだ朝敵の汚名に耐え、一世紀以上にわたり、その怨念(おんねん)を胸に秘めてきた。若松を追われ、青森の下北(しもきた)半島や北海道に移住させられた人々の末裔(まつえい)には、とくにその思いが強かった。
(《偽りの明治維新 はじめに》P.4)

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 平成一九年(二〇〇七)会津と長州について新しい動きがいくつか出た。山口県出身の安倍晋三(あべしんぞう)が総理在任中に会津若松市を訪れ、会津戊辰(ぼしん)戦争に関して「長州の先輩が会津の人々にご迷惑をかけた」と謝罪したことがあった(四月十四日)。
 このとき、会津若松の反応は様々だった。会津若松市長も会津若松商工会議所の幹部も、
 「遊説でちょっと喋っただけですからね、安倍さんは軽い、軽すぎますよ」
 と、この発言を肯定的に受け止めることはなかった。戦死者が眠る飯盛山(いいもりやま)や天寧寺(てんねいじ)にお参りし、焼香すれば別だったが、遊説のつけ足しでは許せないということだった。青森県に移住させられた会津人の末裔は完全否定だった。
(《偽りの明治維新 はじめに》P.4)

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 これに対し若者や高校生は、「現代の山口県人に怒りをぶつけても仕方がない」とややさめた感じだったが、いずれにしろ会津と長州のあいだに横たわる溝(みぞ)をうめるものではなかった。
(《偽りの明治維新 はじめに》P.4〜5)

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 略奪部隊

 会津人のこだわりはいくつかある。一つは会津戊辰戦争における官軍という名の薩長(さっちょう)軍の残虐行為である。
 錦旗(きんき)、天皇の旗をかかげて会津に攻め込んだ官軍の実態は、帝の軍隊にはほど遠いものだった。分捕り部隊が存在し、薩摩、長州が競って土蔵を封印し、略奪の限りをつくした。女性も分捕りの対象になった。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.20)

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 どこに財宝がかくしてあるか、探し出す技術はたいへんなものだった。たとえば庭に水をまくと、水が染み込んだところに刀や壺がかくされていた。
 なるほど、これは理にかなっていた。敵が攻めてきたというので、鶴ヶ城(つるがじょう)(会津若松(わかまつ)城)の城下に暮らす人々は大いにあわてて、刀剣や陶磁器、あるいは金銀財宝を庭に穴を掘ってうめた。地面は固まっていないので、水が染み込むのは自明の理だった。
 それを目当てに江戸から古物商が乗り込み、泥棒市場が開かれ、買いとって江戸に運んだ。若松の人々は泣きの涙だった。自分の物を、高い金を出して買い戻さなければならなかった。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.20)

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 女たちの籠城(ろうじょう)

 皆があっと驚いたのは砲術師範の娘、山本八重子(やまもとやえこ)の出(い)で立(た)ちだった。着物も袴(はかま)もすべて男装し、麻の草履をはき、両刀をたばさみ、元込め七連発銃を肩にかついで城に入ってきた。弟の三郎(さぶろう)が鳥羽伏見の戦いで戦死しており、弟の仇(かたき)をとらねばならない。命の限り戦う覚悟だった。八重子はすぐに城壁に駆けのぼり、七連発銃で敵兵を狙(ねら)い撃った。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.28〜29)

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 城内には白無垢(しろむく)に生々しく血がついているのを着ている婦人もいた。これは家族に卑怯(ひきょう)者がいて、城中に入って戦うのが嫌だというのを、手にかけてきたのであろうと八重子は思った。八重子はのちに同志社大学の創設者新島襄(にいじまじょう)の夫人になっている。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.29)

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 なかには足手まといになると幼子を殺(あや)めて入城した人がいた。顔はひきつり心労でくたくたになっていた。その他、小さい子どもを背負った者、老人の手をとって入城した者、さまざまな人がいた。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.29)

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 強賊の振る舞い
 類右衛門は佐川官兵衛の配下になり、郊外で戦っていた。九月一八日、類右衛門は、女性を裸にして惨殺した敵の卑劣な行為を目撃した。場所は会津高田(たかだ)町(福島県会津美里(みさと)町)の伊佐須美社内で、若い女性を裸にし、斬(き)り殺してあった。
 会津人の怨念(おんねん)の一つは婦女に対する暴行である。類右衛門が目撃した事例は氷山の一角で、この行為はかなり広範におこなわれ、婦女子は耐えがたい辱(はずかし)めを受けていた。捕らわれた女性が数珠つなぎになっていたという目撃談もある。
 「その振る舞いは強賊というほかなし」
 類右衛門はこう記述した。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.37)

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 類右衛門は会津の奥、大内宿(おおうちじゅく)や田島(たじま)近郊に本拠地を構え、戦いを続行した。任務は敵軍の宿営を襲って武器弾薬を奪い、食糧を調達して城に送ることだった。ここには越後口や日光口から入ってきた薩長軍がいて、彼らとゲリラ戦を演じた。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.37)

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 現在、大内宿は茅葺(かやぶ)き屋根が保存され、観光地になっているが、夜になると寒威(かんい)がはなはだしく、民家に薪(まき)をこい求め、暖をとった。周辺の路傍には屍が散乱し、腐乱していた。それを見るたびに身が震えた。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.37)

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 このとき、じつはすでに会津藩は降伏していたのだが、佐川官兵衛は降伏を拒否し、戦いを続けていたのである。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.38)

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 九月二四日、近くの大芦(おおあし)村(福島県昭和(しょうわ)村)に討ち入った。敵が朝餉(あさげ)(朝食)のところを不意に襲ったので、敵は箸(はし)を投げ、狼狽(ろうばい)して逃走した。味方は得たりと、刀を抜いて入った。蔵のかたわらから敵が一人現れでた。 類右衛門を見るや刀を抜いて、真っ向に振り上げ、進んできた。これはよき相手と類右衛門は槍をひねって進み、突き入れたが、敵はこれをはらった。
 「逃してなるものか」
 と類右衛門は突進し、素早く太刀の下にくぐり、岩をもとおさんと臍(へそ)の下に突き当てた。敵兵がよろめくところを、すかさず胸板を突いて倒した。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.38)

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 この日、分捕りの品物は弾薬、千両箱、長持、両掛(りょうがけ)、天幕、駕籠(かご)、食糧などで、弾薬、金箱は村民に運搬させた。そして分捕りの酒を飲み、しばらくときをすごすと、敵ははやくも野尻(のじり)村(福島県昭和村)に屯集した。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.38)

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 分捕りの弾薬を搬送するには、山路を越えなければならない。大芦の村民たちは皆、暇をこうた。それを論し、ようやく山を越え本道に出ると、麻布村の村民が佐川隊の戦闘の勝利を聞き、喜んで駆けてきたので、運送の人夫を麻布村の村民に代わらせ、大芦の人夫を帰らせた。人夫は大いに喜び帰っていった。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.38)

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 路は険阻、かつ戦いに疲憊(ひはい)し、兵は皆、歩行に苦しんだ。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.39)

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 村民が松明(たいまつ)をもち、兵糧をかついできたので、盲目の杖(つえ)を得た心地で明かりを得、飢えをしのぎ、五更(ごこう)(午前四時ごろ)、麻布の村宿に凱陣(がいじん)し、分捕りの諸品をまとめて眠った。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.39)

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 農山村での戦闘はゲリラ戦だった。地の利がある会津軍は敵に一歩もひけをとらず、互角の戦いを見せた。
(《偽りの明治維新 第一章 悲惨な実態》P.39)

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 会津女性の夜襲

 それから三四、五歳ぐらいの侍の妻らしいのが、一二、三ぐらいの男の子どもを連れて太郎吉らの進んでいるところへ出てきて、どこへ行ったらあなた方の邪魔にならないだろうという。太郎吉はここにじっとしていれば撃ちはしないといって、そこにいさせた。
 ところがそのうち、それの姑が来て敵に助けてくれとはなにごとかというから、「このくそばばあ殺してやる」といって、殺して溝(みぞ)のなかへほうり込んだ。そこは歩哨(ほしょう)のとおり道だったので、「このばばあはえらい奴じゃ、えらい奴じゃ」といっておるようなことも何遍かあった。
 会津の女はたいしたものだった。太郎吉が夜間、焼け跡で番兵をしていると、草履を履き薙刀(なぎなた)をもって番兵を襲いにきたことも二、三度あった。
 また城下討ち入りの際、諏訪の森で主従とみられる七、八人の侍が自刃していた。敵ながら感心した。籠城していた者が降伏ということになって整列したところを見ると、女がたくさん残っていた。女が本気になればこんなものかも知れぬと思った。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.45〜46)

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 椿太郎吉の証言で注目されるのは、会津の女性の強さである。分捕り部隊に拉致(らち)された女性も数多くいたが、薙刀で夜襲をかけた女性がいたことは驚きだった。
 長州兵も感心するほど、会津の女性は強かった。これは特筆すべきことがらだった。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.46)

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 非道な板垣退助(いたがきたいすけ)
 これは長州兵杉山素輔の証言である。
 八月二九日の戦闘は大激戦だった。杉山が会津の戦死者の懐中物を引っ張り出すと、八月二九日戦死という書きつけがあった。なかには血判したものも入れてあった。あとで聞くと越後(えちご)口から城中に入った三六〇人ほどが、どうしても越後口の戦線を奪わなければ敵を撃退できないと、主君松平容保(まつだいらかたもり)に申し上げたが、
 「それはならぬ、よせ」
 というのが主君の意向だった。それでもやるといって血判を押した。ふたたび主君にお目にかかることもあるまいと思ったという。なにしろ来れば撃ち、出れば撃たれるというふうに、どちらも顔をみさえすればすぐに撃ち合っていたのだ。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.46〜47)

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 その後、また小銃での戦闘になったが、会津はよほどつかれたのか、あるいは死傷者が出たためか、小銃戦もだいぶ落ち着き、ついに九月一八、九日ごろであったか、矢文を会津から撃ち出した。竹の筒へ降伏状を入れて小銃で撃ち出したのだ。
 しかし、薩長軍は黙殺して戦争を続けた。だが二二日になって、会津は白旗を立てて出てきた。それで戦争は停止となった。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.47〜48)

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 杉山は、籠城の会津兵は疲労困憊、食糧も弾薬も切れ、降伏したと証言した。これらの証言をみると、一般の兵士は会津兵をそれほど憎んではいなかった。杉山も会津人の切腹には敬意を表し、弾薬がつき、降伏に追い込まれたことにも同情を示した。
 会津軍が矢文で降参の意思表示したという事実も、会津側にはない証言だった。これは会津軍の軍事局の意思か、あるいは個人的な行動かは判断がつきかねるが、相当に困窮していたことを裏づける証言といえた。
 土佐(高知県)の参謀板垣退助(いたがきたいすけ)や薩摩の伊地知正治(いちじまさはる)は、当初これを無視したことになる。城内には多くの怪我(けが)人がおり、老人、子どももいて一刻も早い救出が必要だった。これは非人道的行為であった。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.48)

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 四面楚歌(しめんそか)の鶴ケ城

 二四日朝一〇時、番兵一番隊は、午後三時に若松に着陣、会津兵は城内を固く守り、先に進むことは容易ではなく、郭内家中屋敷へ放火、各藩で持ち場を固めた。
 夜、会津兵の甚之丞(じんのじょう)なる者を生け捕り、城内の様子を聞きとった。家中屋敷で男二人、女六人を殺害し、屠腹(とふく)している者がいるという。野中正兵衛なる男で、戦場より立ち帰り、家族を論して殺害したとのことだった。じつに哀れであった。
 二五日、甚之丞の自白で、近くの村に火薬庫三棟あることがわかり、四斤半砲で撃つと、火薬庫が破裂し、大音響とともに崩壊し、木石が飛び散った。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.50)

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 禄盗人(ろくぬすっと)
 さらに郡上兵の記録は続く。八月二三日は城中に老兵しかおらず、総人数一五〇人ばかりで、まことに危なかった。会津藩の酒井某が薩長に内通し、三ノ丸まで敵兵二〇人ほどが乗り込んだが、城内の老兵は憤怒(ふんぬ)して、追い退けた。酒井のごとき不忠不義の者には、たちまち天罰がくだって殺され、獄門にかけられた。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.53〜54)

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 逃亡兵もいた。城が危なくなったのを見た二〇〇石、三〇〇石、なかには五〇〇石の上級武士までが、およそ二〇〇人、山中に逃げたということである。これらの者は禄盗人(ろくぬすっと)というべきである。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.54)

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 城はじつに堅固で、わずが二〇〇人で一〇〇〇人の敵から守った。特筆すべきは女子である。髪を切り、袴(はかま)に一刀を帯し、勇ましき有様だった。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.54)

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 地獄の責め
 薩長軍は七日町、さらには小田山から大砲を間断なく発射した。砲弾は雷が落ちるように激しく落下し、地獄の責めとはこのことだった。敵は昼夜を問わず発射したが、味方は格別、発射せず、敵弾を受けるばかりだった。弾が極端に不足し、会津の運もつきた感じだった。 しかし婦人は一向平気で、井戸に行き、洗濯し、じつに勇婦というべきであった。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.55)

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 一四日までは場外に出て、町屋の焼け跡から衣類、夜具、味噌(みそ)、塩、醤油(しょうゆ)、鍋釜(なべかま)、桶(おけ)、その他なんでももち出すことができ、寒気をしのぎ、気力を養う事ができた。しかし煙草は大困窮だった。小銃は人数分だけあり、火薬もあったが、大砲と砲弾の不足は致命的だった。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.55)

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 困ったのは排泄(はいせつ)物である。多人数の篭城のため雪隠(せっちん)(便所)がたちまちつかえ、これを掃除する者もない。道端、屯所脇とも足の踏み場も無い。糞尿(ふんにょう)のにおいがはなはだしく、その近くでは食事ができなかった。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.55)

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 九月二一日、米沢の上杉家の使者が城中に来て、官軍の兵士は三万人を超え、かつ奥羽征討総督(せいとうそうとく)の仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあきら)が塩川まで出張、容易ならざる形勢であると告げた。これより降伏の話が進んだ。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.56)

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 九月二二日、ついに降伏のときがきた。凌霜隊も降伏に同意する署名帳を提出し、異存がないことを示した。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.56)

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 凌霜隊の記録もきわめて貴重だった。 藩士の脱走はじつに不名誉なことで、二〇〇人という数字は会津藩の記録には見られない。勇武を誇る会津藩としては衝撃の数字である。これもふくめて、今後は『心苦雑記』をくわしく検証する必要がある。
(《偽りの明治維新 第二章 兵士たちの思い》P.56)

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 白旗

 慶応(けいおう)四年(一八六八)九月二一日、松平容保は全軍に開城を伝え、翌二二日、鶴ヶ城(つるがじょう)の北追手門に「降参」と大書した白旗を立て、1ヵ月におよぶ城下の戦いは終わった。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.57)

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 開城になったのは、九月二三日である。山本八重子(やまもとやえこ)はその夜、三ノ丸を出るときに、城中の城壁に歌を書いた。

  あすの夜はいづくの誰かながむらむ
     なれしみそらにのこす月かげ

 この歌は次をふくめて三通りあり、どれが八重子の歌かよくわからない。

  あすよりはいづくの誰か詠(なが)むらん
     馴れにし大城にのこす月影

  明日よりはいずくの人のなかむらん
     なれし大城にのこる月影

 和歌は人づてになると段々、変わってゆくものである。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.58)

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 降伏後のゲリラ戦
 男子は塩川(しおかわ)と猪苗代(いなわしろ)に謹慎となるが、会津藩兵全員が即時、降伏したわけではなかった。佐川官兵衛(さがわかんべえ)の部隊は降伏を拒否した。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.61)

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 城下の戦いでの佐川は、歴戦の勇にしては期待はずれだった。佐川の情勢判断は、ひどく間違っていた。薩長を会津から追い出してやると豪語し、敵を甘く見ていた。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.61)

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 この判断が鶴ヶ城下に大混乱をもたらした。的確に判断し、避難命令を出しておけば、婦女子、老人の犠牲者は少ないはずだった。籠城戦に入ってからも、佐川はがむしゃらに突撃して、犠牲者を増やした。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.61)

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 しかし城外に出てゲリラ戦に転じてからは、見違えるような戦いぶりを見せた。田島(たじま)の栗生沢(くりゅうざわ)では、村人をゲリラ部隊に仕立てあげ、敵兵を恐怖のどん底におとしいれた。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.61〜62)

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 栗生沢村名主『湯田九右衛門聞書』(『田島町史2巻』)には、要約すると次のようにある。
 「官軍二度田島に来て、乱暴を働いた。一〇〇人ぐらいの悪官軍が残り、村々を押借りするなどした。
地方の百姓の手をもっては、いかんともしがたく、名主が秘密会議をなし、針生(はりゅう)より田島組一戸一人ずつ出して追いはらうことを決定した。
 九月九日五ツ、田島で会う約束を早馬にて各部落へ知らせた。谷地で鉄砲を撃ち、教林寺の鐘をついたのを合図に攻撃すると、役所にいた官賊どもは皆、逃亡した」
 官軍の兵士は会津の大部隊が来たと勘違いし、皆バラバラになって逃げた。田島に残った兵士はつかまって殺され、栗生沢村に逃げ込んだ兵士は峠の奥に追われ、殺された。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.62)

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 栗生沢村の村民は老いも若きも動員され、あたかも大軍がいるかのように、大声を上げ、相手を驚かせ、猟師は鉄砲で威嚇(いかく)した。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.62)

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 奪った荷物は栗生沢村の神社の境内に、うずたかく積み上げられた。毛布、砂糖、金貨、なんでもあった。本来、この戦い方が、会津の山間では有効な作戦だった。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.62)

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 佐川にひきいられた砲兵隊、朱雀(すざく)三番士中隊、朱雀三番寄合組隊は田島方面で奮戦していた。九月二四日には、大芦(おおあし)村の敵本営を夜襲し、二〇余人を斬(き)り、弾薬、食糧、小銃を奪い、奮戦していた。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.62〜63)

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 九月二五日、佐川は降伏の命に接したが「我らは降伏せず」となおも戦いを続けた。「薩長は官軍にあらず官賊なり」というのが拒否の理由だった。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.63)

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 佐川は容保の使者にも会わなかった。しかし主君が白旗をかかげて降参した以上、これ以上の戦闘は困難だった。再三の説得で佐川も涙をのんで降伏した。会津藩の抵抗はこれで終わった。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.63)

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 大垣藩(おおがき)の感慨
 この戦争の悲惨さについて、攻め込んだ官軍の兵士にも涙ぐむ人が多かった。京都で会津藩と交遊関係にあった大垣(おおがき)藩(岐阜県)は、とくにその感慨を強くした。大垣藩軍事総裁戸田三弥は、次のように語った。


 一、官軍が鶴ヶ城下に攻め入って以来、会津の臣民は老幼を問わず、命をかけて君主につくした。勝敗はときの運である。今日の場合、その進退を官軍に任せ、多くの兵士を助け、人民の苦しみを救った会津藩の処置は感嘆すべきものがある。

 一、君公父子および重臣は血の涙をのんで城外の滝沢(たきざわ)村妙国寺(みょうこくじ)に謹慎したが、戦国の習いとはいいながら涙を流さない者はいなかった。
 ことに大垣藩は京都にあって互いに忠勤に励み、春には提携して薩摩(さつま)(鹿児島県)、長州(ちょうしゅう)(山口県)と銃火を交え、秋には一転して会津藩と槍剣(そうけん)を戦わすことになった。時勢とはいいながら、会津藩の真情、まことに耐えがたく、大垣藩の藩士たちは戦争の悲哀はいまも昔も変わらないと涙にむせんだ。(大垣藩奥羽征討史資料)

(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.63〜64)

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 分捕り疫病(えきびょう)
 土佐(高知県)の参謀、板垣退助(いたがきたいすけ)はのちにこう語った。
 「会津は天下の勇藩である。もし上下が心を一つにして戦えば、わが官軍にたやすく降伏することはなかったろう。ところが一般の人民は官軍に敵対するものがいないだけではなく、協力する者さえ出てくる有様であった」(『自由党史』)
 これが一人歩きし、会津藩がいかにも統率力が欠けていたような印象を与えた。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.64)

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 しかもこれも細部を検証すれば、敵に占領されてしまった村の農民が、占領軍に協力するのは当然であり、それが農民にとって自衛の手段だった。だからどこの村の農民が誰にどのように協力したのか、よく調べないと本当のところはわからない。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.64)

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 これを物語る資料がある。人間は状況に応じてどちらにも変るのだ。板垣退助の証言は、綺麗(きれい)ごとである。猪苗代対岸の集落に貴重な記録が残っていた。『増戸治助翁聞書』である。
 これによると、この辺は会津軍の基地で、農兵隊もあった。地名によって「浜路隊」「横沢隊」「舘隊」「船津隊」「中地隊」といった。運搬(うんぱん)の人夫だった。会津の部隊が城に戻ると、そこに官軍という名の薩長兵が入ってきた。今度は一転して官軍側である。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.65)

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 農民にも会津の領民としての意地がある者もいた。同じ猪苗代湖畔の金曲(かなまがり)地区の話である。集落の会合に敵兵が姿を現し、農民は酒を振る舞った。したたかに酒を飲んだこの兵士は、集落の若者がかつぐ駕籠(かご)で猪苗代の町に戻っていった。駕籠をかついだのは数人の若者だった。
 牛沼川橋まで来たとき、若者たちはこの男を川に突き落とした。男は「ぎゃッ」と叫んで、川に落ちた。若者たちは後ろを見ずに一目散に逃げ帰った。ところが夜半、この男がはい出して助けを求めた。これを聞いた若者たちは、馬小屋の出口にある厩栓棒(ませんぼう)(厩(うまや)の入り口をふさぐ棒)で敵兵を殴りつけ、引き回したうえ、長瀬川の砂原にうめてしまった。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.66)

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 会津藩の武士のなかに脱走者がいたことは、『心苦雑記』で見たが、それを知った村の若者が「なぜ逃げた」と問い詰めて撲殺したという記録もある。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.66)

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 ヤーヤー一揆(いっき)
 落城後の混乱を伝える資料に、薩摩の軍医ウィリアム・ウィリスの手記がある。会津藩降伏直後に若松を訪れたウィリスは、若松近郊で発生したヤーヤー一揆(いっき)を目撃し、会津の農民は圧制に苦しんでいたと次のように記述した。
 「夕方ごろ、あちこちから大勢の群衆のたけりたった叫喚(きょうかん)が伝わってきた。さまざまな方角に大きな火の手が見えた。一〇時までに、暴徒らは私が泊まっているところから約半マイル(八〇〇メートル)の村に接近し、一軒の財産家の屋根に放火しながら、絶えず蛮声をはりあげ、非常な興奮状態におちいっている様子だった。
 こまやミカド(天皇)の領民となった百姓らは、彼らの土地について新たに正当な課税を要求し、引き続き土地税にかかわるすべての文書を、あらゆる村から抹殺しようとしていた。この動向は会津の国、全域にわたって広まっている。若松からもっとも遠隔な地方でも、農民が真っ昼間に蜂起(ほうき)して、村長の家から物を略奪したのだが、いかなる場合でも土地の記録文を焼き捨てた。
 戦争で破壊される前の若松とその近郊には、三万の戸数があり、そのうち二万戸に武士が住んでいて、あらゆるものが、この特権階級の生活を維持するために充当されたり、税金をかけられたりしたとのことだ。残念ながら会津藩政の過酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた」
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.66〜67)

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 じつに手厳しい表現だった。またウィリスは、容保親子の出発の様子も目撃していた。
 「会津藩の先の主君の出発を見送るのに、護衛人を除くと、一〇人余りの人も集まらなかった。あらゆる方面で冷たい無関心が示された。傍の野良で働いている農民さえ、かつて名声の高かった会津公の出発を目の当たりにして、面を上げはしなかった。
 私は、武士階級を除けば、藩主に対しても、また同行の家老に対しても、あわれんだり同情したりする表情を見出すことはできなかった。彼らは残酷で無用な戦争を引き起こした。彼らが敗北の際切腹しなかった限り、彼らは尊敬に値するすべての資格を失ってしまった、というのが一般の見方であった」(『英国公使館員の維新戦争見聞記』)
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.67〜67)

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 会津藩政の腐敗
 ウィリスの証言も注目すべきである。藩公の出立を冷ややかなまなざしで見つめる農民。なぜこのようなことになったのか。
 原因は複雑で、一概にはいえないが、ウィリスは会津藩政の過酷さと腐敗ぶりにあったと指摘した。税金が極端に高く、米はほとんど年貢として納めなければならず、その結果、農民はみすぼらしく、小柄で、貧弱だったと書いた。またいくたびかの戦争に敗れた会津兵は、手におえない無頼漢の集団になり、略奪、放火を繰り返したという記述もあった。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.68)

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 この証言を資料にして会津戊辰戦争を書いた歴史家の石井孝(いしいたかし)は『戊辰戦争論』(吉川弘文館)で、会津藩の農民対策は旧態依然(きゅうたいいぜん)たるものがあり、相次ぐ税金の値上げで怨嗟(えんさ)の対象になっていたと指摘した。辛口の会津戊辰戦争論である。すべてを肯定するわけではないが、そうした部分があったことも否定できない。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.68〜69)

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 たとえば猪苗代地区は気候が不順で、凶作の年も多く、そうした自然現象に関して税制の面で配慮に欠ける部分があった。だが、会津藩が窮地におちいった背景には、ほかにいくつかの理由があった。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.69)

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 財政難の背景
 容保が藩主となった嘉永(かえい)五年(一八五二)から数度の大火と凶作が相次ぎ、領民は苦渋の生活を強いられた。とくに嘉永六年(一八五三)には大旱魃(かんばつ)に見舞われた。
 安政(あんせい)元年(一八五四)の江戸の大地震では、江戸屋敷が倒壊し、藩財政の悪化に拍車をかけた。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.69)

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 元治(げんじ)元年(一八六四)の時点で、会津藩の年間総収入は約二一万六〇〇〇両だった。これに対して京都で一三万八〇〇〇両、会津、江戸あわせて一四万五〇〇〇両が必要だった。不足は六万七〇〇〇両にのぼり、その資金の調達は江戸、大阪の商人からの借金で賄い、見るに見兼ねた新選組(しんせんぐみ)の近藤勇(こんどういさみ)が資金を調達したことさえあった。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.69)

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 京都での物入りが多く、その結果、藩財政は破綻(はたん)し、それが農民の負担に跳ね返り、農民から怨嗟の目で見られる原因となっていた。ウィリスの報告では藩士だけ特権階級の暮らしをしていたとあるが、これは誤りで、減給に次ぐ減給で、会津の留守宅からは「もはや生活が成り立たない」と帰国の陳情もなされていた。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.69〜70)

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 藩の重臣たちは再三、京都守護職(きょうとしゅごしょく)の辞任を決め、主君容保も、これを福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)や将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に伝えた。しかしその都度、辞意はつき返された。容保は二人の前に出ると金しばりにあい、辞任の姿勢を貫けなかった。武士も農民も幕府のために耐え忍ぶ、それが藩主松平容保の考えだった。いうなれば諸悪の根源は、京都守護職にあった。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.70)

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 不思議なことだが、会津藩には籠城戦の準備がまったくなかった。城に米の備蓄を進言した者が左遷される始末だった。
 「ここに敵が攻め込むはずがない」
 という楽観的な理由からだった。会津藩の才人小川渉(おがわわたる)は『志ぐれ草紙』のなかで、家老がそろいもそろって能無しだったと指摘した。 世襲制だったので、新陳代謝(しんちんたいしゃ)はなく、すべてが旧態依然としていた。
(《偽りの明治維新 第三章 会津藩の降伏》P.70)

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 王城の護衛者
 会津(あいづ)藩(福島県)が戦争という事態におちいった原因は、一にも二にも京都守護職(きょうとしゅごしょく)を受諾し、不慣れな京都に赴任したためだった。 あえて火中(かちゅう)の栗(くり)を拾おうとした会津藩の勇気と決断にも敬意を表さなければならないが、世の中、それが正しく評価されるとは限らない。幕末の会津藩は、じつに損な役割をになわされた。
 京都守護職とはなにか。徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は次のようにのべている。
 「浪人だの藩士だのが大勢、京都に集まって、なかでも長州(ちょうしゅう)(山口県)だとか、薩摩(さつま)(鹿児島県)だとか、所司代(しょしだい)の力でおさえることができかねる。そこで守護職というのができたんだ。兵力のあるものをあそこへ置こうということで会津になった」(『昔夢会筆記(せきむかいひっき)』平凡社)
 慶喜はあっけらかんと語っている。天皇を尊び外国を追い出せ、と主張する過激な尊皇攘夷(そんのうじょうい)運動を武力でおさえよというのが、会津藩に対する幕府の命令だった。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.71〜72)

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 異人嫌いの水戸藩
 幕府の矛盾は水戸藩をみれば一目瞭然(いちもくりょうぜん)であった。慶喜の生家である水戸藩は徹底的に幕府に楯突いた。山川菊栄(やまかわきくえ)著『覚書幕末の水戸藩』(岩波書店)という本がある。水戸藩士であった祖父青山延寿(あおやまえんじゅ)の遺構集である。内容がバラエティーに富んでいてじつにおもしろい。
 文政(ぶんせい)七年(一八二四)の七月、イギリスの捕鯨船が常陸大津(ひたちおおつ)浜に近づき、水夫が薪水(しんすい)を求めて上陸した。これを聞いた藤田幽谷(ふじたゆうこく)は、息子の東湖(とうこ)に、死を決して彼らを斬(き)りに行けと命じた。しかし何分、酒好きの親子である。この世の別れと飲んでいるうちに水夫たちは藩から薪水を与えられ、本船に帰ってしまった。
 「なんと無念」
 切歯扼腕(せっしやくわん)、ふたりはまた飲んだ。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.73)

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 春嶽は膝詰(ひざづ)め談判で藩主松平容保(かたもり)を説き伏せた。容保は断ることができないタイプである。 いつの間にか押し切られ、
 「お受け仕(つかまつ)る」
 と承諾した。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.75)

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 会津藩には男子がなく、娘婿として容保をむかえた。会津藩ともなれば、もっと大藩から養子をむかえることもできたが、八代藩主容敬(かたたか)ももとは高須藩からの養子であり、すんなりと決まった。
 あとで考えれば、いささか安易だった。会津藩の後ろ盾としては、力不足はまぬがれなかった。国家老の西郷頼母(さいごうたのも)は、これが不満だった。自分は藩祖保科正之(ほしなまさゆき)につながる家柄である。それがつい表に出てしまうのだった。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.75)

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 会津藩には、幕府危急(ききゅう)の折は全力をつくして救援せよという決まりがあった。家訓(かきん)十五ヵ条である。くわえて会津の侍は少年時代から藩校日新館(にっしんかん)で、主君には絶対服従の厳しい教育を受けて育った。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.75)

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 薩摩藩や長州藩は、激しい藩内抗争があったが、会津藩にはなかった。普通、どこでも派閥争いとか、意見の対立、世代間の抗争があるのだが、会津には見当たらなかった。それが健全なことかどうかは疑問だが、幕府から見れば理想的な武士集団に見えた。とくに刀槍(とうそう)の術は日本一といわれ、全国から視察する者が訪れた。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.75〜76)

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 白虎隊士(びゃっこたいし)から東京帝大総長になった山川健次郎(けんじろう)の回想によると、日新館の学習はもっぱら漢文と習字と剣術に礼儀作法だった。低学年は地理も歴史も算術もなかった。山川は論評はさけたが、理系の軽視を悔やんでいたようで、アメリカのエール大学では物理学を専攻した。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.76)

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 国元は大反対
 会津藩に京都守護職の大任がくだったのは、文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)の閏(うるう)八月である。京都と聞いただけで、国元は「とんでもない」と全員が拒否反応を示した。京都の騒乱は若松(わかまつ)にも伝わっており、
 「わざわざ会津から京都にのぼり火中の栗を拾う必要はない」
 というのが地元の声だった。
 一人ぐらい賛成した者がいなかったのか。
 「おりません」
 会津若松市にある飯盛山(いいもりやま)の白虎隊記念館館長早川廣中(はやかわひろなか)氏は、自信をもっていい切った。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.76〜77)

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 八月一八日の政変

 孝明天皇は政変以後の勅書(ちょくしょ)が「真実の朕の存意」とのべ、それ以前は「違う」と否定した。天皇が初めて自分の意思を表明したのである。
 さらに松平容保に宸翰(しんかん)を与え、長州勢の追放に賛辞を呈した。

 堂上以下、暴論を疎(つら)ね不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患掃攘(ゆうかんそうじょう)、朕の在念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也

 文久三年一〇月九日

 そこには御製の歌もそえられていた。松平容保は初めて過激派の呪縛(じゅばく)から逃れた。今日に残る肖像を見ると、孝明天皇は線の細い人であった。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.88〜89)

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 孝明天皇は自分の知らないところで、勝手に名前を使われたと、中川宮朝彦親王に自筆で「薩摩の協力で、過激な尊皇攘夷派の公家を追放したい」と手紙を出していた。
 「なにがなんでも攘夷」という慶喜の見方は誤りだった。会津藩は孝明天皇が存在する限り、王城の守護者であり、正義の集団だった。 (《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.89)

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 会津藩は二つの役目を担っていた。一つは幕府の名代である。京都駐在大使といった役職である。警察権ももっており、いわば警視総監も兼ねていた。もう一つは朝廷の命令も受けることである。これは複雑で、困難な仕事だった。頼りは孝明天皇だった。孝明天皇の信任がなければ、務めることは無理だった。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.90)

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 禁門の変

 京都の空は真っ赤になった。そけは世紀末の光景だった。誰も火災は止められなかった。炎が天をおおい、激しい北風にあおられて鴨川と堀川(ほりかわ)のあいだ、南七条にいたる膨大な地域に火災は広がった。人々は火災を逃れて町を離れ、街道はどこも逃げ落ちる人でごったがえした。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.94)

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 焼死者も数知れずで、生まれたばかりの赤子と産婦を長持に入れ、安全なところまで運び、引き返して先祖の位牌(いはい)をとってくると、母子は黒焦げになっていたという話もある。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.94〜95)

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 本来、この大火災は長州勢の無謀な反乱によって起こったものだが、幕府、会津が逆恨みにあった。
(《偽りの明治維新 第四章 京都守護職(きょうとしゅごしょく)》P.95)

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 会津大混乱

 この時期、会津藩は国元が財政破綻(はたん)し、京都守護職辞任の声があがっていた。おまけに会津薩摩同盟の立て役者、公用人(こうようにん)の秋月悌次郎(あきづきていじろう)が蝦夷(えぞ)地(北海道)に左遷される事件が起こっていた。
 「あれは身分が低いくせに、大きな顔をしている」
 といういいがかりをつけられ、こともあろうに蝦夷地に飛ばされた。会津は物ごとを身分で判断する悪弊(あくへい)があった。これで薩摩とのパイプが切れた。
(《偽りの明治維新 第五章 立ちはだかる男たち》P.125〜126)

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 会津の重臣の思考は保守的すぎて柔軟性に欠け、時代に合わなくなっていた。この時期、容保は病気がちで、指導力に欠け、混乱に一層、拍車をかけた。
 「会津にはろくな家老がいない」
 というのは、誰もが口にすることだった。世襲制なので、家老職の交替はない。家老の息子は誰でも家老になれた。 この現状に反旗をひるがえす若者はいなかった。目上の人に絶対服従という日新館(にっしんかん)教育のしばりがあまりにも強すぎた。
(《偽りの明治維新 第五章 立ちはだかる男たち》P.126)

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 秋月が左遷された蝦夷地は遠い北国の果てである。冬期間は交通断絶である。一旦緩急(いったんかんきゅう)あれども簡単に呼べるものではない。
 秋月はあまりの寒さで病気になった。京都にいるときは、主人容保にいろいろ政策を建言したが、いまは北の蝦夷地に謫居(たっきょ)しており、しかも病に臥(ふ)す身である。それでもじっと蝦夷地で耐えていた。死を覚悟したときもあった。
(《偽りの明治維新 第五章 立ちはだかる男たち》P.126)

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 生き馬の目を抜く変転きわまりない日々である。決め手は情報であった。薩長同盟が結ばれ、薩摩が会津を見限ったと知った会津藩首脳は、あわてて秋月に上洛(じょうらく)を求めた。半年かかって秋月は京都に戻り、薩摩藩邸に出向いたが、
 「なにも話すことはない」
 と門前ばらいを食わされた。
(《偽りの明治維新 第五章 立ちはだかる男たち》P.126〜127)

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 薩長同盟は当然の成り行きだった。長州が消えれば幕府、会津の力は強大になる、それは薩摩の利益に反する。西郷はそう考えた。
 その仲介の労をとったのが坂本龍馬だった。薩長同盟は双方の利害が巧妙に結びついた軍事経済同盟だった。龍馬の役割は大きかった。
(《偽りの明治維新 第五章 立ちはだかる男たち》P.127)

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 捏造(ねつぞう)された倒幕の密勅(みつちょく)
 西郷らは慶喜を朝敵とする密勅(みっちょく)を作成したのである。『大西郷全集』では、策謀の張本人は公家の岩倉具視(いわくらともみ)だとある。これは西郷かくしの色彩が濃厚(のうこう)である。どうみても西郷がかんでいることは疑う余地がない。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.149)

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 会津の資料『京都守護職始末』は、中山忠能(なかやまただやす)、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)、中御門経之(なかみかどつねゆき)の三人が、密勅を薩摩、長州にくだしたと記述した。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.149)

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 この日から慶喜と容保の思いもよらぬ転落がはじまる。それが西郷の巧妙な謀略だと気づいたときは遅かった。慶喜はすべてを失い、丸裸にされて捨てられる。人任せで無責任な慶喜がはまった落とし穴だった。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.149)

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 密勅の中身は、どのようなものだったのか。

 詔(みことのり)す。源慶喜(みなもとよしのぶ)、累世(るいせ)の威をかり、闔賊(こうぞく)の強を恃(たの)み、みだりに、忠良を賊害し、しばしば王命を拒絶し、ついには先帝の詔を矯(た)めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おと)して顧みず、罪悪の至るところ、神州まさに傾覆(けいふく)せんとす。朕、いま民の父母として、この賊にして討たずんば、なにをもって、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐(しんしゅう)に報いんや。これ、朕の憂憤(ゆうふん)のあるところ。諒闇(りょうあん)も顧みざるは、万やむべからざるなり。汝(なんじ)、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、もってすみやかに回天の偉勲(いくん)を奏して、生霊を山岳の安きに措くべし。この朕の願い、あえて惰る懈(おこた)ることなかれ。

正二位 藤原(ふじわら)忠能
正二位 藤原実愛
権中納言 藤原経之

 慶応三年一〇月一三日奏


 要約すれば、徳川慶喜は会津藩や新選組(しんせんぐみ)を使って、みだりに勤王の志士を殺害し、万民を苦しみの谷間に突き落とし、その罪は国を滅ぼすものである。朕はやむをえず賊臣慶喜を始末し、天地を動かす大事業を進めねばならぬ、という意味になる。天皇はまだ十六歳である。禁門の変では長州軍が撃ち出す砲弾で気絶した。そのとき懸命に守ってくれたのは、慶喜であり容保だったのではないか。
 もちろんこの密勅、幼帝のまったく知らないところで作成されており、知るよしもない。後年、正親町実愛が「あれは玉松操(たままつみさお)という人物が書いたもので、ここに名前のある三人と岩倉具視の四人しか知らないことだ」と暴露した。革命の裏面はこんなものだった。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.149〜151)

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 無為無策(むいむさく)

 幕府軍のなかで、善戦したのは会津藩の兵士たちだった。会津藩の大砲隊の奮戦は目ざましいものがあった。大砲を撃ちつくしたあとは槍で突進した。その勇猛果敢(ゆうもうかかん)な戦いぶりは、この戦争の圧巻だった。なかでも白井五郎太夫と佐川官兵衛の突撃隊は薩摩兵の度肝(どぎも)を抜いた。 中村半次郎(なかむらはんじろう)ひきいる薩摩の先鋒隊に突進し、四〇人中二八人を殺した。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.159〜160)

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 にもかかわらず全体では負け戦になったのは、一にも二にも幕府陸軍のふがいなさと、戦略のお粗末さだった。幕府陸軍は烏合(うごう)の衆(しゅう)で、逃げまどうだけだった。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.160)

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 最後の決め手は西郷と岩倉が用意した錦旗(きんき)である。二人は京都市内の織物問屋から生地と金糸を買い占め、菊の御紋(ごもん)を縫いつけた錦旗をつくり、ようやく三日夜にできあがり、四日の朝、戦場にかかげた。錦旗には計り知れない威力があった。会津の佐川官兵衛でさえ「ああ賊軍になった」とたじろぎ、これを聞いて慶喜は顔面蒼白となり、江戸に逃亡をはかった。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.160)

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 慶喜は他人に責任を押しつける癖があった。たまたま慶喜のもとに会津藩士神保修理(じんぼしゅり)が来て、「速やかに御東帰ありて、おもむろに善後の策をめぐらさるべし」と戦況の不利を伝えた。
 臆病風が吹きはじめた慶喜にとって、この報告はわたりに舟だった。慶喜はこれに乗った。ひそかに天保山沖に浮かぶ幕府の軍艦に逃れ、江戸を目指した。軍艦にはこともあろうに、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静らの姿もあった。 新門辰五郎の娘お芳もいた。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.160)

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 なにをかいわんやであった。御大将が戦っている部下を捨てて逃亡したのは、前代未聞(ぜんだいみもん)のことだった。慶喜の信用は失墜(しっつい)し、これで幕府は決定的なダメージを受けた。神保は不運だった。慶喜逃亡の責任をとらされて自刃に追い込まれた。考えられないことばかりだった。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.161)

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 江戸の重臣たちは戦争の勃発(ぼっぱつ)を知らずにいた。慶喜が軍艦で江戸に戻ってきたというので、勝海舟が品川の浜御殿の海軍所にむかえに出た。どうも様子がおかしい。
 「いかがなされたのでござるか」
 と聞いても誰もが黙っている。いずれも顔色は真っ青で、互いに目を合わせるだけだった。そのうち板倉勝静が戦争があって負けたといった。
 「なんということだ。あんた方、どうなさるつもりだ。だからいわねえこっちゃねえ」
 勝は板倉を見つめて怒りをぶちまけた。上様の御前もへったくれもなかった。江戸に知らせもせずに戦争をはじめたことに憤慨した。しかも負けてしまったのだ。どうしてくれるんだと勝が怒鳴った。
 この一事をみても、幕府という組織はまったく機能していないことは明らかだった。慶喜が一人ですべてをぶちこわした。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.161〜162)

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 江戸無血開城の舞台裏

 西郷は慶喜の切腹を考えていた。そうしなければこの戦争は終了せず、薩摩、長州がもくろむ新政府の樹立も困難だという考えだった。勝はこれを見越して、
 「徳川といえども天皇の民である」
 とたたみかけた。この言葉に西郷はつまった。
 「いろいろとむずかしい議論もありましょうが、私が一身にかけて(この問題を)お引き受けします」
 と西郷はいった。
 大胆不敵(だいたんふてき)な発言だった。西郷の方が大人物だった。同じ日本人ではないか、「勝先生なら信用はできる」という感覚があった。修羅場(しゅらば)において重要なことは、やはり人間関係だった。幕府などいらない、つぶせと西郷にいったのはほかならぬ勝海舟だった。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.163〜164)

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 「西郷のこの一言で、江戸一〇〇万の生霊も、徳川氏もその滅亡をまぬがれたのだ」 勝はのちに『氷川清話(ひかわせいわ)』で回想している。 結局、江戸城を引きわたし、慶喜が江戸を去ることで、会談は決着した。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.164)

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 じつはこの会談にはもうひとつ、かくされた事実があった。イギリス公使パークスが戦争に反対していたのである。 江戸が壊滅すれば、日本経済は大混乱し、貿易にも支障がでるというのがパークスの言い分だった。
 これを聞いた西郷は愕然とした。イギリスの反対を押し切れば、武器弾薬が押さえられてしまう。戦争にならなかった。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.164〜165)

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 残るは会津と庄内(しょうない)(山形県)だった。なかでも最大の抵抗勢力は会津だった。しかし慶喜も勝も会津を援護はしなかった。会津を目指して薩摩、長州ほか連合軍の侵攻がはじまった。幕府の身代わり、生(い)け贄(にえ)として会津が選ばれた。
(《偽りの明治維新 第六章 大政奉還(たいせいほうかん)》P.165)

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 木戸孝允による会津処分

 会津藩に対する処分は、長州の木戸孝允が握っていた。薩摩は穏健の傾向があったが、木戸は厳罰で臨んだ。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.175〜176)

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 木戸が考えたのは旧会津藩士とその家族一万七〇〇〇人余の七割、一万二〇〇〇人余を蝦夷(えぞ)地(北海道)、三割、五〇〇〇人余を盛岡藩の北、現在の青森県に移住させ、開墾(かいこん)をさせるというものだった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.176)

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 当時、蝦夷地の開拓は兵部省(ひょうぶしょう)の管轄(かんかつ)だった。担当は木戸の命を受けた大村益次郎(おおむらますじろう)である。大村は会津降人四〇〇〇人を即刻蝦夷地に移住させ、翌年には八〇〇〇人、計一万二〇〇〇人を移住させる計画を立てた。家屋三〇〇〇戸や厩(うまや)の建築、農具の費用もふくめて四六〇万円と米九万石の下付も上申した。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.176)

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 場所は石狩(いしかり)、発寒(はっさむ)(札幌市)、小樽(おたる)内をふくむ田城(たしろ)の国だった。蝦夷地はまだ国郡の行政区画は設定されておらず、田地の意味で田、降人による蝦夷地警備も意図したので、城の字を使った。屯田兵のはしりである。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.176)

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 とにかく会津人を遠くに追いやりたい、その一心だった。近くにおいたらいつ反乱を起こすかわからない。木戸は会津人に恐怖感を抱いていた。薩摩が担当だったら違っていただろうが、木戸はこれでもか、これでもかと会津をいじめた。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.176)

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 ところが会津から第一陣、第二陣を送り出した段階で、北海道の開拓は兵部省ではなく開拓使が当たることに変更された。
 長官に鍋島直正(なべしまなおまさ)、次官に清水谷公考(しみずだにきんなる)が任命された。鍋島は佐賀藩主、清水谷は公家の出である。二人とも実務には遠い人物で、鍋島は高齢のため一度も蝦夷地に姿を見せなかった。このため明確なビジョンも示せなかった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.176〜177)

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 それではためだと、二人に代わって登場したのが薩摩の黒田清隆(くろだきよたか)である。没落会津士族に開拓などできない、開拓は農家のニ、三男がいいと黒田は考えた。
 黒田は長州嫌いで、越後の戦争では長州の参謀山県有朋(やまがたありとも)と不和で、口も利かないほどだった。木戸の案など問題外とはねつけた。たしかに蝦夷地の開拓は黒田のほうがまともだった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.177)

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 陸奥の地勢
 結局、北海道移住は中止となったので、会津人の大半は旧盛岡藩の地に移ることになった。士族を放棄して若松の近郊で農業を営む人もいた。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.177)

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 『会津戊辰戦史』に、「一時、会津にとどまる者あり、二一〇戸、あるいは農商に帰する者あり、五〇〇戸、あるいは東京、または各地に赴きて生活を求める者あり、三〇〇余戸」という記述がある。一家族五人と計算すると、五〇〇〇人前後は会津藩から脱藩し、のちの斗南(となみ)藩士にはならず平民になる道を選んだ。これも一つの判断だった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.177)

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 残る二八〇〇戸、一万七〇〇〇人余が陸奥の斗南藩に未来をたくした。会津藩に与えられた旧盛岡藩の土地は、二戸(にのへ)郡金田一(きんだいち)以北の三戸(さんのへ)、五戸(ごのへ)、野辺地(のへじ)、田名部(たなぶ)通りで、そのあいだに七戸(しちのへ)藩、八戸(はちのへ)藩がはさまり、この二藩は与えられず南北に分断されていた。土地の豊かなところが外されていたのである。ここに罠(わな)があった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.177〜178)

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 現在の岩手県から青森県にかけて、一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)まで戸という地名があった。これは奥州藤原(ふじわら)王朝の時代につくられた特別な牧場の場所で、糠部(ぬかのぶ)と呼ばれる地域だった。中世後期の大名南部氏は、一族が一戸から九戸にわかれて定着し、それぞれの地に城郭があった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.178)

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 しかし、マサカリのようなかたちをした下北半島は、米のとれない地帯だった。下北は田名部五〇〇〇石といわれ、江戸時代の田名部通りの水田には、稗(ひえ)が栽培されていた。稲もわずかには栽培されていたが、全体の一分程度であった。
 冬は積雪が多く、秋は西の烈風に悩まされ、春は遅く、夏は太平洋から吹く冷たい霧に襲われる厳しい風土だった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.178)

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 三人の幹部
 新制斗南藩の幹部三人の顔ぶれは、次のようなものだった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.178)

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 大参事  山川浩(ひろし)(大蔵)

 最高指導者は軍事総監を務めた山川浩(大蔵)である。名前を大蔵から浩に変えての大参事就任だった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.178〜179)

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 山川は弘化(こうか)二年(一八四五)、鶴ヶ城の北出丸に面した本ニノ丁に生まれた。本一ノ丁には西郷頼母(さいごうたのも)、萱野権兵衛らの屋敷があった。父を早く亡くしたため祖父に育てられた。山川の家は藩祖保科正之(まさゆき)にしたがって信州(しんしゅう)から会津に移り、家禄(かろく)三〇〇石の中級武士であった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.179)

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 祖父兵衛(ひょうえ)は二五歳で目付になり、普請奉行、町奉行、御蔵入奉行、大目付、家老ととんとん拍子に出世し、家禄は一〇〇〇石だった。種痘(しゅとう)や西洋銃をいち早くとり入れ、開明派の人物だった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.179)

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 山川の兄弟姉妹は七人いて、姉の二葉(ふたば)は政務担当家老の梶原平馬に嫁いでいた。弟健次郎(けんじろう)はのちにアメリカに留学し、帰国して東京帝国大学に奉職、総長を務める。妹の咲子(さきこ)(捨松(すてまつ))もアメリカに留学、帰国して鹿鳴館(ろくめいかん)の華とうたわれ、薩摩の大山巌(おおやまいわお)と結婚する。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.179)

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 山川はこのとき、二五歳だった。今日の感覚でいえば、まだ青年である。この若さでなぜ大参事に選ばれたのか。それはひとえに彼の行動力と人望だった。幕府歩兵奉行を務めた大鳥圭介(おおとりけいすけ)の印象記が残っている。二人は日光の戦場で戦っていた。
 「山川氏は当時、会津藩の若年寄なる者にて、両三年前小出大和守にしたがい、オロシャ(ロシア)に至り、西洋文明の国勢を一見し来たりし人にて、一通り文字もあり、性質怜悧(れいり)なれば、君侯の鑒栽(かんさい)にて、この人を遣わし、余と全軍のことを謀らしめんがために送られたり。余一見そのともに語るべきを知りたれば、百事打ち合わせ、大いに力を得たり」
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.180)

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 移住者への布告

 移住に当たり、藩では十七万両を新政府から受けとっていたが、大半を移住費で使い果たし、農具代や病人の手当て、住居費などで借金はふくらむ一方だった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.185)

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 会津では戦争中、城中で贋金(にせがね)をつくった。斗南でもそれがおこなわれ、露見して九四人が検挙され、一三〇人余が手配された。贋金は銀台に金メッキをほどこした代物だった。斗南の会津人は恥も外聞もなかった。日々の暮らしを立てるため、人々は、紙漉(かみす)き、傘張、提灯(ちょうちん)張、魚網づくり、機織、なんでもやった。
(《偽りの明治維新 第七章 挙藩流罪(るざい)》P.185)

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 半病人

 五郎一家の住まいは間口三間の店づくりで、六畳の二階と店と炉のある一〇畳の台所兼用の板敷きと納屋があった。部屋は畳はなく、障子はぼろぼろにやぶれていた。板敷きには筵(むしろ)を敷き、障子には米俵を縄で縛りつけてすごした。夏はいいだろうが、冬は地獄だった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.187)

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 日々の食事は稗(ひえ)メシで、明治末になっても稗七分、米三分の「カテメシ」だったというから、もともとどうにもならない土地柄だった。完全に米食となったのは昭和一〇年代以降である。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.187)

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 五郎の家では山に入って蕨(わらび)の根を集め、水にさらしてすすぎ、水の底にたまる澱粉(でんぷん)をとり出し、乾燥させて粉にし、これに米糠(こめぬか)をまぜ、塩をくわえて団子として焙(あぶ)って食べた。海辺で拾った昆布は真っ白になるまで真水でさらし、細かく刻んで乾燥させ、カマスや俵に入れて保存し、粥(かゆ)に入れて食べた。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.187〜188)

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 ときには馬鈴薯(ばれいしょ)、大豆などをくわえて薄い粥をつくって食べた。これはたいへんな御馳走(ごちそう)だった。凶作があっても下北(しもきた)で餓死者が少なかったのは、海藻と蕨の根があるためだった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.188)

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 地元の人々の食事も似たようなものだったが、違うのは味噌汁(みそしる)だった。地元の人は味噌汁に凝った。イワシの焼き干しでダシをとり、干した大根葉や菜っ葉を汁の具にし、季節によっては大根、馬鈴薯を汁の具にして食べた。五郎の家では味噌汁がなかったので、いっそう空腹感を強くした。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.188)

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 田名部の寒さは格別で、陸奥(むつ)湾から吹きつける北風が部屋を突き抜け、炉端でも零下一〇度、一五度がざらだった。粥は石のように凍り、これを溶かしてすする有様だった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.188)

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 五郎の一家、父と兄嫁と五郎は布団もなく、藁(わら)にもぐって寝る始末で、五郎は熱病にかかり四〇日も動けず、一時はどうなるかわからなかった。ついには栄養失調で凍死寸前となり、髪の毛が抜けて、半病人になった。太一郎の不在が招いた極貧の暮らしだった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.188)

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 生活費はどのようにしてかせいだか、父が習い覚えた網すきでわずかな手間賃をかせぎ、兄嫁は授産所で機織をして工賃をかせいだ。わずかな金額だった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.188)

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 五郎が犬を口にした話は有名である。寒さがゆるんだころ、漁師が来て、川の氷の上で遊んでいた犬を撃ったが、氷が薄くてわたれない。犬はそのままになった。この犬は近所の鍛冶(かじ)屋の飼い犬で、五郎は父にいわれて鍛冶屋にもらいに行った。ところがもう一人、会津(あいづ)人が鍛冶屋に行ってもらい受け、五郎の家と半分ずつわけ合った。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.189)

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 その日から五郎の家の食事は毎日、塩で味つけした犬の肉になった。兄嫁は気味悪がって手をつけず、五郎は無理して口に入れたが、喉(のど)につかえて吐き気を催した。これを見て父が怒鳴った。
 「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧(ひょうろう)なければ、犬猫なりともこれを食らいついて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれり。会津(福島県)の武士ども餓死して果てたるよと、薩長(さっちょう)の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱(ちじょく)なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱(こくじょく)そそぐまでは戦場なるぞ」
 語気荒くしかりつけた。五郎の父佐多蔵の考えは、陸奥にきた会津人に共通のものだった。このような事態におちいったのは、薩長との戦争に敗れたためである。いずれこの恨(うら)み晴らしてやる。それまでは歯をくいしばって耐える。そういう負けじ魂だった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.189〜190)

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 絶望的な暮らしぶり

 笠尾の家には会津から持参した稲荷明神があった。笠尾は川に流すと叫(さけ)んだ。もはや会津も関係ないという心境だった。もったいないので類右衛門はこれをもらい受け、自分の屋敷に守護神として祭った。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.193)

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 七月二四日のことだった。妻の父、樋口安之丞が大病になり、危篤(きとく)だと連絡があった。義父の住まいは宿戸(しゅくのへ)、現在のむつ市川内(かわうち)町宿野部(しゅくのへ)である。 斗南ヶ丘からの距離は一〇里、四〇キロほどになる。
 類右衛門の記録では未明に家族揃って出立し、昼ごろ川内に着き、昼飯を食べた。そして午後五時ごろ、やっと宿戸に着いたとある。斗南ヶ丘から川内までは三〇キロ、川内から宿戸は一〇キロたらずである。時間はぴったり符合する。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.193〜194)

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 廃藩置県(はいはんちけん)
 懸命な努力にもかかわらず、会津人にはツキはなかった。斗南藩士に決定的な打撃を与えるできごとが明治四年に起こった。廃藩置県(はいはんちけん)である。
 二月に幼君容大が五戸から田名部に移り、なんとか藩士たちを勇気づけようと下北半島を巡回した。容大のかわいらしい姿に人々は感激したが、それはひとときの喜びでしかなかった。五ヶ月後の七月に斗南藩が消滅して斗南県になり、その二ヵ月後には斗南県も消滅、青森県になるという大変革だった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.195)

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 「なんのためにこれほど苦労をしてきたのか」
 永岡久茂はうめき声をあげ、山川もブルブルと身体をふるわせ、人々の口からは、
 「大久保利通(おおくぼとしみち)を殺してやる」
 という声さえもれた。
 広沢安任(ひろさわやすとう)の脳裏に、不吉な予感がよぎった。あまりにもひどい生活のため、体制への怒りが爆発、テロ行為に走る者が出るのでは、という危惧(きぐ)である。永岡久茂は、酒が入ると、薩長藩閥政府への批判を口にし、
 「いつの日か奴らをたたき斬(き)ってやる」
 と吠(ほ)えるようにうめいた。
 「めったなことを口に出すな。軽挙妄動はつつしみたまえ」
 広沢はその都度、厳しくたしなめたが、永岡は誰はばかることなく公言した。永岡の怒りは当然だった。明治政府の財政は、東北、越後が負担していたからである。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.196)

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 会津藩を筆頭に奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)にくわわった諸藩は財産を大幅に没収され、新政府の高位高官の恩賞もそこから捻出(ねんしゅつ)されていた。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.196)

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 奥羽、越後一九藩、関東の四藩、その他二藩から没収した石高は一〇八万三四〇〇石だった。会津藩は二八万すべてを没収され、新たに斗南三万石を支給されたので二五万石の没収だったが、斗南の三万石は実質七〇〇〇石という見方もあり、すべてを奪われたといってよかった。斗南藩のどん底の暮らしは、明治政府の略奪によるものだった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.196)

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 戊辰(ぼしん)戦争で戦功のあった藩に賞典禄(しょうてんろく)が下付された。 薩摩(さつま)藩と長州(ちょうしゅう)藩主には永世賞典禄一〇万石が与えられ、西郷隆盛(さいごうたかもり)には最高二〇〇〇石が与えられ、木戸孝允(きどたかよし)や大久保も一八〇〇石が下付された。栄華をきわめる新政府の財政を負担したのが東北というのは、慙愧(ざんき)に堪えなかった。それを見越して無理やり戦争に追い込んだのか。この事実をもっと掘り下げる必要がありそうだった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.197)

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 しかし勝利した諸藩もじつは財政が火の車だった。薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)も例外ではなかった。東京に出た政府高官は大名格の生活だったが、地元は違っていた。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.197)

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 各藩とも戊辰戦争で使った莫大な戦費により財政が破綻(はたん)、一般兵士の恩賞までは手がまわらず出征兵士に不満が渦(うず)巻いた。これに百姓一揆(いっき)もくわわり、藩の維持が困難になっていた。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.197)

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 そこで長州藩は思い切った処置に出た。奇兵隊(きへいたい)、遊撃隊(ゆうげきたい)などの部隊の縮小、再編である。これに隊員が猛反発し、約二〇〇〇人が脱走して、藩庁をとり巻き、一触即発の緊迫状態となった。これが萩(はぎ)の乱や西南戦争の遠因となった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.197)

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 明治政府の重大犯罪

 青森県庁の最大の特色は、旧斗南県職員をできるだけ多く採用したことである。東京事務所長の梶原平馬(かじわらへいま)が庶務課長に任命され、山川は田名部支庁長、永岡が田名部支庁大属、小出鉄之助、小川渉(おがわわたる)、野口九郎太夫、水島純、沢三郎、大庭恭平ら二〇人ほども青森県庁の職員に採用された。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.206〜207)

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 当初の機構は八十数人と小規模なものであり、そこにこれだけの会津人が県庁入りしたことは異例ともいえた。薩長土肥と弘前藩の出身者に主要ポストを占められるなかで、いまでいえば秘書課長兼総務課長といった庶務課長に梶原をすえたことは、旧斗南藩士の不満をそらす意味もあったろう。八戸藩大参事の太田広城(おおたひろき)は三戸支庁詰になった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.207)

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 このころ、野田豁通県令が大蔵省に提出した旧斗南藩に関する次のような報告書がある。
 「三三〇〇ほどは各所出稼ぎあるいは離散の由にて、当時在籍およそ一万四〇〇〇人余のうち老年ならびに疾病の者六〇二七人、幼年の者一六二二人、男子壮健の者二三七八人ほどの見込み」(『青森県史』)
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.207)

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 一万四〇〇〇人のうち、壮健の者がたった二三七八人というのだから、ひどすぎる数字だった。長州の木戸孝允の考えは、会津人を自然淘汰(しぜんとうた)させることだった。 その思惑は見事に成功した。これが当時の明治政府のやり方だった。これはもう重大な犯罪だった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.207)

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 山川や広沢は、野田豁通になお一層の救済をせまった。
 「老人や病人が六〇〇〇人もいる。なぜ我々が若松に住むことができなかったのか、新政府の会津に対する報復が、こうした事態を招いた」
 「なんとかなるだろうと、安易に考えた我々にも落ち度はある。しかし、このような状況におちいった根本原因は新政府の冷酷なやり方にある」
 山川や広沢は強く主張した。野田豁通も素直にそれを認め、解決の姿勢を示した。野田が大久保利通と折衝し、立案した最終案は次のようなものだった。


一、明治六年(一八七三)三月限り手当米は廃止する。
ニ、斗南ヶ丘、松ヶ丘の開拓は中止する。家業は農工商各自由とする。
三、ほかに移る希望の者は一人につき米ニ俵、金ニ円、資本として一戸につき金一〇円を支給する。
四、管内で自立を希望する者へは一人につき米五俵、金五円、一戸につき資本として五円を支給する。
五、開拓場は三本木一ヵ所に定める。
六、開拓場に移転を希望する者は、永住を覚悟し、農業をおこなう旨、誓書を出す。ただし一戸の中に強壮な男子一人がいなければ、許可しない。
七、男子がいなくても一戸のなかに強壮な婦人が二人以上いて、病人や障害者がいない場合は検査の上、許可する。


 なんと各自勝手たるべしというのが、会津人に対する最終処分だった。会津藩の再興を夢見て斗南藩の創設に当たった一万七〇〇〇余人の会津藩の関係者は、生きる糧(かて)を求めて全国に散らばっていった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.207〜209)

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 旧藩士たちはそれぞれが新しい生活を選択した。資本といっても支給されるのはスズメの涙である。病人を抱え、やむなく下北にとどまる者もいた。元会津藩という身分をかくし、日雇労務者をしながら細々と暮らす人もいた。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.209)

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 『むつ市史』近代編によると、旧斗南藩士の移転先は、やはり郷里の若松県が多く、八五六戸、東京府五二戸、新潟県一一戸、開拓使(北海道)九戸、福島県八戸、京都府七戸、神奈川県四戸、木更津(きさらづ)県(千葉県)三戸、栃木県二戸、八戸県(青森県)二戸、印旛(いんば)県(千葉県)二戸、静岡県一戸、宮城県一戸、白川県(熊本県)一戸、千葉県一戸、岩手県一戸、その他九戸などとなっていた。
 若松に大勢の人が戻ったことになる。ただし若松に戻ったところで、住まいも土地もなく、日雇いで暮らす日々だった。
(《偽りの明治維新 第八章 地獄の日々》P.209)

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 鹿児島潜入
 山川は大胆不敵(だいたんふてき)、敵の本丸、鹿児島に潜入した。
 「山川は外国人に多額の借金があり、催促をさけるために鹿児島に逃れた」
 という説もあったが、そうではなかった。
 山川が鹿児島で頼ったのは海江田信義(かいえだのぶよし)(武次)だった。通称有村俊斎(ありむらしゅんさい)、有名な有村三兄弟の長男で、生麦(なまむぎ)事件では奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)が斬(き)ったイギリス人のとどめを刺し、寺田屋事件でも活躍し、戊辰(ぼしん)戦争では東海道先鋒総督参謀(とうかいどうせんぽうそうとくさんぼう)として江戸城受けとりの大役をはたした人物である。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.219)

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 薩摩出身の文豪海音寺潮五郎(かいおんじちょうごろう)が「禍(わざわい)の種」という一文に海江田を書いている。
 「海江田武次−有村俊斎という男は、硬骨で勇敢で、一本気で、強いことがなにより好きで、典型的な薩摩隼人(はやと)ですが、頭はあまりよくないのです。それは、世間には、野にあるあいだは権威筋にたいして倨傲(きょごう)で、いかにも反権威主義が旺盛(おうせい)のように見えるけど、ひとたび権威につらなる地位につくと、権威者にたいするもっとも忠実な奉仕者となる人がよくいるものですが、その類の人間でもあったようです」
 と主君島津久光(しまづひさみつ)の腰巾着(こしぎんちゃく)だったと評した。山川はその腰巾着に目をつけたのかもしれなかった。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.220)

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 陸軍学校の教官はフランス人

 野田豁通の喜びもひとしおだった。五郎の軍服姿をみて、
 「これでよか、これでよか」
 と連発し、自分のことのように喜んでくれた。
 「野田豁通の恩愛(おんあい)いくたび語りてもつくすこと能(あた)わず。熊本細川(ほそかわ)藩の出身なれば、横井小楠(よこいしょうなん)の門下とはいえ、藩閥の外にありて、しばしば栄進の道を塞(ふさ)がる、しかるに後進の少年を看るに一視同仁(いっしどうじん)、旧藩対立の情を超えて、ただ新国家建設の礎石(そせき)を育つるに心魂を傾け、しかも導くに諫言(かんげん)をもってせず。常に温顔を綻(ほころ)ばすのみなり」
 五郎はこのときのことをこう記述している。山川と並ぶ大恩人が野田だった。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.226〜227)

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 会津の少年は想像を絶する苦境に追い込まれた。しかし不屈の闘志と周辺の温かい励ましで、五郎のような少年が育った。五郎のがんばりを会津武士道の発露という人もいるが、それは五郎のひたむきな努力に周囲の人々が感動し、協力を惜しまなかったせいでもあった。五郎の受験の成績はわからないが、賊軍の会津からも入学できたことは、試験がいかに平等であったかを物語るものだった。明治政府にも評価すべきことはいくつもあった。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.227)

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 西南戦争
 明治一〇年(一八七七)の西南戦争は、まさに雪辱の好機到来であった。 山川をはじめ、じつに二〇〇人余の元会津藩士がこの戦いに参加し、薩摩と戦った。山川は西郷隆盛軍に包囲されていた熊本城の救援に当たり、見事、西郷軍を敗った。
 元会津藩士たちにとって、会津戊辰戦争雪辱の日であり、競って警視隊に志願し、会津抜刀隊を編制し戦った。元会津家老、鬼官兵衛(かんべえ)こと佐川(さがわ)官兵衛が戦死したのもこのときだった。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.227〜228)

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 アメリカに留学した弟妹
 山川家は、九歳下の弟健次郎によって確固たる地位を築く。健次郎は会津戊辰戦争では白虎隊(びゃっこたい)に選ばれたが、年齢が規定より一歳若いため、戦場には出なかった。母や姉らと一緒に籠城(ろうじょう)し、辛酸をなめた。飯盛山(いいもりやま)で自刃した白虎隊士は藩校日新館(にっしんかん)の上級生たちであり、このことはその後の健次郎に深い影響を与えた。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.230)

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 落城後、猪苗代(いなわしろ)に謹慎を命ぜられたが、秋月悌次郎(あきづきていじろう)が敵である長州藩士奥平謙輔(おくひらけんすけ)に頼み込み、健次郎を越後に脱走させた。健次郎は奥平の書生となり、さらに東京に出て、沼間守一の塾で英語を学び、明治四年、北海道開拓使の留学生としてアメリカに渡った。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.231)

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 妹捨松も第一回女子留学生として、下北からアメリカに向かった。明治の初め、しかも朝敵の会津藩から二人の少年少女がアメリカ留学した。いまでこそ外国留学も一般化しているが、兄山川浩がいかに人材育成に力を入れ、いつの日か、会津のいわれなき汚名をそそごうとしたかがわかる。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.231)

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 健次郎は、アメリカのエール大学で物理学を学び、明治八年(一八七五)に帰国、東京帝国大学の前身である東京開成学校教授補となり、その後、東京大学理科大学教授、理科大学学長、東京帝国大学総長の座にのぼりつめる。さらに、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長を歴任し、男爵を授けられ、明治から大正にかけて学界、教育界の大御所としての輝かしい地位を築くことになる。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.231〜232)

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 兄浩亡きあと、松平家の顧問となった健次郎に、朝敵の汚名をそそぐ感激の知らせが入ったのは、大正一四年(一九二五)一月二三日のことであった。宮内大臣牧野伸顕(まきののぶあき)から呼び出しがあり、松平容保の四男、駐米大使松平恒雄の長女勢津子を秩父宮妃殿下にむかえたいとの相談であった。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.232)

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 ご婚儀は、昭和三年(一九二八)九月一四日に挙行され、会津関係者は感涙にむせんだ。兄浩の願いは、弟健次郎によって達成され、山川浩は大参事としての使命と責任を果たすことができたのである。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.232)

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 思案橋(しあんばし)事件の真相
 「ニシキノミセヒラキハコンニチ」
 という前原一誠蜂起の電報を手にした永岡は、かねての計画を実行に移した。
 永岡の計画とは、千葉県庁を襲い、佐倉(さくら)鎮台の兵を味方に引き入れ、日光から会津に入り、萩の前原と東西呼応して、政府を転覆させるというものであった。永岡に同調したのは同じ元会津藩士の中原成業、竹村俊秀、井口慎次郎らであった。
 永岡らは一〇月十九日の夜、東京日本橋小網(こあみ)町一丁目の思案橋(しあんばし)から舟で千葉に行こうとして警官と格闘になった。世にいう思案橋事件である。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.235)

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 事件の顛末(てんまつ)は次のようなものだった。永岡らが小網町の船宿に行き、小舟五隻に分乗して、しきりに出発をうながしたが、船宿の主人が一行をあやしんで舟を出さず、日本橋警察署に密告し、警部補寺本義久ら四人が現場に行き、永岡らと格闘になった。
 中原成業、井口慎次郎らが抜刀して巡査三人を斬り伏せたが、一人に逃げられ、警鐘を乱打され、旗揚げは失敗に終わる。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)

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 この格闘の際、永岡は誤って井口に腰を斬られ、警官に捕えられてしまった。その傷がもとで永岡は翌明治一〇年一月二二日、鍛冶橋(かじばし)の獄舎で死んだ。 享年三八。まだこれからの人生だった。永岡には、母えきと妻せんがいた。せんは柳橋芸者で、後妻であった。前妻はまさといったが、子がないとして離縁されていた。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)

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 中原成業、竹村俊秀、井口慎次郎らも捕えられ、処刑されたが、中原は四九歳。会津戊辰戦争では越後口の遊撃隊長として活躍した宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の名手で、戦いのあと若松県で官吏を斬り、逃亡していた。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)

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 竹村は三二歳。斗南に移り、一時は青森県開墾(かいこん)係長になったが、薩長に一矢をむくいんと上京し、永岡の門下にはいっていた。山川浩からの信任も厚く、会津の戦いの際は狙撃隊長として山川を守り、奮戦した。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)

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 井口は二四歳。日新館で学んだ俊英であった。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)

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 中根米七だけは会津まで逃れた。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236)

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 この思案橋事件には、もう一つ意外な事実があった。永岡の書生、平山圭一郎、根津金次郎の二人が事件前夜、警視庁大警視川路利良(かわじとしよし)に密告したというのである。
 「まさか」
 会津の人々は顔を見合わせた。
 この事件を聞いた多くの会津人は、永岡を非難することはなかった。
 それはすべての会津人が抱いてきた薩長への報復を、身をもって実践しようとした永岡への心からの同情といたわりの気持ちからであった。山川の弟健次郎でさえ、永岡を密告した平山、根津の二人を裏切り者として憎んだ。永岡の生き方もまた元会津藩士として、やむにやまれぬ心情の発露であった。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.236〜237)

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 永岡の生涯をあれこれ論評することは容易である。時代を見る目がないとか、感情におぼれたとか、いろいろあるかも知れない。しかし誰か一人、永岡のような生き方をしなければ、おさまらなかった背景があったことも理解しなければならない。
(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.237)

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 永岡は次のような詩を詠んでいた。死を覚悟していたのである。


今日、隅田川(すみだがわ)で去り行く春を惜しんでいる
桜の花が舞い散っていくさまは、堪えがたいほどの憂いである
来年も隅田川には、春がまた訪れるだろう、しかし、それを見ることはあるまい
誰一人、私が隅田川のほとりで、辞世の詩を詠んでいるなど知るはずもない


(《偽りの明治維新 第九章 二つの道》P.237)

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 消えた首席家老

 仙台藩は会津藩が謝罪要求を受け入れれば、総督府とのあいだにたって和解に尽力するとのべた。仙台藩が示した謝罪の内容は、藩公の城外屏居(へいきょ)と謀主(ぼうしゅ)の首級を出すことだった。 薩長の要求は主君松平容保(まつだいらかたもり)の斬首、鶴ヶ城(つるがじょう)の開城、領地の没収だったが、仙台藩の斡旋(あっせん)案は、ハードルの低いものだった。城、領地ともに残すという穏健な提示だった。しかし、梶原はこれを拒否した。
 「主君の城外謹慎は当然だとしても、謀主の首級を出せというのはいかがなものか。皆、国家に忠節をつくした者であり、首は出せぬ。伏見の戦争は前将軍が罪を一身に負い、謝罪嘆願し、朝廷もこれを入れておる。解決ずみではないか」
 と会津藩の無罪を主張した。すると仙台藩首席家老但木土佐(ただきとさ)がいった。
 「であれば、総督府(そうとくふ)に貴藩の謝罪嘆願をとり次ぐことはできぬ。貴藩の決心やいかに」
 梶原はしばし黙考したあと、
 「一国、死をもって守るのみでござる」
 と答えた。仙台も黙ってはいない。重臣の一人、真田喜平太(さなだきへいた)がいい返した。
 「であれば速やかに帰って軍備を整えよ。前将軍罪を一身に負えば、貴藩公罪なしというが、これは貴藩公の罪ではないか。ということは貴君の罪である」
 と梶原をにらんだ。徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の罪は補佐する容保にあり、容保の罪は家臣の梶原たちにあるというのだ。真田の言い分も理屈としては筋がとおっていた。
 梶原の白い顔が紅潮した。どう答えるか、仙台の重臣は梶原を見すえた。
 「もっともである」
 梶原はあっさり答えた。この正直な答え方が、仙台藩重臣の心をとらえた。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.239〜240)

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 梶原の読みどおり、奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府参謀、長州(ちょうしゅう)(山口県)の世良修蔵(せらしゅうぞう)は仙台の斡旋案をにべもなく拒絶した。かくて奥羽列藩同盟が結成され、東西対決の様相を見せるのは、ひとえに梶原の政治力によってであった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.240)

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 さらに長岡(ながおか)(新潟県)の河井継之助(かわいつぎのすけ)に参戦をうながし、奥羽越列藩同盟に発展した。梶原の生家は同じ家老の内藤家で、白河(しらかわ)国境の総督を務めた内藤介右衛門(ないとうすけえもん)は実兄、妻は山川浩(やまかわひろし)の姉二葉(ふたば)だった。山川とは義兄弟だった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.240)

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 籠城戦のあいだ、梶原は政務担当として主君容保の側にいた。 戦後、主君容保とともに東京で謹慎した。
 梶原は青森県が誕生すると、庶務課長となり、斗南(となみ)士族の救済に奮闘したが、ほどなく東京に出た。この時点で妻の二葉とは離婚し、旧幕臣の娘水野貞(みずのてい)と再婚した。そんなことで山川とは疎遠になり、交流は途絶えた。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.240)

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 薩長閥の打倒

 五郎は遺書を残していた。それを編纂(へんさん)し『ある明治人の記録』と題してまとめた石光真人(いしみつまひと)は、
 「柴五郎は会津精神の化身(けしん)ともいうべき人柄の持ち主で、また生粋の明治人でもあった。藩閥の外にありながら、軍人として最高の地位にのぼったすぐれた人材でもあったが、晩年の翁からは、万事を叱咤(しった)する職業軍人などという印象は微塵(みじん)も受けなかった」
 とのべた。 その柴五郎がひそかに記述していたものが、抹殺された会津の歴史だった。下北での暮らしは公表をはばかるほど悲惨だった。五郎は薩長藩閥政府の華やかな歴史からは抹殺された暗黒の一節を書きしるし「門外不出」と遺言し、会津若松(わかまつ)の恵倫寺(えりんじ)に納めた。それがこの記録だった。柴五郎がもっともいわんとしたことは、会津戊辰戦争の悔しい思いだった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.247〜248)

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 五郎は家族の自刃を叔父清助翁から聞いたときの衝撃をこのように書いた。
 「今朝のことなり。敵城下に侵入したるも御身(おんみ)の母をはじめ家人一同退去を肯(き)かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、いさぎよく自刃されたり、余はこわれて介錯(かいしゃく)いたし、家に火を放ちて参った。母君臨終にさいして御身の保護教育を委嘱されたり、御身の悲痛もさることながら、これは武家のつねなり、驚き悲しむにたらず、あきらめよ。いさぎよくあきらむべし、幼き妹までよく自刃して果てたるぞ、今日ただいまより忍びて余の指示に従うべし、これを聞きて呆然自失、答うるに声いでず、泣くに涙流れず、眩暈(めまい)して打ちふしたり」
 武士たるものは、たとえ女、子どもであっても自刃する場合もあるという叔父の言葉は強烈だった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.248)

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 さらにこのような記述もあった。
 「郭内は隈なく焼土と化して残るものなし。町家もほとんど焼失し、残存の家には敵軍の標札かかげありて、将卒充満の模様なり。婦女捕らわれて下婢(かひ)となり、狼藉の様子なるも、しかとわからず。されど喜多方(きたかた)、浜崎に収容のご婦人方については丁重にて、防寒の衣料もおくられたりと聞けり。下郎(げろう)武士とはいえ、やはり武士の端くれなれば、武士の情けも幾分かはもつものと思わる」
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.248〜249)

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 五郎は武士道にこだわった。薩長に対する本音を聞きたかったが、それはこの遺書にはなかった。しかし薩長に対し、強い怨念(おんねん)を抱いたことは間違いなかった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.249)

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 五郎の生涯を『守城の人』と題して描いたのは陸軍士官学校五七期の村上兵衛(むらかみひょうえ)である。これを読むと、将官になるにつれて怨念は次第に薄らいでいったように思われる。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.249)

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 五郎は大正六年(一九一七)、勲一等に叙せられ、瑞宝章を授けられ、翌年に東京衛戍総督に任命された。明治の陸軍は完全に長州閥だった。しかし、それも実力の世界に変わっていた。陸軍大将昇任のとき辞令をわたしたのは、盛岡藩出身の平民宰相原敬(はらたかし)だった。薩長閥の崩壊である。原敬を目の前にして、五郎は感無量の思いだったろう。
 「私は会津出身なるが故に、陸軍において差別されたことは一度もない」
 と五郎はいった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.249)

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 五郎は英語、フランス語、中国語にかけては陸軍屈指といわれた。五郎はみずからの努力と才能で長州閥を乗り越えていった。
 五郎は太平洋戦争には否定的だったという説もあるが、日記で見る限り、そうではなかった。終戦の日、五郎は、
 「正午、玉音(ぎょくおん)を拝承し、悲憤激昂(げっこう)、生を欲せざらんとす。さきの戦局の順調なるときに生の終わらざりしを恨(うら)む」
 と記し、敗戦の日からちょうど一ヵ月後の九月十五日の深夜、宮城を拝し、切腹をはかったが、老衰により力がなく失敗した。医者は胸を三針、腹部を八針縫った。その三ヵ月後、五郎はひっそりとこの世から旅立った。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.249〜250)

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 会津史の編纂

 晩年、山川は貴族院議員に選ばれ、国政の合間をぬって会津史の編纂にも力を入れ『京都守護職(きょうとしゅごしょく)始末』を編纂した。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.253)

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 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と松平容保を朝敵と決めつけた倒幕の密勅(みっちょく)について、偽造のからくりを暴露した。それは正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)公の証言だった。


問 薩長に賜った綸旨(りんじ)は何人の起草か。
答 玉松操(たままつみさお)の起草だ。
問 筆者は何人か。
答 薩摩は余が書いた。 長州は中御門(なかみかど)が書いた。このことは自分ら三人と岩倉具視(いわくらともみ)のほか誰も知らない。

 この密勅はまったくの捏造(ねつぞう)だったのである。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.253〜254)

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 山川は胸部疾患に悩まされながらも『京都守護職始末』の編纂に全力投球した。山川の自宅に旧臣の北原雅長(きたはらまさなが)、広沢安任(ひろさわやすとう)の従弟の広沢安宅、あるいは従弟の歴史研究家、飯沼関弥らが集まり、京都守護職時代を会津藩の立場から、精力的に公証した。しかし、幕末維新史の壁は厚く、何度もくじけそうになった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.254)

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 一口でいうと、明治政府の歴史観は、薩長土肥が正義で、会津を中心とする奥羽越は悪という構図であった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.254)

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 その代表的なものが、明治二年からはじまった官製の史書『復古記』である。現在の東京大学史料編纂所で膨大な史料を集め、薩長土肥がいかに正義のために戦い、勝利したかを書き連ねた。会津は賊軍の首魁(しゅかい)とされ、陸奥(むつ)への挙藩流罪も当然とされたのである。会津にとっては承服しかねる一方的な史書だが、破れた以上、その屈辱に耐えるしかなかった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.254)

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 会津の正義を実証せんと山川が手に入れた確実な史料があった。孝明天皇の宸翰(しんかん)である。薩長がいかに会津を非難しようとも、松平容保こそもっとも信頼すべき人間だとした孝明天皇の宸翰は、薩長閥に打撃を与えることは確実だった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.254〜255)

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 貴族院の論客の一人、三浦梧楼(みうらごろう)は長州の出身である。山川と気が合い、藩閥政治には批判的だった。山川が三浦に宸翰のことを話すと、
 「まさか」
 としばし沈黙し、信じようとしなかった。それではと主君から宸翰を借り受け、三浦に見せた。それは孝明天皇が御所に発砲した長州藩の暴挙に怒り、それを撃退した京都守護職、松平容保の忠節を称えたものであった。一読した三浦は見る見る顔面蒼白になり、
 「山川どの、これはいましばらく公にいたさぬようお願いできぬか。これが出れば、伊藤博文(いとうひろぶみ)総理も困ることになる。容保公にはまことに気の毒であった。このとおりだ」
 と山川に頭を下げ、深く溜め息をついた。この宸翰は長州の野望を鋭く突いており、孝明天皇は長州こそ朝敵だと糾弾していたのである。ところが孝明天皇が崩御するや、形勢は逆転、明治天皇を玉と頂く長州が官軍となり、会津は朝敵に蹴落とされた。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.255)

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 これぞ歴史の欺瞞(ぎまん)だった。明治維新は日本の近代化という美名にかくれた権力闘争であった。三浦があえて公表せぬよう山川に求めたのは、明治政府の権威が失墜(しっつい)することを恐れたからだった。それは日本の国体の崩壊につながりかねない、三浦はそう考えた。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.255〜256)

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 会津武士の典型

 昭和五年(一九三〇)健次郎は胃潰瘍(いかいよう)を患い、出血が続き、重体になり、六月二日、永眠した。享年七七だった。葬儀のとき、東京帝大総長小野塚喜平次博士は、会津武士道を貫いた健次郎の生涯をたたえた。 不義はならぬ、健次郎はいつも若者にそう説き、国家に奉仕し、正直で清貧の人生を歩むべしと呼びかけた。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.260)

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 健次郎は『京都守護職始末』を完成させたあと、会津戊辰戦争のすべてをまとめた『会津戊辰戦史』を編纂した。悲惨きまわりない戦争の実態を克明に記載し、この二冊の本を抜きにしては会津を語ることはできない不朽の名作となった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.260)

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 この本は昭和八年(一九三三)の出版で、部数も少なく貴重本だったが、昭和五三年(一九七八)に続日本史籍協会叢書(そうしょ)として東京大学出版会から発刊され、一般の人々の手に入るようになった。荒川類右衛門をはじめ多くの元藩士が登場し、数々の挿話が挿入され、読み応えのあるものに編纂されていた。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.261)

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 奥羽越列藩を戦争に巻き込んだ長州藩参謀世良修蔵の行状、会津兵の死体の埋葬が許されず、風雨にさらされ、烏(からす)や野犬の餌(えさ)となった惨状、町民が遺体を収容し、墓標を建てたところ、占領軍参謀から撤去破壊を命ぜられた事、官軍の略奪行為などを詳細に記述し、会津戊辰戦争とはなんであったかを、世に問う告発の書となった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.261)

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 原爆と同じ
 会津人にとって明治の時代は、なんだったのか。
 会津の郷土史家宮崎十三八(みやざきとみはち)は『会津人の書く戊辰戦争』(恒文社)で、官軍を厳しく弾劾した。次のようなことを書いている。
 「一般住民を無差別で殺した会津の戦争は、大小の違いはあるが、ピカドンの原爆によく似ている。戊辰戦争は討幕の身代わりとして会津憎しと、殺戮(さつりく)の好奇心のための行為だった」
 とのべ、老人と少年の悲劇を例にあげた。
 先陣で北追手門を突破した土佐兵の前に、七〇歳ばかりの会津の老人が、槍(やり)をふるって踊り出て鋭く立ちはだかった。数人でかかっても老人一人を倒すことができないので、鉄砲でやっと打ち殺した。
 すると一四、五歳の少年が「爺さんの仇(かたき)」といって槍をもって手向かってきた。
 「そいつを生け捕れ、生け捕れ」
 と号令したが、勢いが強くて突き回り、味方が危険なので、これも槍の届かない距離から銃で射殺した。
 その夜、ある町家に泊まり、酒を求めて大いに飲んでいる最中、兵の一人が先に殺した少年の首をもってきた。大皿に載せ、一座のまんなかに、
 「お肴(さかな)持参」
 といって、これをおき、大声で歌いだした。

 愉快きわまるこの夜の酒宴
 なかにますらおの美少年

 やんややんや、皆、はやして大いに飲み明かした。 宮崎は怒りをこめてこの残虐行為を書いた。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.261〜262)

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 遺体の埋葬問題についてもふれた。埋葬問題を自主的に担当したのは、残務整理のために若松に残った町野主水(もんど)ら数人の藩士だった。
 何度も嘆願し、やっと翌春の雪どけ後に許された。はじめ薬師河原の罪人塚のみということだったが、殉難者をそんなところには埋葬できないと、刺し違える覚悟で嘆願し、ついに阿弥陀寺(あみだじ)に一二八一体、長命寺に一四五体を粗莚(あらむしろ)につつみ、縄で引きずって運んだ。埋葬し終わったのは、七月になってからだった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.262〜263)

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 宮崎は会津藩士の末裔(まつえい)である。
「すべて許せない」と怒りをぶちまけた。
 この人、司馬遼太郎(しばりょうたろう)と親交があり「会津若松のMさん」として、しばしば司馬の作品に登場した。旧制の新潟高校を出て、晩年は会津若松市の観光商工部長を務めた。新潟高校では作家綱淵謙錠(つなぶちけんじょう)の後輩で、同じ寮だった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.263)

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 会津人は屈折した思いで明治を生き、大正、昭和と引きずってきた。平成の今日もなおこの問題は未解決なのである。
 それは東北人全般にいえることで、盛岡藩の家老の流れをくむ原敬は、「白河以北一山百文」という侮蔑の言葉を逆手にとって、あえて「一山」を自分の号として、薩長藩閥政府と戦い、ついにそれを打倒し、平民宰相の座を勝ち得た。
 岩手県人はこの問題に対しておおらかである。
 「われわれは勝利した」
 と胸を張る。それは「この屈辱を自分が晴らしてやる」と宣言した原敬が見事、それをなしとげたからである。原敬に刺激されて岩手からは幾多の人材が輩出した。総理大臣は長州山口に次いで二番目に多い。原に続いて斎藤実(さいとうまこと)、米内光政(よないみつまさ)、鈴木善幸(すずきぜんこう)と合せて四人を出している。敗れた屈辱をバネにし、原敬はがんばった。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.264)

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 だが、会津はそのエネルギーさえも奪われた。総理は一人もいない。
 会津選出の国会議員の方々には、会津人が幕末維新で受けた数々の屈辱をいかに晴らし、歴史の誤りを正すか、そういう使命感が必要だと思われる。山川健次郎は、明治維新史を書き直すところまでは要求しなかった。それは次の世代にたくしたに違いなかった。
 宮崎十三八が第二の世代とすれば、今日の人々は第三の世代である。各界各層あげての議論が、いま求められている。
(《偽りの明治維新 第十章 屈折の明治》P.264)

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 あとがき

 わたしはこの何年間か、会津(あいづ)藩(福島県)のことを書きながら、一方で会津と長州(ちょうしゅう)(山口県)の和解を進めてきた。何人かと山口県萩(はぎ)に行き、討論もおこなったが、会津側の壁は非常に厚く、進展はなかった。私は会津人ではないが、二〇代の半ばに福島民報の記者として三年間会津若松(わかまつ)に駐在し、すっかり会津びいきになった。その縁で会津をベースにした作品を書くようになった。しかし、全編会津礼賛ではなく、戦略や意識改革の遅れなど苦言も呈してきた。
(《偽りの明治維新 あとがき》P.266)

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 安倍晋三(あべしんぞう)前総理の発言は軽いといえば軽いが、一国の総理の発言に変わりはなかった。もっと総理の胸のうちを聞き出したいのであれば、会津選出の国会議員が国会で質問すればよかったのだが、一向にそうしたことはなかった。
(《偽りの明治維新 あとがき》P.266)

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 そのうち安倍は総理の座を降りてしまい、せっかくのチャンスを逃してしまった。残念としかいいようがない。
(《偽りの明治維新 あとがき》P.266)

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【関連】
[抜書き]『名君の碑(いしぶみ)』(中村彰彦)
[抜書き]『暁の旅人』(吉村昭)
[抜書き]『保科正之』(中村彰彦)
[抜書き]『王城の護衛者』(司馬遼太郎)
[抜書き]『彰義隊』(吉村昭)
[抜書き]『黒船以降 政治家と官僚の条件』(中村彰彦/山内昌之)
[抜書き]『明治無頼伝』(中村彰彦)
[抜書き]『東に名臣あり 家老列伝』(中村彰彦)
[抜書き]『天狗争乱』(吉村昭)

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13/01/19・・・13/02/08・・・13/02/17・・・13/03/03・・・13/03/15・・・13/03/24・・・13/04/10・・・13/04/20・・・13/05/12・・・13/05/24・・・13/06/01・・・13/06/09(了)
【表示幅行間変更】13/06/26
【転記誤字訂正】13/08/30
【行追加(P.89)】13/12/07
【転記誤字訂正】14/01/27(×鍛治 ◎鍛冶)
【書名転記誤記】14/04/18(王城の護衛者)
【転記誤字訂正】14/06/06(『志ぐれ草紙』)
【転記誤字訂正】14/06/13(×江戸上 ◎江戸城)
【転記誤字訂正】15/02/21(×春獄 ◎春嶽)


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157. 2017年2月01日 22:29:06 : iCBmBkVYEs : MSCqStVyV6I[14]

歴史好きのつぶやき

あなたの知っている歴史に新たな1ページを開く

ありえへん!坂本龍馬をあの西郷隆盛が暗殺した!ホンマ?
http://rekishizuki.com/archives/810



158. 金太マカオに着く[87] i@CRvoN9g0qDSYLJkoWCrQ 2017年7月13日 22:10:57 : 7Mao2VQWW2 : E5G9pNPmu9I[154]
武器商人ですらない、武器配布係の坂本龍馬を殺したのは
岩崎かグラバー、の手の者でしょう
倒幕派と英国の接点である坂本は消す必要があった

明治維新のポイント

・明治維新によって英国(ロスチャ)に通貨発行権を奪われ国家ではなくなった
・ロスチャは世界中で政府を転覆させて通貨発行権を握っており、明治維新はその中の1つに過ぎない
・無血開城とかいうのは、ロックフェラーの手先の水戸藩の工作による

・薩長をテロリストと呼ぶかはともかく、英国に支援された英国の手先なのだから正当な支配者ではない
・田布施に居た大内氏は百済人であり外来種だからこそ、朝鮮人に支配され日本人が排斥される現在がある
・偏狭な外来種だから国民無視、場合によっては国益無視の政治を行う寄生虫の様相を呈している

・明治の文明開化・財閥誕生の原資は、数十万人の日本女性を海外に販売して得たもの
・明治の文明開化といっても豊かであったのは外来種たちであり、日本人は戦争と飢えに苦しんだ
・徳川幕府は中国系、明治天皇は半島系だが、天皇はサイコパスすぎて日本人に合わない

[32初期非表示理由]:担当:スレ違い多数により全部処理


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