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2015年11月17日
今夜の話は、永田町的話題ではない。永田町的話題では、予想通り、民主解党論を口走った前原誠司は、安倍官邸の犬と見破られ、あの情けない最大野党民主党内でも、内輪では賛同していた連中(野田佳彦、玄葉‥等?)からまで、「俺たち、そんなことは考えもしない!」とソッポを向かれ、万事窮すウロチョロ蝙蝠になっているらしい(笑)。まあ、岡田も政治的方向性をハッキリさせずに、グズグズしていると、旗幟鮮明で、兎に角、「安倍は嫌だ」と云う、サイレント・マジョリティな民意を、根こそぎ“共産党”に持っていかれることになるだろう。
筆者は、拙コラム(10月17日、19日)で既に語っている『余りにも酷すぎる菅直人と野田佳彦を晒したのだから、現行の民主党では、国民の支持が安倍自民を追い落とすレベルまで行くことは金輪際ない。最終的には、 民主党は飲まざるを得ないのだと思う。 グダグダしていると、共産、社民、生活+国民連合体のような選挙態勢もあり得るわけで、民主党の当選者ゼロ(一人区)も視野に入る。』と述べている。
つまり、直近の世論調査などに表れていない “無声音で安倍を批判する” メジャーなマジョリティが実存しているのだから、「官公労の意を汲む」だけの政党と云うイメージを払拭しない限り、政権に参加できる政党と云う資格を、永遠に失うことになる。無論、筆者個人は、そうなることで、限りなく「1%対99%世界」に爆走している安倍自民に鉄槌を喰らわすことになるのであれば、名前が共産党だろうが、天誅党であろうが、一向に差し支えない(笑)。
感情の劣化だと言われてでも、「安倍自民政権を潰す」そう云う権力闘争なのである。中庸なんて甘いことは言っていられないのだ。バーボン・ウィスキーが、本物のウィスキーだと言っているようなアメリカン・デモクラシーを「普遍的価値」なんて哲学的考察でもしたかのように、キャッチコピーとして口走るような男を首相にしておくことは、デモクラシーではなく、国家主義においても、許されない日本人の恥である。また海外に出かけて、イスラム国を逆撫でするような発言を性懲りもなく捲し立てている。イスラム国でなくても、あれでは、イスラム世界の価値観を一切認めていない、最たる国のリーダーとさえ映るだろう。この辺をやんわりと語っている社説があったので、紹介しておく。
≪【東京新聞社説】週のはじめに考える 9・11からパリ・テロへ
パリで起きた大規模なテロを知り、十四年前のアメリカの9・11テロを思い出した人もいるでしょう。世界は何をし、また何をし損なってきたのか。
9・11テロのあった日、アラブ・イスラム世界の一大中心都市エジプトのカイロはどうだったか。 電話で中産階級の知人に聞くとこうでした。
<街路は喜びにわいている。アメリカに一撃をくれてやったということだ。アメリカはイスラエルを助けパレスチナ人を苦しめている。鬱憤(うっぷん)が晴れたということさ>
◆アラブの街路の歓喜
アメリカの悲嘆と怒り、欧米社会のテロ非難とは裏腹にアラブ・イスラム世界の網の目のような無数の街路は暗い歓喜に満たされていたようなのです。
欧米で憎まれるテロは、世界を異にすれば聖戦という美名で呼ばれることは、それが間違っていようがいまいが、動かせぬ事実でもあるのです。
アメリカはテロに対しいくつもの行動をとりました。
一つはアフガン、イラクの戦争です。ビンラディンを追うアフガン戦争は空爆であっけなく勝利したかのような印象を与えたが、今も終わらず無人機空爆は無辜(むこ)の住民の巻き添え死を招いている。
イラク戦争は、サダム・フセインさえいなければ民主化により、自由と経済の活性がテロを締め出すという、いわば無邪気な発想で始まったものの、その泥沼化は目を覆うばかり。最悪の予想すらこえてイスラム国(IS)誕生につながってしまった。
テロとの戦いで武力行使の必要性は否定はしませんが、机上の戦争作戦が無視したもの、あるいは過剰に軽視したものの一つは住民感情、街路の世論だったかもしれません。
アメリカが対テロでとったもう一つの行動は、民主化運動の推進でした。それはいわゆる「アラブの春」として結実した。
◆中東学者の見る偏見
エジプトでネット運動をした若者は米国務省の支援を受けています。民主化運動で市民の政治参加を促し、イスラム勢力の言い分も国民参加の政治の場で聞いて問題解決しようというのは正しい。
トルコはそのモデルでした。イスラム勢力が政権を選挙でとり、経済発展もした。政教分離が国是の国で実現したのです。アラブの春は失敗と決めつけるより、なお途上と言ってもいいでしょう。今は混乱していても、民主化の道が閉ざされたわけではありません。
アメリカの対テロ政策は、戦争は無思慮と独善のそしりは免れないとしても、全部が失敗であったとまでは言い切れません。
アラブ・イスラム世界の専門家らは、テロによってもたらされる偏見、その偏見を利用するテロリスト、政治家たちを警戒します。
たとえばフランスの中東学者ジル・ケペル氏は9・11後、仏紙ルモンドにこう記しています。
<今や「9・11」のレンズを通してのみアメリカは世界を見る>(池内恵訳「中東戦記」より)
続けて、イスラエル右派は対テロ戦争の論理を自らの利益のために流用し、パレスチナ人はイスラエル国内で自爆テロを行うことによってアメリカでのイメージ戦争に敗れる危険を冒している、と述べます。
その通りでしょう。
テロはテロの悪以上に悪用されもするのです。世界を善悪二元論に分けて、亀裂を深めれば深めるほど得をするのがテロリストたちです。
冷戦後、世界的ベストセラーになった本に米国政治学者サミュエル・ハンチントン氏の「文明の衝突」があります。よく知られるように、冷戦時代の米ソ対立に代わって、冷戦後は西欧対非西欧(特にイスラム)の対立になると予見して論争を巻き起こし、のちに9・11を予想した書とまでいわれました。
その「文明の衝突」がアラビア語に翻訳され、イスラム過激派の発行物にしばしば引用されているそうです。衝突はテロリストに好都合に違いありません。
衝突が世界史のうえの論考だとしても、それがテロリストたちに悪用されてはならない。テロと憎悪と復讐(ふくしゅう)の負の連鎖にならぬよう世界は、私たちは、踏みとどまらねばならない。そのためには衝突とはまさに逆方向の相互理解が欠かせない。
◆戦争とテロの犠牲者と
それはきれい事にほかならないともいわれそうですが、米欧また日本の社会がどれほどイスラム世界を理解しているのかというとどうでしょう。二つの 戦争による膨大な死者と、パリのテロの無辜の犠牲者とをならべて考えることもまた必要ではないでしょうか。おおげさにいえば、世界史の中で今私たちは試されているのです。 ≫(東京新聞)
さて、漸く見出しの話に辿りついた(笑)。「空気を読む」「足して二で割る」傾向の強い日本人からは、かなり毛嫌いされているレアなコラムニスト小田嶋隆氏が、「なぜ?安倍内閣支持率は上がるのか」について、同氏の分析が紹介されている。簡単に言えば、日本人の体質論から、デモクラシー体質ではないのではないか、と看破している。その辺は、じっくり以下掲載のコラムを読んでいただきたい。筆者が、同氏と同じ結論に達していることは、肌感覚頼りの直感だが、結論は同じ地点に帰結する。それなりに、歴史的説明は可能だが、紙面の都合上やめておく。
簡単な答えは、リンカーンの「人民の,人民による,人民のための政治」、ケネディ的に表現すれば、「我が同胞アメリカ国民よ、国が諸君のために何が出来るかを問うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい。」「世界の友人たちよ。アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、人類の自由のためにともに何が出来るかを問うてほしい。」「最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい」と云うような言葉になるが、この二人のデモクラシー的発言には、アメリカの“中華思想”の毒が含まれると同時に、こんな考えが、我が日本人に共有出来ているとは、夢にも出てこないのが現実なのだから、欧米価値観を無理やり共有しているような害毒宣伝は直ちに中止して貰いたい。
≪ 安倍政権支持率回復の理由 11月のメディア各社の世論調査が出揃った。
結果を見ると、内閣支持率については、どこの社が調べた数字を見ても、一様に上昇していることがわかる。
設問に使われている文言に微妙な違いがあるからなのか、あるいは、回答者が調査元の名前を意識してその都度態度を変えるからなのか、毎回、この種の世論調査の結果は、会社ごとに異同がある。
とはいえ、はじめからある程度のバイアスがあることを差し引いて数字を見比べてみると、変化の傾向そのものは、どこの社のものを見ても、ほぼ一致 している。つまり、内閣支持率は8月を底に回復に転じており、特に11月上旬に実施した調査を見ると、どこのものを見ても前月分に比べて1%から4%程度 上昇している。
各社の調査結果間に見られる食い違いは、当稿の主題とは別の話になる。興味深い話題ではあるが、ここでは掘り下げない。
今回、各社の調査の中で共通している傾向、すなわち「安倍政権の支持率が回復していること」について考えてみることにする。
数字を見て、私は、自分の予想が当たったことに軽い失望をおぼえた。
安保法制の議論が活発だった夏の間、私は、いくつかの場所で、法案が成立するであろうことと、成立してしまえば世論は徐々に支持の方向にシフトするだろうということを予言していた。
その予言が、ものの見事に的中したわけだ。
いや、明察を誇っているのではない。この程度の当てずっぽうは、明察とは呼ばない。
実際のところ、同じ結果を予測していた人は少なくないだろうし、内心でそう思っていた人間はもっと多いはずだ。
ただ、安保法案が成立する以前の段階で、その成立を予言し、さらにそれがなし崩し的に容認されるであろう近未来について語ることは、法案反対派の 士気をくじく意味であまり望ましい態度ではないし、それ以上に、その種のものの言い方は、国民を愚民扱いにしているように見えかねない。そこのところを心 配して、賢い人たちは、内心でわかってはいてもあえて口に出すことはしなかったのだと思う。
ともあれ、予想は、むずかしい作業ではなかった。
ふつうに考えれば、誰にでも見当のつく展開だったというだけの話だ。
いつだったか、政治学者の中島岳志さんが例として引いていたこんなエピソードがある。
小泉内閣の時代、時の首相として靖国神社参拝を明言する小泉さんの行動について、その賛否を問う世論調査が行われた。参拝前の調査では、不支持が 支持を上回っていた。ところが、反対の声を押し切って小泉さんが参拝を果たした後に、その参拝についての評価を問うてみると、結果は「良かった」が「良く なかった」を上回る結果となった。
つまり、参拝前は、首相の靖国参拝を「望ましくない」と考えていた同じ国民が、実際に首相が参拝を終えてみると、その参拝の是非を問う質問に対して「良かった」と答えたわけだ。
われわれは、「起こってしまったこと」には、反対しない傾向を備えた国民だ。
それ以上に、「いまこうしてこうあること」には、ほとんどまったく疑問を持たない。
なんというのか、私たちは、現状肯定的な国民なのだ。
あるタイプの犬は、それがどんな過酷な場所であっても、自分が今住んでいる住み処を「自分にとってかけがえのない唯一の最も居心地の良い場所だ」と思い込む強い傾きを生まれつき持っているのだそうだが、私たちは、どこかしらその犬に似ているのかもしれない。
不満を持たないというのではない。どちらかといえば、不満を「私情」として内に秘めさせてしまう何かが、私たちの基礎的な行動パターンに刻み込まれているということだ。
似たことは何回も起こっている。
最近の例では、オリンピックについての見方で、典型的な変化が生じている(ちなみに今回のイラストは、組織委員会の森喜朗会長です)。
オリンピック招致活動がはじまったばかりの頃、招致を支持していた国民は少数派だった。それが、招致活動が本格化し、最終的に投票が行われた13年9月の時点になってみると、賛否は、招致支持が多数を占めるようになっていた。
まあ、ここまではわかる。いざ招致活動がはじまってしまえば、街中にノボリやポスターがあふれることになるわけだし、国民的な人気のある有名アス リートや芸能人が招致のために骨を折ることにもなる。そういう姿を見て、反対していた民心が招致に向けて軟化するというのは、ありそうな話だからだ。 わからないのは、招致が決まった後、不支持の声がほぼ消滅してしまったことだ。
私の記憶では、招致活動の最終段階でも、3割から4割の国民は、五輪招致には消極的だったはずだ。が、一夜にして、ほとんどの国民が五輪の招致を 歓迎するムードに変わったのだ。反対派が声を上げるのをあきらめたということもあるだろう。が、「決まった以上、支持に回ろう」と思った人たちも少なくないはずだ。
これは、巷でも良く聞くセリフだ。 「決まった以上、全員一致で行こう」 「これまで、色々な行きがかりがあったことはわかっている。が、とにかく、会社の方針がA案で決定した以上、過去のいきさつは忘れて、全社一丸で社長を支えて行こうじゃないか」 「とにかく決まったことなんだからグダグダ言うなよ」 「不満なのはわかるが、これは、会議で決まったことで、君も決議に参加している以上責任者の一人だ。私情を捨てて力を尽くしてもらわないと困る」
こういう言い方は、あるいは乱暴だとも思うのだが、思いついてしまったので書くことにする。
なんというのか、わたくしども日本に住んでいる善男善女は、「ひとたび決まってしまったこと」については、内心の不満や反対を措いて、とにかく逆らわないことに決めている人たちだと思うのだ。
われわれは、「起こっていることは良いことだ」と思い込んでいる。
あるいは、そう思い込まされている。
何かについての賛否は、それが決まる前までは、そのイシューそのものへの賛否として問われている。が、ひとたび決定が下ってしまうと、それは「み んなで決めたこと」に変質し、質問自体も、その「みんなで決めたことに乗るか乗らないか」を問う脅迫に似たものに変質してしまう。そして、当然のことながら、「決まったこと」への賛否において問われているのは、実は、特定の問題についての支持や不支持ではない。
決まったことへの態度によって、われわれは、「日本人であること」の資格を問われ、「会社への忠誠心」を問われ、「常識」そのものを問われている。ということは、集団の中で生きている人間に、逃げ場は無いわけだ。
具体的な次元で言えば、まだやってくるかどうかわからないオリンピックを招致するかどうかについての質問は、オリンピック自体についての賛否に過ぎない。賛成でも反対でも、好きに答えれば良い。
が、招致・開催が決まったオリンピックに反対することは、「みんなで決めたこと」を裏切るひねくれ者の態度であり「国策」に背を向ける「非国民」 の振る舞いであり、「盛り上がっているみんなの気持ち」に水をかける「空気を読まない鼻つまみ者」のマナーだということになる。とすると、これは、なまなかな決意で口に出せる言葉ではない。
てなわけで、私たちは、一部の決断を全員の運命として引き受けるための言葉を常に自分の内心に準備しておくことで、集団の一員から外れることの恐怖に備えている。
さらに、一部の決断を全員の承認に見せかけるべく、なにかにつけて会議を招集し、会議に先立っては、多数派による制圧が全員一致の合意に見えるように根回しを怠らない。
会議は不思議だ。
この国では、会議は、むしろ「活発な論議」を封殺するために開かれる。
論議は、会議が開かれる前の根回しの過程で、様々な駆け引きや、恫喝や、多数派工作のおまけとして行われるに過ぎない。
会議の本番では、全会一致が重んじられる。
議決が全会一致でなくても、決定事項は、会議に参加した全員の共通の課題になる。
であるからして、決まったことに反対する人間は、イシューに背を向けているのではなくて、組織そのものに叛旗を掲げる人間とみなされることにな る。これでは、誰も反対できる道理がない。というよりも、わが国のように集団主義が力を持っている社会において、会議は、議決に参加させることを通じて反対派を黙らせるためのツールとして開催される、一種の責任分散装置であり沈黙強制過程なのである。
このあたりの機微について、橋下徹大阪市長が鋭いことを言っている。
市長は、10月12日、大阪市内で、大阪府知事&市長のダブル選(11月22日投開票)に向けた街頭演説を行い、その中で以下のような演説をした。 「安倍(晋三首相)さんがなぜ支持されるのかというと、批判されても実行するからだ」
この発言は、多分に大阪の自民党と中央の自民党本部の分断を狙った言葉でもあるのだろうし、もっと深読みをすれば、ダブル選挙以後の国政選挙を睨んで、政権与党への秋波を送った意味もあるのかもしれない。
が、ともあれ、発言の主旨である 「批判されても実行するから支持される」 という内容は、真実を突いている。
10月15日の産経新聞のインタビューで、橋下市長は、安倍首相が、集団的自衛権の行使やTPPの問題を乗り越えた点を賞賛した上で、以下のように語っている。 「安倍さんは、どれだけ批判があっても実行する。最後に評価を下すのは選挙だと考えていると思う。新聞やテレビ、有識者やデモ隊に評価してもらうわけではない。選挙が非常に重要視される真の民主主義に日本は近づきつつある。喜ばしいことだ」(こちら)
つまり、 「どんなに反対されていることでも、信念を持って断行すれば、国民はついてくる。メディアの評価や目先の世論調査の数字にまどわされずに、信ずるところを実行して、あとは選挙の審判を待てば良い。それが民主主義だ」
ということなのだろう。橋下さんらしい選挙万能主義を体現したあざやかな断言だと思う。
「批判されても実行するから支持される」
という橋下さんの言葉を逆方向から読み直すと、 「国民は、自分が反対している政策であれ何であれ、決然と実行するリーダーを待望している」
ということになる。
なんと。独裁者待望論そのものだ。 独裁者は、国民を鎮圧し、黙らせ、萎縮させることを通じて権力を握るのではない。
むしろ、独裁者は、国民に待望され、国民の期待に応え、国民世論に背中を押される形で登場する。
ということはつまり、独裁者を作るためには、独裁志向の人物に権力を与える前に、まず国民が独裁者を待望する心情をあらかじめ共有していなければならない。
その条件は、既に整っていると思う。
私たちは決断が嫌いだ。
もちろん、決断の好きな人もいるだろうし、自己決定こそが人生のすべてだと思っている人もいるはずだ。
でも、多数派の日本人は、決断を嫌っている。
ランチのメニューを自分で決めるぐらいなら、大勢に従って不味いランチを食べる方がマシだと思っている会社員は決して少なくない。それほど、われわれは、決断に伴うプレッシャーと、そこから派生する責任と、決断に費やす思考の負担を嫌っている。
・何かの調査で見かけただけで数字まではおぼえていないのだが、家族の夕食を担当している主婦にアンケートを取ると、彼女たちが負担に感じているの は、調理や食材の買い物よりも、なによりもまず献立を考えることそのものであるらしい。決められたレシピにしたがって料理することや、使うことが決まっている食材を買い出しに行く手間よりも、夕食のメニューを一から考えることが、何より彼女たちにとって気の重い作業だというのだ。
実はこれはすごくわかる気がする。
私も、原稿を書くことそのものよりも、ネタを考えることが何よりも負担だからだ。
女性誌が時々発表するアンケートでも、「デートしていてがっかりする男」の上位には、「デートコースや店の選択を自分でデキない男」が必ずや顔を出すことになっている。女性誌の読者である夢見る恋人未満の女性たちの立場からすると、どういう店が良いとか、どんなデートコースが望ましいということ以上に、店選びやメニュー選びを自分の才覚で決然とこなすことのできる決断力のある相手とともに過ごす時間を望ましく思っている、ということなのだろう。
私自身、食事の店を選ぶのは大嫌いだ。相手がどんな美人であっても、会食の店を考えるのは御免だ。その代わりと言ってはナンだが、連れて行かれた店がどんなに劣悪な空間であっても苦情を述べるつもりは無い。決断するぐらいなら、私は不味いメシを食べる。
店に入ってからメニューを選ぶのも、もちろん苦手だ。デートコースなど、考えようと思ってみただけで家から出たくなくなる。
こういう話を独裁の話と結びつけるのはどうかと思うのだが、私が言いたいのは、われわれが「自己決定権」を、そんなにありがたく思っていない国民だということだ。
ということは、「自己決定権を求める市民」を前提としたところから出発している欧米発の民主主義政治思想は、自己決定を憂鬱な重荷と感じる市民を多く含むわが国の市民社会には、うまくフィットしないということでもある。
このことは、この数年の政党支持率の推移の中に 「何でもいいから、好きにしてくれよ」
という捨て鉢な声が響いていることと、私がなんとなく感じていることとは、どこかでつながっている。
思えば、3年ほど前に流行した「決められる政治」というスローガン自体、どうかしていた。なんとなれば、決めるのは有権者であって、政治はそれを実現する過程に過ぎないはずだからだ。
なのに、われわれは、政治に「決断」を求めた。
具体的には、「自分でない誰か」に決断を丸投げにしたい欲望を抱いたということだ。
これは、「勝手に決めてくれ」という、マンションの管理組合の会合に出ることを面倒臭がっているオヤジが、中身も見ずに、委任状のすべての項目に◯をつけている姿とそんなに変わらない態度だと思う。
上昇しつつある支持率が、個別の政策や全体としての政府の方針に対してでなく、リーダーの決断力に向けられたものであるのだとすると、私の側からは何も言うことがない。
それでも、まあ、好きにしてくれとは言わないでおく。
好きなように決めさせないことだって、政治の役割だと思うからね。 (文・イラスト/小田嶋 隆) ≫(日経ビジネス:ライフサプリ > 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明)
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