http://www.asyura2.com/15/senkyo195/msg/811.html
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辺野古で政府に排除される人々。これが「本土から来た運動家」に見えますか。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/e0d329cf5719dad9c3275db15e9d3953
2015年11月02日 Everyone says I love you !
キャンプ・シュワブ前で資材搬入を阻止しようと座り込んだ人たちは、次々と機動隊員や警備員によって排除されていった。
2015年10月29日午前7時10分、沖縄県名護市。
2015年6月。
沖縄慰霊祭にやってきた安倍首相にヤジを飛ばして抗議した男性のことを、英BBCなど海外メディアが一斉に報じたのに、肝心の日本のNHKが全く報道しようとしなかったということがありました。
そのことを記事にした時に、この男性は本土から来た運動家だとコメントした人がいて、私は正直のけぞりました。
この人が沖縄の人だと、見てわからないのか、と。
「へい、NHK。なんで安倍首相に『帰れ!』と叫んでいる人々を映さないんだ?」グリフィスAFP通信副支局長
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/a01fce741dc6a34753af95b14be2e1d0
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ロイター通信 2015年6月23日 Japan PM Abe met with rare heckling at Battle of Okinawa ceremony(日本の安倍首相が沖縄戦慰霊の式典で異例の野次を浴びる)より
http://uk.reuters.com/article/2015/06/23/uk-ww2-anniversary-japan-idUKKBN0P30TT20150623
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安倍政権は2015年10月29日午前、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先、名護市辺野古沿岸部で埋め立ての本体工事に着手しました。
辺野古を移設先に定めた1999年の閣議決定から、16年の年月を経てとうとう本格的な工事に踏み出したのです。
安倍政権が辺野古でいきなり基地本体の埋め立て工事に着手。普天間海兵隊基地はグアムに移転すべき。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/ffa7367397f0d6e76096c71fd86fc78e
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この日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先とされる名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ前では、移設計画に反対する人々が早朝から激しく抗議しました。
ゲート前に座り込んで工事車両の進入を阻止しようとする人たちを警察官が排除するなど、現場は騒然となったそうです。
沖縄防衛局が29日、新基地建設に向けた埋め立て本体工事に入ったことを受け、辺野古在住で移設に反対して抗議行動を続ける島袋文子さん(86)も同日、米軍キャンプ・シュワブのゲート前に駆け付け、最前列で体を張って抗議行動をしました。
辺野古のキャンプ・シュワプゲート前で抗議活動をする、島袋文子さん(右から二番目)と沖縄社会大衆党の糸数慶子参議院議員(左から二番目)ら。
この人たちが本土から来た運動家に見えますか。
島袋さんは警察官に抱えられて排除されても、再び車両進入の阻止のために抗議行動を続けました。
さらに他の市民らが一時休憩の時間に入っても、しばらくゲート前を動かず怒りをぶつけ、強制排除しようとする警察官には声を荒らげて抗議しました。
島袋さんは、1929年、後に沖縄戦最後の激戦地となる糸満(いとまん)市で生まれ、小学校1年生の時に父親を亡くしました。戦争末期、兄たちは防衛隊などに徴用され、家に残ったのは目の不自由な母と15歳の文子さんと10歳の弟でした。
辺野古にある米軍キャンプ・シュワブのゲート前のテント村で19年!座り込みを続けている島袋さん。
警察官に混じって警備員も市民を排除する。彼らは、辺野古への基地移設関連の業務を担う建設会社などが契約した民間の警備会社の警備員。警察以上に暴力的だとして悪名高い。
「一生にひとつぐらい良いことをやろうと思っていますが、難しいです。
私ができることは、基地建設を止めることぐらい。それができたら、今すぐにでも天国に行ってもいいです。思い残すことはありません。
でも、この海を埋めるなら、海に入ってでも止めるよ」
この日も
「負けない方法 勝つまでずっと 諦めぬこと」
と記したピンク色のTシャツを着けた島袋さんは早朝から座り込みに参加。
他の市民らとスクラムを組み、排除しようとする警察官らをにらみつけました。
「名護市辺野古の新基地建設に向け、防衛省・沖縄防衛局は29日早朝から、陸上部分の本体工事に着手した。
普段、穏やかな笑みを絶やさない島袋文子さん(86)が、別人のような形相で警備員をにらみつけ、怒りの声を上げた。
血の水をすすって沖縄戦を生きながらえ、本土とはまったく異なる米軍支配下の戦後を歩んできた86歳の老女を、日本政府は国家意思によって排除したのだ。」
10月30日 沖縄タイムス社説
『[辺野古本体工事着手]自治破壊する暴挙だ』 より
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=139317
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関連記事
暴力を肯定しているのは誰なんですか、安倍首相。辺野古での海上保安庁の圧倒的な暴力をまず止めさせて!
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/4e0ab9d65a29f0def41db8dc8dddf06b
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これまで島袋さんのことを知らなかったのですが、冒頭の写真などに驚き、今回いろいろと調べました。
19年間、座り込み!
驚きました。
「負けない方法 勝つまでずっと 諦めぬこと」
肝に銘じます。
2015年10月29日 中日新聞夕刊
政府、辺野古埋め立て工事に着手 知事「強権極まれり」
http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2015102902000265.html
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米軍キャンプ・シュワブのゲート前で、工事車両を止めようとして排除される人=29日午前、沖縄県名護市で
政府は二十九日午前、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先、名護市辺野古沿岸部で埋め立ての本体工事に着手した。辺野古を移設先に定めた一九九九年の閣議決定から、十六年の年月を経て本格的な工事に踏み出した。辺野古移設を推進する政府と、反対の立場の沖縄県は、それぞれ法的対抗策を繰り出しており、裁判による決着をにらんだ応酬が続く見通しだ。
翁長雄志(おながたけし)知事は県庁で記者団に「強権極まれりだ。国は浮足立っている。しっかり対峙(たいじ)したい」と述べ、政府の姿勢を批判した。
工事主体の防衛省沖縄防衛局は「護岸工事に必要な仮設工事の一つであるシュワブ敷地内作業ヤードの整備工事に着手した」と発表。移設先に隣接する米軍キャンプ・シュワブ内の陸上部分から工事を始めた。翁長氏による十三日の埋め立て承認取り消しで中断していた海底ボーリング調査関連作業も再開した。
工事阻止を目指す県側は、翁長氏による承認取り消しの効力を停止した国土交通相の決定を不服として、第三者機関「国地方係争処理委員会」に近く審査を申し出る。
政府側も、今後予定する埋め立てに明確な法的根拠を得るため、知事に代わって取り消し処分を撤回する「代執行」の手続きに入った。手続きの一環として国交相が翁長氏に撤回を勧告する文書が二十九日、県に届いた。
防衛局は当面、護岸造成に必要な資材の置き場や仮設道路を整備する。これに続いて土砂を搬入し、沿岸部の約百五十七ヘクタールを埋め立てる予定だ。県に提出した着手届で、工事完了予定日を「二〇二〇年十月三十一日」とした。
◆世耕官房副長官「普天間返還進める」
世耕弘成官房副長官は二十九日午前の記者会見で、米軍普天間飛行場の移設の本体工事に着手したことについて、「一日も早く普天間飛行場の返還を進め、住民の事故の危険や騒音被害をなくして基地の縮小を着実に進めたい」と述べた。地元住民が反発を強めている点については「沖縄県民の理解を得られるよう、適宜説明を行いたい」と述べた。
◆沖縄住民座り込み 逮捕者も
米軍普天間飛行場移設に向けた埋め立て本体工事が開始された名護市辺野古では二十九日、移設に反対する市民らが資材の搬入を阻止しようと、早朝から米軍キャンプ・シュワブのゲート前に座り込み、警察官ともみ合いになった。道路には一時、工事関係車両十台以上が立ち往生した。
辺野古沿岸部では午前八時すぎ、クレーン車が小型船を海面に落とす作業が確認された。反対する市民グループのメンバーは船を出して海上でも抗議。日米両政府による立ち入り制限区域を示すオレンジのフロートを乗り越えて区域内に入り込んだ船が、海上保安庁のゴムボート二隻に取り囲まれる場面もあった。
朝からゲート前の座り込みに参加した主婦徳森セツ子さん(64)=南風原(はえばる)町=は、警察官とのもみ合いで服の一部がちぎれたという。「工事車両を阻止できず悔しい。沖縄に対する扱いは戦後七十年間変わらないだけでなく、よりひどくなっている」と憤った。
市民団体代表の安次富浩さん(69)=名護市=は「沖縄は日本政府やアメリカ政府のものではない。思うようにはさせない」と強調した。
午前九時半ごろゲート前を訪れた稲嶺進名護市長は、「問答無用という形にしか映らず、とても許される行為ではない」と厳しく非難。「名護市や県との事前協議は何もクリアされていない。本体工事の着手とは言えない」と政府をけん制した。
名護署は同日、キャンプ・シュワブのゲート前で進入防止のため設置された防災メッシュを引き裂いたとして、器物損壊容疑で抗議に参加していた自営業男性(36)を現行犯逮捕した。
「翁長よくやった」 辺野古取り消し、反対派から歓声
http://www.asahi.com/articles/ASHBD6GVLHBDTIPE00M.html
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岩波精
2015年10月13日11時31分 朝日新聞
「埋め立て承認取り消し」の一報が伝えられ、キャンプ・シュワブ前に設けられた移設反対派のテントから歓声があがった=13日午前、沖縄県名護市辺野古、岩波精撮影
沖縄県の翁長雄志(おながたけし)知事が13日、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の移設先とされる同県名護市辺野古の埋め立て承認を取り消した。辺野古にある米軍キャンプ・シュワブのゲート前では同日午前、移設計画に反対する人々から拍手がわきおこり、「よし」「翁長よくやった」と声が上がった。
反対派は午前6時ごろから、この日の座り込みを開始。午前10時に沖縄県庁で翁長知事の記者会見が始まると、スピーカーから流れる音声に約200人が聴き入った。19年間座り込みを続ける島袋文子さん(86)は「明日から大変だと思うけれど、負けない。私たちは命をかけて座っている」と話した。
1週間前から抗議行動に参加しているという同県宜野座村の安慶田由美さん(26)は「これから国も対抗してきて、全面対決になると思う」。那覇市で生まれ育ったが、「基地があるのが当たり前で、平和活動に参加したこともなかった」。仕事の関係で上京し、6月から安保法に反対する国会前集会に参加するようになって思いが変わったという。「戦争は昔のことと感じていたけれど、安保法の動きを見ていてひとごとと思えなくなった。民主主義は地元に住む人の意見を尊重するはず。いまの政府のやり方はおかしい」
同県うるま市から来たという池原盛助さん(76)は「翁長さんはぶれたりしないと信じていた。孫やひ孫に基地のない社会を残すためにも戦い続ける。これからが勝負よ」。同県浦添市のキャンプ・キンザーで40年間働いた。ベトナム戦争の時には、兵士のためのアイスクリームを現地に送ったという。「基地は戦争につながる。造らせないことが必要だ」と話した。(岩波精)
沖縄のおばあが語る沖縄戦・最後の証言「日本兵は住民を守ってくれませんでした」
http://wpb.shueisha.co.jp/2015/08/21/52263/
週刊プレイボーイ 2015年8月21日(金)6時0分配信
現在は辺野古新基地建設反対の座り込みにも参加している島袋さん。彼女の左腕には米軍の火炎放射器で焼かれた痕が残っている
戦後70年の沖縄の夏、名護市辺野古の米軍基地建設現場には不自由な体を押して座り込む「おじい」「おばあ」の姿があったーー。
なぜ、彼らはそこまでして抗議を続けるのか。その中にいる多くの戦争体験者が抱く強い思い、エネルギーの源泉となる沖縄戦とはなんだったのか?
1945年3月に始まり、米軍が凄まじい戦力で進攻する中、3ヵ月以上続いた無謀な戦いで県民の4人にひとり、12万人以上が亡くなった。
そこで起こったことに戦後70年の今、体験者の証言から思いを馳せてほしい。
* * *
「あたしはね、命からがら壕(ごう)から這(は)い出したんだよ」
と静かに力を込めて語る島袋文子さんは、キャンプ・シュワブのゲート前で座り込みを続ける地元・辺野古のおばあだ。座り込みテントには足の悪い文子さんのために専用の折りたたみイスが用意されている。
昨年は工事用資材を積んだトラックが基地に入るのを止めようとして立ちはだかった。県警機動隊に排除された時に頭を道路に打ちつけ、救急車で運ばれることに。過激なおばあだが、その壮絶な人生を知ると、命を張ってまで基地建設を止めようとする理由がわかってくる。
* * *
1929年、後に沖縄戦最後の激戦地となる糸満(いとまん)市で生まれ、小学校1年生の時に父親を亡くした。戦争末期、兄たちは防衛隊などに徴用され、家に残ったのは目の不自由な母と15歳の文子さん、10歳の弟だった。
「艦砲射撃や空爆、機銃掃射が激しくなって、米軍が糸満市にも迫ってきていました。それで母の実家のある与那城(よなしろ ※現・うるま市)に家族3人で避難することにしたんです。昼は艦砲射撃が激しく危険なので壕(ほり)に隠れて、夜になると移動するんです。でも、夜でも照明弾が上がると昼間のように明るくなる。そうすると、周辺でまた艦砲射撃が始まります。
なんとか艦砲射撃から逃れて与那城に着いた時には、もうすでにたくさんの避難民がいて、私たちが逃げ込んだ壕はすし詰め状態でした。そして壕の向かいの家の庭に爆弾が落ちて、その家のおばさんは両足を切断されました。たまたまそこにいた避難民の男の子もやられました。男の子のおなかが裂けて内臓が飛び出していたのを覚えています。でも、誰もその光景をどうすることもできません。自分のことで精いっぱいでしたから」
与那城の艦砲射撃も激しくなったため、文子さんは母親、弟と糸満に引き返すことにする。
「目の不自由な母と弟の手を引いて暗闇の中を歩くのは本当に大変でした。母は少しの食料を頭の上に載せていました。平坦(へいたん)な道路だけじゃなく、畑の中も通りましたが、住民や日本兵の死体がたくさん転がっていました。艦砲や機銃掃射でやられた死体です。
目の見えない母に『お母さん、ここは人が死んでいるからまたいでください』と教えながら死体をまたいで歩かせるんです。腐敗して体内にガスがたまって、パンパンに膨れた死体を踏まないように進むことは大変でした。艦砲に当たる怖さより、死体を踏むことが怖かった。間違えて踏んでしまうと、猛烈な悪臭がするんです。
ある晩、弟が『水が欲しい、水が飲みたい』と言うので、真っ暗な中を探し回り、砲弾跡にできた水たまりを見つけて、その水を弟にも母にも飲ませました。私も飲みました。
翌朝、明るくなると、水たまりには住民や日本兵の死体が浮いていました。水は死んだ人の血で真っ赤に染まっていました。暗闇の中で汲(く)んだ水は死人の血が混ざった水だったのです。そのことは母にも弟にも言いませんでした。
糸満に帰る途中、5歳ぐらいの子の手を引いて、もっと小さな子供をおんぶして逃げている女性がいました。手には荷物を持っていました。そこへ艦砲弾の破片が飛んできて赤ちゃんの首をサッと切り、首が飛んでいきました。頭がなくなっていました。真っ赤な血が噴き出しました。あの光景は今でも忘れられません」
そうして糸満に着くまでに、どれくらいの時間を歩いていたのか記憶がないという。
「糸満では3畳ほどの広さの小さな壕に4家族が一緒に隠れることになりました。壕の外から米兵が『出てこい』と叫びました。あたしたちは『天皇陛下のために命を捨てなさい』『捕虜になったら、男は戦車でひき殺され、女は裸にされて辱(はずかし)めをうける』と教わっていましたから、捕虜になるより死んだほうがましだと出ていきませんでした。
そうしたら、穴の中に手榴弾(しゅりゅうだん)が投げ込まれました。何人かは亡くなりましたが、私たちがそれでも出ていかなかったので、今度は米兵が火炎放射器を壕の中に噴射したんです。息もできず、苦しくて、両手を挙げて出ていきました。髪の毛は焼け焦げ、左半身のほとんどがやけどになっていました。その時に負ったやけどや手榴弾によるケガの痕が、今も私の頭、首、顔、腰、尻、太もも、膝、足まで全身に残っています。
皮肉にも、小さい時から鬼畜と教わっていたアメリカ兵が、やけどや傷の手当てをしてくれました。これが日本兵だったら見捨てられていたでしょう。日本兵は住民に銃剣を突きつけて『ここは日本軍が使う』と言って、隠れていた壕から追い出しました。大切な食料を日本兵に奪われることも珍しくありません。
壕の中で日本兵と一緒の時は、小さい子供がいる母親は特に大変でした。暗くて怖いから子供が泣くでしょ。すると『泣き声でアメリカ兵に見つかってしまう。静かにさせろ!』と、子供の口をふさいで窒息死させてしまったこともありました。日本兵は住民を守ってくれませんでした。住民をアメリカへの盾に使っていたのです」
今も辺野古で闘い続ける島袋さんのところには、沖縄戦の体験と米軍基地の話をしてほしいとの講演依頼が各地からある。
「長野県から呼ばれた時、会場近くの長野市松代に天皇を避難させるために掘られた大本営の壕が残っていることを知りました。『この壕を掘る時間を稼ぐために、沖縄の私たちは犠牲にさせられたのだ。どうしても見たい』と思い、案内してもらったことがあります。天井が高く、立派な地下壕でした。入り口から500m辺りまでしか入れませんでしたが、その奥に天皇や皇族の部屋、食堂、食料倉庫などがありました。
同じ時期、自分たちは沖縄で食べるものもなく、狭くジメジメした壕にすし詰めになって、死線をさまよっていました。本土決戦に備え、天皇の隠れ家が掘られていたことをあらためて知って、全身に怒りがこみ上げてきました」
戦後の一時期、島袋さんは基地でメイドとして働いた。生きるためだ。
「キャンプ・シュワブの将校ハウスの掃除や台所の手伝いなどの仕事でした。英語がカタコトでもできたので高給をもらえました。でも、ベトナム戦争が始まって、将校が『ベトナムに行く。これはビジネスだ』と言ったんです。その言葉を聞いた途端、沖縄で殺された人たちのことが頭に浮かんで『何がビジネスだ!? 人殺しがビジネスだと? ふざけるな! 人殺しがビジネスなんて許されるわけがない!』とその場で荷物をまとめて、仕事を辞めました。以来、基地の仕事はやっていません。
一生にひとつぐらい良いことをやろうと思っていますが、難しいです。私ができることは、基地建設を止めることぐらい。それができたら、今すぐにでも天国に行ってもいいです。思い残すことはありません。でも、この海を埋めるなら、海に入ってでも止めるよ」
キャンプ・シュワブゲート前には今日も、たくさんの県民が集まっている。その中に島袋さんの顔もあった。一度、インタビューの途中で彼女が感情を抑えきれなくなり、取材を中止せざるを得ないこともあった。70年たった今も、当時の混乱した記憶は整理できていない。つらく悲しい記憶は体験者の頭をかき乱す。沖縄戦のトラウマに苦しめられている。血圧上昇、頭痛、情緒不安定など症状は様々だ。
しかし、それらを乗り越え、体験を次の世代に残さなければという強い思いが、おにぎりとおかずの梅干し入り豚肉炒めを持って、今日も灼熱のゲート前に向かわせるのだ。
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