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新著「超・反知性主義入門」が話題の小田嶋隆さん(C)日刊ゲンダイ
コラムニスト小田嶋隆氏 「言論弾圧は自主規制から始まる」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/168014
2015年11月2日 日刊ゲンダイ
反知性主義という言葉が流行している。立憲主義を否定し、学者の声も黙殺した安倍首相に対して向けられたもので、社会学者の上野千鶴子・東大名誉教授は「立憲主義の危機だけではない。知性の危機、学問の危機、大学の危機だ」と訴えた。そこで話題なのが「超・反知性主義入門」(日経BP)の著者・小田嶋隆氏(58)だ。反知性主義なのは野蛮政権のトップだけではない。そういう政権を選んだ国民にも危険な兆候が広がりつつあるという。
――この本は小田嶋さんの連載コラムをまとめられたものですが、もうバサバサというか、日本人の反知性主義が「これでもか」と出てきますね。生贄を求める社会、絆思考の危うさ、言論の自殺幇助……。世の中、全体が思考停止というか、反知性主義に毒されたというか。
言論の自殺幇助でいえば言論弾圧って、憲兵がやってきて、言論の自由を掲げる闘士をしょっぴくみたいなイメージがあるじゃないですか。でも、実際は違って、公安や警察が直接手を出すことなんてまずあり得ない。戦前もそうだったけど、自主規制なんですよ。このテーマを書くと編集長がいい顔しないよ、読者の抗議はがきが殺到するよって。こんなふうに外側からやんわりと圧力がかかって書きにくくなる。ある種、言論に対する民意が言論の自殺幇助になる。
――本の中には戦前の息苦しさを描いた「言論抑圧」(中公新書・将基面貴巳著)の引用が出てきます。〈いかなる官憲も、軍人も、私自身に向かって、この原稿が悪いとか、こういうことを書くなと命じ、または話してくれたこともない。すべてが雑誌記者もしくは新聞記者を通じての間接射撃であった〉という馬場恒吾氏の言葉です。この間接射撃をしている主体は国民なんですね?
戦前の言論弾圧だって、そんなことを言うのは非国民だ、お国のためにならない、許すなって、そういう民衆がたくさんいたと思うし、今がまた、同じような社会になっていると思います。
――よく安倍政権の言論弾圧が話題になるけど、それをやらせているのは、国民であると?
ユネスコの記憶遺産に南京大虐殺が登録された時、菅官房長官は分担金を減らすことを示唆しました。驚天動地の発言で、昔だったらクビが飛んでいると思う。虐殺した数についての議論はあってしかるべきだが、虐殺の事実そのものを否定したり、分担金を減らしてユネスコに圧力をかけるのは別次元の話でしょう。しかし、菅官房長官がああ言うのは、国民の方に『ユネスコはケシカラン』という応援の声があるのを感じたからだと思う。ああいう発言ができちゃう空気が、すでに存在しているんですよ。
■「政治家はタカをくくっているんです」
――戦前の「欲しがりません」みたいな国策標語も、むしろ民衆が率先したような気がします。
標語にあおられて戦争が泥沼化したのではなく、民衆にこびるような標語が作られた。順序として国民の熱狂の方が先だったように思います。
――五輪招致の時も、賛成しないと「なんで水をかけるんだという空気がある」と言われてましたね。
五輪招致に賛成ではないという国民が2、3割はいるんじゃないですか? でも少数派の意見は控えろみたいな。こういうのが言論の不自由の最初の兆候です。会議は全員一致、会社は全社一丸。これがよき社会の在り方であると。シラけるような行動はやめなさいって。
――そういうところ、本当にありますね。
最初は招致活動に反対だったのが、始まっちゃうと、やるんだったら勝ちたいよね、となる。招致に成功すると、決まった以上、みんなで頑張ろうねとなる。戦争もそうなんです。誰も戦争なんかしたくないけど、始まったら、戦争反対の声はかき消されて、国策標語の世界になる。
――危ない国民性ですね。
だから、政治家はタカをくくっているんですよ。反対運動が多くても断固として信念を貫き通せば、日本人の場合、賛成に転じると思っている。安保法制もそうだと思います。
――お上のやっていることだから、しょうがねえかと?
主体性がないんです。サラリーマンもそうです。これはおかしいと思って会社批判をしながら、しかし、最後は社の方針だからとかいって、黙ってしまう。理屈じゃなくて、最後は「だっておまえ、日本人だろ」「だって、同じ社員だろ」ってのが殺し文句みたいになる。
ネトウヨを恐れない辛口ぶり(C)日刊ゲンダイ
――集団になると、理性的な判断を棚上げしてしまうんですかね?
日本人は集団になると変わってしまう。揃いのユニホームとか着ると、2割くらい下品になるじゃないですか。祭りの法被、慰安旅行での浴衣。そういうの着ると、途端に乱暴になったりするでしょう。個々の日本人は普段、控えめで温かいのに、チームになると、とても残酷になったりする。これがスポーツ観戦ならいいんです。あれはチケット買って、選手と同じユニホームを着て、人工的な一体感を買うゲームのようなもので、2時間くらいすれば覚めるから。しかし、この残酷さが社会の中で出てくると怖いと思う。お国のための一体感、陶酔感で、人が変わってしまった国民が、非国民探しを始めたりするんです。
――みんなで生贄を求めるような社会風潮も気になりますね。これも反知性主義として、ご本で取り上げられている。
端的なのは佐野研二郎氏叩きですね。彼の仕事の中に、若干、コピペ、パクリを疑われる事例があったことは事実ですが、膨大な仕事の中から、疑わしいものを拾い集め、叩く。擁護すると「グルか?」となる。この先、新しいエンブレムができても、ネット検閲のゲシュタポが出てくると思いますよ。
■助け合う社会が美しいという勘違い
――お話を聞いていると、集団になると人が変わって残酷化する日本人と安倍政権の組み合わせが怖くなります。くしくも、この政権は個を否定しようとしている。1億総活躍とかいって、個人の利益よりも公共の利益を押し出そうとしている。それに対して、国民は反発するかと思ったら、のほほんとしている。
国民の側も、自分たちが独立した個であることをそんなに望んでいないじゃないですか。歴史を振り返ってみても日本人ってそうでしょう。
――お上の言うことを聞いて、付和雷同の方が楽だから?
戦後民主主義は人間が個人として尊重されるべきであり、それはいいことであると。アメリカから輸入した憲法にそう書かれていて、それをうのみにして信じてきた人は多いけど、そうした考え方は、日本の伝統を分断する悪の思想だと思っている人も決して少なくないと思います。
――最近はそういう人が増えてきた。あるいは目立つようになってきた。そこに安倍政権が登場して、個よりも国家を押し出している。
キッカケは景気が悪くなったことでしょうね。景気がいい時は個だとか公だとか、どっちを優先すべきかなんて考えない。どういう原則で国が動こうが、おおむねうまくいっていればOKになる。しかし、20年、30年と不況が続くと、何がいけないんだろう? と考える。もしかしたら個人主義が国をむしばんでいるんじゃないか。そう思う人が出てくる。1億総活躍という言葉は「活躍」じゃなくて、「総」に力点が置かれている。1億人が一塊になるべきだという思想ですよね。私は活躍も嫌だけど、1億って言葉の方がもっと嫌です。その下にどんなすてきな言葉が入ろうが絶対に嫌ですが、そうじゃない人々が安倍さんの「日本を取り戻す」という考え方に変なところで呼応しているように感じます。
――「ALWAYS三丁目の夕日」の世界? みんなで助け合って頑張れば、もう一度、高度成長時代が来るって妄想?
安倍さんは新著で、あの時代の日本は貧しかったけど人々のつながりがあったと書いていますが、この人は何も知らないなと思いました。あの時代、貧乏だから、助け合わなければ社会が回らなかった。相互扶助を本来の地域社会の美しい姿だというのは違いますよ。助け合わないのが悪いんじゃなくて、困れば、みんな助け合います。干渉しないで生きていけるようになったんだから、それはそれでいいんです。しかし、個人の利益よりも公の助け合いを強調すれば、息苦しい社会になる。町の治安を守るために隣組が監視するようになる。みんなと違う意見を言う人は黙れと言われる。そんな社会のどこがいいのかと思います。
▽おだじま・たかし 1956年生まれ、58歳。小石川高校から早大教育学部卒。ネトウヨを恐れない辛口コラムニストとして大活躍中。
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