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もう皆さん、内心では分かっているのにそれとは違うかたちでものを考えものをいうのはやめませんか。
白は白、黒は黒と言いましょう。自己欺瞞・自己慰撫はおわりにしましょう。
その代表的なひとつは、「われわれの父・兄・祖父たちの尊い犠牲のうえに/そのおかげで戦後日本の平和と繁栄がある」という言いかたです。
さきの戦争でのわれわれの父たちのいたましい死と、「戦後日本の平和と繁栄」とに因果的関係などあるものですか。
いたましい戦死、そんなもの無しにすませられればそのほうがよい、そんなものなしに平和と繁栄を築きあげることができればそうのほうがよいに決まっています。いたましく、むだな死だったのです。
しかし、ここで言いたいのはこのことではありません。
戦後日本の基本をかたちづくった3つの決めごと=サンフランシスコ講和条約、日本国憲法、日米安保条約がいずれもが、(戦勝国の代表たる)アメリカから押し付けられたものだ、ということから始めようと言いたいのです。
このうちサンフランシスコ講和条約については、戦勝国が敗戦国と結ぶものですから、すでにポツダム宣言を受諾した日本に押しつけられるのは当然で(ソ連・中国が欠け、また欠けたままアメリカ主導のかたちでの講和を日本支配層の一部が望んだということはあるが)、どこにも異論のないところです。
また憲法については、押しつけかそうでないかすでに議論されていることで、ここでは簡単にのみ述べます。
つまり、たとえそこに日本側の私案と同じ要素が含まれてあろうが/また若い法務将校団の理想主義があらわれたものであろうが、それが押しつけであることは間違いありません。
たとえば9条1項はパリ不戦条約以来の流れを汲むものでとくに押しつけという必要もないが、2項は、戦勝国が敗戦国日本の永久武装解除をねらったもので、押しつけられたものです。
しかしこれについては、憲法が押しつけかどうかを論じることにはたいした意味はなく、今では、押しつけであろうとなかろうとわれわれ国民がこれを自己のものとして活かしていくことできるかどうかが問題となっている、と思います。
◇
ただ、日米安保条約(旧・新)については「押しつけ」との認識は強調されていない、そして、憲法については押しつけかどうかは今や大きな意味をもたないが、安保条約についてはそこをきちんと確認することが、条約の意味の正しい評価のためには欠かせない、と考えるのです。
この条約の意味については、アメリカは日本を守ってくれるが日本はアメリカを守らなくてよい(だから押しつけではない)とか、その代わりに基地を置かせている(ないし置かせる義務を負う)というものだとか、そのおかげで日本は(軍事費負担をまぬがれ)経済的発展をとげたとか、言われている。(ビンのふた論なんてのもあったが、どうでもよい。)
しかし旧条約は、まず外形的に、押しつけだった。つまり、その成立・調印のとき日本国民に選択の余地はなかった。講和条約調印の直後に(実質的には同時に=講和と引き換えの条件で)調印された。表面上は、主権を回復することとなった(批准・発効はまだ)国家としての日本がことわることもできた時間順序でされたことは大した意味をもつものではない。実質的には押しつけであろう。(批准のときも国民にその意向が問われることはなかった。)
また、内容的にも、それは押しつけだった。講和により占領終了すれば非武装の日本列島に軍事的空白が生じるのでそれをふせぐためだとか、そのためアメリカは日本の再軍備を目論んだが時期尚早でかなわなかったとか、むしろ日本側が軍事的空白をおそれてそれを望んだ(=前文)とかまで、言われる。どれも、そうではないとは言わない(日本の指導層=支配層の一部にはその向きもあったろう)。しかしそれらはいずれも本質ではない。
まず、旧条約・前文および第一条はこうなっている。
「日本国は、本日連合国との平和条約に署名した。日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。
無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。よつて、日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。
・・・
これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。
アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある。・・・
よつて、両国は、次のとおり協定した。
第一条 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに・・・外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。 ・・」
米軍の駐留を「日本が希望し、許与し」、アメリカが「これを受諾する」。ことさらにこのような表現をとることが、逆にこれが押しつけそのものであることをはっきりと明かしている。
論理的にも、押しつけであることは明らかだ。
アメリカが日本に基地をおく、そのような約束をするとしたら、それがアメリカの利益になるからであることは間違いない。国家が、他国のためにボランティアでやるはずがないからだ。同時にそれが日本の一部支配層(=指導層といってもいい。以下同じ)の利益になるとしても、それは本質ではない。)
◇
そして、押しつけというこの観点から安保条約(旧)を見れば、その本体=アメリカがこの条約に見出す利益は何か、が分かる。
つまり、この条約のアメリカにとっての本来目的は、講和による占領終結にさいしてなお引き続き日本列島(沖縄島はまだ含まれない)に基地をおき駐留する権利を得ること、に尽きる。
それは「極東における平和と安全の維持」のためだが、すでに支配的地位にある国が「平和」というとき、それは既存の・自らにとって有利な秩序の維持に他ならない。
さらにこの観点から見れば、「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与する」とはただ、日本列島にある米基地への攻撃があればこれに対して反撃防御する(=日本領域内でのそのような軍事行動の権利を、日本から得る)、ことを意味する。かりに付随的・結果的に日本列島も防衛されることになるとしても、それはこの条約の本体ではない。日本国民のためその国土と生活を防衛することは本来の目的ではない。
(日本支配層が、付随的・結果的に防衛されることに利益を見出すとしても、それはことの本質ではない。
しかもその利益と、基地があるために日本列島・日本国民が受けうる危険およびアジアに及ぼしうる危険との比較衡量もされねばならない。つまり「極東における平和」は米基地の存在によってもたらされるのかどうか、その場合の「平和」とは何か、われわれが求めるアジアの平和とは何か、が検討されなければならない。)
1960年の新条約においてこの点が改められ「片務性」が弱められたか(逆にいえば、押しつけ・不平等性が弱められたか)は議論されている。
もう詳論はできないが、結論だけをいえば旧条約の上記性格は変わっていないと考える。条文だけあげておく。
第五条 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。・・
第六条 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリ力合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。・・
以上、第六条が本体であることには変わりがないように読める。と言うか、上記旧条約の本質(=駐留が本来目的、日本列島防衛が付随的結果)が変更されたと解すべき理由は、ない。
ついでにいえば、新条約もその改定(調印)・批准のとき国民にその意向が問われること(総選挙)はなかった。
またこのとき主権国家としての日本に形式的には選択の余地がなかったわけではない。しかしすでに伊達判決をくつがえした砂川大法廷判決が出ていたことからも分かるように、アメリカの利益およびそれと結びついた自分たちの利益にもとづいて動く日本の支配層・指導層はシステム的に形成されていた。
いずれにしても、国民の選択したものではないという意味では、それは国民にとって「押しつけ」だった。
70年には自然延長になっている。
◇
日米安保条約は日本に・われわれ国民に押しつけられたもので、その目的は日本を・われわれ国民の暮らしと国土をまもるためのものではない(もし日本国民を守るのが主要目的というなら、アメリカはなぜ、何のためにそんなことをするのか)。
この、われわれ誰もが内心では分かっている当然の前提を確認し、そこから出発して自己欺瞞・自己慰撫なしに、ものを考えようではありませんか。
そうすれば結論は明らかです。
戦勝国・連合国の一方の雄としてのアメリカは1945年以来、日本の永久武装解除 → 占領から引き続いての駐留継続。これにより日本列島を、極東・アジア・東半球支配秩序維持のための根拠地と化すこと → その同じ目的と必要のため、今度は日本の武装解除方針の変更。警察予備隊のち自衛隊の創設 → 「米日同盟」強化。日本側からの「集団的自衛権」の能動的行使体制整備 → そのため必要な憲法改変、というコースを一貫してすすんでいる。これにみずからの利益を見出す日本の支配層・指導層の一部もますます深くそこに組み込まれ、追随している。
このたび、日米安保条約廃棄を一時たな上げにしても新「安保法制」再廃止のために共闘・統一を、と提案されている。提案する側は上記安保条約の本性を当然視野において、なお「棚上げ」してもよい、と言っている。このばあい安保条約破棄は、いま求める「安保法制廃止」に直結したその延長上にある。
だからいかに「棚上げ」とは言っても、提案を受けた側の諸勢力にとっても、「安保法制」再廃止が日本とアジアの真の平和のためのものであるのだから、この目的と相容れない米基地の維持・アジアにおける米軍事力の維持を本体とする日米安保条約に対しいかなる態度をとるかが不問に付せられてよいわけではない。
これに対しては批判的態度をとるべきこと、を前提にしてはじめてこの提案を受け入れる資格は得られる。即時廃棄でなくても、段階的あるいは将来的見直しでもよい(それが「棚上げ」の意味だ)。
しかし、「外交の基軸である日米同盟を深化させ」る(民主党綱領)ことを無批判にかかげる勢力は、そのままでは・この資格をもたない。
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