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オフィス北野ホームページより
ビートたけしが安倍政権の道徳教育を真っ向批判!「道徳を守れないお前らが道徳を語るな」「日本の道徳観は単なる郷愁だ」
http://lite-ra.com/2015/10/post-1615.html
2015.10.24. リテラ
来年夏の参院選以降、ついに憲法改正に取り組むと表明している安倍晋三首相だが、彼にとって憲法改正と同様に悲願のひとつに「道徳の教科化」がある。安倍首相は第一次政権時にも道徳の教科化に乗り出したが、「人の心に成績をつけるのか」と非難が相次ぎ、あえなく挫折。だが、今度は満を持して、小学校では来年2016年に、中学校は17年に教科書検定が行われ、そこから2年後には道徳が「特別な教科」として授業が行われることになっている。
もともとはいじめ対策の一環として打ち出された道徳の教科化だが、そんなものは後付けにすぎず、真の目的は「愛国心教育」にある。事実、第一次政権で改定した教育基本法でも「愛国心」と「公共の精神」を盛り込み、安倍首相は「日本人としてのアイデンティティをしっかりと確立していくことも大切だ」と発言。いわば今度の教科化は、愛国教育によって軍国主義に駆り立てた戦前の「修身」の復活を目論んでいるのは明白だ。
こうした動きに対して危機感を募らせている人は多いが、そんななか、あの有名人が一冊の道徳本を出版した。北野武の『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』(幻冬舎)だ。
タイトルだけを見ると、押しつけがましそうなうさん臭さがプンプンするが、中身は意外にも、道徳そのものを疑い、問い直す内容だ。
そもそも道徳とは何かということを、たけしはこう綴る。
〈道徳なんてものは、権力者の都合でいくらでも変わる。
少なくとも、いつの時代も、どんな人間にとっても通用する、絶対的な道徳はないっていうことは間違いない。それだけは頭に入れておいた方がいい〉
〈道徳は社会の秩序を守るためのもの……といえば聞こえはいいけれど、それはつまり支配者がうまいこと社会を支配していくために考え出されたものなんだと思う〉
そして、文科相の学習指導要領の「社会全体のモラルが低下している」という一文には、〈俺の個人的感想をいわせてもらえれば、社会のモラルは良くなった気がする〉〈モラルが低下したというのは、要するに自分のモラルに自信がなくなっているということだろう〉という。
〈学習指導要領には、「児童の道徳性の育成に、大きな影響を与えている社会的風潮」のひとつとして、「物や金銭等の物質的な価値や快楽が優先される」とある。
それはあんたたちのことだろう! と、とりあえずツッコんでおく。景気が良くなれば、世の中すべてが上手くいくみたいなことをいっているのは、いったいどこの誰だろう〉
たけしの道徳教育へのツッコミは、こうした「大人がエラそうに上から子どもに言う資格があるのか」という点にある。たとえば、学習指導要領には「正直に明るい心で元気よく生活する」「友達と仲よくし、助け合う」といった、一見すると害のない言葉がならぶが、たけしはこれも欺瞞だという。
〈正直に生きるとか、みんな仲良くするってことを突き詰めたら、どうしたって商売とか経済活動を否定しなきゃいけなくなる。(中略)
南北問題にしても、結局は誰かが儲けりゃ誰かが損するという話を、地球規模でやっているだけの話だ。(中略)
人件費が日本の何分の一っていう国があるから、日本の経済は成り立っている。俺たちが豊かな暮らしを享受しているのは、どこかの国の貧困のおかげだ。
その貧乏な国を豊かにするためには、日本はある程度、自分たちの豊かさを犠牲にしなきゃいけないわけだ。
そういうことを、学校の先生は子どもたちに話しているのだろうか。
話している先生もいるかもしれないが、少なくともこの国では、そういう先生はあんまり出世しないだろうなあとも思う。
そんな状況で、子どもに道徳を教えるってこと自体がそもそも偽善だ〉
そんな「偽善」の極みが、いじめの問題だ。いじめ対策から端を発した道徳の教科化だが、たけしは〈ものすごく単純な話で、子どもたちに友だちと仲良くしましょうっていうなら、国と国だって仲良くしなくてはいけない。子どもに「いじめはいけない」と教育するなら、国だってよその国をいじめてはいけない。武器を持って喧嘩するなんて、もってのほかだ〉と鋭くツッコむ。
〈「隣の席のヤツがナイフを持っているので、僕も自分の身を守るために学校にナイフを持ってきていいですか」って生徒が質問したとして、「それは仕方がないですね」と答える教師はいるだろうか。いるわけがない。
だとしたら、隣の国が軍備拡張したからって、我が国も軍備を増強しようっていう政策は、道徳的に正しくないということになる。いかなる理由があっても喧嘩をしてはいけないと子どもに教えるなら、いかなる理由があろうと戦争は許されないってことになる。(中略)
ところが、大人たちはどういうわけか、そっちの話には目をつぶる。
子どもの道徳と、国家の道徳は別物なのだそうだ。戦争は必要悪だとか、自衛のためには戦争も辞さぬ覚悟が必要だなんていったりもする〉
ここでたけしは「戦争反対といいたいわけじゃない」と述べる。〈道徳を云々するなら、まずは自分が道徳を守らなくてはいけない。それができないなら、道徳を語ってはいけないのだ〉と言うのだ。つまり、安倍首相およびそのシンパがやっていることや言っていることは筋が通っていないじゃないか、という話である。
また、安倍首相は道徳教育について「(日本古来の)伝統と文化を尊重する」「郷土愛、愛国心をちゃんと涵養する」と話すが、日本の伝統・文化からもたらされる道徳とは何か。これについても、たけしは切り込む。
〈誰もが田んぼを作っていた時代に、「和をもって貴となす」という道徳には根拠があった。田んぼの水は公共財産みたいなものだから、誰かが勝手なことをして、水を自分の田んぼにだけ引いたりしたら、他の人が生きられない。田植えにしても稲刈りにしても、近所や親戚が協力してやるものだった。周囲との衝突を嫌う日本の文化が、日本的な道徳の根拠だろう。
だけど、そういう時代はとっくの昔に終わってしまっている。(中略)
昔ながらの日本的な道徳観を支えているのは、単なる郷愁くらいのものなのだ〉
絶対的な道徳など、この世にはない。だから、たけしは道徳を〈牧場の柵〉と表現する。〈牧場の持ち主が変われば、柵のカタチや場所が変わる。昨日まで自由に行き来できたところが、いきなり立ち入り禁止になったりもする〉からだ。日本は敗戦によって〈戦前の道徳がひっくりかえって〉、道徳よりも経済活動に邁進したが、〈今頃になって、日本人はエライとかスゴイとか、日本人の道徳を取り戻せなんていい出したのは、その反動に違いない〉とたけしは看破する。そして、こう続ける。〈誰かに押しつけられた道徳に、唯々諾々と従うとバカを見る。それはもう、すでに昔の人が経験済みのことだ〉と。
ちなみに、本書のタイトルにある『「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』というのは、現在の道徳では〈年寄りに席を譲るのは、「気持ちいいから」〉と子どもに説明がなされていることから来ている。たけしはこれを〈誰かに親切にして、いい気持ちになるっていうのは、自分で発見してはじめて意味がある〉とし、「いいことしたら気持ちいいぞ」と煽る道徳の教科書を〈まるで、インチキ臭い洗脳だ〉と切り捨てている。
道徳教育への真っ当な批判──。たけしがいま、これだけの思いをもっているのなら、テレビでも同様に主張を繰り広げてほしいものだが、やはりこれは本というかたちだから実現したのだろう。というのも、「最近、テレビじゃ何も面白い事がいえなくてムカムカしてるんだ」(小学館「SAPIO」5月号)と言いながら、同時期に出演した『ワイドナショー』(フジテレビ)では、「(テレビで)本質を突いたら、結局プレッシャーかかるに決まってるんだから」と諦めモードだったからだ。
しかし、本書で述べていたように、上から押さえつけられ、ただハイハイと従っていずれ〈バカを見る〉のは、たけしだって同じではないのだろうか。だからテレビでも、本書に綴ったこの言葉を、たけしには口に出して言ってほしいと思うのだ。
〈結局、いいたいことはひとつなんだから。「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」〉
(水井多賀子)
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