5. 2015年10月16日 10:43:13
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「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明」 なぜユネスコを恫喝するのか2015年10月16日(金)小田嶋 隆 国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)について、ややこしいニュースが流れてきている。
いくつかのメディアが報道しているところによれば、ユネスコは、このほど、中国が申請していた「南京大虐殺の記録」を世界記憶遺産(Memory of the World)に登録したというのだ。 事態を受けて、菅義偉官房長官は、10月12日に出演した民放の番組の中で、ユネスコに拠出している拠出金について「政府として停止、削減を含めて検討している」と表明した(こちら)。 「ユネスコ」は、私の世代の者にとって特別な価値を持った名前だ。個人的には、「国連」そのものよりもありがたみが大きい。 というのも、高度成長期の東京近郊に生まれ育った人間は、小学生の時代に遠足などの機会を通じて、埼玉県所沢市にあった「ユネスコ村」を訪れた経験を持っているはずだからだ。 ユネスコ村は、1951年に日本がユネスコに加盟したことを記念して開演した娯楽・文化施設だ。ちなみに、1951年というこのタイミングは、サンフランシスコ条約が発行して主権が回復する1952年よりも早い。52年に申請して56年に加盟が承認された国連への参加と比べても5年も前だ。つまり、ユネスコへの加盟は、戦後の混乱と孤立の中にあった日本が、国際舞台への復帰を果たす最初のきっかけになった出来事だったわけだ(参考リンクはこちら)。 それだけに、昭和30年代の子供たちにとって、ユネスコ村はその言葉の響きだけでわくわくさせる対象だった。施設自体も、当時としては珍しいインターナショナルな雰囲気の遊園地だった。園内には、オランダの風車があり、チューリップのお花畑があり、世界の住宅があり、メリーゴーランドが回っていた。 後年、村内にあった大きな広場は、野外コンサートやイベントが開かれる場所になった。 私は、高校1年生の時、所沢に住んでいた友人の家に一泊して、当時大人気だった天地真理という歌手がユネスコ村の広場で開催した新曲発表会に出かけたことがある。 時間どおりに広場に駆けつけた約10万人の愚か者の一人であった私は、運営から渡された色のついた板を手に、人文字航空写真の1ドットとしての扱いに耐えながら、丸々2時間ほど、炎天下のユネスコ村広場に立っていた。 「ごめんねー。真理遅れちゃったー」 と、ヘリコプターから降り立ったお目当ての歌手がたわけたセリフをほざいた後のことは、あまりよく覚えていない。 アタマに来ていたからだと思う。 もしかしたら、私はその時点で帰ったのかもしれない。 ともあれ、以来、私はアイドルビジネスに心を許したことはない。 思春期の純真につけこんだ、ネズミ講よりタチの悪い商売だと思っている。 とはいえ、ユネスコ村に悪印象を抱くことはなかった。 ユネスコという名前のつくあれこれについて、私たちは、点が甘い。 ユネスコと名の付くものは、いずれであれ「世界の」「国際的な」「教養あふれる」「平和と人権のための」「善き人々による」「文化的な」何かだという思い込みを、私の世代の人間は、ごく幼い子供だった時分に、心の奥底に刻印している。 であるから、世界遺産のような物件に対しても、ほとんど批判能力を持っていない。 だからこそ、白神山地や、熊野古道や、富岡製糸工場や、富士山などなど、自分が多少とも知っている場所が登録されるたびにわがことのように喜んでいたわけだ。 それが、どうやらおかしなことになっている。 菅さんは、ユネスコへの拠出金を停止することを考慮しはじめていることを明言している。 安倍晋三首相は遺憾の意を表明している。 そのほか、何人かの政府関係者や自民党の幹部が、世界遺産の政治的利用を非難している。 ヒゲの隊長として知られる佐藤正久参議院議員(自民)は、「歴史戦」という言葉を使って、政府が一体となってこの問題に当たることの重要性を指摘し、あわせて次回の「記憶遺産」の審議で、「慰安婦」が申請される事態にそなえて「先手」を打つことを訴えている(こちら)。 私たちは、ユネスコに裏切られたのだろうか。 そう考えるのは早計だ。 何かに裏切られたと考えている人間の多くは、裏切られたというよりも、単にその何かに対して不当に高い期待を抱いてたことの報いを受けているに過ぎない。つまり、ハシゴをハズされたと思っているのは彼の側の勘違いで、彼はありもしないハシゴを登って中空に浮いていたのである。 だとしたら、落ちるのも当然ではないか。 調べてみると、「世界記憶遺産」という訳語自体、ややフレームアップくさい。 本家本元の「世界遺産」が「World Heritage」であるのに対して、「世界記憶遺産」は、「Memory of the World」だ。ということは、「世界の記憶」ぐらいに訳しておく方が元の語感に近い。事実、メディアによっては「ユネスコ記憶遺産」と、より軽いニュアンスの訳語を採用しているところもある。 「世界遺産」は、大看板だけに、影響力が大きい。 そして、影響力が大きいということは、「さまざまな思惑で利用され得る」ということでもある。 現実に、「世界遺産」登録された物件は、どれもこれも、登録されるや盛大に商業利用され、広告利用され、観光利用され、町おこし利用されまくりながら、今日も順調に利益を生み続けている。 とすれば、その世界遺産の歴史資料パートとも言える記憶遺産が、政治利用されるであろうことは、はじめからわかりきった話だ。 政治利用されることが当然だと言っているのではない。されるべきだと言っているのでもない。政治利用の排除をユネスコに求めることが、スジとして見当違いではなかろうかということを私は言っている。 政治利用ということであれば、1996年に世界遺産(文化遺産として)に登録された「原爆ドーム」だって、まったく非政治的な施設だとは言えない。戦争の記憶や傷跡につながる施設や資料は、誰がどう扱ったところで必ず政治的なニュアンスを帯びてしまう。これは避けることができない。 ただ、ユネスコによって指定なり登録された国際的な遺産を、特定の国や勢力が政治的なカードとして利用し、プロパガンダの材料にしているのであれば、そのことに対しては、当然、抗議しなければならない。 が、抗議を向ける先は、ユネスコではなくて、現実にユネスコの登録施設を政治利用している国なり組織であるはずだ。今回の場合で言うなら、中国に対してその政治利用の姿勢を改めるように求めるのが妥当だろう。南京事件の犠牲者の数やその範囲について、事実関係を争うつもりがあるのなら、その点に関して証拠となる資料を集めて、わが国の立場を堂々と主張すれば良い。 あるいは、もっと外堀から、南京事件に関しての日本の側からの言い分を、様々なチャンネルを通じてPRするのでも良い。発信される情報に説得力があれば、それは、長い目で見て、少しずつでも世界を動かして行くことになるはずだ。 百歩譲って、登録を承認したユネスコに対して抗議をするのだとしても、その手段については、熟慮しなければならない。言葉と道理をもって、こちらの立場と言い分を伝える努力は、続けなければならないだろう。 が、ユネスコを恫喝していったい何が得られるのだろうか。 ユネスコのような国際機関を恫喝する国が、国際社会の中で尊敬を得ることができるものなのかどうか、冷静になって考えてみれば、誰にでもわかりそうな話ではないか。 しかも、その恫喝の材料がカネだ。 気に入らない出し物を引っ込めない限りカネを出さないという村祭りの胴元みたいな言い草に、国際社会のメンバーのいったい誰が共感するというのだ? あまりにも馬鹿げている。 判定に対して不満を持つことは、スポーツの世界でもよくあることだ。 というよりも、スポーツの勝敗を分かつ最も大切な場面には、必ず死活的な判定が介在しており、その判定には双方のチームからの強烈な不満がぶつけられることになっている。そして、スポーツの醍醐味のひとつは、ルールと判定と不満と抗議が交錯する究極の混乱に直面した人間が、錯綜した事態を収拾していく過程の中にある。 競技によって、抗議の様相はさまざま(ラグビーでは抗議はご法度だが、サッカーではわりと頻発する。テニスやアメフトには「チャレンジ」という制度が導入されている)だ。が、すべての競技に共通しているのは、審判を恫喝するような抗議の仕方は、はじめから問題外だということだ。 ユネスコに対して加盟国が拠出金を停止する措置は、スポーツの抗議で言えば、10年に一度ぐらいのタイミングでプロ野球の世界に発生する「試合放棄」に相当する。 一種の自爆攻撃と言って良い。 まあ、実際に拠出金の停止をすることまではしないだろう。いくらなんでも、うちの国の首脳とてそこまで愚かではないはずだ。が、拠出金の停止をチラつかせてユネスコを脅迫しにかかったという事実は、既に記録に残ってしまっている。 この段階で、既に十分に愚かだ。 どうしてこのような振る舞い方をしてしまったのだろうか。 思うに、今回の一連の対応は、現在の政権の支持基盤がそうさせているところのものだ。 以下のリンクは、今回のお話とは直接に関係のない記事だが、この記事の中にある表を見てほしい(こちら)。 ごらんの通り、第3次安倍改造内閣の20人の閣僚のうち、実に17人が「神道政治連盟国会議員懇談会」に所属している。ほかにも、12人が「日本会議国会議員懇談会」に、13人が「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」に籍を置いている。 表の中で名前を挙げられている団体は、いずれも南京事件に対して、歴史修正主義的と言われる主張を展開している組織だ。ということは、政権は、個々の閣僚や担当者がどう思っているのであれ、その支持基盤である人々への配慮から、ユネスコならびに中国に対して、強く当たらざるを得ない。このことは、政権の構造として、あらかじめ定められている。 かつて、「特攻隊」の遺書などの関連資料について、記憶遺産申請の手続きに入るように首相自らが指示していたことを示唆する記事が出たこともある(「FACTA」2014年5月号)。事実なのだとすると、これもアタマの痛い事案だ。 過去の歴史を振り返れば明らかな通り、国家が戦争のような狂った選択に向けて舵を切る事態は、時の政権が国民を誘導することだけで、起こるわけではない。 最終的な局面では、むしろ支持基盤である国民の側が、政権を動かす形で戦争への道を後押しするケースが目立つ。つまり、政府は、そのコアな支持者に引きずられる形で、愚かな政策を選択せざるを得ない形にハマって行くわけだ。 私は、菅官房長官が、自分のアタマでユネスコ恫喝を思いつくほど愚かな政治家だとは思っていない。安倍首相にしても同じことだ。たぶん、安倍さんも個人の判断としては、今回のやり方がいかにも乱暴で、わが国の国益につながらないという程度のことは理解しているはずだ。第一、こんなことをしていたら、国連常任理事国入りなど、夢のまた夢ではないか。 にもかかわらず、ああいう態度を取らずにおれない。 支持基盤の顔を立てて、彼らを失望させないためには、そういうふうに振る舞わないといけない、と、そう考えるからだ。 ある偏った思想に基づいた政権とその支持基盤は、互いに、双方の主張をエスカレートさせながら、どこまでも偏向して行く。あるタイプのマニア向け雑誌が、読者との共犯関係の中でどこまでも偏向を深めて、最終的に変態としか言いようの無い境地に到達するのと似ている。 首相ならびに官房長官は、ぜひ深呼吸をして、自分たちの政策を見なおしてみてほしい。 でないと、大惨事安倍政権てなことになる。 (文・イラスト/小田嶋 隆) そういうマニアックな雑誌がたまらない。 そういう人の気持ちもよく分かる私です。 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。 このコラムについて 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/101500015/
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