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2015-10-12 10:36
mewは、このブログの中で、日本が米国に隷従していることに関して、「(安倍首相の祖父)岸信介元首相らがCIAから資金提供を受けていた」ことや、「自民党が、反共政策を推進する米国から資金その他の支援を受けて、結党された」ことの影響が大きいという話を何度か書いたことがあるのだが・・・。
今朝の西日本新聞に、『「岸信介を傘下に納めた」日米双方の思惑が築いた蜜月関係』という実に興味深い記事が載っていたので、それをアップしたい。(・・)
【CIAの秘密資金提供 米国務省は2006年に刊行した外交史料集で、米中央情報局(CIA)が1958年から約10年間、日本の左翼勢力を弱体化させ保守政権の安定を図るために資金提供を行っていたと明らかにした。58年5月の衆院選などで親米保守の政治家数人に提供したほか、60〜64年は左派穏健勢力にも年間7万5千ドル程度を渡していた。保守系政治家の氏名、政党名、提供額には触れていないが、研究者の調査などで岸政権下の自民党有力者らが対象だったことが明らかになっている。2015年09月24日更新 西日本新聞 ワードボックス】
【wikipedia「自民党」・・・当時より1964年(昭和39年)まで、アメリカ中央情報局より「共産主義の影響を排除するための、プロパガンダ的秘密支援計画」の一環として資金援助を受ける。】
* * * * *
その前に、ちょこっと岸信介氏が自民党を結党した&首相になった経緯をおさらいするなら・・・。
岸氏は、満州国で国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がけた後、日本の商工省に復帰して、次官就任。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任。昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望されたという。
終戦後、東條英機内閣が大東亜戦争を開戦した時の重要閣僚であったことから逮捕され、A級戦犯被疑者として3年半、巣鴨プリズンに拘留されていたのだが。
1948年12月に不起訴のまま、釈放されることになる。(・o・)
『東京裁判では開戦を実質的に決めた1941年(昭和16年)11月29日の大本営政府連絡会議の共同謀議には参加していなかったこと、東条英機首相に即時停戦講和を求めて東条側からの恫喝にも怯(ひる)まず東条内閣を閣内不一致で倒閣した最大の功労者であること、元米国駐日大使ジョセフ・グルーらから人間として絶対的な信頼を得ていたことなどの事情が考慮されたため、東條ら7名のA級戦犯が処刑された翌日の1948年(昭和23年)12月24日、不起訴のまま無罪放免された。(wikipediaより)』
岸氏は、釈放後も公職追放の処分を受けていたため、すぐに政治家に戻ることはできなかったのだが。東西冷戦が本格化して行く中、日本の「反共政策」を重視した米国は、岸氏らの保守系の政治家の処分を解除した。
政界に復帰した岸氏らは、米国から資金などの援助を受けて、社会党、共産党の台頭を防ぐために、保守系の自由党、民主党を合併(保守合同)させて、1955年に自民党を結党。首相になった岸氏は、60年に激しい反対デモが繰り広げられる中、強引に安保条約を改正したことで知られている。^_^;
『それも東西冷戦の影響による米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともに解除される。
政界に復帰し、弟の佐藤栄作も属する吉田自由党に入党するが吉田茂と対立して除名、日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。
石橋内閣にて外務大臣に就任。首班石橋湛山の病気により石橋内閣が総辞職すると、後任の内閣総理大臣に指名され、日米安保体制の成立に尽力し、60年安保の苦境も乗り切った。首相退任後も政界に影響力を持ち、自主憲法制定運動に努めた。(wikipediaより)』
* * * * *
自民党は1955年に結党以来、ごく数年間を除いて、55年以上にわたり日本の政治権力を握り続けることに。(~_~;)
東西冷戦の中、日米同盟を重視し、スポンサーである米国と協力、連携して経済・安保政策を進めるうちに、す〜っかり米国べったりの体制を作り上げてしまったのである。_(。。)_
そして、西日本新聞の記事によれば、その当時、米国の極東担当の国務次官補だった人が「岸氏が傘下に納まった」「(自民)党総裁になり、信頼に足る忠実な協力者となった」と記していたという。(>_<)
<「傘下に納まった」は、原文では「cultivate」という言葉が使われていたとのこと。記事の中で、原教授は、「米国は自分たちの望む方向に動くように岸氏を取り込んだ」というニュアンスに受け取ったと記している。
「cultivate」は、もともと「土地を耕す」という意味。植物を「栽培する」、水産物を「養殖
する」という時にも使われて、そこから発展して、人間や才能を「養う、育成する、教化する」とか、親交を「育む」などの意味でも用いられるようになっているのだけど・・・。
岸氏は、(ひいては日本政府も)米政府やCIAにcultivateされちゃったってことなのね。(ノ_-。)>
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「岸信介を傘下に納めた」日米双方の思惑が築いた蜜月関係
憲法改正を目指し、対米自立を望んだ岸信介元首相は、首相に就任する前から米国の冷戦戦略に取り込まれていた―。そんな認識を示す文書を、日米外交に深く携わった元米国務次官補が残していた。孫の安倍晋三首相の政治姿勢にも強い影響を与えた岸氏だが、背景を探ると、もう一つの顔が浮かび上がった。
文書はワシントン近郊のジョージタウン大図書館にあった。戦前戦後に在日米大使館で勤務し、1960年の日米安保条約改定時には極東担当の国務次官補を務めたグラハム・パーソンズ氏の文書コレクション。パーソンズ氏は、退官後の80年代前半に書いたとみられる未刊行の自伝で、岸氏に関してこう語っていた。
「戦犯(容疑者)だった岸氏は50年代半ば、大使館のわれわれによって傘下に納まった。その後、(自民)党総裁になり、信頼に足る忠実な協力者となった」(「傘下に納まった」の原文は「cultivate」。和訳は文書を見つけたオーストラリア国立大のテッサ・モーリス・スズキ教授と吉見俊哉東大大学院教授の共著「天皇とアメリカ」=2010年刊から)
63年の同僚宛ての手紙にも「われわれは54年、岸を傘下に納めた」。そこには有望な政治家と見なす岸氏を取り込んだ、との視点が鮮明にうかがえる。
55年の保守合同で自民党が誕生する直前の混乱期。保守派リーダーの一人だった岸氏は、米国とどうつながっていたのだろうか。
***** ☆
☆ 民主、自由両党の合同前に
保守合同前夜の1955年7月9日午後、東京の在日米大使館。当時の民主党幹事長だった岸信介元首相は、大使館のジョージ・モーガン参事官に招かれた。「キングサイズのスコッチ・アンド・ソーダ」を片手に約3時間半。モーガン氏の質問に冗舌に答える岸氏の姿があった。
膨大な米公文書の調査などを基に戦後の日米関係を米国側の視点で描いた「『日米関係』とは何だったのか」の著者、米アリゾナ大のマイケル・シャラー教授(68)が90年代に見つけた大使館から本国への報告文書には、その時の様子が詳しく記録されている。
民主、自由両党の合同はまだ時期が公になっていなかった。民主党を主導する岸氏は、合同が11月ごろになるとの見通し、新党首選びの状況、憲法改正や積極的な反共外交政策の採用、再軍備促進といった新党の政策などについて情報を「提供」(シャラー氏)。社会党の動向に関する推察も伝えた。いずれも米国側が欲していたとみられる。
☆ 岸氏こそ米国の政策に合致
岸氏は戦前、在日米大使だったジョセフ・グルー元国務次官とじっこんだった。同氏が日本で立ち上げたロビー団体の米誌東京支局長は、民主党幹事長時代の岸氏の英会話の家庭教師。支局長らは米政府に日本の政治状況などを報告、岸氏を売り込んでいたという。
50年代、反共のとりでとして日本に安定した保守政権の誕生を望む米国の思惑をよそに、54年12月に退陣した吉田茂首相の後を継ぐ鳩山一郎、石橋湛山両氏はそれぞれソ連との国交回復、日中関係改善を志向。もともと反共・反ソで保守合同の強力な推進者、岸氏こそ米国の対日政策に合致する政治家だった。ロビー団体の人脈などを通じて、米国は岸氏をさらに「磨いた」とシャラー氏は語る。
シャラー氏によると、50年代半ば、在日米大使館員が岸氏と会ったり、酒を飲みに行ったりしたとの記述も文書に散見された。岸氏がモーガン氏と会った当時の首席公使が、岸氏を「傘下に納めた」と記したグラハム・パーソンズ氏。大使館と岸氏とは深い結びつきができていたとみられる。
☆ 蜜月関係が権力へ導いた
シャラー氏は「岸氏は米国に取り込まれたというより、むしろ積極的に取り入ろうとしていたと私は考える」。日米安保条約の不平等性の解消を目指した岸氏だが、「米国の信頼を得なければ、それは成し遂げられないし、信頼されれば国内での自身の政治力も増すという計算もあっただろう」とみる。
55年、鳩山政権からの条約改定申し入れを一蹴した米国は、57年の岸政権からの交渉提起には応じ、60年に改定は実現した。
一方でシャラー氏は、岸氏が首相就任後、米中央情報局(CIA)と秘密の資金提供の関係を結んだと著書で明記した。「権力の座に駆け上がる過程で米国と築いた濃密な関係が、資金提供の土壌になったのもまた事実だ」と指摘した。
☆ 岸氏の戦略「独立のために従属」
▼「岸信介証言録」などの著書がある原彬久・東京国際大名誉教授
「cultivate」の意味について、私は「米国は自分たちの望む方向に動くように岸氏を取り込んだ」というニュアンスに受け取った。米国は岸氏を利用しようとしていた。彼らは岸氏を高く評価していたが、利害関係とは別のところで尊敬したり評価したりはしない。そんな生やさしい世界ではない。一方、岸氏も国内外の共産勢力と戦うため、米国を利用しようとしていた。だから米国の信頼を得るために情報を提供することもあろう。政治家として熟察し、いろんな計算の下で動いていたといえる。
CIAから資金提供を受けることは道義的に問題ありだが、当時は革新勢力も旧ソ連から資金援助を受けていた。強力な保守政権を築き米国から何とかして自立したい、選挙で革新勢力に負けたくない、との思いから岸氏はきわどい政治判断をしたのではないか。
逆説的な言い方だが、米国から独立するために従属する―というのが、皮肉にも岸氏の対米戦略だったと考える。(西日本新聞15年10月12日)』
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