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2015年09月29日 (火) [NHK総合]
視点・論点 「安保法制を考える(2) 〜法的安定性と国民の不信感〜」
NPO国際地政学研究所理事長 柳澤協二
先般、安保法制が成立しました。この法制を巡る国会の議論を振り返ってみれば、政府と野党の主張が全くかみ合わなかった印象があります。
その象徴ともいえるテーマは、冒頭から対立した法案の名称をめぐる議論です。政府は「平和安全法案」であると主張しましたが、野党からは「戦争法案」という声が上がっていました。
そもそも、戦争とは何かということを考えなければなりません。
戦争とは、一言で言えば、武力をもって国家意思を強制することです。武力以外にも、経済的に追い詰めるとか、国際世論によって孤立させるなどの強制の手段はありますが、究極の強制である武力を使う場合が戦争です。
相手が武力を使わないようにする手段にも、経済力や世論など、様々なやり方がありますが、武力を使おうとするのを止める最後の手段は、やはり武力です。相手が武力を使えば、それよりも強い武力によって目的以上の損害を与えることをわからせる。それによって、武力の使用を思いとどまらせる、これを、抑止といいます。
すなわち、抑止とは、相手がどうしても武力に訴えるならば、より強い武力を使う意思と力があることをわからせることによって、武力を使わせないという発想です。一種の脅しであり、力の論理です。
それは、戦争に巻き込まれないことを意図したものかもしれません。その意味で「平和法案」という言い方もできるでしょう。しかし、その方法としては、武力を使う覚悟によって相手を威嚇するわけですから、「戦争法案」という言い方もできるわけです。
戦争と平和とは、力の論理で見た場合には、まさに同じコインの裏表なのです。
安倍総理は、アメリカの船を守れば抑止力が高まって、戦争に巻き込まれなくなる、と言いますが、別の見方もありえます。アメリカの船を守れば、それを攻撃する国にとって日本も敵国になり、かえって日本に対する攻撃を招くかもしれない、という見方です。
ですから、国会で議論しておくべきだったのは、力による抑止がどこまで有効か、力にだけ頼っていては、かえって危険になることはないのか、ということだったと思います。
ところで、戦争とは何かについては、別の捉え方もあります。これまでお話ししてきたのは、国家の視点で見た戦争です。
市民の視点で見た戦争とは、殺し、殺され、生活を破壊されることです。今私たちが中東やアフリカで目にしているのは、まさにこうした悲惨な現実です。
今回の法制では、自衛隊の活動が広がり、こうした暴力から住民や他国軍隊を守ることができるようになります。しかしそれは、自衛隊が海外で武装勢力と戦い、殺し、殺されることですから、民間人を助ける目的であるとしても、市民の視点で言うところの戦争にほかなりません。これまで、海外で一人も殺さず、殺されていない自衛隊のあり方が変わります。
大切なことは、平和という言葉ではありません。平和の中にも欺瞞や妥協、抑圧や差別はあります。同様に、戦争にもそれなりの理由はあります。
市民の命を守るために軍事的な行動も必要でしょう。一方、我が国は、すでに難民の命を守るための経済的支援を行っています。日本もアメリカと同じように武装勢力をやっつけるのか、あるいは人道支援に徹し、和平を仲介しようとするのか、どちらが日本にとってふさわしい貢献なのか、を考えなければなりません。つまり、ここでの問題の本質は、世界に向けて、どのような日本の国家像を発信するかということだと思います。
国会論戦の中でかみ合わなかったもう一つの点は、どこまで政府の判断に任せるのか、という問題です。今回の法制では、政府が存立危機事態と認定すれば、我が国が武力攻撃を受けていなくても、集団的自衛権によって武力を行使することが可能になります。それはいったいどのような事態なのでしょうか。
これに対する政府の説明は、明確ではありませんでした。もちろん、将来どのような事態が起こるか100%予測することは不可能です。しかしそれは、集団的自衛権を行使する法律を、今、作る必要があるかどうかという立法事実の問題ですから、それを説明できなければ、そもそもこの法律の必要性がないということにほかなりません。また、認定の基準についても、たんに、政府の判断を信用しなさい、ということになってしまいます。
選挙で選ばれた政府の決定を信頼すべきだ、という意見も一理あります。一方、戦争の判断を政府に白紙委任することはできない、という意見も、もっともだと思います。なぜこうした不信感が生まれるのでしょうか。
私は、そのカギは、法的安定性にあると考えます。政府が、法的安定性を尊重し、決して乱暴なことはしないという安心感があれば、国民は政府を信用すると思います。しかし、政府・与党の側から、法的安定性を軽んじるような発言や、批判するマスコミはつぶせと言った発言が相次いだわけですから、多くの国民の不信感をぬぐえなかったのは当然だと思います。
問題は、国を守るためには法的安定性を無視してもよいか、ということだと思います。国防も、税金も、暮らしも、憲法を頂点とする法的安定性の中で運営されています。法的安定性を崩すことは、社会の形を崩すことを意味します。そうなると、国を守るために守るべき国と社会を壊してもよい、というおかしな結論になってしまいます。
これは、内なる国家像の問題です。私たち国民は、間違いがあっても強い政府を望むのか、さほど強くなくとも間違いの少ない賢い政府を望むのか、ということです。政府と言えども人間がやることですから、間違いはあります。法的安定性とは、その間違いの幅を最小化するための安全装置だと思います。
衆議院で小選挙区制が導入され、時代の風向きの変化によって議席が大きく変動し、政権交代は容易になりました。一方、多数を獲得した与党が、多様な民意を反映しきれなくなったという現実もあります。したがって、時の政権が、多数の議席を背景に思い切った政策を打ったとしても、それが長期的に見て国政の安定につながるのかどうか、という疑問があります。
今回のように、多数の世論が法案の成立を急ぐことに反対を表明しているとき、多数与党がそれに反して法律を作ったとしても、政権交代によって、それがいつか否定されるのではないかという不安感をぬぐえません。特に、安全保障政策という、国際的かかわりが大きい政策について、そうした不安感を持たれてはなりません。それだけ、政府与党の側で、ていねいな国民的合意形成の努力が求められていたのだと思います。
多数の反対意見を押し切って法律を通す背景には、今反対していても、国民世論はそのうち忘れて賛成に変わる、という判断があるのかも知れません。確かに、創立当初反対世論が多数だった自衛隊も、今はほとんどの国民が支持しています。
多くの国民が自衛隊を支持することになった背景には、創設以来60年にわたる歴史の中で、災害派遣で自衛隊が献身的に国民につくしてきたこと、そして何より、自衛隊が海外で一人も殺さず、一人の戦死者も出していない事実の積み重ねがあると思います。
それこそが、国民と自衛隊の絆であり、憲法9条のもとにおける自衛隊をめぐる法的安定性の根源であったと思います。海外における任務と武器使用を大幅に拡大する今回の法制は、隊員のリスクを高めるばかりでなく、国民と自衛隊の信頼をも崩すリスクをはらんでいると言えるのではないでしょうか。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/228332.html
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