http://www.asyura2.com/15/senkyo194/msg/130.html
Tweet |
第一生命保険本社ビルの本館6階にあるマッカーサーの旧執務室。ここで憲法の構想を練ったのか。現在は記念室となっているが、原則、一般公開はしていない。革張りのイスはすり切れ、脚がぐらぐらになっていた(撮影/写真部・大嶋千尋)
「日本がおかしくなる」と涙した米国人 憲法「女性の権利」のため奔走〈AERA〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151001-00000011-sasahi-soci
AERA 2015年9月28日号より抜粋
日本国憲法は、米国人の手によって作り出された。まさに事実だが、それを「押しつけ」と見るべきか。日本の憲法論を二分してきたテーマに迫りたい……憲法誕生にかかわった人とじかに接した人たちを訪ねた。
1946年2月4日朝。皇居のお堀の向かいにそびえ立つ東京・日比谷の第一生命保険本社ビル。その大会議室に二十数人のGHQ民政局の職員が顔をそろえた。呼ばれた理由は、ほとんど誰も知らなかった。民政局長のホイットニーが口を開いた。
「我々はこれから憲法を作る。週末の約束はただちに取り消し、全力を挙げて、1週間で仕上げてほしい」
まだ月曜日なのに。あっけにとられる各自に配られたのは、新憲法の基本姿勢を示したマッカーサーノートと呼ばれる文書だ。天皇の元首的地位の容認、戦争放棄、戦力の非保有、交戦権の否定、華族の廃止などをうたったその内容は、マッカーサーが腹心のホイットニーと共に練り上げたとされる。
マッカーサーが急いだ理由は、その3日前に毎日新聞が日本政府の憲法案をスクープしたからだ。その内容は、天皇について「神聖ニシテ侵スヘカラス」が「至尊ニシテ侵スヘカラス」など、大日本帝国憲法の焼き直しとしか思えなかった。13日に日本側と協議することになり、それまでにGHQ版の草案を作ってカウンターパンチを繰り出そうとしたのだ。軍略家のマッカーサーらしい発想だった。
日本国の最高法規である憲法が、GHQ、つまり米国人の手で作り出されたことは事実だ。しかも、わずか9日間で。
その突貫工事ともいえる制定過程を、丹念に追いかけたテレビ番組「日本国憲法を生んだ密室の9日間」を撮ったのがドキュメンタリー作家の鈴木昭典(86)だ。鈴木は言う。
「あの憲法は、日本の復興のストーリー、指針でした。米国務省の極東班は、当時のリベラルな知識人で知日派の人々の集まりだった。日本人は勤勉で正直な民族だが、その誠実さが軍部に利用され、戦争のエネルギーに取り込まれたという考え方で、基本的にはよい世界をつくろうという理想があった」
GHQの憲法チームの中に、人権問題や翻訳を担当した当時22歳の女性がいた。ベアテ・シロタ・ゴードンだ。
戦前の日本に5歳から住み、近所の友達はみな日本人。友達の母親が、家父長制度のもと、服従的な生活を強いられているのを見て驚いていた。
その娘で、米ニューヨークに暮らすニコル・ゴードン(61)によれば、ベアテは憲法に盛り込むべきだと作成した女性の権利の長いリストを、同僚や上司が削ろうとすると、こう反論した。
「私は、日本の女性の生活をよく知っている。いま男女の平等を憲法に書かなければ、日本は永久にそうした進歩的な権利を条文化することはないでしょう」
このベアテに生前、鈴木と共に米国でインタビューを行った政治学者の五百旗頭真(71)は、こう振り返る。
「彼女は、草案に女性の平等と自由を長々と書き連ねたら、ケーディス(民政局の上司)に『これは憲法ではない、憲法は大原則だけを言うんだ』といってバサッと切られたというんです。それで彼女は、それではまた日本がおかしくなると、ケーディスの肩に顔を埋めて泣いたと話していました」
日本政府との交渉でも人権の部分は激しい反対に遭ったが、ベアテの強い意思を知ったGHQ幹部も最後は擁護に回ったという。その結果、憲法における人権や女性の権利はかなり詳しく書き込まれた形で残った。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK194掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。