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ゲーム理論で考える
(上) 多数決は万能にあらず
社会分断あおる恐れ
坂井豊貴 慶応義塾大学教授
「多数決イコール民主主義」のような言説をしばしば耳にする。いわく、選挙の勝者は民意を体現するのだ、嫌ならば自分を次の選挙で落とせばよい、多数決は究極の民主主義なのだと。
だがいたずらに多数決をありがたがる思想のことを多数決主義(マジョリタリアニズム)という。これは民主主義とは異なるもので、両者は区別が必要だ。その際に重要なのが「ゲームのルール」として多数決を見る視点である。
まずは概念の整理から始めよう。多数決は「一番得票の多い選択肢が勝つ決め方」なので制度である。民主主義は「主義」というくらいだから理念だろう。制度と理念は別次元の概念なので、両者はイコールで結べない。それらを安易に結びつける視点には、最初からズレがある。
では民主主義とはいかなる理念か。端的にいえば、それは「被治者と統治者の同一性」を目指すものだ。言い換えると「私たちで私たちのことを決める」ことである。
理念は、それ自体では社会で実現しない。制度が必要である。すなわち私たちが問わねばならないのは、多数決という制度は、民主主義の理念を実現するのに適しているか否かということだ。
「私たちで私たちのことを決める」とき、満場一致なら話は早い。だがそれは常には成り立たないから、最終的には投票で決める。多数決はそこでよく使われる決め方だ。
だが決め方は多数決に限らない。そして多数決は様々な決め方の中で、かなり不具合の多いものだ。まずそれは「票の割れ」に弱い。
有名な例は2000年の米国大統領選挙だ。民主党のゴア氏と共和党のブッシュ氏の対決で当初はゴア氏が有利だったが、途中で「第3の候補」ネーダー氏が参戦。彼はゴア氏の票を一部さらい、「漁夫の利」を得たブッシュ氏が逆転勝利した。
現在、米国では来年の大統領選挙への候補者選びが進んでいる。共和党からの立候補を目指す実業家のトランプ氏は「自分を選ばないと、第3の候補として出馬する(それにより共和党を敗退させる)」という脅しを一時かけた。票の割れを背景とした脅しだ。
日本でも、自治体の首長選や衆院選で、票の割れはよく起きる。そこでは「対立候補が一本化に失敗した」というように言い表される。
だが第3の候補は出馬すべきでないのか。対立候補が一本化しないのは「失敗」なのか。有権者に豊かな選択機会を与えるのは、非難されるようなことなのか。非難されるべきは、それにより結果が奇妙な方向に変わる、多数決のほうではなかろうか。
ゲームの様子がおかしいときに、プレーヤーばかりを責めてもしようがない。ルールを疑う必要がある。より良きゲームになるような、多数決とは別のルールはないのか。
実は多数決の代替案は色々ある。中でも有力なのが、18世紀にフランスの数学者ボルダが考案したボルダルールだ。「1位に3点、2位に2点、3位に1点」のように順位に配点するやり方だ(図参照)。実際にスロベニアの国政選挙の一部でも使われている。
これだと有権者は細かな意思表示ができるので、「票の割れ」は起きない。一方、多数決は「1位に1点、2位以下はゼロ点」の配点だと考えると、比較しやすいだろう。
多数決もボルダルールも、「計算箱」という視点が重要だ。投票用紙がインプットで、選挙結果がアウトプットだ。だが多数決のインプットはごく少ない。有権者は「1位」しかインプットできないからだ。多数決は、有権者の心の中の「2位以下」を民意として全くくみ取らない。
これがさらなる問題を生む。多数決の選挙だと、社会的分断があおられやすいのだ。これを、政策をつくる側のインセンティブ(誘因)の面から考えていこう。
例えば選挙ですべての有権者から「2位」と評価される候補者を考えてみる。多数派のためではなく、万人のための民主主義を体現するような候補者である。
だが彼は選挙で勝てない。各有権者が投票用紙に書けるのは「1位」だけだからだ。その候補者が得るのはゼロ票である。つまり多数決の選挙で勝とうと思ったら、万人を配慮するのは不利だ。特定層の優遇やバッシングをするのが有利になる。一方、ボルダルールだと広い層から得点を集めなければ勝てない。分断をあおるのは不利だ。
このように、インセンティブを通じてゲームのルールを理解するのが大切である。良い状態を生み出すルールを逆算して考えるわけだ。このようにゲーム理論を活用して制度設計を考察することを、メカニズムデザインという。
さて、「イエス・ノー」の2択なら多数決でもよいのだろうか。例えばある政策案への賛否を問うケースが該当する。確かにこのとき票の割れは起きない。だが2択を迫られる状況は、ときに選択機会が最小化された状況でもある。どの案を問うかについて、提案者のインセンティブに注意を払う必要がある。
僅差で反対多数となった、5月の「大阪都構想を巡る住民投票」を考えてみよう。そこでは大阪市を廃止して特別区をつくる案への賛否が問われた。だがこれは、かなり極端な案である。食事のとき「水かウオツカ」のどちらかを選べというようなものだ。お茶やビールが欲しい人はやむなくどちらかを選ばされる。
政治家が住民投票を仕掛ける際、政争の面にも目を向ける必要がある。例えばあるテーマについて、政治家が「有権者の過半数から支持されそうな案」を複数持っているとしよう。彼はその中で「有権者から一番支持される案」ではなく「自分に一番有利な案」を提案できる。「51%の支持だが、政敵に強いダメージを与えられる案」を選ぶといった具合だ。提案者の力が非常に強いのだ。
前述の住民投票を振り返れば、橋下市長と大阪市議会は敵対的な関係にあった。もし結果が橋下氏の望む通り賛成多数となっていれば、彼は市議会議員たちを放逐できた。
住民投票自体を非難しているわけではない。政治家が住民投票を仕掛けるときには、内容のみならず、その権力行使のインセンティブにも注意が必要ということだ。
国民は多数決を経由して権力を政治家に預ける。だが集中した権力は強いので、好き放題に使わせるわけにいかない。それゆえメカニズムデザインの発想としては、権力を預ける際にあらかじめ「これ以上のことはできない」と制限をかけておくのが賢明だ。一例を挙げると、国会の立法権は強力なので、乱用を防ぐべく、憲法で適用範囲を制限していることが該当する。
この制限は可変である。憲法第96条は改憲を、衆参両院で3分の2以上と国民投票で過半数の賛成で可能と定めている。実はこの改憲ハードルは見かけほど高くない。小選挙区化が進む日本の国政選挙では近年「地滑り的勝利」が常態化しているからだ。衆院選では40%台の得票率で70%を超す議席を得るのは珍しくない。「3分の2条件」は成立しやすくなっているのだ。
現行制度はうまくできているのか、フェアプレーはなされているのか、ルール違反が起きてはいないか。いまある姿とあるべき姿を、厳しく区別しなければならない。
ポイント
○票の割れ起きやすい多数決ルールに問題
○有権者が細かな意思表示できる代替案も
○住民投票の提案者の誘因に注意払う必要
さかい・とよたか 75年生まれ。ロチェスター大博士。専門はメカニズムデザイン
[日経新聞9月21日朝刊P.17]
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