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2015年09月07日
以下は、魚住氏の、東大教授・高橋哲哉さんの『沖縄の米軍基地「県外移設」を考える』(集英社新書)の読後感コラムだが、非常に印象的当該図書からの引用文がある。
≪米国から提起された在沖海兵隊の岩国移転案をめぐる顚末は、「日本政府はアメリカにNOが言えない、というのは嘘だ」ということを示した。日本政府はこれまで、海兵隊の「本土」から沖縄への「隔離」を容認し、米国から撤退案が出てくればこれを引き留め、県外移設案が出てくればこれを拒否してきたのである≫
この「NO」と言える筈の日本と云う部分は、筆者を含め、多くの人々が思い込んでいた側面に、あらためて考えた方が良いと伝える一節だ。霞が関にとって、都合が悪いことや、利益関係に影響するとか、不測の事態を考慮するとか、いずれにしても、官僚組織の自己都合の場合には、今までも「アメリカにNOと言える日本」だった可能性は大いにある。政治家、霞が関、財界に不利に働く対米の諸問題には、強かに抵抗し、自己都合を堅守していたのだろう。と云うことは、国民の命とか財産とかは二の次、三の次で、ましてや世界の平和とか、地球の保全とか、思考経路の中に一切含まれていない連中によって、日本の政治は70年以上に亘って、略奪された儘と云うことなのだ。先ずは、じっくりと魚住氏の目を通して、高橋哲哉さんの『沖縄の米軍基地「県外移設」を考える』を味わっておこう。コラムを書く前に、積んであった同書を取り上げたのは言うまでもないが、全部読む程時間がないので、魚住氏に頼ることにする(笑)。
≪ 「本土」の人間よ! 日米安保を支持するのであれば、基地を引き取れ
沖縄は本土のためにあるのではない
“沖縄は誰のためにある”
■「本土」の責任を問う
本物の知識人の気迫 これは歴史に残る本になる。東大教授・高橋哲哉さんの『沖縄の米軍基地「県外移設」を考える』(集英社新書)を読み終えて、ふとそんな気がした。 表題は地味だが、中身は衝撃的だ。それも生半可な覚悟で書ける内容じゃない。リスクを冒しても言うべきことを言う。本物の知識人の気迫に打たれた。
岡本喜八監督の映画『激動の昭和史沖縄決戦』(1971年)の一場面が冒頭に登場する。 沖縄守備隊・第三二軍は、米軍との決戦を前に最新鋭の師団を台湾に引き抜かれ、危機感を強めた。姫路の師団の沖縄派遣の知らせに喜んだが、この決定は翌日大本営に撤回され、ぬか喜びに終わる。憤懣やるかたない様子で詰め寄る参謀本部作戦課長に作戦部長が一喝する。
「沖縄は本土のためにある!それを忘れるな。本土防衛が遅れている今、沖縄のために本土の兵力を割くわけにいかん」
高橋さんは言う。
〈「沖縄は本土のためにある!」/近代日本を貫く沖縄に対する態度を、たった一言に凝縮したような言葉ではないか、と私には感じられる。このようにして日本は、一貫して沖縄を、ただ自己利益のために利用してきたのではなかったか〉
明治政府による琉球王国の併合。「国体護持」の捨石にした沖縄戦。日本の主権回復と引き換えに沖縄を切り捨てた講和条約。米軍基地の押し付け。そして「抑止力」の名の下に強行される辺野古の新基地建設。
高橋さんはこうした歴史を踏まえつつ日米安保体制を〈沖縄を犠牲としてのみ成り立つ「犠牲のシステム」〉と言い、「本土」の責任を真っ向から問う。
焦点は国土面積0・6%の沖縄に在日米軍基地の74%が集中する現実だ。沖縄では今「日本人よ!今こそ沖縄の基地を引き取れ」という声が広がっている。「県外移設」の要求である。
■初めから沖縄に基地が集中していたわけではない
高橋さんはこの声に応答しなければならぬとしてこう語る。 〈私の応答は「イエス」というものである。「日本人」は、沖縄の米軍基地を「引き取る」べきである。政治的・軍事的・経済的などの力を行使して、沖縄を自己利益のために利用し、犠牲にしてきた歴史を断ち切るために。そして沖縄の人びとと、差別する側される側の関係ではなく、平等な人間同士として関係を結び直すために〉 画期的な提言だと思う。
私の知るかぎり、今まで真正面から基地を引き取るべきだと訴えた「本土」の知識人はいない。 そんなことを言っても、日本は米国の言いなりだから実効性がないのでは? と思われる向きもあろうが、それは誤解だ。
高橋さんがその根拠を説明する。 実は敗戦後、「本土」と沖縄の米軍基地面積の比率は9対1で「本土」が圧倒していた。それが1972年の日本「復帰」のころ、ほぼ1対1となり、さらに現在の1対3へと沖縄の負担率が急速に増加していった。
その背景に何があったのだろうか。考えられる事情は一つ。「本土」の反基地運動の激化だろう。日米両政府はそれを避け「一般市民から部隊を“隔離”する」場所として沖縄を選んだ。「沖縄の方が置きやすい」「国民との摩擦・衝突が減らせる」という政治的理由からである。
現在、在沖米軍の6割を占める海兵隊はもともと岐阜県などに分散駐留していた。それが'57年に沖縄に移った。横田基地で騒音問題を起こしていた F4戦闘爆撃機の部隊も嘉手納基地に移駐した。こうして「本土」の基地は大幅削減され、負担が沖縄に転嫁される事態が繰り返された。 それだけじゃない。'72〜'73年、米国は沖縄の海兵隊を米本国基地に統合する案を検討した。ベトナム戦争の泥沼化による財政難のためだった。その案が実現しなかったのは日本政府が金を出して引き留めたからだ。
まだある。2012年、米国は在沖海兵隊約1500人の岩国基地への移転を日本に打診した。山口県などが反発したため政府も移転案を拒否した。米国側は岩国以外への移転も求めたが、政府はこれも拒否した。
〈米国から提起された在沖海兵隊の岩国移転案をめぐる顚末は、「日本政府はアメリカにNOが言えない、というのは嘘だ」ということを示した。日本政 府はこれまで、海兵隊の「本土」から沖縄への「隔離」を容認し、米国から撤退案が出てくればこれを引き留め、県外移設案が出てくればこれを拒否してきたのである〉と高橋さんは語る。
■海上保安庁の黒いボートを動かしているのは、私たちだ!
では、県外移設を困難にしてきた根本要因は何か。言うまでもない。私たちが基地を自らの地域に受け入れようとしないことだろう。 一方、安保に守られて基地のない平和を享受してきたのは誰か。それも私たちだ。 〈これは端的に言って、無責任、ということではないだろうか〉と述べたうえで高橋さんはさらに踏み込み、反戦平和運動や報道のあり方への批判に向かう。
旧来の反戦平和運動は「安保廃棄・全基地撤去」のスローガンの下、安保がなくなれば沖縄の基地もなくなると訴え、基地を認めることになる県外移設に 否定的だった。が、国民の8割が支持する日米安保条約を廃棄することは当面不可能だ。いつまで待てば沖縄は基地の桎梏から逃れられるのか。 〈沖縄の反基地運動は、日本の反戦平和運動が外から「連帯」したり、「支援」したり、「協力」したり、できるものではない。日本の記者やジャーナリストが第三者として報道したり、日本の市民が第三者として「共感」したり、「感動」したり、できるものではない〉と彼は言う。
なぜなら〈沖縄の人びとがやむをえず声を上げ続けなければならない原因を作り出しているのは、日米安保条約で沖縄に基地を押しつけてきた「本土」の私たちなのだから〉。 胸に深く突き刺さる言葉である。 その言葉を敷衍する(筆者注―読み:ふえんする。解説:意味・趣旨をおし広げて説明すること)とこういうことになる。辺野古沖で抗議のカヌー隊を追い払う海上保安庁の黒いボート。あれを背後で動かしているのは政府ではない。
「沖縄は本土のためにある!」という私たちの意思だ。それに気づいて私は愕然とした。
≫(現代ビジネス:メディアと教養―わき道をゆく・魚住昭の誌上デモ『週刊現代』2015年9月5日号より) *赤字変換は筆者
「沖縄は本土のためにある!」この言葉は、耳に痛いが、その通りだ。「真実」から目を背け、見たいものだけを見ようとする日本人の生きる知恵は、時に逞しいのだが、時に、酷く無教養で恥知らずになる。安倍晋三やその権力に群れる連中や日本会議の連中が、典型的に酷く無教養で恥知らずに見えるのだが、ある意味で、困ったことだと思いながらも、総論と各論を平気で使い分けてしまう、我々の生き方自体に、根本的な問題があるのかもしれない。単民族乃至は、凶暴ではなかった多民族ゆえに、自然現象のように同化が起きたのだろう。
このような日本と云う国は、大きな要因として島国であったが故に、大陸的抗争に巻き込まれず、自然との共生を通じて、争いを出来るだけ成立させない、所謂生活の知恵水準の哲学や倫理で、物事を処理できた、そう云う歴史があるのだと思う。筆者は、日本人の哲学や倫理観に対する欠如が、国際社会に打って出るには、あまりにも準備不足と云う観察まではしたのだが、それが、日本人の特質なのだと云う側面を思うと、そもそも無いものを強請っていたのだろうかと疑心暗鬼になる。
しかし、最近になって面白い現象も起きている。やはり、世界を揺るがす「オキュパイ・ウォール街」や北アフリカで連鎖的に起きた、革命運動も、誰がプロパガンダしたかは別にして、SNSの力と云うものは、どうも侮りがたいものになってきている。昨日今日と起きている、安倍政権の「安保法案」への国民の抵抗デモも、SEALDsを中心に見知らぬ老若男女が集う形式で起きている巨大デモである。SNSやネット言論と云うものの力は侮りがたいものになってきた。新国立競技場建設やエンブレム問題もネットに力を軽視した結果だろう。
まあ日本政府の稚拙な対応が続く限り、国民が唯一自由を謳歌できる時空間なのだが、これも長くは続かない。どこかで、官僚たちのネット言論統制が行われるのは確実だ。或いは、政府寄りのネット活用に悪用する可能性もあるだろう。そう云う点では、メディアリテラシーの欠如を指摘されている日本社会だが、ネット情報リテラシーまで一気に学ばなければならないのだから、気が遠くなりそうだ(笑)。安倍政権は、益々ヤケクソ開き直りの度合いを深めている。ファシズム政治を超越した狂気の政治に突入している。アメリカからの支配歓迎組と、支配からの脱却組の色分けは、今後、様々なシーンでぶつかり合う、イデオロギー対立の様相を見せている。
以下は、安保法制の成立に関わりなく、既成事実化させようとする米軍と自衛隊一部幹部によるフライング集団的自衛権行使のための訓練だ。法案の成立があろうがなかろうが、米軍は自衛隊を楯に、壊れかけて立ち腐れ寸前の米軍を延命させる“胃瘻”の管として、日本の自衛隊に一番死と隣り合わせになりがちな、縁の下の力持ちをさせようとしているようだ。もう、明治から連なる田舎侍の革命に終止符を打つべき時が来ていると云うことだろう。もう、残されて選択は、日本の場合は大政奉還が残されるにもとなった。まあ、この大政奉還については、説明に1年ほど必要なのでコラムには書かないが、最後はいずれ、そうした考えが浮かんでくるだろう。
≪ 自衛隊が多国訓練参加「集団的自衛権行使前提ではない」
自衛隊が参加する米軍主催の水陸両用作戦訓練「ドーン・ブリッツ」で5日朝(現地時間)、日米やメキシコ、ニュージーランド両軍が一斉に上陸作戦を行い、報道陣に公開した。自衛隊は「日米間の訓練で離島防衛能力の向上が目的。集団的自衛権の行使は前提としていない」として、他国と上陸場所は隔てた。 この日は米海兵隊基地の海岸に、まず偵察用ボートでメキシコ軍、続いて水陸両用車でニュージーランド軍と米軍が上陸。最後に、浜に乗り上げられる揚陸艇で、自衛隊と米軍が艦艇から陸へ部隊を運んだ。
記者会見で米海軍のノーラ・タイソン中将は「各国との友好関係は世界の平和と安定を保障する米軍の任務にとって非常に重要」と多国間訓練の意義を説明。自衛隊に対しては「日米がともに参加する作戦で積極的な役割を果たしていくことをのぞむ」と述べた。
山崎幸二・統合幕僚副長は「訓練目的はわが国の防衛や島嶼(とうしょ)防衛に必要な統合運用能力や日米対処能力の維持向上。日米同盟のさらなる強化に寄与できる」と話した。(サンディエゴ=福井悠介) ≫(朝日新聞デジタル)
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