9. 2015年9月06日 23:17:38
: NudAN8eU6c
農と島のありんくりん 移り変わる自然、移り変わる世情の中で、真実らしきものを探求する http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-1.html 日本の「非武装中立」を破壊したのは日本共産党だ あいからわず、護憲のみなさんの声は大きいようです。シールズ・ジュニアの高校生までもが、デモしたとか。ああ、昔、私たちの世代もやりましたね。私など、危うく退学になるところでした(遠い目)。
あだしごとはさておきつ、この人たちの主張の最大公約数はこうです。 「9条を遵守すれば未来永劫日本は平和である。日米安保を廃棄すれば、米国の戦争にまきこまれずに、いっそう平和である」といったところでしょうか。 保守派は、そんなことなどできっこないよ、というでしょうが、実は戦後のある時期に実現したことがあります。 それは、吉田茂の安保を結ぶまでの一時期です。あんがい知られていなので,ちょっとご紹介しておきましょう。 前に記事にしたことがありますが、日本は戦後一貫して<吉田ドクトリン>の中で暮らしてきました。 ※関連記事 http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-0bb1.html http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-6e61.html 吉田ドクトリンとは、戦後の設計者であった吉田茂が構想した「軽武装・経済重視」だとされていますが、その説明だけでは表層をなぞったにすぎません。 むしろ吉田ドクトリンはひとことでいえば、緊急避難にすぎませんでした。言い換えれば、1950年代前後の時代の刻印を極めて強く受けているのです。 当時、帝国陸軍復活を企む一部の旧軍将校と、朝鮮戦争勃発を受けて、日本を再軍備したい米国の思惑に対して放ったカウンターでした。 当時、吉田は大きな圧力と戦っていました。 ひとつは、今述べた再軍備圧力です。これは、朝鮮戦争の勃発を受けて、その後方基地となった日本が、駐留米軍の出兵でガラ空きになってしまったことから始まります。 当時の日本には、自衛隊はありませんでした。その前身たる警察予備隊すらなかったのです。 しかも、日米安保条約も締結されていないので、米国は日本に対して基地は持っているが、防衛義務を負っていませんでした。 つまり、同盟以前であり、基地は進駐軍の体制のままで維持しているに過ぎなかったわけです。そしてそれすら一部の空軍基地を除けば、がら空き状態でした。 ここに、護憲派が熱望する外国との同盟関係なき非武装、すなわら「非武装中立」が一時的に成立してしまったわけです。 当時のわが国の武器といえば徹底していて、警官の米軍払い下げの旧式拳銃だけといったありさまでした。 その特殊な「非同盟非武装」という状況の時に起きたのが、北朝鮮軍の朝鮮半島制圧という事態でした。 北朝鮮軍は電撃戦によって、瞬く間に米軍を中心とする国連軍を釜山の一角に押し込めてしまったのです。 ここで国連軍が負けてしまえば、第2次大戦のダンケルクのように、国連軍は玄界灘に蹴落とされることになってしまったことでしょう。 となると、後ろはもう九州しかありません。 国連軍は九州に撤退し、ここを自由主義陣営最後の防衛線ということにしたことでしょう。 その時、わが国は先ほど述べたように完全な丸腰で、自衛隊はおろか、武器といえば警官の中古拳銃しかなかったわけです。 今回も鳥越俊太郎氏のように、「戦争になったら無抵抗でいる」という人がいますが、当時子供だった彼は北九州にいたはずですが、そんなまねをしたら、そこで彼の人生は終わっていたはずです。 脱線しますが、彼は「戦後の戦争は米国がしかけたものだけ」と言っていますが、朝鮮戦争もそうなんですかね。この人、ほんとうにジャーナリストなんでしょうか。 それはさておき、この朝鮮戦争は朝鮮半島ばかりではなく、同時に後方基地がある日本本土でも戦いが始まっていました。 それが、ソ連共産党の指令の下、中国共産党が資金提供窓口をした日本共産党の武装闘争でした。 おそらく、当の共産党はもちろん、ほとんどの日本人が忘れ去ってしまった歴史の空白のひとこまです。 それをいいことに、当事者の共産党は、国民になんの説明もなく、それに関わった幹部を粛清し、口を拭って、「わが党は一貫して反戦平和闘争に邁進していた。悪いことはすべて追い出した奴らだ」と、歴史を都合よく偽造してしまったのです。 シールズのボーイズ&ガールズは、共産党が今でも公安の調査対象だと言われると怒るようですが、それはこのわずか50年前の歴史を知らないからです。 少しそれを知っておくのも、「平和国家日本」が出来た理由を知る上で、参考になるかもしれません。 (写真 左から、徳田球一、野坂参三、志賀義雄の共産党幹部) さて、『秘録戦後史1〜5』(学陽書房78年)という、吉田が作った内閣調査室の記録をまとめた本があります。 ここには、1977年に公開されたGHQ機密文書、同じく2002年に米国立公文書館で見つかった国防総省機密文書などが収録された貴重なものです。(※現在1巻、5巻のみ入手可能。2巻3巻は図書館にあります) ここには1949年12月に、モスクワを訪れた6人の日本共産党幹部が描かれています。後に「モスクワ会談」と呼ばれます。 委員長の徳田球一以下、野坂参三、金天海、伊藤律、松本惣一郎、宮本顕治など、すべての共産党幹部が揃って、当時、共産主義の総本山とされたモスクワに召還されました。 今の若い方には、ソ連という国自体がなくなってしまったので想像することすら難しいかもしれませんが、当時のソ連こそ、世界中の共産党員にとって、絶対に背くことはおろか、批判すら口に出来ない法王庁であり、そこに君臨する独裁者こそスターリンでした。 このモスクワ会談で、ソ連共産党は日本共産党に対して、ひとつの指令書を手渡します。
「指令書」というとまるで上下関係のようですが、そのとおりです。当時の日本共産党は、「コミンフォルム」の各国支部のひとつにすぎませんでした。 このコミンフォルムとは、コミンテルンの後継組織で、ソ連共産党を絶対的中心とした「世界革命組織」のことです。 これが、『1950年4月20日付記録用覚書「日本共産党と駐日ソビエト代表部との関係について』と呼ばれる文書で、そこには激しい言葉で、日本共産党に「革命的蜂起」を要求するものでした。 この指令書はおおよそ、このように述べています。 「1950年10月に中国で共産党政権が誕生したように、世界革命の舞台は欧州からアジアに移行しつつある。朝鮮では半島の北半分が共産主義に入った。日本で革命軍による激しい武力闘争が起これば、在日米軍の兵力は日本に釘付けとなって朝鮮の共産主義統一が容易となることが予想される。しかるに日本共産党が、一向に蜂起しようとしないのはどういうわけだ。早く武装蜂起して、日本の反動勢力や米軍と戦え」 これが「コミンフォルム批判」と呼ばれるものです。、 これを巡って日本共産党は上へ下への大騒ぎになります。 というのは、従来、日本共産党の方針であった、占領軍を解放軍として歓迎し、その下で民主化に協力していくという米国との平和路線を持っていたからです。 のんびりとマッカーサー将軍との共存を楽しんでいたのに、いきなり銃を持て、バクダンを投げろと命じられたんですから、こりゃ驚くわな。 これで共産党は、「オレはコワイことはいやだ」という所感派と、「オレはスターリン元帥の命じるとおりバクダン投げるぞ」という国際派に別れます。 そして、委員長だった徳田に従って、日本共産党は全党を上げて、血なまぐさい軍事闘争に突入したというわけです。やれやれ。 ●このコミンフォルム批判に従って、日本共産党は軍事委員会という、その名ももの騒がせな名称の下に秘密軍事組織を作ります。それが中核自衛隊や山村工作隊です。 ●彼らは、党員を秘密に「徴兵」しては、山中で軍事訓練をさせて「赤軍兵士」に仕立て上げました。 ● 今、シールズの坊やたちが「徴兵制ハンタイ」などと言うのを聞くと、「キミらの先輩は党から徴兵されたんだよ」と教えて上げたくなります(苦笑)。 ●この時代の内幕については、柴田翔『されどわれらが日々』や高橋克己などの一連の小説しか残されていません。 ●日本史学者も、共産党系が強いために、この時代はほとんど研究されていないようで、歴史の空白となってしまっています。 ●まだ存命者がいる今のうちに、戦後史の一部として記録にとどめて置くべきでしょう。 ●このような朝鮮戦争の米軍劣勢と、共産党の過激軍事路線は、吉田に強い危機感を与えました。
●ひとつは言うまでもなく、日本本土にも共産軍が上陸する可能性が現実性を帯びたことです。 ●最悪のケースとして、丸腰の「非同盟平和国家」を、北朝鮮と内部から呼応する日本共産党の「武装蜂起」によって、外国軍が勝手気ままに蹂躙する可能性が出てきたわけです。 ●その場合、わが国を守るための軍隊を、既に9条によって放棄させられていた日本は、自力で防衛することがまったく不可能です。 ●わが国の領土の上を、米軍と北朝鮮・中国連合軍が戦場にして、廃墟にしていくという最悪シナリオすら想定されたのです。 ●一方、この危険な状況に危機感をもった旧軍将校の一部は、再軍備を目指して、吉田をクーデターで倒す計画すら練っていました。 彼らは服部卓四郎という旧軍の将軍に率いられており、極めて危険な存在でした。 ●つまり、国外には、共産軍の怒濤の進撃、国内には中ソを後ろ楯にする日本共産党、一方には、米国をバックにする極右勢力という、この相反するふたつの力の間で、いかにして日本の再建を果たしていくのか、吉田の苦悩は深かったと思われます。 ●このような日本が外国軍の戦場となる事態を避ける緊急避難として生れたのが、吉田が結んだ日米安保と自衛隊の創設だったのです。 ●この危機の時代に泡沫の夢のように生じた防衛空白期間が、9条の精神そのままの「非同盟・非武装の時代」でしたが、それを破壊したのが、北朝鮮に呼応する日本共産党の武力闘争だったというのは、皮肉なことです。 ●知ってたか、シールズく〜ん! もう少し、このテーマを続けます。
|