1. 2015年9月03日 07:37:05
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会期末になって騒ぎ始めた安保法案反対デモの笑劇 左翼の「平和ボケ」は60年安保から始まった 2015.9.3(木) 池田 信夫 安保法案抗議デモ、国会前を埋め尽くす 国会周辺で安全保障関連法案に抗議するデモに参加する人々(2015年8月30日撮影)。(c)AFP/Toru YAMANAKA〔AFPBB News〕 政府・与党は安全保障関連法案について、当初予定していた9月11日の参議院採決を延期する方針だ。採決しなくても14日を過ぎると60日ルールで、衆議院の3分2の賛成で再可決できるが、参議院自民党は「60日ルールの適用は避けたい」としている。 いずれにせよ法案の成立は確実で、問題は野党と妥協する「形づくり」の最終局面だが、国会の外ではまだ法案に反対するデモが続いている。彼らは「60年安保のように安倍を退陣させよう」と息巻いているが、かつての安保闘争はこんなお遊びではなかった。 なぜ「安保改正」に反対するのか知らなかった全学連 もともと安保条約の改正は、1952年の旧条約でアメリカが日本国内に自由に基地を設置できる一方、日本を防衛する義務が明記されていない不平等条約だったので、それを改めるものだった。 改正第5条には「日米いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、共通の危機に対処するように行動することを宣言する」と書いてあるだけで、厳密にいうと防衛義務の規定はないが、それまでに比べると双務的な形になった。 ところがなぜか、この改正に反対する運動が起こった。これを当時の全学連主流派の幹部として指導していた西部邁は「安保条約の条文は読んだことがなかったので、何が悪いのかは知らなかった」とのちに言っている。 ところが1960年5月19日に改正条約が衆議院で単独採決されたのをきっかけに「民主主義を守れ」という運動が急に盛り上がった。6月には社会党・総評の国民会議の統一行動に560万人が参加して国鉄が運休し、ほとんどゼネストの状態になった。 国会デモのピークとなった6月15日には33万人(主催者発表)のデモ隊が国会を包囲し、デモ隊が将棋倒しになって東大生の樺美智子が圧死し、1000人以上が重軽傷を負った。新条約は6月に自然成立したが、岸内閣は総辞職した。 60年安保闘争で国会を取り囲んだデモ隊(出所:Wikipedia) その理由を岸信介は「樺美智子の死亡事件で、その後に予定されていたアイゼンハワー米大統領の訪日を断念した責任をとった。このように警備体制が脆弱では、大統領やそれを迎える天皇に危害が加えられたら取り返しがつかない」と回想している。 岸退陣後の池田勇人首相による総選挙では、自民党は296議席で圧勝した。今回も国会デモが始まったあと安倍内閣の支持率は上がり、自民党の総裁選挙で安倍総裁の再選は確実だ。マルクスは「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は笑劇として」と書いたが、今回のデモは笑劇にもならない。 知識人が結集して憲法改正を阻止した 終戦直後の知識人は、こんな平和ボケではなかった。1946年に憲法を制定する帝国議会で、貴族院議員(東大総長)の南原繁は「自衛のための戦力も持たない」と答弁した吉田茂首相を次のように批判した。 遺憾ながら人類種族が絶えない限り戦争があると云うのは歴史の現実であります。従って私共は此の歴史の現実を直視して、少なくとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考えると云うことは、是は当然のことでございます。 ところが50年代の講和条約をめぐる論争では立場は逆になり、南原は中ソとも同時に講和を結ぶべきだという全面講和を主張し、吉田はこれを平和主義の時流におもねる「曲学阿世の徒」と罵倒した。 これは政治的論争となり、丸山眞男、清水幾太郎、都留重人など、当時の学界の指導者のほとんどは全面講和を主張した。しかし彼らがその反対声明を発表した50年には朝鮮戦争が起こり、中国軍が朝鮮半島に攻め込んでいた。その状況で「中国との講和」を主張したのは空想的というしかなく、全面講和派は敗れた。 58年には岸内閣が憲法調査会をつくって憲法を改正しようとしたが、これに対して宮沢俊義、我妻栄、丸山眞男など53人の学者が結成した「憲法問題研究会」は、当時の法学界の主流を集め、改正に反対した。 岸は憲法調査会の会長に(新憲法の草案を起草した憲法学の最高権威)宮沢の就任を要請したが、彼はこれを断って憲法問題研究会に参加した。これが政権にとって決定的な打撃となり、憲法調査会は答申も出さないで消滅してしまった。 憲法問題研究会は安保条約改正の「強行採決」にも反対声明を出したが、条約は自然成立し、60年代には丸山たち知識人は政治活動から身を引いた。しかしその後も左翼政党や労働組合は「憲法を守れ」をスローガンとし、社会主義が崩壊してからは憲法第9条が一枚看板になってしまった。 吉田茂の機会主義が憲法の「ねじれ」をつくった このように戦後の知識人は、丸腰の「一国平和主義」を主張していたわけではなく、国連軍を中心とする集団安全保障を理想としていた。憲法第9条は国連が有効に機能することと不可分で、国連軍が日本に駐留するためには憲法改正も必要と考えていた。 しかし戦前から英米派の外交官だった吉田は、全世界の同盟などというものが可能だとは信じていなかった。第1次大戦以降、勝ったのは常に英米と同盟を組んだ側であり、今後も共産主義の力がいかに大きくなっても、それは変わらないと考えていた。 これは平和は理念や倫理ではなく大国間の力の均衡でしか実現しないという吉田のリアリズムだった。つまり政治的に可能な平和維持システムは、 A. 憲法第9条+国連軍+集団安全保障 B. 再軍備+日米同盟+集団的自衛権 のどちらかしかない。南原や丸山が学問的な理想主義の立場からAによる恒久平和の道を主張したのに対して、吉田は現実主義でBの多数講和を選んだ。当時アメリカなど48カ国は日本と講和条件が一致していたが、ソ連と中国はそれに反対していたからだ。 言うまでもなく、正しかったのは吉田である。厳密な意味での全面講和は、今も実現していない(ロシアとは講和条約を結んでいない)。ビスマルクも言うように、政治とは可能な選択肢の中から最善を選ぶ「可能性の技術」なのだ。 しかしこの吉田のプラグマティズムが、その後60年も日本政治に「ねじれ」を残すとは、彼も予想していなかっただろう。彼がアメリカの要求する憲法改正を拒否したのは、敗戦で経済の疲弊した日本が米軍の力で守ってもらうための機会主義で、経済力がつけば改正できると考えていた。 しかし第9条を理想化する一国平和主義は、日本人の「平和ボケ」の国民性にフィットし、予想以上に広い支持を得た。知識人が退場したあとも護憲運動は続き、憲法違反だったはずの自衛隊は、世界第5位の堂々たる軍隊になった。 それでも「安保法制は憲法違反だ」ということを唯一の理由にして、いまだにデモが行なわれる平和ボケは、かなり重症である。集団的自衛権が「戦争法案」だというなら、集団的自衛の義務を負うNATO(北大西洋条約機構)加盟国はみんな「戦争国家」だということになる。 今までは自衛隊を既成事実と認めることで「解釈改憲」が定着したと思われていたが、今回のように憲法第9条を唯一の争点とする無内容な国会論議や大衆行動が繰り返されるのは非生産的だ。憲法第9条2項を削除してこの「ねじれ」を直し、同盟国とともに平和を守る「普通の国」になるべきだ。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44707
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