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米中接近、日本は蚊帳の外
金・ドル交換停止のショックに先立つこと約1カ月。もう一つの衝撃が世界を駆けめぐった。71年7月、キッシンジャー大統領補佐官の極秘訪中を受け、ニクソン大統領が翌年に訪中する、といきなり発表したのだ。
米国はそれまで中国の共産党政権と敵対し、台湾の国民党政権と外交関係を保っており、日本もこれにならっていた。この路線を逆転する決定にもかかわらず、日本への相談は一切なし。佐藤首相に事前通告が届いたのも、発表の数分前だった。
2等書記官としてワシントンの日本大使館にいた佐藤行雄氏(75、後に国連大使)は、当日の衝撃を覚えている。
「転居のため、自宅で荷造りをしていると、夜、大使館の上司から緊迫した口調で電話があった。『すぐに来てくれ。キッシンジャーが中国に行ったんだ』と」
佐藤氏は「米国の対中政策に変化の予兆があり、英国やフランスの外交官仲間と一緒に情報を追っていた。だが、ホワイトハウスは厳秘とし、国務省首脳にすら知らせていなかった」と話す。
ニクソン大統領は69年の就任以来、中国との和解をひそかに探っていた。底流にあったのはやはり、米国の体力の衰えだった。
ベトナム戦争で経済が疲弊するなか、ソ連と中国の両方を敵に回し封じ込めるのは難しい。中国を味方につければ共産主義の北ベトナムを追い込み、ベトナム戦争を終結できるかもしれない。ニクソン氏にはこんな期待があった。
「世界各国の仲間から、中国を永久に除外しておくことはできない」。彼は就任前の67年、米「フォーリン・アフェアーズ」誌にこう寄稿した。これが5年後の訪中へのひそかな布石だった。
これに連動し、自民党内でも中国に接近すべきだとの声があがった。党総務会長だった中曽根康弘元首相(97)は71年、ニクソン訪中が決まる前に、2度ほど官邸に佐藤首相を訪ねている。
「私は、『国連(の議席争い)で台湾は中国に負ける。日本も対中政策を転換しないとだめですよ』と話した。佐藤さんは一応、聞いたふりをしていたが、『国連の票はそう決まったわけじゃないし、分からんよ』と言っていた。最後までそれで押し通した」
中曽根氏は振り返る。実兄の岸信介元首相が親台湾派だったことも佐藤首相に影響していたとみられる。「日米安保条約を基軸にするべきだが、中国とも非常に良い関係を築いておかないといけない。そうしないと米国が先にやってしまう。米国はそういうことをやる国だ」。中曽根氏は、日本はこんな教訓を学ぶべきだと語る。
72年のニクソン訪中の7カ月後。佐藤氏の後を継いだ田中角栄首相が訪中する。5日間で交渉をまとめ日中国交正常化を果たした。米中が正常化にこぎつけたのは79年1月。日本は結局、米国よりずっと早かった。「裏切り者の中でもジャップは最悪だ」。解禁された米公文書によると、田中訪中の1カ月前、キッシンジャー氏は部内協議で日本人への蔑称を使い、こういらだちを爆発させた。
対中外交はその後も、日米関係の“地雷”だった。98年にはクリントン大統領が日本を素通りして訪中、ジャパン・パッシングと騒がれた。2010年以降は尖閣諸島を巡って日中が対立。アジアの緊張が高まらないよう、米国が気をもむ構図になっている。
[日経新聞8月16日朝刊P.11]
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