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(戦後70年)「あの戦争」とは 日本の近現代史を研究する歴史家・加藤陽子さん[朝日新聞]
2015年8月5日05時00分
「あの戦争」とは何だったのか。戦後の70年は日本人にとって、そう自らに問い続ける時代でもあった。そして、70年たった今も、戦争の原因や責任をめぐり、様々な論議が交わされている。私たちはこれから先も、あの戦争の意味を考え続けていくことになるのだろうか。歴史家として戦争を見つめてきた加藤陽子さんに聞いた。
――あの戦争とは何だったのかを考えるとき、加藤さんが注目するポイントはどこですか。
「戦後50年にあたって出された村山談話(1995年)を読み返すとき、私が最も興味深く感じるのは主語の問題です。談話は『わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ……』と述べています。『国が』国民を存亡の危機に陥れたと語らなければならない戦争とは一体、何でしょう」
「問題の核心は“残虐な死”が多発したことだと思います。国家の中心部を守るために(敵前方である)周縁部で戦う――そんな軍の防衛思想を国民に強いた戦争であったことが背景にありました」
――帝国日本の周縁部で、何が起きたのでしょうか。
「戦場にされた周縁部には、満州(中国東北部)やビルマ(ミャンマー)、千島列島、フィリピン、太平洋の中部や西部の島々など、実に様々な地域が含まれます。それらの地では戦争終盤、指導部によって放棄された戦線で兵士の大半が餓死を強いられたり、現地に住んでいた日本国民が自国軍に置き去りにされて死傷したりする事態が相次ぎました」
「戦没者310万人のうち実に240万人が『海外』で死亡した。それが先の大戦の実像でした。日本は、個々の兵士の死に場所や死に方を遺族に伝えることさえできなかった国なのです」
――中心部とは何でしょう。
「日本は『神の国』であり、帝国の中心に『本土』がありました。戦争終盤には『皇土(こうど)』とも呼ばれます。軍部は『代々の天皇が国を治めてきた』という歴史上の理念の擁護者を自認しており、本土そのものの防備を完璧にするより外縁部で守ろうとしました」
――沖縄はその皇土の中に含まれていたでしょうか。
「いなかったでしょう。沖縄もまた周縁部だったのです」
■ ■
――当時の日本軍内部には、米国には国力でかなわないという冷静な計算もあったと聞きます。なぜ、勝算のない対米戦争を回避できなかったのでしょう。
「石油問題など様々な要素がありますが、最終的には日本は、中国問題が要因となって対米開戦に踏み切ったのだと思います。米国が重視したのは、中国市場を含めた東アジアの自由貿易体制を日本が承認するかどうか、でした。日本はイエスと答えられなかった」
「日本は満州事変(31年)で中国内部に満州国を樹立しました。米国から見ればそれは、日本が中国での権益を独占しようとする行動に見えた。最終的に米政府は41年、日本に中国からの撤兵などを求めるに至ります。日本が対米開戦を回避するためには、妥協が必要な状況でした。しかし日本にとって満州は『譲れない条件』になってしまっていたのです」
「背景には、満州は日清戦争(1894〜95年)と日露戦争(1904〜05年)で血を流して獲得したものだという考えがありました。英霊の死を無駄にするなという主張が力をふるったのです。加えて、中国に対する過小評価もありました。西欧化した日本が中国のためにロシアから満州を奪還した、とする自己中心的な見方です。満州は日本のものであるとの歴史観が『この国のかたち』になったのでしょう。独占をあきらめて自由な貿易に道を開く妥協への道は閉ざされました」
――敗戦の約1年前、44年の7月には、自ら「絶対国防圏」と定めたサイパン島が米軍の手に落ちました。なぜ、敗戦が確定的になったあとも早期に戦争を終えられなかったのでしょう。
「指導層が『どこかで敵に一撃を加えることによって講和の条件を少しでも有利にしよう』と考えたからです。一撃講和論です」
「今から見れば、当時の日本軍には『有効な一撃』を放てる態勢はありませんでした。唯一の『勝てる方式』と自認していた『精鋭による短期決戦での勝利』の可能性がすでに消え、戦争は、勝てないと分かっていた『長期の持久戦』へ移行していたからです」
――なぜ、合理的な見極めが出来なかったのでしょうか。
「合理性を貫徹できる軍隊を持つ国があるとすれば、それは戦史を正確に編纂(へんさん)できる国、戦争を美談にしない国です。日本は残念ながら、日露戦争がぎりぎりの辛勝だった事実を隠した国でした」
――最終局面で、日本の指導部は何を守ろうとしたのでしょう。
「徹底抗戦を呼号した軍部にとって、守るべき『本土』とは『国体』を意味していました。万世一系の天皇が君臨し統治権を総攬(そうらん)すること、つまり天皇制です」
――先の戦争で日本は、侵略をしたのでしょうか。
「満州事変は、日本軍の謀略に基づく侵略でしょう。37年からの日中戦争は発端こそ偶発的な要因でしたが、戦闘が本格化して以降は相手国の土地への侵略だと思います。対米英戦での真珠湾への奇襲も侵略にあたるでしょう」
「日本人は侵略を認めていないという批判があります。しかし2005年の世論調査(読売新聞)によれば、日本と中国の戦争を日本の侵略だったとする人は68%でした。無回答やその他が22%で、侵略ではなかったという積極的な否定論は10%に過ぎません」
■ ■
――戦争責任をめぐる議論もまだ続いています。
「朝日新聞が今年春に行った世論調査では、日本がなぜ戦争をしたのか『自ら追及し解明する努力を十分にしてきたと思うか』という問いに、『まだ不十分だ』と答えた人が65%もいました。『まだ分からない、もっと追及するべきだ』が国民の意思でしょう」
――分かりにくさが付きまとう理由は何でしょうか。
「戦争があまりに巨大で悲惨だったからだと思います。日本が41年12月に米ハワイなどで対米英戦を始めたとき、国民の間には『中国大陸で戦争をしていると思っていたのに、なぜ?』という疑問があったでしょう。気づくと、日本軍はビルマでも太平洋西部のトラック島でも千島列島でも戦っていた。『こんなに広い領域に軍を展開させ、こんなに多くの国を敵とする戦争を、私たちはいつ始めたのか』。当惑するしかないような不可視感があったと思います」
――日本の戦争を否定的にとらえる歴史観は米国によって占領期間中に押しつけられたものだ。そんな「戦後」批判があります。
「占領期の国民がどう考えていたかについては、最近、印象的な史料に出会いました。降伏直後の45年秋に幣原喜重郎内閣が、大東亜戦争調査会というものを設置しています。戦争の原因と実相を日本人の手で調査し、記録に残すことを目的にした機関でした」
「幣原首相はその記録を『後世国民を反省せしめ納得せしむる』ものにしたい、と発言していました。戦勝国にせよ敗戦国にせよ戦争は引き合うものではないのが現実であり、その参考になる記録にする、とも。また、戦前に鉄鋼増産の立案に携わった水津(すいつ)利輔は46年5月に調査会で、『来(きた)るべき平和的、文化的世界に対して日本は一つの贈り物がある』と語っていました。贈り物とは、自ら『失敗原因の報告』をすることである。水津はそう発言しています」
「連合国側の意向で、後に調査会の試みは中止させられました。ただ私は彼らの発言を読み、身についた言葉だと感じました。日本国民が戦後に到達していた一地点を示すものだと思います」
――戦後の日本は、戦前とは違う憲法を持つ国になりました。新しい憲法は「日本人と戦争の関係」を変えたでしょうか。
「変えたと思います。たとえば、戦争中に『残虐な死』が大量に生み出されたのは、『すべての個人の生』を国家に捧げるよう国民に要請する時代だったからです。他方、戦後の憲法は『基本的人権の尊重』を明確に定めている。国民はもはや国家に利用されるだけの存在ではなく、国家に対してそれぞれの『個』の存在が確保される形に変わっています。国民である以上、戦争の苦悩は受忍すべきだ――そんな考えは現憲法の認めるものではありません」
*
かとうようこ 60年生まれ。東大教授。「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」「満州事変から日中戦争へ」「徴兵制と近代日本」など戦争に関する著書で知られる。
■取材を終えて
満州事変は侵略だったのか――。多くの歴史家にとっては自明のこんな問いを正面から立てなければならない政治状況に、今の日本はある。安倍晋三首相が近く発表する戦後70年談話のためだ。
「(日本の)植民地支配と侵略」についての「反省」と「お詫(わ)び」。新たな談話からこれらの文言が削除されれば、国際社会への負のメッセージになりかねない。
加藤陽子さんの言葉からは、歴史研究者としての責務を果たそうとする意志が伝わってきた。(編集委員・塩倉裕)
◇明日は日本政治外交史が専門の五百旗頭真熊本県立大理事長に、米国との関係から見た日本の戦後の歩みを聞く予定です。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11898872.html
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2015年08月04日 (火) [NHK総合]
視点・論点 「シリーズ「戦後70年」 戦前史を学ぶことが なぜ必要か」
東京大学教授 加藤陽子
今年の夏は、敗戦から70年目にあたります。満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学び、世界のなかで生きる日本のあるべき姿を考えることは、言うまでもなく重要です。
しかし、主権者である国民が将来の日本のあり方を考える時、過去の歴史から何を学んだらよいのかといえば、事はそれほど簡単ではありません。
例えば、皆さんも、次のような声を耳にしたことがあるのではないでしょうか。戦前と戦後では、日本の置かれた国際環境も、国の憲法も、国民の価値観も大きく変わった。よって、戦前の歴史を学んでも現代社会を理解するのには役に立たない、といった声です。
あるいは、今国会で審議されている安全保障関連法案でいえば、いたずらに戦前期の歴史と結びつけ、戦争に巻き込まれる危険性を訴えるのは適切ではないとの声です。
1930年代の日本の歴史を研究してきた者としては、このような見方には問題があると考えます。そこで本日は、戦前の歴史、戦前史を学ぶことの意味について、三つの観点からお話ししたいと思います。
第一に、過去の歴史を考える歴史学という学問には、ある学問的特性があるということです。戦前期の著名な歴史学者に羽仁五郎という人がおりました。1940年3月、その頃は日中戦争が始まってからすでに2年以上がたっていましたが、羽仁は『学生と歴史』という本のなかで、こう述べていました。「歴史とは、根本において、批判である」、と。多くの若者が出征していった戦時中にあって、徴集猶予の特典を持っていた大学生が、なぜ今学問に励まなければならないのか、との「問い」に対する答えとして書かれた言葉です。
当時の大学生は、同年代の青年200人に1人の割合しかいない特権的な若者たちでした。
羽仁は、同胞の青年が戦場で戦っている今、学生諸君が学問の戦場において理性の戦線から退却するようなことがあってはならないと述べています。
一見すると勇ましいことを言っていましたが、羽仁が述べたかったことは、次のようなことでした。これまで蓄積されてきた歴史学上の著作は、時に政治権力の意向に反し、時に宗教的権威に抗して、書かれてきたものなのだ、と。現在を生きる我々には、自らが生きるその社会を客観的に、距離をとりつつ眺める必要があります。そのための方法が、「歴史とは、根本において、批判である」とした羽仁の言葉に示されていると思います。
第二に、地球規模の大きな経済的ストレスを経験した社会だという点で、戦前と今とでは共通点があります。1929年、アメリカの株式市場暴落に端を発し、世界大恐慌が起こりました。2008年、アメリカの住宅バブル崩壊に端を発し、リーマン・ショックが世界を襲いました。
今から80年以上も前の世界大恐慌の時代。世界各国は、経済をいかに大不況から回復させるのか、その道を見つけようと必死になりました。その方法は、例えば、アメリカとドイツでは異なり、アメリカはルーズヴェルトを大統領に選び、ドイツはヒトラーに政権を委ねます。大不況という経済的ストレスに対する、世界各国の対応策や価値観のズレが、1939年から始まる第二次世界大戦の芽となっていきました。
いっぽう、リーマン・ショックから7年余りたった現在の世界経済はどうなっているのでしょうか。たしかに、世界の主要株式市場は好調です。しかし、今年7月、ローマ法王が、訪問先のボリビアにおける集会で述べた批判は注目に値します。法王は、欧州連合EUや国際通貨基金IMFがギリシャへ求めた緊縮策、あるいは自由貿易協定FTAを念頭に置き、「新しい植民地主義」が世界に生み出されつつあると批判したのです。自由競争の名のもとに急拡大した経済格差が世界をおおうようになりました。巨大な経済的ストレスに見舞われた国が、その克服のためにどう動くのか。戦前期の事例は参考になるはずです。
戦前期の日本の場合もみておきましょう。世界大恐慌から1941年の日英米開戦にいたる時期、日本の為政者は世界経済を次のように分析していました。不況克服のため、世界は自由主義経済を捨て、国家資本主義や統制経済を採用するようになった、と。こう考えた日本は、自らも統制経済に移行します。ただ、この時注目すべきは、自由主義経済に対応した政治制度が政党政治なのだから、国家資本主義経済の時代に政党は必要ない、との考え方が生まれてしまったことです。こうして、大政翼賛会への道が開かれました。現在の日本の政治状況の急激な変化を、世界経済の変容から考える姿勢は、歴史に学ぶことで初めて身につくのではないでしょうか。
以上、戦前の歴史を学ぶことの意味を二点にわたって考えてきました。最後の三点目として指摘したいのは、今に連なる戦後というものが、戦前の反省の上に始まった、という歴史的事実の重みです。この点について、「戦争調査会」を例に説明しておきましょう。戦争調査会は、1945年10月、幣原喜重郎内閣総理大臣を総裁として、内閣に設けられた調査機関でした。
会の目的は、敗戦の原因と実相を明らかにすることにおかれ、日本の犯した「大なる過誤を、将来において繰り返さないため」に、永続的な調査が必要だとしてスタートしたものでした。
1946年3月に開かれた第1回の総会で幣原が述べた言葉を紹介しておきましょう。まずは、戦争放棄について、こう述べています。
「今日我々は戦争放棄の宣言を掲ぐる大旗をかざして、国際政局の広漠なる野原を単独に進み行く」ものだと。
その上で、「戦争の原因及び実相を調査致しまして、其の結果を記録に残し、以て後世国民を反省せしめ、納得せしむるに、充分力あるものに致したい」。記録を残すことの重要性を説いていました。
また、同年4月の第2回総会における幣原の言葉も大事です。「戦勝国にせよ、戦敗国にせよ、戦争が引合うものでない、此の現実なる参考を作る。〔中略〕将来、我々の子孫が戦争を考えないとも限らない。その時の参考に今回の資料が非常に役立つ様な、調査をせねばならぬ」。このように幣原は意気込んでいました。
ただ、不幸なことに、調査会の活動は中止を余儀なくされます。連合国軍最高司令官マッカーサーの諮問機関であった対日理事会のうち、ソ連とイギリスの代表が、1946年7月、解散勧告を行ったからです。その理由は、「戦争の原因を尋ね、これを処罰する仕事は国際軍事法廷の任務に属する」、というものでした。
戦争調査会の挫折は、日本国民にとりましても、日本の戦争で惨禍を蒙ったアジアの人々にとりましても不幸なことでした。ただ、調査会にかけた幣原が、極めて早い段階で、戦争抛棄の精神を明らかにし、日本人の「反省」の仕方の道筋を付けていたことは注目に値します。過ちは繰り返さないと誓い、戦争は引合うものでないとの参考を作るところから、戦後は始まったのです。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/224424.html
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